第21話:歪みの先の虚無
ゴゴゴ……と重い音を立てて石の扉が完全に開いた瞬間、俺たちは息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、俺たちが知る制御室ではなかった。いや、元はそうだったのかもしれないが、その面影はほとんど残っていない。
壁も床も天井も、まるで熱した飴細工のように歪み、融け合い、場所によっては空間そのものが欠落しているかのように、深淵のような闇が口を開けている。空気中には明滅する光の粒子が漂い、ジジ……という不快なノイズ音が絶えず耳についた。明らかに、高レベルの『バグ』によって侵食され、変貌してしまった異質な空間だった。
そして、その歪んだ空間の中央に、それは立っていた。
人の形をしている。
だが、人ではない。
全身が灰色がかった粘土のようで、のっぺりとした顔には目も鼻も口もない。ただ、あったであろう場所が僅かに窪んでいるだけだ。手足もどこか歪で、関節が奇妙な方向に曲がっている。それは、まるで出来損ないの人形か、あるいは人の形を無理やり模倣した『何か』。それが放つ空虚な雰囲気は、これまでのどんな魔物よりも不気味で、俺たちの背筋を凍らせた。
『何か』は、ゆっくりとこちらを向いた。顔に空いた窪みが、まるで空虚な瞳のように、俺たちを捉えている。敵意も、感情も感じられない。ただ、そこに『在る』というだけで、圧倒的な異質さとプレッシャーを放っていた。
「な……なんなのよ、あれ……」
セリアが震える声で呟き、ゴードンの背中に隠れる。ゴードンも、盾を構えながらも冷や汗を流していた。カイトは、苦痛に顔を歪めながらも、その異様な存在から目を離せずにいる。
「……ダメだ、情報が安定しない……!」
エリシアは解析ツールを『何か』に向けながら、焦ったように声を上げた。
「高レベルのバグ干渉を受けてる! 存在情報そのものが不安定で……でも、元は……元は、人だったのかもしれない……バグに侵食された成れの果て……」
人の、成れの果て……?
その言葉に、俺は言いようのない恐怖を感じた。以前エリシアが読み上げた警告文が脳裏をよぎる。『侵入者の精神は汚染され、存在は変質し、二度と帰還は叶わぬ』……。まさか、この『何か』は、バグ汚染区域に迷い込んだ者の……?
その時、俺は感じた。
スキルを使った後から時折感じるようになった、あの奇妙な『感知』能力。それは、『何か』から放たれる、形容しがたい禍々しい波動を捉えていた。それは、冷たく粘りつくようで、直接触れていないのに精神の奥底まで侵食してくるような、強烈な不快感を伴う感覚だった。
(なんだ……この嫌な感じは……? まるで、魂ごと汚されるような……。そうだ、あの警告文にあった……『精神は汚染され、存在は変質し』……!)
「エリシアさん……! あれは……ヤバい……! 感じます……すごく嫌な、まとわりつくような気配が……! もしかしたら、これって……警告文にあった『バグ汚染区域』の……『汚染』そのものなんじゃ……!? 近づくだけでも……!」
俺は自分の直感を叫ぶように伝えた。エリシアも顔色を変える。
「やっぱり……! この空間自体が、既に汚染され始めてるんだ! 長居は危険すぎる!」
『何か』は、依然としてゆっくりとした動きで、こちらに向かって歩みを進め始めていた。その動きに合わせて、周囲の空間がさらに歪み、ノイズ音が大きくなる。攻撃してくる様子はないが、その存在自体が、空間を侵食し、俺たちの精神を蝕んでくるかのようだ。
「どうする!? 戦うのか!?」
カイトが苦しげに声を上げる。
「ダメ! あれに迂闊に手を出したら、どんなバグ反応が起きるか分からない! それに、ノアが感じた通りなら、精神汚染のリスクもある!」
エリシアは即座に否定し、素早く状況を判断する。
「選択肢は二つ! この扉をもう一度閉めて、ここから撤退するか……あるいは、あの『何か』を突破して、この歪んだ空間の奥へ進むか!」
撤退? でも、どこへ? 後ろの通路は崩落したかもしれないエーテル結晶の部屋に繋がっている。それに、食料も水もない。ここで足止めされれば、じり貧だ。
かといって、突破? あの異様な存在と、バグに汚染された空間の奥へ? それはあまりにも無謀に思えた。
「ぐずぐずしてる時間はないよ!」
エリシアが叫ぶ。『何か』は、もう俺たちの数メートル手前まで迫っていた。その空虚な『瞳』が、俺たちを捉えている。
「俺がやる!」
カイトが叫び、負傷した体で聖剣を構えようとした。
「いや、待ちなさい!」
エリシアがそれを制止する。
意見が割れ、行動が定まらない。その、ほんの一瞬の躊躇が、命取りになりかけた。
『何か』が、ふいにその歪な腕を上げた。
攻撃か!? 身構える俺たち。
だが、『何か』は攻撃する代わりに、その腕を、すぐそばの歪んだ壁に突き刺した。
ズブッ……
まるで、水に手を入れるかのように、その腕は抵抗なく壁に飲み込まれていく。そして――
ゴオオオオオッ!!
壁が、まるで生きているかのように脈打ち始め、空間の歪みが一気に増幅した!
壁や床が粘液のように溶けだし、俺たちの足元がおぼつかなくなる。ノイズ音が鼓膜を突き刺し、強烈な目眩と吐き気が襲ってきた。
「うわあああっ!」
「きゃあっ!」
立っていることすらままならない。視界がぐにゃぐにゃと歪み、平衡感覚が完全に失われる。これが、高レベルのバグ汚染……!
「だめ……! このままじゃ、空間ごと取り込まれる……!」
エリシアが悲鳴に近い声を上げる。
俺も、必死に意識を保とうとするが、歪んだ空間と『何か』から発せられる汚染の気配が、精神を直接侵食してくるようで、思考がまとまらない。
(スキルを……でも、何を……!?)
この状況で、俺のスキルで何ができる? 空間固定? 情報削除? 消耗しきった体で、下手に使えば暴走は免れない。そうなれば、俺自身が……。
絶望的な状況。
歪んだ視界の隅で、エリシアが必死に杖を操作し、何かを試みているのが見えた。カイトたちも、もはや抵抗する気力もなく、ただ歪む空間に翻弄されている。
俺たちは、なすすべなく、この異質な空間の歪みに飲み込まれていくしかないのだろうか――。
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