夏の亡霊
4歳の、夏休みの話をしよう。
田舎の叔母の家に遊びに行った時のことだった。
じっとしていることが出来ない子供だった私は、ウルトラマン人形片手に、蝉の声響く田圃を駆け回っていた。
走り回るのも飽き、道端にしゃがんで、捕まえた油蝉とウルトラマンを戦わせていた時
「かわいいね」
頭上からぬるりと、長く黒い髪が、カーテンのように顔の左右に垂れる。そこから降ってきた声は何処かねっとりとし、見もしていない口元の歪みが想像できた。
「あぁ、かわいい、かわいい…」
女は私を頭上から覗き込みながら、その歪んでいるであろう唇から、同じ言葉を繰り返す。
「ねぇ」
女の声が左の耳から、鳴る。
体が強張り、手元の人形と、もがき続けるセミから視線を動かせない。
「うちにおいでよ」
背後からびゅうと生暖かい風に吹かれ、垂れていた長髪が乱れる。
空気が動いた。
今しかない。
右手で摘んでいた蝉を、女の声が聴こえた左後方に思い切り投げつける。蝉は何事かも分からず、女の顔の前でバタバタと羽を動かし、暴れ回った。
私はそれを見る事もせず、一気に前方に駆け抜けた。
「あぁっ、このっクソガキぃ!」
今までの猫撫で声から一変。野太く、嗄れた怒鳴り声が後方かなたから聞こえた。
あぁ、追いかけてくるかも。
そう思った時に、私は足を緩めることなく首を曲げ、ちらりと後方を見やった。
白いワンピース。縁の広い、白い帽子。足は裸足で、手には投げつけた油蝉が握り潰されていた。
女の顔がこちらを向いて、ニヤリと笑った、ように見えた。その口の隙間から見えた歯はまばらで、歪んだ笑みで引きつった皮膚は、皺だらけだった。
そこから私は無我夢中で叔母の家まで駆け、叔母の膝の中でわんわん泣いた。
要領をえない子供の説明を我慢強く聞いてくれた叔母の顔が陰り、泣きじゃくる私の顔を見据え、こう言った。
「もうあの人に、関わっちゃいけないよ」
それ以上は、何も教えてはくれなかった。
あれは幽霊なのか。それとも人間か。
どちらにしても、あの人は子供を欲しがり、あの茹だるような夏空の下を、彷徨っているのだろう。
今も、昔も。