溶鉱炉
夜の帳が降りてもこの町は真っ赤に燃えている。
製鉄所から吐き出される煙が空を覆い、それが青みがかった夜空の黒とはまったく違う、どす黒い闇を作り出すのだ。そしてその下には、すべてを焼け尽くすような赤い色が煌々と広がり、眠る隙を与えない。製鉄所の溶鉱炉の明かりだ。町の年寄りたちは空襲を思い出すと言って、それを忌み嫌っていた。
だが、誰も製鉄所に文句を言う者はいない。製鉄所のお陰でこの町は潤っているのだから。製鉄所は正に、この町を支配する要塞にして、不夜城だった。
僕はその日、夜勤だった。
煤けた匂いのする商店街を抜けて、製鉄所へ向かう。そして、赤とオレンジが混じりきらない灼熱の鉄の溶解液を見つめる。ここに季節は関係ない。温度は確かに高いのだが、かと言って「夏」とは呼べなかった。いつも作業着の中は蒸れて、グッショリと濡れていた。
「おーい、交替だ。仮眠、いいぞーっ!」
コンビの年配の先輩が声を掛けてくれた。僕はいつものように、無表情でパネルの前から離れる。この仕事は面白いわけでも、面白くないわけでもなかった。ただ、何となく流れる時間。ただ、それだけだった。それは、どこか諦めに似ていた。
僕が仮眠室に向かうと、僕より先に仮眠室に入っていく影が見えた。
(誰だろう? 勤務しているのは僕と先輩しかいないのに・・・・・・)
僕は開け広げてある仮眠室を、恐る恐る覗いた。僕は仰天した。
4畳半ほどの仮眠室の中で、モンペ姿の女が正座をしているではないか。
女が振り向いた。化粧はしていないが、つぶらな瞳に通った鼻筋。血色のよい唇に艶やかな黒髪。なかなか清楚な美人だった。どこかで見たような気もするが、思い出せない。
「あ、あの……、あなたは?」
すると女は急に立ち上がり僕の方へ駆けてきた。その時、隅に寄せたちゃぶ台が女の足に触れ、茶碗の中の飲みかけのお茶がこぼれた。
「会いたかった!」
女はそう言うと僕に抱き着いてきた。僕には何が何だか、さっぱり訳がわからない。
「ねえ、『くちづけ』をして……」
女が言った。女は瞳を閉じている。僕は妖しいまでの女の色香に惑わされるように、唇を重ねた。
女は僕の唇を貪った。僕も貪り返す。お互い、舌で粘膜と粘膜を貪りあう。
それはキスなどという生易しい表現では表しきれない、濃厚な接吻だった。その接吻は甘美な魅惑を湛えていたのだが、どことなく懐かしさを感じた。
(そんなことって……)
僕はと言えば、うっとりとしながら、女の執拗なまでの舌の攻撃に屈していた。
涎の糸を引きながら、やがて唇は離れた。女は僕を妖しい瞳で見つめる。
「ねえ、抱いて……」
「正気かい? ここは製鉄所の仮眠室だぜ」
だが、女は粗末なモンペを脱いでいく。女の正体はわからなかったが、遠い記憶のどこかに、その女がいたような気がする。
仮眠室の布団は黴臭かった。その黴の臭いが、僕の理性を麻痺させていたのかもしれない。僕は女の求めるがままに、衣服を脱いだ。そして、女を抱いたのだ。
それは耽美な時間だった。僕は貪るようにして女を抱いた。女はそんな僕を、やはり貪るように求めたのである。
女を抱いた後、僕はしばらく呆然としていた。だが、女は素早く着衣すると襖の向こうに消えた。
「おい、ちょっと待って……!」
僕が慌てて襖を開けた時、女の姿はもうどこにもなかった。
(一体、誰だろうか? あの人は……)
だが、現実だった。僕の肌には女の記憶がしっかりと刻まれていた。
僕は配置に戻り、不審な女性を見たことだけを先輩に話した。
「そうか……。すると、あの女かもしれねぇな」
「あの女って、誰です?」
「戦時中の話だがな、戦闘機乗りの夫が戦死して、妻がこの溶鉱炉に身投げをしたんだ。その鉄で出来た戦闘機は、女の怨霊が取り憑いたように敵機を撃ち落としたそうだ。その戦闘機は、奇しくもその女の夫が撃ち落とされた場所で撃墜されたらしいがな。今でも、時々この製鉄所内で、その女の亡霊を見るって話はよく聞くぜ」
翌朝、僕は何か釈然としないまま帰途についた。
朝の商店街を抜け、小高い丘を上がったところに僕の家はある。
丘の上から見る製鉄所は子供の頃に漫画で見た、巨大な要塞そのものだった。真っ黒な煙を吐き出す巨大な煙突。窓から見える真っ赤に解けた鉄の色。溶鉱炉に身を投げた女とは一体……。
僕が家に着くと、既に朝食の用意がされていた。
「ごめんね。仏さんに、このご飯をお供えして」
僕は母親から小さな茶碗を受け取る。そして仏壇の前に立ち驚愕した。
何とそこには僕が昨夜抱いた女がいるではないか。どこかで見た女。思い出そうとしても思い出せなかった女。それは紛れも無く、僕の祖母だったのだ。
そういえば祖母の写真の隣にいる祖父は僕に似ている。
果たして僕は祖母の亡霊を抱いたのだろうか。いや、違う。僕の腕の中には祖母の肉の質感が残っていたし、祖母が立ち上がった時、ちゃぶ台が揺れてお茶がこぼれたではないか。あの時、確かに祖母はそこに存在していたのだ。
翌日、僕は再び夜勤に就いた。製鉄所の夜勤は1週間続く。
先輩が仮眠している間、僕は何げなく溶鉱炉を見つめていた。溶鉱炉は対流し、巨大な心臓のように蠢いている。
「おばあちゃんは本当にこの中に……」
その時、僕は人の気配に驚いて振り返った。そこには、あの女が、いや祖母と思しき女性が立っていた。
「おばあちゃん……なの?」
「そうよ……」
やはり僕の祖母だったのだ。祖母は妖しい微笑みを口元に浮かべている。
「でも、あなたの妻でもあるわ……」
祖母が僕に歩み寄ると、僕の唇を愛しそうに撫でた。柔らかな指の感触が心地よい。
「どういうこと?」
「あなたはあの人の生まれ変わり……」
祖母が僕に抱き着いてきた。その身体が異様に重い。
「でも、狡いわ。生まれ変わる時は一緒と言ったのに……」
祖母が全体重を掛けてくる。それにしても、重い。僕の足がよろけた。踵を踏み潰した運動靴が脱げる。
僕は慌てて祖母の顔を見た。その顔は愛しさと憎悪を織り混ぜたような顔だった。
「お、おばあちゃん……?!」
構造上、絶対外れることのない溶鉱炉の柵が外れ、僕の身体が宙に浮いた。溶鉱炉の熱が近づいていた。祖母の狂気の顔とともに……。
(了)