第2話:瓦礫の中の光
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
冷たい石の床に蹲り、ただただ絶望に打ちひしがれていた時間は、ひどく長く感じられた。涙はとうに枯れ果て、今はもう、虚ろな感情だけが心を支配している。
勇者パーティーからの追放。それは、俺の世界の終わりを意味していた。
彼らは光の中にいる。俺は、暗いダンジョンの奥深くに捨てられた影。もう二度と、陽の当たる場所へは戻れないのかもしれない。
(このまま、ここで……魔物に食われて、死ぬのか……?)
カイトの吐き捨てた言葉が、呪いのように脳裏に響く。『魔物の餌にでもなるんだな』。その言葉通りの結末が、すぐそこまで迫っている現実を突きつけられる。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。死の恐怖。それは、どんな絶望よりも生々しく、具体的だった。
ごくり、と唾を飲み込む。喉がひどく渇いていた。
視線を落とすと、カイトが投げ与えた最低限の装備が転がっている。水筒、少しばかりの干し肉と硬いパン、そして粗末な短剣。
これっぽっちの施し。まるで、虫けらに餌をやるような感覚だったのだろう。
その事実が、腹の底で燻っていた何かに火をつけた。
(……冗談じゃない)
ふつふつと、怒りに似た感情が湧き上がってくる。
確かに俺は弱い。スキルだって、彼らの言う通り「ハズレ」なのかもしれない。
けれど、こんな場所で、あいつらの予言通りに、みすみす魔物の餌になってたまるか。
(生きてやる……絶対に、生き延びてやる……!)
それは、復讐心というほど明確なものではないかもしれない。だが、俺を役立たずだと断じ、ゴミのように捨てた彼らに対する、意地のようなものだった。俺は、まだ終わっていないのだと、証明してやりたかった。
震える手で水筒を取り、渇いた喉を潤す。少量ずつ、大切に飲んだ。次に、硬いパンを少しだけかじり、無理やり胃に押し込む。力が、ほんの少しだけ戻ってきたような気がした。
短剣を握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。足が少しふらついたが、すぐに踏ん張った。
まずは、ここから脱出しなければならない。
幸い、ここはダンジョンだ。構造物である以上、必ずどこかに出口はあるはずだ。来た道を戻るのが一番確実だろうが、正確なルートを覚えている自信はない。それに、カイトたちがまだ近くにいる可能性を考えると、別のルートを探すべきかもしれない。
周囲を見渡す。薄暗がりの中、壁には苔が生え、天井からは水滴が滴り落ちていた。空気は重く、淀んでいる。どちらに進むべきか、見当もつかない。
とりあえず、壁伝いに歩き始めることにした。片手で壁に触れながら、もう片方の手には短剣を構え、警戒を怠らない。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。時折聞こえる水の滴る音や、遠くで響く不気味な反響音に、何度も心臓が跳ねた。
どれくらい歩いただろうか。代わり映えのしない景色が続き、自分が同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという不安に駆られる。
その時、不意に背後で「カサリ」と小さな物音がした。
「!?」
反射的に振り返り、短剣を構える。暗がりの中、何かが動いたような気がした。
ゴブリンか? それとも、もっと厄介な魔物か?
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
(落ち着け……落ち着くんだ、俺……)
もし魔物なら、戦わなければならない。今の俺に勝ち目は薄いかもしれないが、それでもやるしかない。
だが、暗くてよく見えない。相手がどこにいるのか、何なのかも分からない。
(そうだ、スキルを……いや、ダメだ。アイテムがないと……)
咄嗟に【収納】スキルを使おうとして、すぐに思いとどまる。スキルを発動するには、対象となるアイテムが必要だ。こんな状況で使えるはずがない。
そう思った、はずだった。
なのに、ほんの一瞬、右手の先に奇妙な感覚があった。スキルを発動しようとした時の、あの空間が歪むような予感。対象物がないにも関わらず、何かがスキルに反応しかけたような……。
(……なんだ? 今の……)
気のせいだろうか。恐怖で感覚がおかしくなっているのかもしれない。
俺は首を振り、気のせいだと結論付けた。今は、こんなことを考えている場合じゃない。
再び周囲を警戒し、慎重に歩を進める。
だが、その直後。
グォォオオオオオオッ!!
先ほどとは比べ物にならないほど大きく、獰猛な咆哮が、ダンジョン全体を揺るがすかのように響き渡った。
近い!
本能的な恐怖が、全身の毛を逆立たせる。これは、オークキングクラスか、それ以上の魔物だ。今の俺が遭遇したら、一瞬で殺される。
(隠れないと……!)
慌てて周囲を見回し、身を隠せそうな岩陰を見つける。息を殺し、滑り込むようにして体を隠した。短剣を握る手に、汗が滲む。
咆哮は、一度だけではなかった。断続的に響き渡り、その度に地面が微かに震えるのを感じる。どうやら、かなり近くで戦闘が行われているらしい。
(誰かいるのか……? それとも、魔物同士が争っているのか……?)
どちらにしても、下手に動くのは危険だ。咆哮が止むまで、ここで息を潜めているしかない。
どれほどの時間が経っただろうか。咆哮の代わりに、今度は甲高い金属音や、何かが破壊されるような轟音が聞こえ始めた。明らかに、誰かが戦っている。
そして、その音に混じって、微かに聞こえてきたものがあった。
「……きゃあっ!」
少女の悲鳴のような声。
一瞬、空耳かと思った。こんな危険なダンジョンの奥深くに、少女がいるはずがない。
だが、耳を澄ますと、確かにそれは人の声だった。苦痛と恐怖に満ちた、切羽詰まった声。
(誰かが……襲われている……?)
どうする?
助けに行くべきか?
いや、無理だ。俺が行ったところで、何ができる? 俺は役立たずの荷物持ちだ。戦闘能力なんて皆無に等しい。下手に飛び出せば、俺も一緒に殺されるだけだ。
(見捨てるしかない……俺には、どうすることもできないんだ……)
そう自分に言い聞かせ、岩陰で固く目を閉じる。聞きたくない。何も聞きたくない。
だが、悲鳴は止まない。それどころか、金属音や破壊音はさらに激しくなり、悲鳴はより切迫したものになっていく。
(……このままじゃ、本当に死んでしまう……)
頭の中で、追放された時のカイトたちの冷たい目が蘇る。彼らは、俺を簡単に見捨てた。役立たずだから、必要ないからと。
俺も、同じことをするのか?
目の前で誰かが死にかけているのに、自分には関係ない、自分にはできないと、見捨てるのか?
(……違う)
それは、違う。
俺は、彼らとは違う。
そうありたい、と強く思った。
何の根拠もない。ただの自己満足かもしれない。偽善だと笑われるかもしれない。
それでも、このまま何もせずに、誰かを見殺しにすることだけは、どうしてもできなかった。
俺は意を決して、短剣を強く握りしめ、岩陰から飛び出した。
音のする方へ、全速力で走る。
通路を抜けた先は、少し開けた広場のような場所になっていた。
そして、俺は信じられない光景を目にする。
そこにいたのは、瓦礫と土埃に塗れた、小柄な少女だった。年は俺と同じくらいか、少し下かもしれない。ゴーグルを額に上げ、動きやすそうな革鎧に似た服装をしている。その手には、奇妙な形状の杖のようなもの――いや、杖にしては機械的な部品が多く見える――が握られていた。
そして、その少女と対峙していたのは、巨大なゴーレムだった。岩石でできた体はゆうに3メートルを超え、腕の一振りで岩盤を砕くほどのパワーを持っている。
少女は、そのゴーレムの猛攻を、手にした奇妙な杖から放たれる光弾や、足元に展開する小型の魔法陣のようなもので、必死に凌いでいた。だが、明らかに分が悪い。ゴーレムの攻撃で吹き飛ばされたのか、少女の頬には擦り傷があり、息もかなり上がっているようだった。
「くっ……しつこいんだから、このポンコツゴーレム!」
少女は悪態をつきながら、杖を構え直す。しかし、ゴーレムは無慈悲に巨大な拳を振り上げた。避けきれない、と俺は直感した。
(まずい!)
考えるより先に、体が動いていた。
何の策もない。ただ、少女の前に飛び出し、短剣を構えてゴーレムの前に立ちはだかる。
「危ないっ!!」
俺が叫ぶのと、ゴーレムの拳が振り下ろされるのは、ほぼ同時だった。
絶体絶命。
死を覚悟した、その瞬間。
「――え?」
突如、俺の目の前で、振り下ろされたゴーレムの巨大な拳が、ピタリ、と静止した。
まるで、時間が止まったかのように。
いや、違う。よく見ると、拳の表面が、僅かにピクセル化しているような、奇妙なノイズが走っている。
「な……何……?」
呆然と呟く俺の後ろで、少女が驚きの声を上げた。
「うそ……空間座標、固定……!? あなた、何をしたの!?」
少女の言葉の意味は、すぐには理解できなかった。
ただ、目の前で静止しているゴーレムの拳と、自分の右手に残る、先ほど感じたのと同じ、スキルが反応しかけたような奇妙な感覚だけが、やけにリアルだった。
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