第11話:汚染区域の警告と微かな光
『――侵入者の精神は汚染され、存在は変質し、二度と帰還は叶わぬ』
エリシアが読み上げた古代文字の警告は、重く冷たい響きをもって、静まり返った制御室にこだました。希望が見えたと思った矢先に突きつけられた、あまりにも恐ろしい事実。転送先の一つは、ただの危険地帯ではない。人の精神と存在そのものを蝕む、呪われた場所――『バグ汚染区域』だというのだ。
部屋の中に、息苦しいほどの沈黙が落ちる。誰もが、その言葉の意味を咀嚼しようとしているかのように、あるいは、聞かなかったことにしたいかのように、押し黙っていた。
ゴードンとセリアは顔面蒼白になり、カタカタと震えだしている。カイトですら、その顔から普段の傲慢な色が消え、険しい表情で壁の文字を睨みつけていた。
俺は、壁にもたれたまま、自分の右手に視線を落としていた。「精神汚染」「存在変質」……その言葉が、妙に引っかかっていた。先ほど俺がスキルを暴走させた時、バグ・キメラは消滅した。あれは、俺が奴の『存在情報』を『削除』した結果なのだろうか? だとしたら、俺のスキルもまた、使い方を誤れば、あるいは暴走すれば、存在そのものを変質させかねない危険な力なのではないか……? 底知れない恐怖が、再び背筋を這い上がってくる。
「……まあ、でも!」
重苦しい沈黙を破ったのは、エリシアだった。彼女はパン、と両手を叩き、努めて明るい声を出した。
「警告があるのは、その『座標デルタ・シグマ』だけでしょ? 『複数座標への接続を管理』って書いてあったんだから、他にも安全な転送先があるはずだよ! それに、この制御室から転送できれば、危険な遺跡の奥を歩き回るよりずっと安全に脱出できる可能性が高いのは事実なんだから!」
彼女は無理に笑顔を作っているのかもしれない。だが、その前向きな言葉と態度は、淀んだ空気を少しだけ変える力があった。研究者としての探求心と、この状況を打開しようという強い意志が、彼女を支えているのだろう。
「とにかく、解読を続けよう! 他の転送先に関する情報や、起動に必要なエネルギー源……『高純度エーテル結晶』だったかな? それについての情報が見つかるかもしれないし!」
エリシアは再び壁に向き直り、解析ツールを操作し始める。
だが、勇者たちの動揺は収まっていなかった。
「き、危険すぎるわよ! そんな恐ろしい場所に繋がってるかもしれないんでしょ!? もう、ここから一歩も動きたくない……!」
セリアが涙声で訴える。
「ああ、そうだとも。転送なんて冗談じゃない。そもそも、その古代文字とやらが本当のことなのかも怪しいもんだ」
ゴードンも弱気な発言を繰り返す。
「ふん……」
カイトが、疑念に満ちた目でエリシアを一瞥した。
「おい、研究者。その警告とやらが、俺たちをここに足止めするための、お前のハッタリや見間違いという可能性はないのか? 本当にそんな場所が……」
「私の解析と解読を疑うっていうの?」
エリシアがカッと眉をつり上げた。
「いい? これは古代の超技術なのよ。現代の魔法や常識なんて通用しないレベルの、ね。警告を無視すればどうなるか……さっきのバグ・キメラがどうなったか、忘れたわけじゃないでしょ?」
エリシアの気迫に、カイトは再び言葉を呑む。彼はまだ何か言いたげだったが、反論するだけの根拠も勇気も、今の彼にはないようだった。
エリシアは再び解読に集中する。しかし、必要なエネルギー源である「高純度エーテル結晶」の具体的な場所や、他の転送先に関する情報は、文字の欠損や摩耗が激しく、なかなか読み取れないようだった。
「うーん、やっぱりこの辺りの情報が……。エネルギーラインの経路図はさっきノアが見てくれたけど、肝心の『源』の場所が……」
エリシアが唸っているのを見て、俺は再び壁に近づいた。体はまだ重く、頭痛も続いている。スキルを使うのは危険だ。でも……。
(ここでエリシアさんを手伝えれば……少しでも、役に立てるなら……)
俺は意を決し、損傷の激しい文字の部分に、再び右手をそっと触れた。今度は、特定の『情報』を探るイメージ。エネルギー源の場所、エーテル結晶の在り処……。
ピリリ……!
前回よりも強い痺れが右手を襲う。そして、頭の中に、より鮮明なイメージが流れ込んできた。遺跡のさらに下層……迷宮のように入り組んだ通路の先に、青白い光を放つ結晶体が安置されている部屋……!
「ぐっ……!」
俺はその場に片膝をつき、こめかみを押さえた。情報の奔流は、今の俺の体には負担が大きすぎる。
「ノア! また無理して!」
エリシアが駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です……でも、見えました……たぶん、エーテル結晶の場所……」
俺は荒い息をつきながら、床に指で簡単な地図を描き、イメージを伝える。
「もっと……下です……入り組んだ通路の、奥に……」
「下層区画……!?」
エリシアは俺が描いた図形と、壁の情報を照らし合わせ、目を見開いた。
「このエネルギーラインの経路とも一致する……! やっぱりノアのスキルは、物質の情報だけじゃなく、空間やエネルギーの流れまで読み取れるんだ……!」
彼女は興奮を隠せない様子だったが、すぐに俺の消耗ぶりに気づき、心配そうな顔になる。
「でも、本当に無茶はしないで。その力、まだ不安定なんだから」
「……はい」
「よし……」
エリシアは立ち上がり、全員に向き直った。
「ノアのおかげで、エネルギー源の場所の見当がついた。遺跡の下層区画……おそらく、この制御室から隠し通路か何かで繋がっているはずだよ」
彼女は決意を込めて言った。
「私たちは、そこへ向かう。エーテル結晶を手に入れて、転送装置を起動させるために」
しかし、その提案に、カイトが異を唱えた。
「待て。下層だと? この遺跡の深部はただでさえ危険だというのに、さらに下へ降りるだと? 正気か?」
彼の言うことも無理はない。危険なバグが発生した後で、さらに未知のエリアへ進むのはリスクが高すぎる。
「今の状況で、他に確実な方法があるっていうの?」
エリシアが問い返す。
「来た道を戻る? あの崩落した通路を? それとも、あなたたちが引き起こしたバグが完全に収まるのをここで待つ? 食料も水もほとんどないのに?」
「それは……」
カイトは言葉に詰まる。
「だったら、可能性がある方に賭けるしかないでしょ」
エリシアはきっぱりと言い放った。
「もちろん、危険は承知の上だよ。でも、何もしなければ、ここで全員朽ち果てるだけかもしれない」
エリシアの言葉に、ゴードンとセリアは顔を見合わせ、不安げに頷くしかない。
カイトは、しばらく苦々しい顔で黙り込んでいたが、やがて吐き捨てるように言った。
「……勝手にしろ。だが、もし危険だと判断したら、俺は引き返すぞ。お前たちがどうなろうと知ったことか」
「それで結構。足手まといはいらないって言ったでしょ」
エリシアは冷たく言い放った。
勇者パーティーとの間に走る、修復しがたい亀裂。それでも、今は一つの目的に向かって、歪な共同体が進むしかない。
「ノア、少し休んだら行こう。私もルートを探しておくから」
エリシアはそう言うと、再び壁の解析に戻った。
俺は、これから向かうことになる遺跡の地下深くのこと、エーテル結晶、そしてあの恐ろしい警告文のことを考えながら、重い体を休ませる。
希望と危険が同居する、新たな探索が始まろうとしていた。その矢先だった。
ジジ……ジジジ……
部屋の壁の一部――エリシアが調べていた紋様とは別の箇所が、突然、不気味なノイズを発し始めた。そして、その部分の空間が、まるで水面のように揺らぎ始めたのだ。
「なっ……!?」
エリシアが弾かれたように振り返る。
「この反応……まずい! 何かが、こっちに来る……!」