婚約解消が言い出せない公爵家の箱入り息子は、今日も胃がイテテテテッ!
「オリヴィア!こ、ここここここっ、こんっ、こんこんっここ…」
「あら、狐さんの真似ですか?お上手ですわ!」
「そ、そうじゃなくてっ…僕との、こっここんこっこん〜〜〜〜ッ!!あっ…」
「ルーカス様!?」
何とも情けないことに、僕は極度の緊張によりまたもや気を失ってしまったらしい。
目が覚めると、いつものように、大きなシトリンの瞳が僕の顔を覗き込んでいた。
「…う、僕はまた気を失っていたのか…」
「ええ、うなされておりましたよ?お加減はいかがですか?」
「うん…ありがとう。背中が汗でべっとりしてるよ」
「あら、お拭きいたしましょうか?」
「なっ!だだ大丈夫だっ!」
「…冗談ですわよ。まだ起き上がらない方がよろしいかと。わたくしが湯浴みの準備をするように伝えて参ります」
「…いつもすまない」
「いいえ、もう慣れましたわ」
「………そうか」
呆れたように溜息をついて、オリヴィアは部屋を出て行った。
「…ああ、今日も婚約解消を言い出せなかったな…」
僕はオリヴィアの足音が遠ざかるのを確認し、ぽつりと呟いた。
僕の名前はルーカス・ベルモンド、12歳。ベルモンド公爵家の一人息子だ。
両親は中々子供に恵まれず、ようやく誕生した僕は、ひ弱で病弱な子供だった。目に入れても痛くないとでも言うように、両親や屋敷の使用人からは溺愛され、過保護に育てられていた。
先程部屋を出て行ったのは、オリヴィア・アレス。僕の婚約者だ。
僕とは対照的に、快活で勝ち気な12歳の少女オリヴィアは、アレス公爵家の令嬢だ。5人兄妹の長女で、お嬢様らしくなく武芸に精通していた。
オリヴィアはいつも、ふんわりとカールしたブロンドの髪をハーフアップにしてリボンで纏めている。
そんな綺麗な髪をふわりと揺らしながら、オリヴィアが戻ってきた。
「すぐに湯浴みの準備が整うようです。わたくしは今日はこの辺でお暇いたしますわ。ルーカス様、お大事になさってください」
「いつもすまない」
「…いえ、とんでもございません」
オリヴィアはキュッと眉間に皺を寄せると、緩やかにお辞儀をして帰ってしまった。
◇◇◇
「オリヴィア!」
「はい、何でしょう」
「僕との、こっこっこんや、こんっこんや…」
「まあ…恐れながら、夜のお誘いにはわたくしたちは幼すぎるかと…」
「なっ!ちち違うぞ!そんな破廉恥なこと〜〜〜…!!あぁ…」
「あら」
オリヴィアの言葉にボンッと顔に熱が集まった僕は、目を回してそのまま意識を手放した。
「……………………本当にすまないと思っている」
詫びの言葉に対する返事は、大きな溜息だった。
「以前から申しておりますが、少しはお身体を鍛えてはいかがでしょう?」
「うぅ…それはそうなんだが…」
「わたくしが指南してもよろしいのですよ?毎度介抱する身にもなってください」
「ぐぅ…」
オリヴィアの正論に、僕はぐうの音しか出なかった。
この国公爵家はベルモンド家とアレス家の2家門だけだ。
公爵家の長子同士の婚約は、流れるようにスムーズに取り纏められた。僕たちがまだ5歳の時だった。
生まれた頃から共に過ごすことが多かった僕たち。ある日、オリヴィアの後を追って庭で駆け回っていた僕は、ゼェゼェ息を切らして倒れてしまった。その後もそんなことはしょっちゅうで、時には数日間寝込むこともあった。
次第にそんなひ弱な僕に合わせて、オリヴィアとは室内で会うようになった。
本を読んだり、温室で植物を鑑賞したり。お転婆だったオリヴィアは、いつもどこか物足りなさそうに見えた。その頃から、僕はオリヴィアの顔色を窺うようになった。
オリヴィアのつまらなさそうな顔、呆れたような顔、思い出されるのはそんな表情ばかりだ。
「うっ…何だか胃がキリキリする…」
物思いに耽っていると、何だか下腹部がキリキリと痛み出した。僕は呻きながら背を丸めた。
「……胃が痛むほど、わたくしと居るのが嫌なのですね」
「ん?何か言った?すまない、後ろの棚にある胃薬を取ってくれないかな?イテテ」
「…はぁ、何でもございません。胃薬ですね」
何やら大事な言葉を聞き漏らした気がするが、僕はオリヴィアから胃薬と水差しとコップを受け取り、グッと喉をそらせて薬を飲み込んだ。
◇◇◇
「…また伏せっておられるのですか?」
「うん…最近考え事のしすぎか、夜も眠りが浅くて」
自室のベッドから体を起こし、僕はオリヴィアを迎えた。
相変わらずのひ弱さだと、きっと呆れているのだろう。オリヴィアの眉間に皺が寄っている。
「そうですか。あら、この子は…」
オリヴィアは慣れたようにベッドの脇にある椅子に腰掛けると、いつもはそこにはない鳥籠へと視線を向けた。
「ああ、カナリアだよ。最近寝込みがちだから、僕の話し相手になってもらっているんだ」
「まぁ。そうでしたか。それならわたくしを呼んでいただければ…」
「いや!オリヴィアにこれ以上迷惑はかけられない」
「………迷惑、ですか」
そう、本来活発で天真爛漫なオリヴィアは陽の光の下で元気に過ごす方がいいに決まっている。
婚約者だからといって、彼女を狭い室内に閉じ込めるわけにはいかない。このカナリアのように。
カナリアの少しオレンジがかった羽根の色は、オリヴィアの瞳の色に似ている。
何故だかその色を見ていると、心が落ち着いてーーー
「オリヴィア、僕との婚約を解消して欲しい」
自分でも驚くほど冷静に、ずっと言えずにいた言葉が口に出ていた。
「………ふふっ、やっと言えましたね」
「えっ…?」
「分かりました。婚約解消いたしましょう」
激昂されるか、はたまたいつものように呆れた顔をされるか。そう思っていたのに、オリヴィアが見せたのは、驚くほどに穏やかな笑顔だった。だが、そこには少し物悲しさが滲んでいるように思える。
落ち着いたオリヴィアの態度に、逆に僕が狼狽えてしまう。
「も、もしかして、僕が言おうとしていることに…気づいてたの?」
「ええ。ずっと、婚約解消を言い出そうとしているのは分かっておりました」
何とも情けない話じゃないか。申し訳なくて頭を抱える。
「うぅっ…すまない」
「ルーカス様は謝ってばかりですわ」
「す、すまな…いや、なんでもない」
「まったく、わたくしが居なくなったら、誰が好き好んで伏せったルーカス様の介抱をするのでしょう」
「う…屋敷の使用人や両親にしてもらうしか…」
「はぁ…新しい婚約者候補はいらっしゃいますの?そうですわね…リリー様、マーガレット様、それにローズ様。どの方も由緒正しいお家柄ですし、ルーカス様にふさわしい淑女ですわ。皆様たいへん美しく、わたくしとは違ってお淑やかで控えめで…一緒にいても胃を痛めることなく穏やかに過ごせるのではないでしょうか」
オリヴィアが挙げたご令嬢は、社交界でも評判の淑女達であった。だが。
「うーん、オリヴィアが一番綺麗だと思うし、一番一緒にいて楽しいと思うんだけどなぁ…」
「はぁっ!?今婚約解消を申し出た相手に、そんなこと…おっしゃらないでください!」
「え?あっ、口に出てた!?…って、オリヴィア顔が赤いけど大丈夫?具合でも悪いの?」
「〜〜〜っ!平気です!」
口を尖らせてそっぽを向くオリヴィア。ほら、そんな仕草もいちいち可愛い。
「だって、僕はこんなにひ弱だし、元気なオリヴィアの足枷になりたくないんだよ」
僕は、そっと手を伸ばしてオリヴィアの白くて細い手に触れる。ピクリと反応するが、振り払われなかったので内心ホッとした。
「昔は調子がいい時は外で会うこともあったけど、最近はずっと室内で会っていただろ?僕と居ると、きっとこの先も屋敷の中で過ごすことが増える。そんなことをしたらオリヴィアが可哀想だよ。君は籠の中にいるんじゃなくて、自由に空を飛び回る方が似合っている」
籠の中のカナリアが、チチッと嘴を鳴らし、首を傾げている。
「………勝手にわたくしを可哀想な女扱いしないで」
「え?」
「わたくしはっ、ルーカス様の介抱をしている時も、他愛のない話をしている時も、いつも楽しかったです。他愛のないやり取りをするのが心地良かったです。ルーカス様と過ごす時間はとても有意義でした。……ですが、わたくしの存在がルーカス様の体調に支障をきたすのであれば、やはり身を引くべきでしょう?」
そう言って笑ったオリヴィアの笑顔は、これまでに見たことがないぐらい儚かった。今にも消えてしまいそうな、そんな悲しい笑顔だ。
「だ、だって…そんな、いつもオリヴィアは溜息をついたり呆れた顔をしていたじゃないか」
「…素直じゃないだけですわ」
「そんな…だって、僕は本当つまらない人間だから…オリヴィアには釣り合わないよ」
自分で言っておいて、グサリと棘のように、胸に言葉が突き刺さる。またキリキリと胃が痛み出した。
胃が痛むのはいつも、自分に辟易としている時だ。
自分に自信が持てなくて情けなくて、オリヴィアに申し訳なくてーーー
「はぁ、何をおっしゃるのやら。確かに運動に関してはわたくしが優っているでしょう。ですが、あなたは外に出られない間、それはもうたくさんの書物を読んでいたではありませんか。わたくしの知らない国の歴史や神話、外交や戦闘戦術についてまで…ルーカス様とのお話は本当に学びが多く、あまりの博識さに無知な自分が恥ずかしくなる程でしたもの」
俯き、黙り込んだ僕に、オリヴィアはいつもの呆れ顔を作る。が、どこかその表情は優しかった。
もしかしたら、僕の存在がオリヴィアにとってマイナスになると思いすぎて、オリヴィアの表情までも暗いフィルターを通して見ていたのかもしれない。霧が晴れたような頭で思い起こすいつもの呆れた顔。その時のオリヴィアは、とても和やかな目をしていた。
僕たちは、いつも一緒にいながら必要な会話が全然できていなかったのだと今更ながら気づかされる。
「…オリヴィアのせいじゃないよ。僕の体調が優れないのは、全部情けない自分自身の問題だ」
「あなたは情けなくなんてありません。少しばかり自己評価が低すぎるのです!あなたの知への探究心。一度読んだら忘れない凄まじい記憶力。学業において類い稀なる才をお持ちなのです。…ですから、頭を使うことはあなたが、身体を動かすことは私が担えば、無敵だと思いませんこと?」
頬を染めて伏し目がちにこちらを見ているオリヴィア。
僕は心につっかえていた物が、溶けて無くなるような感覚がした。
「………何だかそんな気がしてきた」
「そうでしょう?ですから、わたくしにふさわしいのはルーカス様しかおりませんし、ルーカス様に付き合えるのもわたくししかおりませんの」
「…ふふっ、分かった。ごめん、さっきの話は聞かなかったことにして?」
「あら、さっきの話とはどのお話のことでしょう?たくさんありすぎて分かりませんわ」
先ほどまでしおらしかったオリヴィアは、すっかりいつもの調子に戻っていた。
「…君ってば本当に意地悪だよね」
「うふふ、お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてないんだけど…まったく」
こんな些細な会話にも幸せを感じる。
僕は、重ねたままの手に指を絡めた。すると、驚いたようにオリヴィアは目を瞬かせた。
「オリヴィア、改めて僕の婚約者となり、生涯僕を支えてくれませんか?」
「……ええ、喜んで」
僕の申し入れに、オリヴィアは花のような笑顔で返事をしてくれた。
その表情があまりにも綺麗で、僕の胸がどきりと高鳴った。
「うっ、何だか今度は胸が痛くなってきた…」
「えっ!?大変!医者を呼んで参りますわ!!ルーカス様は横になってください!」
「うう、頼む…」
まもなく到着した医者による問診を受け、病気ではないと診断されてホッとしたのだが、診察をしてくれた医者は何だか頬を緩めて僕たち二人を見比べていた。そして何も言わずにうんうん頷いて、一人納得している様子だった。帰り際には「若いっていいなぁ…」と言って出て行った。謎だ。
「身体に問題はなさそうですね。精神的なものかしら…そうね、そっちも今後は鍛えていかなくちゃ…」
「お、オリヴィアさん…?」
「よし、早速明朝から特訓を始めましょう!やはりルーカス様はもう少しお身体を鍛えなければなりません。いえ、心身共に鍛え直して差し上げます!公爵様にはわたくしが話をつけておきますので!…うふふ、いい竹刀を仕入れなきゃ。じゃあわたくしは帰って明日からの準備を整えます!ごきげんよう!」
「あ、ああ…」
オリヴィアは部屋のドアを開けたかと思ったら、ちらりと振り返り、立ち止まった。そして、頬をひくつかせて手を振る僕をじっと見ている。
なんだろう?やっぱりオリヴィアは可愛いな、なんてぼんやりしていたら。
テテっと走り寄ってきたオリヴィアが、ベッドの上に身を乗り出すと…
チュッと可愛い音を立てて、僕の頬にキスをした。
「〜〜〜っ!?」
顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせる僕を置いて、
「…では、また明日の朝」
オリヴィアは忙しなく部屋から出て行ってしまった。
その耳がほんのり赤くなっていたのは気のせいだろうかーーー
「うっ、何だかまた胸が苦しい…何だよこれ…」
それに、明日からはオリヴィアによる特訓が始まる。恐らく手加減なしにコテンパンに叩きのめされるのだろう。
「ふぅ、これからは胃薬じゃなくて、傷薬や軟膏を用意しておかないといけないな」
なんて独り言を呟きながらも、僕の表情はとても晴れやかだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
ふと思いつきで書き始めたお話でした。
本文ではルーカス目線のため、記載できておりませんが、
ルーカスは黒髪、薄紫の瞳、色白で儚げな美少年というイメージでした。
もしよろしければ、いいねや下の★★★★★をポチッと押して応援していただけると、
今後の執筆の励みになります!
それでは、また別の作品でお会いできることを心待ちにしております。