第3話:『バグ』とデバッガーの邂逅
目の前で静止した、岩石の巨大な拳。
時間そのものが凍り付いたかのような光景に、俺はただ息を呑むしかなかった。すぐ後ろにいる少女――助けようとした彼女の叫び声が、まだ耳に残っている。
「空間座標固定……!? あなた、一体……!?」
空間座標固定? その言葉の意味は分からない。けれど、右手に残る微かな違和感――スキルが、対象物のない場所で反応しかけたような、あの奇妙な感覚――が、この異常事態と自分のスキルが全く無関係ではないのかもしれない、と告げている気がした。
「な、何が起こったんだ……?」
混乱したまま呟くと、後ろの少女が信じられないものを見るような目で俺を見つめていた。額に上げたゴーグルの奥の瞳が、驚きと、それ以上に強い好奇心で輝いている。
「分からないの!? 見てよ、これ!」
彼女は静止したゴーレムの拳を指差す。
「ゴーレムの座標が、この空間に完全にロックされてる! まるで、世界の法則に直接干渉して、動きを『一時停止』させたみたい……こんな現象、普通じゃない!」
世界の法則に干渉? 一時停止? まるでお伽話のようだ。俺にはとても信じられない。
「ねえ、さっきの、どうやったの? あなたのスキルを使ったんでしょ?」
少女が詰め寄ってくる。その勢いに、俺はたじろいだ。
「え、えっと……俺のスキルは、【収納】っていうんだけど……ただ、アイテムを仕舞えるだけで……こんなことになるなんて、俺も……」
しどろもどろになりながら、俺は正直に答える。それが俺の知る全てだったからだ。
「【収納】!?」
少女は目を見開いた。そして、次の瞬間、信じられない、というように首を振る。
「ただの【収納】スキルで、こんなことが起こるわけがない! あなたのスキル、絶対に普通じゃないよ! もしかしたら、あなた自身も気づいてないだけで、とんでもない可能性を秘めてるのかも!」
彼女は興奮した様子で捲し立てる。その真っ直ぐな瞳と、確信に満ちた言葉。
俺のスキルが、普通じゃない? とんでもない可能性?
ずっと「ハズレスキル」だと罵られ、役立たずだと信じ込んできたこの力が?
俄かには信じられなかったが、目の前で静止している巨大な拳は、動かぬ証拠として存在している。
「……とにかく!」
少女がパン、と手を叩いて俺たちの間に漂う混乱を断ち切った。
「今はこいつをどうにかしないと! 動きは止まってるみたいだけど、いつまた動き出すか分からないし……原因があなたのスキルなら、あなたの集中が途切れたら危ないかも!」
確かにそうだ。この異常な状況がいつまで続くか分からない。完全に無力化しなければ。
「ど、どうすれば……?」
「このゴーレム、たぶん古代遺跡の防衛機構だと思うんだ。動力源になってる『制御核』を破壊するか停止させれば、完全に動かなくなるはず。問題は、装甲が硬すぎて、普通の攻撃じゃコアまで届かないことなんだけど……」
少女はゴーレムを見上げながら冷静に説明する。こんな状況でも分析を怠らないあたり、ただ者ではないようだ。
「ねえ、あなた……えっと……」
彼女は言い淀み、それから続けた。
「さっきの現象、もう一回起こせない? あるいは、あなたの【収納】スキルで、このゴーレムの装甲の一部とか、コアの近くとかを……その、『収納』ってできないかな?」
「え……? で、でも、アイテムじゃないと……」
俺は反射的に否定しかけた。スキルはアイテムにしか使えない。それが常識だ。それに、さっきの現象だって、どうやって起こしたのか自分でも分からない。
だが、さっきの奇妙な感覚……あれがヒントになるかもしれない。
「試してみる価値はあると思う!」
少女は力強く頷いた。
「もし、装甲の一部だけでも『収納』できれば、隙間ができる。そこから私が特殊なツールでコアを狙えるかもしれない!」
彼女の真剣な眼差しに、俺は唾を飲み込んだ。
試してみる? 俺の【収納】スキルを、アイテムではないゴーレムに?
そんなことができるのだろうか?
いや、今は迷っている場合じゃない。やるしかないんだ。
俺は覚悟を決め、ゴーレムに向き直った。そして、右手をゆっくりと前に出す。
目標は、ゴーレムの胸部。少女が「たぶん、あの辺りにコアがあるはず」と指差した場所だ。
意識を集中させる。スキルを発動する時の、あの感覚を呼び起こす。アイテムを収納する時のイメージではなく、さっき、ゴーレムの拳が止まった時の、あの空間そのものに触れるような感覚を。
『収納』
心の中で、強く念じる。
すると、やはり右手の先に、あの空間が歪むような感覚が生まれた。そして――
ピキッ、と微かな音がした。
見ると、俺が狙いを定めたゴーレムの胸部の装甲表面が、まるで細かな砂の粒子が集まっているかのようにざらつき、その模様が乱れたモザイク画のようになっている。そして、その部分だけが、僅かに現実感が薄れて、空間から切り取られるように希薄になっているような……!
「やった! やっぱり効いてる!」
少女が歓声を上げる。
「そのまま続けて! 今のうちに!」
彼女は叫ぶと同時に、腰の工具袋からドライバーのような、しかし先端が複雑な形状をした金属製の道具を取り出し、目にも留まらぬ速さでゴーレムの胸部へと駆け寄った。
ピクセル化して僅かに脆くなった装甲の隙間に、彼女はその道具を突き立てる。
ガキンッ! バチバチッ!
激しい金属音と、火花が散るような音が響く。少女は体重をかけ、道具を捻るように操作している。
俺は、スキルを発動し続けることに全神経を集中させた。右手の先の感覚が、これまでアイテムを収納する時とは全く違うことに気づく。まるで、巨大で頑強な『情報』の塊に無理やりアクセスしようとしているような、強い抵抗感があった。額に汗が滲む。
「……よしっ!」
少女の声が響き、彼女は素早くゴーレムから飛び退いた。
その直後、ゴーレムの全身がガクンと大きく揺れ、両腕がだらりと垂れ下がる。瞳のように光っていた赤いランプが、フッと力を失ったように消灯した。
完全に、動きを止めたのだ。
「はぁ……はぁ……やった……」
俺はその場にへたり込み、荒い息をついた。全身の力が抜けていくようだ。スキルの連続使用と、極度の緊張で、どっと疲労が押し寄せてきた。
「大丈夫!?」
少女が駆け寄ってきて、俺の顔を覗き込む。心配そうな表情だ。
「ごめん、無理させちゃったね。でも、ありがとう! あなたのおかげで助かったよ!」
「い、いえ……俺の方こそ……あなたが、コアの場所とか、やり方を教えてくれなかったら……」
彼女がいなければ、俺は何もできずにゴーレムに潰されていたかもしれない。
「ふふ、お互い様ってことかな?」
少女は悪戯っぽく笑うと、そっと手を差し伸べてくれた。
「それにしても、本当にすごかったよ! まさか、あんなことができるなんて……あ、そうだ。ちゃんと自己紹介してなかったね」
彼女は改めて俺に向き直り、少し照れたように言った。
「私はエリシア・フォルク。見ての通り、しがない古代技術の研究者だよ。よろしくね……えっと……」
そこで彼女は、俺の名前を知らないことに気づいたようだ。
「あ、俺はノア、です」
慌てて名乗ると、彼女は「ノアね!」と嬉しそうに頷いた。
「よろしくね、ノア!」
「はい、よろしくお願いします、エリシアさん」
「さん付けなんてやめてよ。エリシアでいいって」
エリシアは気さくに笑うと、すぐに真剣な表情に戻った。
「それで、ノア。あなたは、なんでこんな場所に? さっき、ちらっと勇者パーティーがどうとか言ってた気がするけど……」
俺は少し躊躇った後、正直に話すことにした。勇者パーティーの荷物持ちだったこと、【収納】スキルが役立たずだと判断され、追放されたこと、そして、このダンジョンの奥に置き去りにされたこと。
俺の話を聞き終えたエリシアは、呆れたように、そして少し怒ったように眉を寄せた。
「……やっぱり、見る目がないどころか、頭も悪いんじゃないかな、その勇者様一行は」
「え……」
「だって、こんなすごい能力を持ってる人を、ただの荷物持ち扱いして、挙句の果てに追放なんて! 宝の持ち腐れもいいところだよ!」
エリシアは自分のことのように憤慨してくれている。そんな風に言われたのは初めてで、俺は戸惑いながらも、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「ノアのその【収納】スキル……あれはたぶん、ただの収納じゃない。空間そのものに干渉したり、物の情報を書き換えたりできる、もっと高次元の能力なんだと思う。さっきのゴーレムみたいにね」
彼女は確信を持って言う。
「それって、私が探している『バグ』――この世界の法則が乱れて起こる異常現象――と、何か関係があるのかもしれない」
「バグ……?」
「そう。この世界、なんだか最近おかしいんだ。ありえない場所に強い魔物が現れたり、ダンジョンの構造が勝手に変わったり、時間がループしたり……まるで、世界っていう巨大なシステムに『バグ』が発生してるみたいなんだよ。私は、その原因と解決策を探して、古代遺跡を調査してるの」
エリシアの話は壮大で、俺にはすぐには理解できなかった。だが、彼女の真剣な瞳を見ていると、それがただの空想ではないことが伝わってくる。
「ねえ、ノア」
エリシアは俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「もし、行くあてがないんだったら……私と一緒に来てみない?」
「え……?」
「あなたのその力、すごく興味がある! もしかしたら、世界の『バグ』を解決する鍵になるかもしれない。もちろん、無理にとは言わないけど……どうかな?」
エリシアからの、予想外の提案。
研究者である彼女にとって、俺の未知のスキルは格好の研究対象なのだろう。だが、それ以上に、彼女の言葉には打算だけではない、純粋な好奇心と、そして俺という存在への肯定が含まれているように感じられた。
追放され、絶望の淵にいた俺にとって、それは暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。
行くあてなんて、どこにもない。
このまま一人でいても、生き延びられる保証はない。
ならば――。
「……はい」
俺は頷いた。
「俺でよければ……一緒に、行かせてもらえませんか?」
俺の返事を聞いて、エリシアはぱあっと顔を輝かせた。
「本当!? よかったー! これで研究が進むよ! ……じゃなくて、心強い仲間ができて嬉しいな!」
こうして、役立たずと追放された俺は、世界の『バグ』を追う謎多き研究者エリシアと、奇妙な出会いを果たした。
この先に何が待ち受けているのか、まだ想像もつかない。
だが、一人で絶望していた時とは違う、確かな一歩を踏み出した感覚が、そこにはあった。
「よし、じゃあまずは、この遺跡ダンジョンから脱出しようか! 出口まで案内するよ!」
エリシアは元気よく言うと、先に立って歩き始めた。
俺は、彼女の後に続く。もう、パーティーの最後尾ではない。隣に並ぶ、新たな仲間として。
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