第22話:活路
ゴオオオオオッ!!
空間の歪みが最高潮に達し、壁や床が完全に原型を留めず、粘性のある闇のように蠢いている。中央に立つ『何か』の周囲には、精神を直接削るような禍々しい波動が渦巻き、立っているだけで意識が混濁しそうだった。ジジ、という耳障りなノイズは、もはや悲鳴に近い。
「だめ……! 完全に飲み込まれる……!」
エリシアが絶望的な声を上げる。彼女の杖の光も、周囲の歪みに吸収されるかのように弱々しく揺らめいていた。
(スキルを……でも、何を……!?)
俺も必死に思考を巡らせるが、消耗しきった体と、精神を侵食してくる汚染の波動で、まともな判断ができない。下手にスキルを使えば、暴走して自滅するのが関の山だ。
「くそっ……!」
カイトが、負傷した体で呻く。ゴードンは彼を庇うように盾を構え、セリアはただ震えている。誰もが、なすすべなく、この異質な空間の崩壊に飲み込まれるのを待つしかないのか――。
「……いや、まだだ!」
エリシアが、はっと顔を上げた。彼女は一点――部屋の壁の一部、古代文字が刻まれた操作盤のような箇所を指差した。
「あの制御盤……! もし、転送装置がまだ部分的にでも機能しているなら……!」
転送装置! そうだ、俺たちが本来目指していたもの。しかし、起動に必要なエーテル結晶はもうない。
「でも、エネルギーが……!」
「代替エネルギーよ!」
エリシアは切羽詰まった声で叫ぶ。
「この空間に満ちている不安定なバグエネルギーそのものを……ノア、あなたのスキルで、もしかしたら転送に必要なエネルギーに『変換』できるかもしれない!」
バグのエネルギーを、転送エネルギーに『変換』する? そんな、まるで錬金術のようなことが、俺のスキルにできるというのか?
【収納】から派生した力は、空間固定や情報読み取り、果てはバグ・キメラという存在の削除にまで及んだ。ならば、『情報の変換』も……?
リスクは計り知れない。だが、他に道はない。
「……やるしかない、ですね」
俺が覚悟を決めると、エリシアは強く頷いた。
「……おい、何をごちゃごちゃ言ってる!」
その時、カイトの声が響いた。彼はゴードンに支えられながらも、聖剣を握りしめ、『何か』を睨みつけている。
「ぐずぐずするな! 俺がこいつを食い止める! その間に、さっさとやれ!」
「カイト!?」
「無茶です!」
エリシアとセリアが叫ぶ。
「うるさい! これは決定だ!」
カイトはよろめきながらも一歩前に出た。
「研究者! 貴様の解析が正しければ、それでここから出られるんだろう!? ノア! 貴様の力、見せてみろ! でなければ……ここで全員終わりだ!」
彼の瞳には、もはや傲慢さだけではない、悲壮な覚悟が宿っていた。それは、勇者としての最後の意地なのか、それとも……。
「……分かった!」
エリシアは覚悟を決め、俺の手を引いた。
「ゴードンさん、セリアさん、私たちを援護して! ノア、行くよ!」
俺たちは、エリシアが指した制御盤へと駆け寄る。ゴードンはカイトの前に立ち塞がるように盾を構え、セリアも震えながら援護魔法の準備をする。
背後では、カイトが雄叫びを上げ、『何か』に斬りかかっていた。聖剣の光が、歪んだ空間の中で激しく明滅する。
制御盤の前にたどり着いた俺たち。エリシアは即座にツールを接続し、解析を始める。
「転送機能、一部生きてる! でもエネルギーが完全にゼロだ……! ノア、お願い! この空間のバグエネルギーを集めて、この制御盤が要求するパターンに変換して流し込むんだ!」
彼女は制御盤に表示された複雑なエネルギーパターン図を指し示す。
空間に満ちる、禍々しいバグエネルギー。それを、安定した転送エネルギーに変換する……。
(できるのか……? 俺に……)
恐怖と不安が心をよぎる。だが、背後で戦うカイトの姿と、エリシアの真剣な眼差しが、俺を奮い立たせた。
俺は震える右手を、制御盤ではなく、空間そのものに向けた。
目を閉じ、意識を集中する。
イメージは、『変換』。周囲に渦巻く不安定なノイズの塊を、清浄な光の流れへと。エリシアが示したエネルギーパターンへと、情報を『書き換える』!
『収納――情報変換!!!』
ズズズズズ……!!!
右腕に、精神そのものが引き裂かれるような激痛!
周囲のバグエネルギーが、俺の右手に吸い寄せられ、その内部で強引に書き換えられていく。凄まじい抵抗と負荷!
「ぐっ……あああああっ!!」
俺は絶叫に近い声を上げる。意識が飛びそうだ。体が内側から壊れていくような感覚。
「ノア! しっかり!」
エリシアが俺の肩を支え、自身の魔力か何かを流し込んでくれているようだが、焼け石に水だ。
「早くして、ノア! カイトが……!」
セリアの悲鳴が聞こえる。背後の戦闘は、さらに激化しているようだ。
(負けるな……! 諦めるな……!)
俺は歯を食いしばり、最後の力を振り絞る。
エリシアが示したエネルギーパターンだけを、強く、強くイメージする。
すると、俺の右手から、濁っていたエネルギーが、少しずつ澄んだ青白い光の奔流へと変わり始めた! それが制御盤へと流れ込んでいく!
「……! エネルギーが来た!」
制御盤を見ていたエリシアが叫ぶ!
「あと少し……! 転送シーケンス、起動できる!」
その言葉に、俺は最後の気力を振り絞った。
変換されたエネルギーが、制御盤へと流れ込み、満たしていく。盤面のランプが次々と点灯し、起動音が鳴り響く。
ゴオッ!
同時に、背後でひときわ大きな衝撃音と、カイトの呻き声が聞こえた。
「転送起動! みんな、早くゲートへ!」
エリシアが叫ぶ。
制御盤の前に、眩い光のゲートが開き始めていた!
ゴードンがセリアを突き飛ばすようにゲートへ向かわせ、自身も続こうとする。
俺も、エリシアに支えられながら、ふらつく足でゲートへと向かう。
だが、その時。
背後で戦っていたカイトが、吹き飛ばされ、俺たちのすぐそばに転がってきた。彼の聖剣は砕け散り、体はボロボロだった。
「カイト!」
ゴードンが駆け寄ろうとする。
「……来るな……!」
カイトは血を吐きながらも、俺たちを睨みつけた。
「早く……行け……!」
そして彼は、最後の力を振り絞り、迫りくる『何か』に向かって、自らの体を投げ出した。
「カイトーーーッ!!」
ゴードンの絶叫が響く中、俺たちはエリシアによって、光のゲートの中へと突き飛ばされた。
最後に見たのは、カイトの体が『何か』に飲み込まれていく光景と、彼が向けた、一瞬の穏やかな……いや、諦観にも似た表情だった。
眩い光に包まれ、俺の意識は再び闇へと落ちていった――。