保険金殺人
現在から遡る事五年前、九州のほぼ中央、大分県日田市を流れる三隈川で女の溺死死体が浮かんでいたのは、桜のつぼみも膨らみ始めた三月十二日である。
その死体は、日田市中心部にある亀山公園に引き上げられた。
普段は物静かな日田の朝に、けたたましくサイレンを響かせ、日田署捜査一課の田代警部が到着した。
田代は、白髪交じりの中肉中背で、眼鏡を掛けている。
「ガイシャは、光島秀子三十八歳。所持品の運転免許証から割れました」
先に到着していた、富永刑事が田代に報告する。まだ若い、小太りの男である。
「住所は?」
「日田駅の近くなので、ここからも距離はそんなにありません」
「勤め先はわかるか?」
「所持品だけでは、わからないですね」
田代は、次に鑑識課の男に話しかける。
「死亡推定時刻は、大体いつ頃ですか?」
鑑識の男は、少し考えこんだ。
「多分、七、八時間は水に浸かっていたと思うね」
すると、田代は、彼の腕時計に目をやる。
「つまり、今日の深夜〇時か、昨夜の二二時という事ですか──」
「詳しく調べたら、ずれるかもしれないよ」
そう言って、鑑識の男は去っていった。
「富永君、付近の聞き込みだ。今日の〇時から昨夜の二二時に不審な人間がいないか聞き込め」
田代は、そう指示を出した。富永は、大きく返事をして、駆けて行った。
彼は、座り込んで死体を詳しく見ていった。
首のあたりを見たが、縛られた形跡も無く、顔などにも目立った外傷はない。
恐らく、この光島という女は、背後から突如川に突き落とされたのだろう。そのまま陸に上がれず、溺れ死んだに違いない。田代は、そう推測した。
日田署に捜査本部が設置され、事件発生当日の夕方になって最初の捜査会議が開かれた。
まず、富永による現場周辺の聞き込みの結果から報告された。
「昨夜の二三時から今日の深夜〇時までに、亀山公園周辺で不審な人物を目撃した者はいませんでした」
「マル害の所持品についてわかっていることは?」
田代が、そう尋ねた。
「所持品についてですが、カードや免許証の類は持ち去られていません。つまり、物盗りの犯行はないようですね」
「それと、解剖の結果は出たか?」
すると、もう一人の捜査員が出て来て、田代に報告する。
「マル害の死亡推定時刻は、やはり昨夜の二二時から、今日の深夜〇時。死因は溺死で、死体に外傷は無く、争った形跡は皆無でした」
「次に、マル害の身辺についてだ。何かわかったことは?」
「まず職業ですが、光島秀子は、市内の小料理屋『かげつ』を経営しています。そして、光島武という夫が居て、彼は福岡の久留米市にある会社勤めです。あと、川谷優子という独身の妹もいます。彼女は、日田市内の工房で人形師をしていることがわかっています」
これは、富永が報告した。
「何か、トラブルに巻き込まれたという話は?」
「それがですね、興味深い話を聞いたんですよ」
「興味深い話?」
田代は、身を乗り出して、興味津々な面持ちだった。
「彼女は、死亡保険に加入していました。しかも、それは事件の起きるたった三日前に加入したばかりの保険なんです」
「それで、彼女が死んだことで、誰にいくらが転がり込むんだ?」
「夫の武が、八千万円を受け取ることになっています」
「これは、保険金殺人の線もあり得るな──」
田代が、そう呟いた。
「警部、それだけじゃないんです。小料理屋の『かげつ』ですが、秀子の父が始めたお店なんです。その父は五年程前に他界していますが、多額の借金を残して他界したようなんです」
「それで、その借金は今どうなっているんだ?」
「今も残っています。秀子の親しい近所の友人によると、夫の武が会社勤めをしているのも、その借金の返済に充てるためだそうですよ」
「つまりだな、光島夫婦は金に困っていた。そこで、妻に死亡保険を掛けて殺害した上に、多額の保険金を受け取った夫の武は、借金を返済しようとした──」
田代は、自分に言い聞かせる様に言う。すると、彼は、
「夫の光島武をすぐさま引っ張って来い。任意同行するんだ!」
と、富永に命令を出した。
その日の夜には、富永が、光島武を連行してきた。
彼の取り調べは、田代が担当した。
「刑事さん、もしかして俺、妻を殺したと疑われているんですか?」
武は、震えあがりながらそう言った。
「正直に言うと、そういう事だ」
「ちょっと待ってくれ、俺は妻を殺したりなんかしてない!」
武は、机を手で叩いてそう訴えた。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ」
田代は、そう言って武を手で制する。
「しかしね、あなたは、妻の秀子さんが亡くなったことによって、あなたは八千万円を受け取るそうじゃないか」
「それは、俺が保険金目当てで秀子を殺したと言いたいのか?」
「いいか、その保険は、事件のたった三日前に契約されているんだよ。これは、偶然と言えるだろうか──?」
田代が、慎重な口調でそう尋ねる。
「ちょっと待ってくれよ。俺は、保険金については本当に何も知らなかったんだ!家内が、俺の相談なしに、勝手に契約した保険なんだ!」
武は、必死に訴える。
「本当は、君が、妻の秀子さんに保険を掛けたんじゃないのか?」
「第一、俺は何故、妻を殺してまで金を手に入れなければならないんだ!」
「理由なら十分あるじゃないか。君の妻が経営する小料理屋は、借金の返済に追われていたそうじゃないか。聞き込んで調べてみると、君は、その借金の返済のために働いているそうだな。それに嫌気が差した君は、保険金殺人で一気に大金を手に入れようと企んだ──」
すると、武は少し黙り込んだ。
「確かに、借金の返済に追われていたのは事実です。そして、好きで会社勤めをしているわけじゃないことも事実ですよ。だが、妻を殺してまで、一気に借金を返してやろうなんて考えるもんですか」
「じゃあ、アリバイを確認させてもらうよ。昨夜の二二時から、今日の深夜〇時まで、君はどこで何をしていたんだ?」
「俺にはアリバイがあるよ」
武の目が、生き生きとしてきた。
「アリバイだって?」
「昨日の朝、家を出発して、私はそのまま東京に出張へ行きましたよ。帰ってきたのは、今日の夕方。だから、今も帰ってきたばかりです」
武は、どこか、清々しそうな顔でそう言う。
「それは、証明できるのか?」
「ええ、もちろん。乗った飛行機も、出張で行った得意先と宿泊したホテルも控えてありますから、どうぞ調べてください。そして、私の疑いを晴らしてくださいよ」
そう言って、武は、一枚の紙切れを田代に渡した。
田代らは、直ぐに警視庁へ東京の出張先へのアリバイ確認を依頼し、武の乗ったという飛行機の搭乗記録を調査することにした。
丸一日経って、全ての調査結果が判明した。
結果から言うと、光島武のアリバイは、完全なものだった。
事件前日の三月十一日、大分空港を一〇時一〇分に発ち羽田空港へと向かう日本航空六六四便の搭乗者名簿には、確かに光島武の記録があった。
昼間は、東京で得意先に出向いていたというアリバイも確認し、宿泊先のホテルでも、武のチェック・インとチェック・アウトの時間を確認できた。彼が東京から戻ってきたのは、翌十二日の大分空港一六時一五分着の日本航空六六七便。
彼のホテルのチェック・インの日時は、十一日夜七時で、チェック・アウトは十二日朝九時。その間、武が外出した記録はなかった。つまり、妻・秀子の死亡推定時刻である十一日午後二二時から翌十二日〇時、夫・武は、東京のホテルの部屋に居ることが証明されてしまった。
翌朝、田代らは、光島武の身柄を解放せざるを得なかった。
すると、その日の昼、一人の女が捜査本部を訪ねてきた。被害者の妹、川谷優子である。
彼女は、捜査の責任者と紹介された田代を前にするなり、
「姉を殺した容疑者が釈放されたというのは本当なんですか?」
と、問い詰める勢いで尋ねた。
「ええ、まあその通りです。その容疑者にはアリバイがありまして、捜査の結果、そのアリバイが確かなものであると確認されたものですから──」
田代は、少し体裁が悪そうである。
「取り敢えず、掛けてください」
彼は、優子をソファに掛けさせた。
「姉の秀子さんと、夫の武さんの夫婦仲はどんな感じでしたか?」
「独身の私には羨ましいくらいの、とても仲のいい夫婦でした」
「では、夫の武さんが、保険金目当てでお姉さんを殺したというのは、あり得ないとお考えですか?」
「それは──」
優子は、目線を逸らし始めた。
「それは?」
「わかりません。私の姉が、借金で武義兄さんを困らせていたのは事実なんです──」
彼女は、顔を俯かせながらそう言った。
「それで、結論はどうなんです?武さんは、あなたのお姉さんを殺したと思いますか?」
「だから、わからないんです!確かに武義兄さんは、私の姉の借金のせいで会社勤めをしていて、経済的には幸せではなかったかもしれない。その事で、義兄さんは姉を恨んでいたかもしれない。でも、私が見る限りは、とても仲のいい夫婦だったんです。だから、義兄さんが姉を殺したなんて信じられない。だけど、実は私の知らないところでいがみ合っていて、借金のことで恨んでいた義兄さんが姉を殺したかもしれない。私には、もう何が何だか──」
優子の頬には、涙が走っていた。
彼女が捜査本部を去った後、隣でやり取りを聞いていた富永が、
「警部、これからの捜査方針は、どうするおつもりですか?」
と、質問した。
「光島武にはアリバイがあったが、シロと決めつけるにはまだ早いと思っている。もし、彼に共犯がいたとしたら、保険金が自分に転がり込むことを計算した上で、その共犯に殺害を依頼することは簡単だろう。だから、武の交友関係を徹底的に洗っていくつもりだ」
しかし、武の共犯と思われる人物は浮かんでこない。
事件は、現在に至るまで未解決のまま、五年が過ぎた。