第13話:深層への階、不協和音
重い石の扉が背後で完全に閉ざされると、襲ってきていたバグ・スライムたちの気配も、通路が崩壊する轟音も完全に遮断された。後に残されたのは、ひんやりとした湿った空気と、自分たちの荒い息遣い、そして下へと続く暗闇だけだった。
「……はぁ、はぁ……な、なんとか……逃げ切れた、のか……?」
ゴードンが、まだ震えの残る声で呟く。彼の巨大な盾には、バグ・スライムの粘液のようなものがこびりついていた。セリアも壁に手をつき、青ざめた顔で呼吸を整えている。カイトは、苦々しげに閉じた石扉を睨みつけていたが、やがてふう、と一つ息をついた。
「ひとまずはね」
エリシアが応じ、杖の先端から柔らかな光を放って周囲を照らし出した。現れたのは、下へと緩やかにカーブしながら続く、苔むした石の階段だった。空気は淀み、カビ臭さと土の匂いが混じり合って鼻をつく。上層の通路とは明らかに違う、より古く、打ち捨てられたような雰囲気が漂っていた。
「ここが、下層区画への入り口みたいだね。ノア、大丈夫?」
エリシアが俺の顔を覗き込む。
「……はい、なんとか」
まだ頭痛と倦怠感は残っているが、先ほどよりはだいぶましになっていた。スキルを暴走させた代償は大きいが、今は立ち止まっているわけにはいかない。
「ありがとう、ございます」
支えてくれたエリシアに礼を言うと、彼女は「気にしないで」と小さく笑った。
「さて、と」
エリシアは解析ツールを取り出し、階段の周囲や空気の状態をスキャンし始めた。
「空間の安定度は……うん、上層の崩壊部分よりはだいぶマシみたい。バグの兆候も今のところは薄いかな。でも、油断は禁物だよ。下層がどうなってるかは、降りてみないと分からない」
俺たちは、エリシアを先頭に、暗く長い階段を慎重に下り始めた。光源はエリシアの杖の光だけだ。足音と、時折響く水滴の音以外は何も聞こえない不気味な静寂が、かえって緊張感を高める。勇者たちも、さすがに今は軽口を叩く余裕はないのか、黙って後に続いていた。
どれくらい下っただろうか。永遠に続くかと思われた階段は、やがて開けた空間へと繋がっていた。
そこは、巨大な地下空洞のようだった。天井は高く、鍾乳石のようなものがいくつも垂れ下がっている。地面には奇妙な形の発光する苔が一面に生えており、ぼんやりとした青白い光で空間全体を照らし出していた。空気はひんやりと澄んでいるが、どこか人工的な、それでいて長い間放置されたような独特の匂いがした。上層の石造りの通路とは全く異なる、異様な光景だ。
「ここが……下層区画……」
エリシアが感嘆の声を漏らす。
「すごい……自然の洞窟と古代の建造物が融合してるみたいだ。エネルギー反応も、上層よりずっと濃い……!」
彼女は興奮気味にツールを操作し、データを記録している。研究者としての血が騒ぐのだろう。
俺たちも、その神秘的でありながらもどこか不気味な光景に、しばし言葉を失っていた。
「……で、これからどうするんだ?」
最初に沈黙を破ったのはカイトだった。彼は警戒するように周囲を見回しながら、エリシアに問いかける。
「エネルギー源……エーテル結晶とやらは、どこにあるんだ?」
「ノアが読み取ってくれた情報だと……こっちの方角みたいだね」
エリシアはツールに表示された簡易マップと、ノアが以前床に描いた図形(の記憶)を照合し、洞窟の一方を指差した。「強いエネルギー反応がある。ただし……」
彼女は顔をしかめる。
「バグの反応も、その方向に強く出てるんだ。おそらく、エネルギー源の近くで、特に空間が不安定になってる可能性が高い。慎重に進まないと」
「バグ、バグって……結局なんなのよ、それは!」
セリアが苛立ったように声を上げた。恐怖と疲労で、彼女の精神も限界に近いのかもしれない。
「さっきの話じゃ、世界の法則が乱れてるって……そんな馬鹿げた話があるわけないでしょ!」
「馬鹿げた話かどうかは、あなたたちが一番よく分かってるんじゃない?」
エリシアは冷ややかに言い返す。「あなたたちが起動しようとした石版が、その『馬鹿げた話』を引き起こしたんでしょ?」
セリアはぐっと言葉に詰まり、悔しそうに俯いた。
「今は原因究明より、現状把握と対策が先だよ」
エリシアは話を戻す。「問題は、どうやってそこへ行くか。道は入り組んでるみたいだし、どんな危険があるか分からない。それに……」
彼女はちらりと俺たちの荷物を見た。
「食料と水も、かなり心許ない状況だ」
その言葉に、皆の顔に緊張が走る。追放された俺はもちろん、エリシアも研究が主目的だったためか、十分な備えがあるわけではない。勇者たちも、逃走の過程で多くを失ったのかもしれない。
「……おい、ノア」
不意にカイトが俺に声をかけた。
「お前のそのスキル、アイテム以外も収納できるんだろう? なら、辺りの岩でも収納して、敵が現れた時にぶつけるとか、あるいは罠を探知するとか、何か役に立つことに使えんのか?」
また、俺の力を利用しようという考えか。俺は内心でため息をつきながら答えた。
「……消耗が激しくて、今は……それに、そんな器用な使い方ができるかどうかも……まだ……」
「ちっ、使えない奴だな!」
カイトはあからさまに舌打ちする。以前の俺なら、その一言で完全に萎縮していただろう。だが、今は違った。怒りよりも、呆れと、そして少しの哀れみのような感情が湧いてくる。
「まあまあ」
エリシアが間に入る。
「ノアのスキルはまだ未知数だし、リスクも大きいんだ。今は彼の回復を待ちつつ、私の解析と、あなたたちの戦闘力で進むしかないよ。いい機会だから、少しは役に立ってよね?」
彼女は勇者たちに釘を刺すように言った。
結局、エリシアの提案通り、エネルギー源があると思われる方向へ、慎重に探索を進めることになった。発光する苔の明かりを頼りに、迷宮のような洞窟を進んでいく。道中、奇妙な鳴き声が聞こえたり、明らかに人工的な罠の残骸が見つかったりして、その度に緊張が走った。
しばらく進むと、道が大きく三つに分かれている場所に出た。どの道も、奥は暗く見通せない。
「うーん、どっちだろう……」
エリシアが解析ツールを見ながら首を捻る。「エネルギー反応は、どの方向にも微かに感じられるけど……バグの干渉で正確な位置が掴みにくいな……」
どの道を選ぶべきか、皆が迷っている、その時だった。
俺は、特定の通路――中央の、最も暗く見える通路から、何か強い『気配』のようなものを感じ取っていた。それは、エネルギーとも違う、危険な魔物の気配とも違う、もっと別の……何か。
「……ノア?」
俺の様子に気づいたエリシアが声をかける。
「……あっち、です」
俺は、確信はないながらも、その中央の通路を指差した。
「何か……何か、あります。重要なものが……たぶん」
俺の言葉に、エリシアは驚いたように目を見開いた。カイトは「何を根拠に……」と訝しげな顔をしている。
だが、俺には、あのスキルの暴走の後から、時折こうした奇妙な『感知』のようなものが働くことがあるような気がしていた。
「……分かった。信じてみるよ、ノア」
エリシアは少し考えた後、頷いた。
「行きましょう。ノアが何かを感じるなら、きっとそれが正しい道なんだ」
彼女の信頼に、俺は少しだけ勇気づけられる。
俺たちは、俺が指差した中央の通路へと、再び足を踏み入れた。その先に何が待っているのか、期待と不安を胸に抱きながら。