死霊の王と、亡国の姫君の小姑軍団
口を動かしていても空気を震わせないその声は、頭の中に直接響いてくる。
『よろしいですか姫様、淑女を極めれば、姫様はもっとお可愛らしくなられますよ。
――姫様、可愛いは無敵なのでございますっ!!』
「はい、マルタ、わかりました」
威厳を漂わせ、拳を握って力説する老女に、みんなのお姫様は一生懸命まじめな顔をして頷く。
広間に差し込む爽やかな光の下では、両者の姿の差異が、くっきりと際立っていた。
死の直前の姿で永遠に凍り付いた老女はおぼろげで、亡国の女官装束に、彼女の背後にある壁紙の模様が浮かび上がっている。
一方、死せる老女と向かい合う幼い姫君は、白金の髪に光の冠を輝かせ、大きな青い瞳をきらきらと煌めかせていた。
「――息子よ、うちのお姫様は今日も天使だな」
『姫様は明日も明後日もずっと可愛らしくいらっしゃるわ、この馬鹿領主。
さっさとこの書類を片付けんか、姫様のためにっ!!』
「……」
その滅びに加担した亡国から、自分だけのお姫様を拾ってきた騎士に、当の亡国の宰相であった老人が、冷たい声でツッコミを入れた。
死者と生者が入り乱れる、平和と言えば平和な光景に、この事態の原因となった少年は、何も言えずに曖昧な笑みを浮かべる。
お姫様を守るのが夢だった騎士は、滅んだ国で彼だけのお姫様を拾いました。
そして、お姫様には王子様も必要でしたので、騎士は、死霊を統べるお城から王子様を拾ってきましたとさ。
――ところで、お姫様の周りには、実は亡霊な小姑軍団がいたのです。
死と再生の神から恩寵を与えられた王子様のおかげで、誰にも見えなかった小姑軍団は、生きているみんなと話せるようになったのでした。
死と再生を司る神に仕える帝国の皇族は、地上に留まる死者を視る目を持ち、死者を統べる。
不死に狂った老帝によって捻じ曲げられてしまったが、本来、生者と死者の無念を繋ぎ、あるいは、死者の力を借りて今を生きる民を護るのが皇族の責務だ。
老帝の末子の庶子であり、紙切れ一枚の勅令で、ぺらりと成り上がり辺境領主の入婿にされた少年であったが、皇族の一員であることには変わりない。
帝国が滅ぼした亡国の姫君に傅く死者たちの無念を、せめて僅かでも慰撫できればと、皇族の血によって受け継いだ異能を行使したら、――なんかこうなった。
片や、帝国に最期まで抗い、戦える者は一兵卒まで討ち果て、戦えぬ者は尽く自刃した小国の亡霊たち。
片や、老帝の命に従い帝国の敵を征服してきた騎士と、そんな彼を領主と仰ぎ、帝国の支配を唯々諾々と受け入れた辺境の住民たち。
冷静に考えて近づけてはいけなかった両者は、少年の軽率な異能の行使により、事故のようにかち合う羽目になったのである。
そして、当然のように勃発した大騒動の結果、……『うちのお姫様は可愛いっ!!』で彼らは一致団結し、今に至る。
――ちなみに、当たり前であるが、亡国の死者たちは、帝国憎しの気持ちでいっぱいであった。
しかし同時に、死せる民たちにとって、帝国への復讐よりも、国の全てを引き換えに老帝から逃がそうとした、彼らの姫君の幸福がずっとずっと大事であったのだ。
大切なお姫様の教育環境や、脳筋騎士による大雑把な領地運営に、特に亡国の上層部は、口を出したくて仕方がなかったのである。
そして、少年の異能の行使を待ちに待った好機として、死者たちはこれ幸いと生者の営みに首を突っ込みだした。
小国とはいえ、腐っても国を動かしてきた面々だ。
武名はあっても学はなかった騎士領主よりも知識も経験もあるものだから、亡者軍団は生者の尻を叩きながら、辺境の政の改善と領主の再教育も行っているのであった。
なお、亡国宰相の入れ知恵のおかげで大幅に業務効率が上がったため、生活水準が向上した役人や民衆は、死者たちを気味悪がるどころか、とっても感謝している。
これが帝都ならば、盛大な謀略合戦の幕が上がるところだ。
帝都の魑魅魍魎を知る少年から見れば、亡き国の死せる民たちも辺境の民衆も、みんな善人すぎである。
仕える主君と滅びを共にした女官長による、お姫様の淑女教育は休憩に入るようだ。
うちのお姫様の顔を見れば、不眠不休で働けるっ!! という、領主の駄々で広間の片隅に設置された執務用の机に、小さな姫君が楚々とした足取りで寄ってくる。
衣服の手入れまで駄目出しをしまくった、女官長の使用人教育の賜物で、お姫様の姿は、初め出会った時よりもずっと貴婦人らしい。
幼い少女がドレスをつまむ仕草も、実に堂々としていた。
「エル、いっしょに、おちゃしましょう」
「アンジェ、養父上も一緒にお茶をしちゃだめかな?」
今ここで仲間外れにしたら、無言で号泣する領主が、一日中使い物にならなくなる。
自分の王子さまと慕う少年の申し出に、小さなお姫様は、ぷくっと柔らかな頬を膨らませた。
「エル、おとうさまは、わたしのきしさまなのよ。
きしさまは、おひめさまとおうじさまのおちゃかいを、まもるひとなの」
「任せろ、オレのお姫様っ!!
お前の王子さまとのお茶会は、誰にも邪魔させないからなっ!!!」
おそらく、小姑軍団によるちょっとした意趣返しだろう。
親指を立てながらダーッと涙を流す、騎士領主の横に陣取っていた亡霊宰相は、おぼろげな死者の身体でもよく分かるほど、勝ち誇った顔をしていた。
王宮に仕えていた死者たちのしごきを乗り越えた使用人たちが、執務用の机の前に、テキパキとお茶会の用意を整えていく。
『姫様、本日のタルトの木苺は、姫様のために見つけたのですよ。
――まあ、姫様のオウジサマに分けてあげてもいいですけどっ!』
『オウジサマはひ弱だから、もっと食べて大きくならないといけませんよね。
――姫様のためにっ!!』
使用人の教育状況の採点のため、控えていた死せる侍女たちが厭味ったらしく囀る。
が、姫君にあることないこと吹き込んで少年をのけ者にさせないし、生者をそそのかして毒を入れたりもしないので、善い人、以外の感想が思い浮かばない。
にこにこと光を振りまくお姫様とともに、お茶会の席に着いた老帝の孫皇子は、生者に混じる死者たちに対しとても生温かい気分になった。
……こんなんだから、うちのお姫様の旦那に憑いてきた亡霊軍団は、大変ツンデレな良いひとたち、という誤解が辺境に蔓延するのである。
◆◆◆
鬱蒼と生い茂る木々の枝葉は、青白い月光もささやかな星の瞬きも遮り、夜になお深い闇を生む。
それでも、少年の紫黒の双眸には、今も息づく命の煌めきが、しっかりと映し出されていた。
『若、余計な力みはいけません』
亡んだ小国の亡霊たちよりも寡黙な、そして、真実帝都から少年に付き添ってきた死せる老将が、そっと助言を落とす。
子供の力でも引き絞れる短弓が、その機能を十全に発揮して。
矢羽根が風を切り、――少年の視界で、光が一つ途絶えた。
「お見事」
おどけた称賛は、少年がたった今殺した骸の傍らで響いた。
森に凝る闇の中、とらえどころのない容貌の男の姿は、少年の目には、黒い背景から奇妙に浮かび上がって見える。
「危なかったのは、そこのそいつだけですよ、若君」
男は、取り出した異国風の煙管で出来立ての死体を指示し、そのまま、飄然とした仕草で煙草に火を付けた。
ふわりと漂う煙草の香りが、新しい死の気配を覆い隠す。
『若、お早く』
促す老将に頷きを返し、少年は微かに震える指先で、自分が殺した人間の額に触れる。
ずるり、と。
死と再生を司る神の恩寵により、新鮮な遺骸から、蛹の羽化のように死霊が産まれ出る。
それは、少年に隷属する、死霊の王の奴隷だ。
己に茫洋とした眼差しを返す人形に、少年は、努めて感情を排除した命を出す。
彼のお姫様と辺境の民を護るのに、――こんな事はしたくなかったなんて、少年の甘えは要らないのだ。
「答えろ、知りえていること全てだ」
『諾』
――どうして、生と豊穣を司る女神を奉じる小国が、攻め入る帝国を前に、一国丸ごとの自害を選んだのか。
この有様が、その答え。
死と再生を司る神に仕える帝国の皇族は、地上に留まる死者を視る目を持ち、死者を統べる。
正確には、帝国の皇族は、自らの手で命を奪った人間の魂を、支配する。
……だから、不死に狂った老帝から、たった一人、生と豊穣を司る女神に愛された姫を隠しきるには、皇族の手にかかる前に、他の全ての民が死んでおくしかなかったのだ。
そして、命じられるままに死霊が語った情報に、少年は唇を噛む。
辺境に伸ばされる不穏は、老帝への反逆を企む少年の父親の影響だけでなく、辺境に婿入りした皇子自身のせいでもあったから。
「相変わらず、怖いですねぇ」
『控えろ、小僧』
ちっとも怖そうに見えない顔で、皮肉気に口の端を吊り上げる男に、少年の忠義な老臣が凄む。
「いいよ、爺。
僕がディーノに望んだのは、違うことだから」
死せる老将の自分への気遣いを知りつつ、少年は静かに首を振る。
少年が、契約を交わした男に求めたのは、老帝が欲する盲目的な従属なんかではないのだ。
ふと、何かに気付いたように、少年が背後を振り返る。
「――ああ、うちの姫様が、王子さまをお呼びらしいですねぇ」
苦笑交じりの男の言葉と同時、全身から不満を垂れ流した一人の死者が、木々を突っ切って姿を現す。
暗がりでくっきりと輪郭を保った亡国の騎士は、少年の傍らでぼうと立つ死霊を見て、死霊の王に畏怖と嫌悪の目を向けた。
『うちの姫様を泣かさないで下さい。
……一緒に寝ると、貴方を探していらっしゃいます』
「そう」
つっけんどんな死者の言葉に、少年は淡い笑みを零す。
ひたむきに自分を慕ってくれる小さなお姫様の存在が、少年にとってどれほどの救いになっていることか。
――だから、少年が濁り切った汚泥に身を浸そうとも、眩い少女には、幸せな夢を見ていてほしかった。
『――だいたい、ディーノが死ななければっ――』
「すまなかった」
忌々し気な騎士の、耐えかねたような悪態に、絞り出すような男の謝罪が重なる。
「――俺が、悪かった」
悔恨にすり減った男の声音に、死せる騎士は顔を背けた。
本当は、小国が亡んだその日に、男が姫君を連れて逃げるはずだった。
――生前、いつ死んでも構わないと、皮肉気に嘯いていた男は、帝国の密偵と比べても屈指の腕を有していたから、死にゆく故国から大役を託されて。
だが男は、死にたくないと――死ぬわけにはいかないと、心底思った瞬間に、唐突な病の形をとってやってきた死神に、大鎌を振り下ろされたのだ。
帝国に奪われた彼らに言えることなど無いから、皇族の少年は、情報提供の役目を果たした死霊に手を伸ばす。
【還れ、神の御許へ】
死霊の王の喉から発せられたのは、己に尽くした臣下への労いで、去り逝く死者への祝福だ。
死と再生を司る神に仕える帝国の皇族の恩寵は、生者と死者のためのもの。
彷徨える死者を導くのもまた、皇族の責務で、――しかし、無念に囚われた死者を解放するための力が、人の欲望によって捻じ曲げられて久しかった。
ふっと、気の抜けたような笑声が、少年の耳に届く。
「弔いは任されますから、姫様のとこに行ってください、若君。
――今の姫様を笑顔にできるのは、俺らではなくて、若君ですから」
少年に申し出る男の、黒緋に変質した瞳が、柔らかく細められていた。
痛烈な未練を残して死んだ男は、それゆえに、死霊の王との特別な契約を結び、生者さながらに現世に干渉できる。
皇族の異能をもってしても、おぼろな身を晒すだけのただの亡霊にはできない、骸の埋葬も、死霊の王の直臣たる男には可能だ。
『……でんか、オハヤク』
「うん」
分かりやすく不貞腐れる亡国の騎士に頷くと、死者を従わせ、王子さまは彼のお姫様の下へ歩き出す。
魔狼に月が食い尽くされたような闇の中でも、死霊の王が帰る場所は確かだった。
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