第5回 『世界で一番、俺が○○』
その日、部室に顔を出してみると、珍しく僕が一番乗りで他にだれもいなかった。鞄を部屋の隅のキャビネット下に置き、室内を見回す。
何千冊もの漫画があるのだ。ひまつぶしにはまったく困らない。……とはいえ、ここまでたくさんあるとなにを読もうか迷う。
あらためて、世の中には僕の知らない漫画がいくらでもあるのだな、と思う。二百歳まで生きて寝食以外のすべてを漫画読みに捧げてもたぶん読み切れないだろう。ていうか新作もどんどん描かれ続けるわけだし。気が遠くなるような幸せな絶望感だ。
しかし、背表紙だけ眺めていても色んなデザインがあるもんだ。フォントも様々、背景も絵の配置も作者名や巻数の入れ方も様々。
そんな中、シンプルすぎて逆に目立つ背表紙の群れがそこかしこにある。
白地に赤の極太フォント。花とゆめCOMICS、マーガレットコミックス、りぼんマスコットコミックス、ちゃおコミックス……。
背後でドアが開く音がした。
「こんにちは。あっ、弘夢さん!」
燈子だった。僕のそばまで寄ってきて、僕の視線をたどるように書棚を見る。
「お好きに読んでいいんですよ。ここにある漫画すべて、私たちが自信を持っておすすめできるのしか置いてませんから、絶対に面白いです」
「ああ、うん。読ませてもらいます。……でも、こんなにいっぱいあるとどこから手をつけていいかもわからなくて。どうせなら、なるべく自分の趣味じゃなさそうなのを読んで幅を広げたいと思ってるんだけど」
「それで少女漫画ですか?」
僕が注目していたのがどのあたりなのか、わかっていたらしい燈子が言う。
「うん。でも、なんかこう、背表紙見てるだけで心理的障壁が……。なんで少女漫画ってみんな白地に赤なんだろ」
「最近はそうでもないですよ。特に対象年齢がちょっと高めのレーベルだと色んなデザインにしてます」
燈子はそう言ってフラワーコミックスなどを何冊か指し示してくれた。なるほど、言われてみればたしかに。
「でもやっぱりこの白地に赤が少女漫画! って感じはありますよね。過去の名作なんてだいたいみんなこれですし」
「燈子も少女漫画すこしは読むの?」
「読みますよ!」と燈子はやや不機嫌そうに答える。「すこしはってなんですか、私だって乙女ですし、昔から少女漫画は息をするようにたしなんでいます。一流を志す身ですから弘夢さんがお読みになるようなのはたいがい履修済みだと思います。どんなのを読んだことがあるんですか?」
「うーん……ほんとに超有名なのを押さえただけだから……『フルバ』とか」
「ああ! 私も大好きです」と燈子。「名台詞のオンパレードですよね。『まるでそびえ立つクソだ!』とか『逃げる奴はベトコンだ! 逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ!』とか」
「えええええ? ちょ、な、なんの話してんのっ? 『フルバ』だよ?」
「『フルメタルジャケットの罵詈雑言』の略ですよね?」
「そんな略し方しねえよ! 『フルーツバスケット』だよ! ていうか漫画の話だったでしょうが!」
「あ、ああ、すみません」と燈子は顔を赤らめる。「『フルーツバスケット』ですよね。もちろん読んでますよ。私も大好きです。家族を失くした女の子が主人公で、完璧超人のイケメンに好かれて――」
「そうそう」
「――賭けトーナメントに参加して絶海の孤島に連れてこられて腹黒い新興宗教の教祖や冷徹なヒトラー信奉者とギャンブルで戦うんですよね、億単位の金をちらつかせての買収と裏切りの連鎖でだれもが疑心暗鬼になる中で見事な逆転の一手で敵を地獄に突き落として」
「それは『LIAR GAME』の椅子取りゲーム編だよッ」
たしかにフルーツバスケットって椅子取りゲームの一種だけどもっ?
「あっ、すみません、私また勘違いしていたみたいで」と燈子は恥ずかしそうに両手を口に当てる。「思い出しました、はい、『フルールバスケット』。あの、十二支がモチーフのキャラが出てくるお話ですよね」
「そう、それ!」
「それでネズミの人とイヌの人が選挙で争うことになって」
ん? そんなエピソードあったか?
「その裏で、再起不能なほどの状態になったゴンを救うためにキルアがアルカを連れ出してそれを追いかけるイルミが針人間を大量生産して大虐殺を」
「それは『HUNTER×HUNTER』の会長選挙編ッ! 十二支しか合ってないッ!」
「あっ、そうでした、またお恥ずかしい勘違いをしてしまいました……」
わざとやってるよね? 勘違いじゃないよね?
「『フルーツバスケット』、はい、もちろん読んでいます。本田透くんかっこいいですよね」
「本田透は女の子だよッ!」
読んでないの確定! いま後ろ手にスマホでちょっと検索して知ったかぶりしたの見えてたからな!
「ごめんなさい、ギネスにまで載っているような有名作は読んだら負けだと思って……」
燈子はしゅんとして告白するのだが、なにと戦ってるのかさっぱりわからん。
「知ったかぶりをしようとするとどうしても自分の大好きな血なまぐさかったりギャンブルだったりする方向に行ってしまって」
その傾向があるのは知ってる。今のは方向どうのって話じゃなかったけど。
でも燈子はめげずに顔を上げて語調を強める。
「あっ、あの、でも、総合的に弘夢さんよりも少女漫画方面に明るいのはほんとうだと思いますから、なんでも訊いてくださいね! ……その疑わしい目はなんですかっ」
「この流れで信用してもらえると思う方がどうかしてる……」
「わかりました、今日も弘夢さんに一作お薦めしますからそれで判断してくださいっ」
燈子は意気込んで書棚へと向かい、腕組みして行ったり来たりしながらなにかぶつぶつ言い始めた。申し訳ないがあまり期待できない。
「……決めました。今日は水城せとなをお薦めすることにします」
振り返って燈子が言う。
「みずきせとな?」
聞き憶えのない作者名だった。
「代表作は『失恋ショコラティエ』ですね」
こちらも聞いたことがない。しかしタイトルからして迸る少女漫画感だった。失恋でショコラティエって。
「自分を振った女性を振り向かせるためにパリに渡って一流のショコラティエになって日本に戻ってきた超イケメンがお店を開いて、そこに様々な男女の恋愛模様がからんで……というスイーツラブコメです。松本潤・石原さとみ主演で月9ドラマ化もされています」
スイーツ! ラブコメ! 嵐主演で月9!
「……ごめん、もう事前情報だけで胸焼け起こしそう……。たしかに自分じゃ絶対に手に取らないタイプの漫画だけど、今日のお薦めはそれなわけ」
「いいえ。たしかに『失恋ショコラティエ』は漫画としてもしっかり面白いですけれど、ジャニーズドラマ漫画なんて薦めたら一流の名が廃ります!」
なんかちょっと安心してしまった。
「今日お薦めするのは水城せとなの最新連載作である、これです」
燈子は書棚から何冊かを抜いてきて僕の前のテーブルに広げた。
『世界で一番、俺が○○』。
眼鏡のイケメンに顔を寄せる美少女。ふんわりと暖かみのある線に、唇の柔らかさを感じさせる表情。ううむ、少女漫画だ。血まみれ欲まみれ大好きな燈子だから、またぞろそういう漫画を薦めてくるものかと疑っていたけれど、認識を改めないといけないか。
「中学校からの友人同士である仲良し三人組男子が主人公です。この三人の間の空気がすごくいいんですよねぇ。一人はニート兼ヒモ、一人はアニメーター、一人は外資系ばりばり、それぞれまったくちがう世界に住んでるんですけど、週に一度行きつけのカフェに集まってとりとめもなくおしゃべりするんです。お互い愚痴も言い合うんですけど締めくくりにさらっとオチをつけて流すのが常で、しかも飲み屋じゃなくカフェってところがいいですよね、おしゃべりが爽やかなままでずうっと時間が流れていって、なんていうんでしょうか、草食系を通り越して炭酸水だけ飲んで生きてる系といいますか」
「ふうん。だべるだけの漫画?」
爽やかにした『THE3名様』みたいなのを想像してしまったけれど、燈子は首を振る。
「いえ。その三人の集まりに、あるとき不思議な女の子がいきなりなんの前触れもなく乱入してくるんです。この娘は、ものすごい力を持つ謎の機関のエージェントで、名前がなくて通し番号だけを与えられていて、773番なので三人組男子から『ナナミちゃん』って呼ばれるようになるんですよね。このナナミちゃんがそれはもう可愛くて可愛くて可愛くて、最初はただのゲームの進行役で終わるのかなと思ったら完全にメインヒロインで私はもう大歓喜大感謝大感激でした」
「はあ。表紙の娘だよね? ていうか、あの、どういう話? ゲーム?」
「あっ、そうそう言い忘れてました。その謎の機関は世界中にエージェントを派遣していて、ランダムに選ばれた人間にゲーム参加を持ちかけるんです。どういうゲームかというと、参加者は三人でひとつのグループとなって、その三人のうち、規定期間内に最も不幸になったプレイヤーがゲーム終了時になんでも願いを叶えてもらえる――というものです」
不幸?
え、あの、なんか雲行きが怪しくなってきたんだけど?
「こんなゲームを提案されても三人組はわりといつもの感じで『損がないなら参加しない手はないじゃん?』ってエントリーしてしまって、でも特に代わり映えのしないいつもの一週間をそれぞれ過ごして週末にはいつものカフェにあつまってとぼけたトークを繰り返して、変わったことといえばその座にナナミちゃんが加わって、三人のうち一番クールな眼鏡イケメンといい感じになって、ニート兼ヒモがこの二人をくっつけようとしたりしてものすごくほんわかふわふわした雰囲気で話が進むのかぁと思っていられるのも二巻までですッ! 世の中そんなに甘くないんですよッ」
なんでいきなり怒ってるんだよ。まあ、うん、やっぱりか。だと思ったよ。燈子を一瞬でも信じた僕が馬鹿だった。
「不幸というのはなにか大切なものを失うことであり、自分にとって大切なのはこのカフェでだべっている友人たちだ――と気づいてしまったニート兼ヒモさんがそれはもう言語に尽くしがたいほどえぐい手を打ってきて、そこから先はあれよあれよと崩壊して全登場人物が闇の中へと真っ逆さまです。私の愛するナナミちゃんもあんな目やこんな目に遭いまくり、最新刊では衝撃の事実も発覚して、さすが『放課後保健室』で見事なデスゲームかつSFミステリ的カタストロフを描ききった水城せとなです、今回もきっとすさまじいラストシーンを見せつけてくれるにちがいありません!」
「やっぱりその手の話だったのか。……ていうか今気づいたけどこれイブニングKCじゃないか! 少女漫画レーベルじゃないぞっ?」
「はい。今さら気づいたんですか。弘夢さんのお好きな講談社ご挨拶系ですよ。水城せとなの青年誌初参戦作品です」
「雑誌読まないから全然知らなかった……」
肩を落とす僕を見て不安になったのか、燈子は身体を傾けて僕の顔をのぞきこんでくる。
「……あの、お気に召しませんでしたか……?」
「え? いや、そんなことはないけど。読むよ。こういう話大好きだから。薦めてくれてありがとう」
「そうですか!」と燈子は顔をほころばせる。「よかったです。これからも弘夢さんに喜んでいただけそうな漫画を厳選しますね」
家で読むために単行本を鞄にしまおうとして、ふと疑問に思った僕は訊ねた。
「これ、タイトルなんて読めばいいんだろうね」
『世界で一番、俺が○○』という題字を指でなぞる。燈子は不思議そうな顔をする。
「そのままですよ。『世界で一番、俺が○○』ですよね」
「え? いや、だから、この『○○』のところをどう読めばいいのかって」
「『○○』は『○○』ですよ。弘夢さん、発音できてますよ」
「いやだからそれはねっ?」
世界がみしみし軋む音がした。どうやら深くつっこんではいけない問題のようだった。
『世界で一番、俺が○○』
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