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半月と蜂蜜入りホットミルク

作者: 月村彩

颯介は肩から倒れこんだ。

安物のベッドがはずむ。窓から月が見えた。妙に痩せた半月。

やってらんねぇ…と縁の赤くなった目でもう一度体温計を確かめる。数字はまちがいなく三十八・六℃。平熱が低い颯介にとってはかなりの高熱だ。

地方から大学進学でこっちに来てからまだ三ヵ月とちょっと。そんなに乱れた生活などしていないはずなのに、風邪を引くのは二度めだ。料理は嫌いじゃないし、朝が弱いからまだそんなに夜更かしする勇気はない。酒だってサークルの付き合いのときだけなのに、俺が何した、つーんだよ…。

ぐらぐらとおぼつかなかった視界が、横になってようやくおちついた。背中がひどく寒い。

やっぱりこんな日に大学なんか行くんじゃなかったと後悔する。健康でピンピンしているときはサボりたがるくせに、風邪のときは薬漬けになってでも学校に行く。自分でも、なんでこうなのかと説教したくなるような性格だ。

何か食べてから寝た方がいいと思ったけれど、体が鉛のように重い。後頭部がにぶく痛む。

よどんでいく意識の中、颯介はどうにかふとんを首まで引き上げて、目を閉じた。


目を開けて、ああこれは夢だな、と思った。

あの天井の模様は間違いなく実家の縁側だ。懐かしかったので、そのまま夢を見続けることにした。

颯介の地元は都会とも田舎とも言い切れないところだ。服とか買うのは駅三つ先の街だったけれど、家からコンビニにまで歩いて七分。家はじいちゃんが建てた庭つき二階建て。

季節は夏。夏休みの遊びつかれた昼下がり。

颯介は縁側にべたーっと寝ころんで、ぼーっと真っ白な入道雲を見ている。家の中は嘘のように静かだ。途切れることのないセミの鳴き声が頭を空にしてゆく。時折り響く風鈴が家の中にこだまする。

庭にはばあちゃんが植えたひまわりが三本咲いていて、小さな蜂が花粉だか蜜だかを求めている。

はじめのうちは何とも思わなかったけれど、颯介はふと小さな不安を抱く。しんと静まりかえった家には人の気配がない。それなのに壁や天井から、ひそひそ話をしているような息づかいが感じられるのだ。

颯介は自分の家だというのに、おそるおそる身体を起こした。ゆっくりと辺りを見まわす。熱い夏の空気が縁側の影で冷やされ、家の中はひんやりとしている。しつこいセミの鳴き声が、静けさを増長させる。

颯介は、息をひそめて家の中を歩きまわった。半分はビビッていたけれど、半分は自分の家が秘密基地にでもなったかのようにドキドキしていた。

居間、台所、じいちゃんの部屋、仏壇のある部屋、どこにもだれもいない。こんなことはめったにあることじゃない、颯介の家には大抵だれかがいた。

何して遊ぼうか、と次第にワクワクした気持ちの方がふくらんでいった。さっき感じたひそひそ声は、颯介の気持ちがはずむのに比例して小さくなっていくようだった。

普段はできないことがしたいな、と思った。一人きりでなくてはできない、特別なことが。

そうだ、と颯介の頭で何かがキラッとまたたいた。


目が覚めた。

熱に浮かされて、少しのあいだ、ここがどこかわからなかった。汗をかいているような気がする。けれど周りの空気がゼリーのようにぐにゃぐにゃして、とても起きあがれそうになかった。

夢を見ていたことを思い出す。

額に手をやって、どうにか寝返りを打った。俺はいったい何を思いついたんだろうな?いやに静かな夢だった。夏休みなんて、毎日遊びほうけて静けさを感じるひまなんてなかったはずなのに。いや…夢だから別になんでもいいのか。

時計を見ると、まだ夜の八時になったばかりだった。はあ、と思わずため息が出る。

頭痛ぇ……けど腹も減った…つーか喉が渇いた。喉がひりつくように痛む。

目が覚めた瞬間より、大分意識がまともになった…気がする。起き上がれ、と身体に指令を送ってみるが、だめだ。起き上がれない。

そんなので起き上がれるなら苦労しない。せめて着がえたいのだが、クローゼットまでの数歩があまりにも遠い。

つくづく実家のありがたさを実感してしまう。風邪をひいたら、母さんかばあちゃんが、すぐにあたたかくて消化のいいものを作ってくれた。俺が目を覚ますと、枕もとに飲み物やリンゴが置いてあったりする。

家にはいつも誰かがいて、鍵を持って出かけた記憶がない。じいちゃんばあちゃんと暮らしてる家はあんまりなくて、それもよくうらやましがられた。

中学の時ばあちゃんが死んで…人がいなくなるってこんなにさみしいのかと愕然とした。

俺、何で地元の大学を受験しなかったんだっけなぁ…とぽつりと考える。

こっちに来てから、弱気になるとすぐに浮かぶようになった疑問だ。

何だっけな。別にどこでもよかったんだよな。パンフレットに書いてあることなんて、みんな宣伝ばっかりだし。教授陣で選べ、とか先生には言われたけど、そんな風にこっちが知りたいことなんかどこの大学も書いてなかった。どんな授業するのかすら、イマイチ…というか全然わからなかった。

オープンキャンパスには行ったけど、東京って感じに呑まれて、デカイ校舎とか私服で歩く年上の人とかに目がチカチカして、なんだかぼーっとしてしまった。将来なりたいもの、と言われてもいまいちピンと来なかった。ちゃんと考えるのが怖かったのかもしれないけど。

だから、センターの得点で決めた。地元のも一応合格圏内に入っていたけれど、特に目標もないならせめて一人暮らししたいな、って思ったんだ。三十八・六度の高熱に対抗するには、弱すぎる志望理由。

なっさけねぇなぁと思う。一人暮らしすることによって生まれるメリットって何だ?親に金出してもらってまでする価値なんてあるんだろうか。

とりあえずここから外に行かなきゃ、って思ったんだよな。大学生になったら家を出るもんだとわけなく思い込んでいた。

親元にいたらできないことを。一人じゃなきゃできないことを。

妙な焦燥感を抱えながら、あの夏の日のように探している。

一人暮らしをしてわかったことは、今のところ二つだけ。

母さんは、俺が思ってたより遥かにありがたい存在だったってこと。もう一つは、一人になったらなったで、すぐに誰かと一緒にいたがる自分の性格。

一人じゃなきゃできないことをやりたかったはずなのに、玄関を開けても明かりがついていない部屋がむなしさにどうしても慣れることができない。必然的に外にいることが増える。理由はなんでもよかった。

授業、買い物、サークルの新歓、街を歩く、バイトを探す…テレビで知ってはいたけれど、東京の街は本当に暗くなることがなく、いつまでもさまよっていられる。

最近は忙しくて地元のヤツらに連絡もしていない。大学生がヒマだなんてほざいたのはどこのどいつだ、とは思うけれど、サラリーマンから見ればやっぱりふわふわして見えるのかな。バイト探してる時も、「大学生?いいねー」なんて言われたし。

みんな、元気にしてっかなー…いろいろな顔が浮かんでは消えていく。


街がオレンジ色に染まっていた。

空がめまいを起こしそうなほど高い。どこか遠くから、バッティング練習の高い金属音が聞こえてくる。

となりを歩く夏帆の髪が、時折り風になびいた。まだ、夏服の頃だ。

胸がうずいたのが夢の中の自分なのか、現実の自分なのか、わからなかった。

いつもどこかやわらかい表情を浮かべている彼女が、なぜかくちびるをかみしめていた。夢の颯介はぼんやりとした疑問を抱いただけだったけれど、現実の颯介の心臓はいやな鼓動を打ち始めた。

夏帆が、視線を颯介に向けた。

半そでからのびる白いうでが、眩しい。


「………っ」

意識をよじるようにして、颯介は無理やり目覚めた。真っ暗な部屋、心臓のいやな音と息切れ。

「…冗談じゃねぇ…」

今さら夢に見るなんて。いやそれよりも、未だにこんなにも動揺するなんて。

額の汗を手の甲で拭い、大きく息をついた。喉が痛み、激しく咳き込んでしまった。痰が絡む。

「…はー…」

とことん、情けない。

夏帆と颯介は、お互い初めての彼氏彼女だった。どっちも相手のことばかり考えていた。何をすればいいのか全然わからなくて、本当に思っていることなんて一つも言えなかった。それこそが相手の望むものだって気づかずに。

夏帆はすこやかに、まっすぐに育った子だった。反応がいちいち素直で、一般的な反抗期を送った颯介にとっては、なんだか眩しく見えた。

夏帆は俺のなにに魅かれたんだろう?

あらためてそんなことを思った。

「颯介といると、ムリしちゃうんだ。疲れるの」

それが、夏帆がくれた最後の言葉だ。

夢に見たあの日、あの直後のことだ。

人生のなかで、一番深い谷底に突き落とされた。颯介はしばらく、夕焼けを見ることができなかったくらいだ。立ち直るのにどのくらいかかったかな、いや、今だってこんな状態なのに立ち直ったって言えるんだろうか。

最初は仲のいいグループの一人だった。だんだん目につくようになって、そのうち部活の試合とかも見に来てくれるようになって、高二の文化祭の後に告白したんだ。耳まで真っ赤になって、うんとうなずいてくれた時のうれしさったらなかった。

あんなにうれしかったのに、今思うと付き合う前の方がよく話をしていた気がする。ちょうどレギュラー取れたばっかりで部活に手を抜けなかったのもあるけど、それなら告白すんなよって話だし。

それにしても、何で今日に限って地元の夢なんか見るんだろう。

無性にみんなの声が聞きたくなった。颯介はスマホに手を伸ばしかけて…やめた。地元にいるヤツも、出て行ったヤツも、電話をしたら笑ってくれるだろうってことはわかってる。でも、動けなかった。こんな疲れきった自分の声なんて聞かせたくなかった。

怖いんだよな、つまりは。

俺って人を疲れさせるようなやつなのかなって真剣に落ちこんでさ、あらためて考えるとバカみたいだよな。…俺も同じだったくせに。「はじめて」を理由に逃げて、かっこわるいところは見せたくなくて、いつもいつも緊張していた…。

熱に浮かされた頭は、普段は考えまいとふたをしていることばかり考えようとする。

夜の電車とか、変に人のいない学食とかさ、ホームで電車を待ってる時とかさ、落し物みたいなぽつんとした時間に考えてしまうこと。

こっぱずかしい初カノのこととか。

俺ってなんのために大学なんか通ってるのかな、とか。

何で今こんなことしてんだろう、とか。

実家から離れたばかりのくせして、どこでもいいからどこかに行きたい、とか。

いつだって堂々巡りだ。いつだって同じところに行きつく。


考えたって仕方ないだろ、やるしかないんだよ、とにかく。

今やっていること、これからやろうとしていること。

泣き言言ったってひとりなんだからさ。

なんとかかんとか消化していくしかないんだよ。


ついにぐるぐると天井が回りだした。唸りながらのろのろ目をつぶる。意識は螺旋を描きながらとけていった。


どのくらい経っただろうか。


ピルルルル ピルルルル …… ……


天から呼び出し音が聞こえる………、天?

『?』に反応した意識がぼんやりと目覚める。天というよりは右サイド。半ば無意識で手を伸ばす。ひんやりとした手のひらサイズの液晶画面。

「……し、もし」

当然のことながらひどい声がでた。

「…颯介?何あんた、まーた風邪ひいてるの」

通話口から飛び出してきた声に、一瞬頭が白くなる。

「母さん…?」

「まー何そのひどい声。まったくもう、ちゃんと食べてないんでしょう。熱は?」

「……」

「ちょっと颯介?聞いてんの?」

「あ、ああ、うん聞いてるよ。熱あるんだからさ、もちょっとやさしくしてよ」

電話の向こうからため息が聞こえてきた。

「やっぱり……何度?」

ひさしぶりに聞く母さんの声は、

「…三十八・六度」

「やぁねーほんとにもう。何度目?中高皆勤だったあんたがねぇ…どうしちゃったのかしら」

よく晴れた日に干したふとんのようなにおいがした。

固まった何かがほどけていくような安心感が耳から背中を伝っていく。

「知らねぇよ…てか俺が聞きたいよ…」

「絶対ちゃんと食べてないせいよ。薬は?」

夕飯を作る後姿や少しかさついた手を思い出す。

「いや…メシ食ってないから」

「何やってんのよ、こういうときに食べなくていつ食べんの!今寝てる?なら早く冷蔵庫行きなさい」

「…は?母さん俺今頭痛と悪寒が」

「つべこべ言わない!いいから行く!」

動かなかった身体が、母さんの一言であっさりと動いた。四つんばいだったけれど。

 

「着いたよ…」

フローリングの床に両膝をついて冷蔵庫の扉を開ける。

「牛乳入ってる?」

冷蔵庫の明るさに目が痛くなった。チカチカする視界にめまいを起こす。 

「…牛乳ならあるけど、ちょ…待って。くらくらする…」

「ゆっくりでいいわよ」

牛乳を取り出して冷蔵庫を閉めると、今度は暗くてまわりが見えない。暗さのなかでぼんやりと思い出す。

「なあ、母さん」

「何?」

「神社のねこ、どうしてる?ナナとかミケトラとか、元気?」

「どうしたのよ、やぶから棒に」

「なんか暗いトコに立ってたら急に思い出してさ」

実家の裏手にある神社はいつもうす暗く、小さな頃はじいちゃんと一緒でないと怖くて仕方なかった。

神社の手前に公園とも呼べないスペースがあって、そこでよく遊んだ。

ばかでかいケヤキと、二、三匹のねこ。さびたシーソー、ギィギィ鳴るブランコ。そしてなぜか色あせたバスケットゴール。

今にも折れそうなバスケットゴールと、イトコの家にあったボロボロのスラムダンクのおかげで、颯介は中高とバスケ漬けの日々を送ることになったのだ。

キレイな弧を描いて吸い込まれるようなゴールを決める瞬間がたまらなく快感だったけれど、インターハイにはどうしても進むことができなかった。

「みんな元気よ。…ああ、でも最近クロは見てないわねぇ…。大丈夫かしら」

クロは十歳になる。ねこは死に際を見せない―そんな不吉な言葉が頭をよぎって、聞きたかったことが喉でつまった。

もうホタル飛んだ?

今年の祭りはどうだった?地元に残ったやつら、ちゃんと参加してた?

文化祭は?

駅の改装工事は?

高速道路が出来そうって聞いたけど、ホント?

―――――― 

変わっていくんだろうか。こうやって、俺の知らないうちに、俺の大事なものが。変化を見ることさえできずに、結果をつきつけられるだけになっていくんだろうか。

つかの間目を閉じて、後ろ向きな思いを引きはがす。

「…で、牛乳、どうすんの」

「カップ一杯分とってチンしなさい。あと、蜂蜜も用意して」

「…なして?」

「飲むのよ、決まってるでしょーが。なんかお腹にいれないと薬が飲めないからね。蜂蜜は私が置いてきたから戸棚にあるし、栄養あるし」

うちに蜂蜜なんてあったんだ……。

「あんたは熱を出した最初の日だけは絶対に固形のもの食べないから」

「ああ…そういえば。風邪んときよく飲んだ気がする」

携帯を置いて、マグカップに牛乳をそそぎながらぼんやりと思い出す。

熱に浮かされていると、「颯介、颯介」と母さんが俺を呼ぶ声が上の方から聞こえてきて、「甘いから飲もうねー」とマグカップが差し出されるのだ。痛む喉に、牛乳はそんなに優しくない。でもそのほんわかした蜂蜜の味は好きだった。

あの頃は母さんの背中が大きかった。東京に進学すると伝えたとき、その背中が小さくて驚いた。

そばにいたって、変化に気づかないなら同じことだ。

「大体一分か二分ってとこよ、大丈夫?」

颯介はあわててレンジのスイッチを切った。


蜂蜜をたくさん入れたホットミルク。マグカップからは、甘い湯気が立ちのぼっている。

「ん。うまいよ」

「よかった。気をつけなさいよ?もう面倒見てあげるわけにはいかないんだから、ほんとに」

「面倒見てくれてんじゃん、今」

ふふっと母さんが笑った。

「そーいうこと言ってんじゃないの、まったく。風邪ひいたときに一人なんて寂しいでしょう」

「う…」

図星。

「ほーらね。こっちが恋しくなってたんじゃないの?」

「なっ、んなことねぇよ!」

またふふっと笑う。ムキになってしまったことにハッとする。

「まっ、さっさと彼女でもつくって看病してもらいなさい」

…ダメージ五十。なんでこんなに攻撃がピンポイントなんだ。

「てか母さん、なんのために電話してきたんだよ…」

「え?ああ特に用はないんだけどねー」

「はい?」

何を考えてるんだうちの親は。

「なんとなくふっとね、顔が浮かんだのよ。元気かしらって。そしたらこれだもの」

母さんのため息で思い出した。俺がこの前熱を出したときにも、母さんは電話をくれたんだった。そのときは食事の面倒までは見てもらわなかったけれど。しかもあのときは心配かけちゃいけないと思って、頑張ってふつうの声を出したのにも関わらず風邪だとばれて、やっぱり怒られたんだ。

なんでわかったんだろう。

「ああそういえば、この前駅の改装工事終わったわよ。自動改札機もできて、キオスクも新しくなってね。もうそろそろホタルも見ごろだし、ホタル列車走らせようって話もあるんだって。でも列車なんかでホタルが見えると思う?」

…なんでわかってしまうんだろう。

「聞いてる?」

ずずっと鼻をすする。

「聞いてるよ、ただあったかいもの飲んだら鼻水が出てきただけ」

あっためた牛乳をすする。寒くてたまらない。けれどあたたかい。

指先から熱が伝わって、背中がジンジンする。

「この前スーパーで宮下くんと丸山くんのお母さんに会ったのよ、いろいろ話したけど、やっぱり大変みたいだったわよ。宮下くんちは一週間でゴキブリが出たって言ってたし、丸山くんちは一回トイレのドア開かなくなったって言ってたし」

「はは」

小学校から高校まで、学校やクラスがちがったりしても不思議とずっとつるんでた二人だ。

アイツらとチームで試合するのは楽しかった。でも、別のチームで戦うのもおもしろかった。試合前はぞわっとしたな。負けたくねぇって毎日毎日、飽きもせずに練習した。

そいつらがゴキブリとかトイレのドアで大騒ぎしてるなんて、バカバカしくて信じられなかった。

俺が二回も風邪ひいたっつったら、どんだけバカにされんだろ。…想像したくない。ことあるごとに引き合いに出されそうだ。

「たまにはメールでもしなさいよ」

「…ああ」

しないだろうな。するわけがない。したくないってわけじゃないけど。

母さんと話してこんなんになるんだ、あいつらに連絡なんかしたらその場でバッグに荷物を放り投げかねないよな。

「…もう切るけど、大丈夫?」

「ホントに何もなかったんだな…。ああうん、大丈夫だよ、腹にものも入れたし。話すると頭働くからぼーっとしないですむし」

「…もしかしたら、フローリングがいけなかったのかしらねぇ」

フローリング?

今度は一体どこに話が飛んだんだ?

母さんの話が飛ぶのはいつものことだけれど、今日はそこまで頭が回らない。

「…何言ってんの」

てか切るんじゃなかったの。

「ほら、あんたんちの床フローリングでしょ?フローリングって寒いもの。うちはみんな畳だから、あんたそれで風邪ひいたんじゃないかと思って」

夢の匂いが鼻をつく。

あれ寝るとまんま畳のあとつくんだよなぁ。なのに待ち合わせあるときに限って寝過ごすんだ。

「そーかぁ?」

颯介は思いきりいぶかしげな声を出した。単に疲れてるだけだと思う。

「…信じてないわね?」

「うん。フローリング硬いし、畳の方が寝やすいことは確かだけどさ」

フローリングの部屋にちょっとあこがれていた。うちはみんな畳だから。多分、団地の子が一戸建てに住みたがるのと同じ。

「とにかく、床で寝ない方がいいわ。いいわね?あー、あとは…そうだ、何か送ってほしいものある?」

「いや…特に」

「薬は?」

「ある」

「お米は?」

「ある」

「洗剤は?」

「それくらいこっちで買うよ」

「あら、そお?少しでもお金浮かせてあげようとしてるのに、かわいくない子ね、ほんとに。…あ、梅を煮たやつ送ってあげようか」

颯介は首をひねった。

「…なんだっけそれ」 

「ほら、おばあちゃんのやつ。風邪のときにしか食べさせてもらえなくて、あんたふくれてたじゃない」

脳裏に一つの風景がひらめいた。

編み物をするばあちゃんのそでをひっぱる俺。手を止めずに「もう風邪が治ったんだからだぁめ」とあっさり言うばあちゃん。

「あー、わかった」

「五月にね、たまたま入った料理屋さんでおんなじようなのを見たのよ。びっくりしてついお店の人にどうやって作ったんですかーって聞いちゃって」

あはははと笑い飛ばす母さん。

コレこっちが病人だって本当にわかってるんかなぁ?だけど俺も笑っていた。母さんが店の人にすごい勢いで迫ってるのが目に見えてさ。…あー、頭いて。

「教えてくれたのよ。…作ったらね、おばあちゃんの味に近いの。お店のとはちょっと違うの。不思議よねぇ、食べたのなんてもうずっと前なのに、作れたのよ」

大きな青い梅。やわらかくて甘酸っぱい味。

戸棚の隅にいっつもあった、赤い口のガラス瓶。風邪んときに食べると妙にうまかった。

最後に食べたのは、いつだろう…。

「ね、絶対おいしいから、送ってあげるわ」

「…ああ」

「ほかは?私のサラダとかいる?」

「…うん」

「まあ入れときゃ何でも食べるか。そろそろほんとに切るわ。頭痛いのに長電話して悪かったわね」

「んなことないけど、ゲホッ」

次の言葉を言おうとして、痰の絡んだ咳が喉をおそった。頭に響く。

「まぁっ。咳が出てきたわね。明日は土曜だし、ゆっくり休みなさい」

「ん、…ああ」

「じゃ、おやすみ。またね。日曜に荷物届くように送るから、ちゃんと食べんのよ?」

「わぁったよ、おやすみ。じゃなっ」

もう一度おやすみと言って、母さんは電話を切った。

言えなかった言葉が頭をよぎった。…ま、いっか。我にかえってみると恥ずかしすぎる言葉だし。明日で地球が終わるわけでもなし。

颯介はスマホを枕元におくと、カップに残っていた牛乳を飲み干した。まだほんのりとあたたかかった。

窓を開けた。さっきよりも高くなった半月が浮かんでいる。心なしか丸みがましたような…。

不思議に思って目を細めてみて……

「…へへへ」

俺はへらへらと笑った。

ばかじゃねぇかな、俺。熱のせいで頭おかしくなってねぇ?

颯介は鼻水をすすって、窓を閉めた。

肩がゆるんでいるのがわかった。あぁ、思ってたよりリキんでたんだな。バスケのゴールは力を抜いてふっと投げるが、試合でいつでもできるようにするにはジタバタ練習するしかない。ジタバタしてるときに、自分がジタバタしてるって気づかないのはいつものことだ。

薬を飲んで汗を拭き、のろのろと服を着がえる。そしてようやくベッドに戻ってきた。寝転ぶと、血のめぐりのせいか顔がほてる。

あったまいてぇ…。ズキズキと脈打つ頭に、今日見た夢が走馬灯のように駆け抜けた。ほんとしょーもないな、と苦笑いが浮かぶ。

次はどんな夢を見るかな。

…今日みたいな日も、いつか夢に見たりするんだろうか。できれば勘弁してほしい。

どーせしょーもなくて、やっぱり堂々巡りに決まってる。颯介は笑みを消さずにじわじわとあたたかい腹を抱いて、ゆっくり目を閉じた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読んでいて、ほっこりとするような作品でした。 一人暮らしを始めたばかりの颯介は、実家じゃできないことを探して、東京に出てきたのにもかかわらず、誰かと一緒にいたいという気持ちが強く、特に熱を…
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