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オニシュート日記    作者: てん
7/7

始めたはいいけれど・・・

「おやじは昔っからそう。何も変わってない」

夫は諦めたように言う。

「おやじが決めたルールをみんなが守る。それに盾つくことを絶対に許さない。専制君主かなんかのつもりなんだよ」

「・・・はあ」

テーブルに肘をついて、セットしたコーヒーフィルターにお湯を注ぐ。立ち上る湯気と香り。いつもならこのドリップしているコーヒーの香りに癒されるのだが、今日はただ機械的にお湯を入れているだけだ。


義父の「家賃払え」宣言があった翌日、うちのリビングで、夫、わたし、義母での三者会談が開かれた。

「あー、ほんと失敗した。道場きれいにする前に使用の条件、一筆取っとくんだった」

「そんなん、おとうさんにはただの紙クズよ。殿様やもの」

「いや、自分が言ったことに対しては殿様だろうがなんだろうが責任持つでしょうよ」

「ああ、だからね。奈緒ちゃんに使っていい、とは言ったけど、タダでとは言うとらんて」

「おれだってタダで貸せって言ってんじゃないの。非常識な値段だって言ってるの」

「そげんよねえ・・・。」

「おれ、調べたけど、このあたりの相場じゃ、おやじの言い値の半分だって高いくらいだよ。だって、壁はボロボロ、雨漏りはする。おまけに住宅街だから夜間は使わせないんだろ?おれらの他に一体誰が借りるんだよ」

わたしはこの親子会話を傍観者のように聞いていた。この時点では心の中で「そうは言っても親子なんだしなんとか丸く収めてくれるだろう」と思っていたのだ。

「おふくろもさ、ここはガツンとおやじに言ってよ。おやじが言うこときくのはおふくろだけなんだからさ」

「私の言うこと聞くんなら、最初からアパートなんかにしとりゃせんよ」

義母も深いためいきをついて。

「おとうさんがね、ちょっと前にこん通帳持ってきてね」

はにわの絵がついた銀行の通帳をテーブルに出して、

「これ、貸家の賃料専用にしてるやつなんやけど。『ママ、これ、九月からはいっちょらんけどどげんしたと』って。『おとうさん、シゲたちが住んどるでしょう』って言ったら、『そうよ、住んでるとやから家賃はどげんしたと』って。だから私が、『あんた、シゲは会社辞めて、ここに来てくれたとよ。ちょうど貸家が空いて隣に住んでくれてよかったじゃないの』そう言うたらもう、えらい剣幕になって。決まってることを勝手に変えるなとか、子どもを甘やかすとろくなことにならんとか。最後に『ワシがなんとかする、安心せえ』って。どこが安心なもんかねもう」


・・・たしかに。わたしたちが来たから家賃収入がなくなった。そう言えばこの間も「ママが困らんように」って


「あの、じゃ、うちがお家賃を入れればお義父さん、気が済むんでしょうか?」

わたしは口を開いた。

「・・・うーん。わからんのよね。そこが」と義母。

「おやじがそういう風に思って奈緒ちゃんに道場貸し渋ってるんなら・・・。わかった。あの家のリフォーム代、おやじに請求する。それで、うちも、家賃入れる。これがうちのぎりぎりの譲歩よ」

義母は腕を組んで思案顔で、

「それで、収まるんかねえ・・・なんか、あん人いろいろたくらんでそうなんよ。そういう時、一人でにやにやしてるから」

「え、どういうことよ。うちから家賃とって、その上奈緒ちゃんからも十二万取る気?」

「いやもう、ほんと分からんと。あん人の考えることは私には予想できんよ」

「ほんとエゲツない、やることがエゲツない!おやじ、こんなに金に汚かったっけ?」

「シゲ!おとうさんをそんな風に言いなさんな。あんたんおとうさんよ」

義母はわたしにも聞いて欲しいと言うように

「おとうさんはお給料、全部家に入れてたとよ。贅沢もせんかったし、お金使うの剣道くらいよ。でこつこつ貯めてここん土地買って家も建てたと。あんたたちもなんとかちゃんと育てあげた。お金にきちんとしとったからできたことよ」

夫は黙って聞いていたが、

「それは、分かってるし確かにすごいなって思うところもあるよ。あるけど、おれが言いたいのはまたそれとは違うこと」


・・・そう、そうなのだ。わたしも思っているそのこと


彼はコーヒーを一口すすって、

「おやじが大怪我して、もうこの先長くないって思ったから、おふくろのことも考えておれ、ここへ帰ってきたろ。そのことをおやじはどう思っているのかな。なんとか元気になっておふくろと二人でやれてるからおれたちもういなくていいのかな」

義母はカップを両手で持って目を落としている。

「だってそうだろ。あの道場を元通りにするの、どれだけ大変だったか。特に奈緒ちゃんはすげえ大変だったんだよ。おやじの道場だから、大事にしてきたの知ってるからおれたちも頑張ったんだよ。それがきれいになったら手の平返したみたいに『おまえたちが勝手にやった』とか、赤の他人に貸すのと同じ、いやそれよりひどい条件じゃん。なんかさ、いつでもいなくなってくれていいと言わんばかりだろ。これじゃ親子じゃないよ。他人だよ。いや、他人よりタチが悪いよ」

わたしはコーヒーカップを口元にあてて心の中でうなずいた。


そう。そうなのだ。わたしがしこりのように感じているそれ。

わたしたちは義父にとって、いてもいなくてもいい存在なのだろうか


「おとうさんの考えが分からんと何とも言えんけど。あんたたちが隣におってくれてありがたいんよ。ほんとにありがたい。やけど・・・おとうさんは親子の情より、自分の作ったルールが大事な人やろうかね」

三人ともカップを持って黙り込んでしまった。

「もう、結局どうすんのさ!」


この日の三者会談の結果はこうなった。わたしたちがもう一歩譲歩して

①わたしたちは家賃を入れる。リフォームにかかった費用は家主が持つ。

②当面の間はスタジオからの収入の半分を道場使用料として家主に納める。


という案を義母に託すことにした。これならなんとかやっていける。この条件で納得してもらい、頑張って早くスタジオを軌道に乗せて義父にスタジオを認めてもらおう。

そう思ったのも束の間。


 その日は水曜日でレッスンはなく、わたしは二階でレッスンに使う曲や振り付けの構成を考えていた。すると、ダンダン、ダンダン、と玄関の扉をたたく音が。

「えっ、なに」

急いで下りて行ってみると、玄関扉のガラスの部分に人影。ダンダン、ダンダン、と叩き続けている。「ちょっ、はいー、どなたですかー?」ドア越しに声をかけると、

「あー、奈緒ちゃんー。おるとけ?んんな早う開けよー」と、義父の声。

「え、あ、はい。今」

扉を開けるとすぐ目の前に義父が立っていて、

「はい、これ。」とにこにこ、いや、にまにまと笑って一枚の紙を出した。

「うん、じゃねー」と手を振って、あっさりと義父は隣へと戻っていった。

「・・・?」

あっさり帰ったからといって油断は出来ない。義父から渡される紙にはどうも用心してしまうが、案の定・・・


  シゲくん 奈緒ちゃんへ


 家賃の件、了解しました。家の修理代は、玄関と風呂場のみ、それ以外は却下。道場使用料は来年三月三十一日までは半額の六万円、四月からは十二万円とする。払えない場合は即刻退去すること。

                                                          以上

     十二月十九日      大成 寛



・・・ああまた


疲れと言いようのない不安感におそわれる。心臓がまた変な速さだ。この事務的な内容、即刻退去することという言葉。


・・・これ。話し合いの余地はないってことですかね。しげくんが帰ってきたら見せないと


今日は彼は営業で外に出ている。

わたしは肩を揉みながら二階へ戻る。どうもこのところ肩が凝ってしょうがない。


・・・レッスンしすぎかなあ。肩は凝らない体質だと思っていたけど


これは義母のとりなしも結局だめだったってことだ。予想はしていた、あの義父だ。ということはわたしには選択肢は二つ。

このままスタジオでレッスンを続けるか、やめるかだ。

汗水たらして貯金をはたいてオープンしたスタジオ。もうわたしのスタジオだ。少ないながら来てくれている生徒さんだっている。ここで義父の非情な圧力に屈してやめるわけにはいかない。


そう、やめるわけにはいかない!


とはいえ今の六人の生徒だけでは半額だって払えない。四月からは到底ムリ。


・・・レッスン増やす!


スタジオをやろうと思った以上、ここはわたしが踏ん張らなければ。最初はどうしたって大変に決まってる。空いている午前中や、昼にレッスンを入れて何とか収入を増やすよう頑張るしかない。わたしは鼻から「ふんんーっ!」と息を吐いて。


・・・腹立つ、腹立つ、腹たつ!見返してやる!


「で、平日の昼に、大人のピラティスクラス、始めようと思うの。それから、小さいお子さん連れでも参加してもらえるクラスとか、健康づくりのためのクラスとか」

「えー、そんなに急に増やして大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。健康なこの体だけが唯一の自慢ですからー。それにやんなきゃ払えないもん。意地よ意地!」

「意地って、あのおやじの言うことなんかそんなにまじめに取ることないって。四月から十二万ってあれ、あれは親父の一方的な言い値だから何とかするし」

「いや!絶対、諭吉をあのおやじの顔に叩きつけてやる、おりゃっ、バシッ!これで文句あるかって!」

「あー、そう」

彼はちょっと呆れ顔で、手元のノートパソコンをぐいっとわたしのほうに向けて言った。

「・・・ま、募集はしなきゃだろ。こんな感じでどう?」

彼が作り直してくれたホームページ。これがまた、個人がやっている小さいスタジオらしからぬ、堂々とした出来栄えで。

「すっごい!・・・あ、でもこれさ、実際来てスタジオ見て、サギやーとは思われないよねえ」

「え、なんでサギ?ああ、広告があまりにもクオリティー高いから?」

「はいはい、その通りです。さすがですよ。ありがとうございます、ありがとうございます」



 十二月は駆け足で過ぎていき、いろいろあった、あり過ぎた今年が終わろうとしていた。

 ささやかながら、スタジオではクリスマス会を開いた。チアのメンバーと奈々香の友達も何人か呼んでゲームとダンスを楽しんで。奈々香はあれからひなこちゃんとべったりではなくなったらしく、クリスマス会にひなこちゃんは来なかった。「どうして?」と聞いたら

「ひなこちゃん、べつのなかよしさんがいるから」と言った。

幼稚園児にもいろいろと事情はあるようだ。多分、あの一件も原因の一つだろう。

「ななっぴのいまの仲良しさんはだれ?」

「うーんとね。さきかちゃん」

「じゃあ、年賀状出そうか。ママ明日からレッスンお休みだから一緒に消しゴムのはんこ作る?」

「つくるー」


年末の大掃除などは一切せず、料理もしないことに決めたわたしは、年越しはわたしの実家である北九州市に帰省することにした。年が明けたら帰ってきて、またこっちはこっちで新年のお祝いをすることにする。


夏の引越し以来の福岡。高速道路から見える街並みはやっぱり宮崎とは全然違って都会的だ。


「お帰りーお帰りー待ってたよ。疲れたろ?ささ、あがってあがって」

母は待ち構えていてくれていた。

「一茂さんも運転、疲れたでしょう。よう帰ってきてくれました」と父。

「あ、どうも、おじゃまします。」

京香と奈々香は応接間のソファーにダイブしている。卓の上には孫たちを喜ばそうと思って買ってくれたのか、新しいぬいぐるみや猫のおもちゃなんかが飾ってあった。部屋はエアコンが効いていて暖かい。

・・・あ、なんかほっとする。これぞ実家よ

わたしはソファーの横にごろんと横になり手足を思いきり伸ばした。

「お茶飲む?お菓子もあるよ」

「飲む飲む、食べる食べる」「あたしも」「ななもー」

その日は母の手作りのちらし寿司を食べて、テレビを見て気がつくともう十時だった。

運転疲れか、夫と子どもたちは早々と寝てしまった。


ゆっくりお風呂に入って台所でテレビをつけていると、

「あら、まだ起きてる?」と母が入ってきた。

「あ、テレビの音気になった?」

「ちがう違う、だいじょうぶ」と反対側の椅子に腰掛ける。

「あー、よく帰ってきたね。今年はもしかして帰ってこんかもと思ってたよ」

「え、なんで?」カゴに入った甘そうなミカンを手に取る。

「だって、ほら・・・」母もミカンを取って剝きはじめる。

「いろいろとあるから、向こうのお義父さんとかのご機嫌取らないといけないかと思って」

「あ、大丈夫。二日にはもうあっちに帰るから。なんか三日にね、しげくんの弟さんも東京から帰ってくるんだって」

「あそう。それならいいけど」


母には電話で話していた。道場のこと、スタジオのこと、義父のこと。

わたしたちが宮崎に行くと言った時は、

「頑張り過ぎないでよ。それにしても一茂さんは優しいわ。宮崎のお父さんお母さんは心強いよね、喜んでるろうね」

と言ってくれていた。しかし最近では、

「わたしら向こうさんより一回り若いから、宮崎行って親孝行したいっていうの、ああ、しょうがないかなって思ったのよ。それやのに・・・もうこっち帰ってきたら?まだ京香も奈々香の学校も大丈夫やろ」なんて言うようになった。


「あ、このミカン甘いー」二個目を手に取る。

「お父さんが昨日、市場まで行って買ってきてくれたの。あんたたちが来るから」


・・・そうなんだよね。京香や奈々香の好きなアイスやお菓子もたくさん買ってくれてる


「・・・でも、ホントに分からんわ、あちらのお義父さんの気持ち。自分の体が悪くなって息子が都会から会社辞めて帰ってきてくれた。今時なかなかないよ。私やったら、ありがとうって、そのお嫁さんにもありがとうって言って、とにかく仲良く暮らすね。そんな家賃取るとかお金取るとか、考えもせんよ。どうしてそうなのかね?暮らしに困ってるってことはないんやろ」

「お義父さんの退職した会社は大きな企業よ。困ってるとは思えないな。ただ、早期退職してて年金が少ないって言ってたけど」

「お義母さんは?」

「お義母さんはいい人よー。癒されるもん。めちゃめちゃ優しいし」

「あそう。あんたんとこは嫁、舅問題なんやね」

「姑問題とどっちが大変かな?」

「嫁、舅問題なんて聞いたことないよ」

「あはは」

母はわたしの顔を見て言った。

「なんか、顔疲れてるよ。その仕事、きついんじゃない?自分のスタジオ持つのってやっぱり大変なことやろ」

「やばっ、この頃お手入れしてないから老けた?老けて見える?」

わたしは頬を両手で持ち上げておどけて見せて、

「そうよ、自分のスタジオよ。自分のスタジオを持てるってすごいことでしょ。少々の苦労は当たり前よ。わたし、やっぱりダンスが好きだもん」

わたしは自分に言い聞かせる。


・・・そうよ。わたしはダンスが好き。何より好き。好きなことを仕事にできてるってすごいことじゃない?


母はゆっくり立ち上がって、

「・・・あんたがいいならまあもうちょっと頑張ってみたら。私はもう寝るね。おやすみ」

「うん、おやすみ」

母が出て行った後わたしはテーブルに頭をつけて目を閉じた。


・・・心配してくれてありがとう。心配させてごめん。ごめんね

 

母はわたしに北九州に帰ってきてほしいのだ。しげくんと結婚した時、会社も福岡市で北九州には頻繁に帰って来れると喜んでいた。実際、京香や奈々香が生まれた時は母とわたしが行ったり来たりして、家が二軒あるようだった。わたしは一人っ子でしげくんには弟さんがいる。将来的にはこの実家か近くに住んでくれたら嬉しいと言っていた。孫も京香と奈々香だけだ。子どもの声が急に消えてしまった寂しさもあるのだろう。


・・・わたし、ダンスがんばる。何年かかるか分からないけどわたしの理想のダンススタジオ作ってみせる


翌日は大晦日。

お料理作りを手伝ったり、スーパーに買い物に行ったりしてあっという間に夕方になった。わたしと子どもたちはお笑いを、両親は紅白を、夫は、「あー、今日しかないから友達と飲んでくる」と言って出掛けた。

「ぜったいじょやのかねをテレビできく」と言っていた奈々香も、「お笑い最後まで見る」と言っていた京香もソファーで寝てしまった。二階まで連れていけないので毛布を持ってきて掛ける。

テレビの時刻表示が午前十二時をまわっている。

「ほら、ななっぴ、除夜の鐘だよ」

ゴーン、ゴーンと響いてくる鐘の音。ゴーン・・・ゴーン・・・。

宮崎でも同じように鳴っているだろう。


・・・今年がすばらしい年になりますように

わたしはテレビに向かって手を合わせた。

・・・スタジオがうまくいきますように

・・・お義父さんとうまくいきますように

・・・みんなが笑って一年過ごせますように




わたしは二階の自分の部屋でパソコンに向かっていた。一階では京香と奈々香がお正月特番のテレビを見ている。

この家は古くて防音もほとんどされてないので外の音が筒抜けだ。駐車場を隔てているのに隣の実家の宴会の声がここまで聞える。

「もうっ、うるさい!」思わず声に出してしまう。

つい三十分前まではわたしも子どもたちも隣の宴会に出ていたのだが・・・


 東京から夫の弟の茂義さんが帰ってきていた。お嫁さんと子どもさんは

「上のお姉ちゃんが高校、下の子が中学受験でちょっと帰れない」

ということで、一人で帰ってきているのだった。

 久しぶりの兄弟水入らず、とでもいうのだろうか。義父も義母もそっちのけで二人で大盛り上がり。お酒がすすむこと、すすむこと。義父はさっさと自室に引き上げていった。

「お?酒大好きなのに今日はめずらしい」夫がそう言うと、

「おとうさんは大晦日からずーっと呑んでたんよ。ほんと呑み過ぎよ。んで、今日はちっと具合が悪いと。ほっといてだいじょうぶ。」と義母。

 女性陣はテレビとお菓子でくつろいでいたが、

「ちょっと、ちょっと、義姉さん、ちょっと」と茂義さんが手招きして、

「・・・はい?」

わたしが宴会場となっている台所に行くと

「義姉さん、ほんとばかだねえ、ころっと騙されてー」

いきなりの言葉。

「そーなんだよー、騙されたんだよー、あのくそおやじにー」と夫。

「は?・・・なに?」わたしは眉をひそめて。

「ぎゃははは、見てきたよー道場。すっげーきれいじゃん。真っ黒のドロドロだったのがピッカピカ」

「おお!樹脂ワックスかけて磨いたからね」

「いい仕事したよねえーで、使いたいなら金払えって?」

「そうよ!それがさ、アパートから得るはずだった収入だって言うんだからさ、図々しいだろ」

二人とももうべろべろだ。

「あ、ちょ、ちょっとこれチンしてチン。1分~」

わたしに徳利を渡して、

「じゃあおやじはさ、アパートも作らず、そのための金も使わず、兄貴と義姉さんに道場きれーにさせておいて、今度はそのアパート収入分をー、義姉さんから吸い上げようって魂胆なの?うわー、すげえあくどい。どんだけあくどいんだよ。すっげえ。おやじ、ある意味すっげえよ」

「すげえだろ」

「すげえ、尊敬する」

「さすがおれらのおやじだ、やることが半端ねえな」

チンした徳利を渡すと、

「すっげえおれらのおやじにカンパーイー!」

「カンパーイ!ヒャハハハ」

「ウヒャヒャヒャヒャ」


・・・チッ、酔っ払いは教育に悪い


「・・・もう他に用がないなら帰りますよ」 

わたしが戻ろうとすると、

「ちょっ待て、待て。義姉さん。んねえ、正直、やってられんでしょう、ねえ」

「なんだよお、おまえ、なおちゃんに馴れ馴れしいぞおー」

「ねえ、正直、しょうーじき、バカみたと思ってるでしょ、そうでしょ?」

「え?・・・」

茂義さんは耳まで真っ赤で体もユーラユーラと揺れている。

「だってですよー。このおバカ兄貴のせいで、はるっばるこんな田舎に引っ越してよ、死にかけかと思ったおやじはあ、ピンピンしてて、おまけに極悪非道ときたら、俺だったらもうソッコー帰るよ、東京へ帰るうー」

「バカ、トーキョーはおまえだろお、ウヒャヒャヒャ」


・・・ああ、しげくんももうこれはだめだわ。今日は飲み過ぎてるわ


「兄貴!あにきはこのなおちゃんに感謝せにゃならんよ。どこの嫁が、あ?会社辞めて実家帰るのを許してくれるよ、ああ?俺なんか、俺なんか、見てみ、だあれもついて来んとよー、夫の実家にだあれもついて来んと・・・ウッウッ・・・」

「泣くな、ヨシよお、おれまで泣けてくるよお、ウッウッウッ・・・」

向こうの部屋から義母の「何―、コント?」という声がした。

わたしも呆れるやら疲れるやら。

それから茂義さんはぐっと身を乗り出して囁くように言った。

「でえもお、もーちょっとの辛抱ですよ。あとちょっと。あとちょっとしたらあ、ポックリいくから。そしたらもうこっちのもんですよお」

夫まで、

「いくか?いくか?もお、いくなら早くいってくれっちゅーの」

「そおしたら、もうこんなボロ道場なんかぶっ壊してそれこそマンション建てるよ」

「そだそだ、ぶっ壊せ」

「ぶっ壊しちまえ」

「ぶっ壊せ!」


わたしの顔色が変わったのに、酔っ払いたちは気づいていない。相変わらず、ヒャヒャヒャ、と笑い合っている。わたしは拳を色が変わるくらいぐっと握って。テレビを見ている京香と奈々香に声を掛けた。

「帰るよ」

声が怖かったのだろう。そういうのに敏感な奈々香が

「ママー?」とわたしの顔を見る。

「帰る?気いつけてねー暗いから」と義母。

義母にも向こうの酔っ払いたちの会話は聞えていたはず。「おとうさんの言うことはいちいち気にしない」が身についている義母は、酔っ払いの言うことなんか全然気にもならないのだろう。

でもわたしは・・・!


京香と奈々香を急かして外へ出る。とたんに冷たい風が吹き付けてきてぶるっと震えた。

「うっ、さむ。早く帰ろ」と京香。

わたしは二人の後ろから階段を下りながら、怒りと悲しさで目の前が見えなくなる。ごしごしっとまぶたをこすって涙を切る。


酔っていてもあれは本音だ。心の中でそう思っている。思っているから口から出るのだ。めんどくさい道場。めんどくさい義父。めんどくさいわたしの仕事。

「ボロ道場はぶっ壊せ」「ぶっ壊せ」「ぶっ壊せ」

 どうしてそんなことが言えるのか?今はわたしの、わたしのスタジオなのに!これから何年もかけて育てていこうと決めたスタジオなのに!弟だけではなく夫まで軽口に乗って連呼していた。「ぶっ壊せ」「ぶっ壊せ」「ぶっ壊せ」と。 わたしの仕事は結局はその程度のものなのだ。何かの片手間にやってる、男にとってはどうでもいい、取るに足りない仕事なのだ。

 

悔しい、くやしい、くやしい・・・


ヒョウウウーと電線を鳴らして風が通り抜けていく。

家まではほんの一分。その一分が遠く冷たくわたしの体を凍えさせていた。




新年早々、またまたどろどろ溶岩を抱え込んでしまった。気持ちを切り替えるのに時間がかかるわたし。だがそれを一瞬で吹き飛ばす出来事があった。

それは昨年、夫が作ってくれたスタジオのホームページへの問い合わせメール。


「5才の女の子の母です。そちらのスタジオのチアダンスに興味があってご連絡しました」

おおっ、これは!まだある。

「ピラティスができるスタジオを探していました。曜日、時間などを教えてください」

「一才の子どもと一緒にレッスンが受けられますか?友人と三人での参加希望です」

おおおーっ、すごい反応。わずか二週間で問い合わせが全部で七件。


正月の宴会の後、どうしても夫のあのひと言が許せないわたし。彼は言ったことさえ覚えていない様子でなおのこと腹が立って。腹の虫が収まらなくてあの日から彼とは口をきいていなかった。


・・・仕方ない。ほんとにほんとに今回だけ。このホームページの反響の恩赦として、今回だけは水に流してやるか


メールを読みながらつい、顔がにやけてしまう。

正直、このまま人が集まらなければどうしよう、いきなりのスタジオオープンなどやはり無謀だったのかと、考えない日はない。ともすると暗く落ち込んでしまうわたしの心に差し込んだ、一筋の希望の光・・・


・・・ああ、ほんと嬉しい、反応があっただけでも嬉しい!


人数が四人程度集まれば応相談で都合の良い時間にクラスを設けられることにして早速返信する。今はまだクラス自体がないので、入会希望の人の都合にできるだけ合わせよう。ある程度レッスンスケジュールが固まったら、あとはその時間で募集していけばいい。

で、この問い合わせが一番多くて四件も入っていた。


「昼間は仕事なので夜のレッスン希望です。仕事帰りにピラティスを受けたいと思って探していました」


奈々香がまだ小さいので極力夜のレッスンは避けたいと思いながらも


・・・でも夕ご飯をちょっと早めにして、週に一、二回なら・・・何かあってもすぐ隣にいるんだし


夜のレッスンの需要が多いことは分かった。


・・・やらなくては。このチャンス、絶対逃がしちゃいけない。問題は・・・お義父さんだ


義父は最初から「夜の練習はしたらいかんと。ここ住宅街やからね。そういう配慮はくれぐれもせんとね」と言っていた。

しかし夜といっても七時か八時、そのくらいの時間なら通常音量で問題はないと思う。住宅街ではあるが、隣接するのはうちと、自営で住宅設備の会社をされているお隣だけだ。特にピラティスで使う音楽は静かでやさしいリラックス音楽が中心だし。


・・・そうよ。そんなことまで制限されたらスタジオとして成り立たない


また義父に伺いを立てないといけないだろう。そう思うと気が滅入るが、やらなくては!


・・・Y・ D・ K!やればできる子!やればできるわたし!


まず義母にレッスンの内容と事情を説明して承諾を得る。そしてわたしと義母のダブル攻撃で相手の口を封じる作戦に出る。

作戦当日。ここで義母は素晴らしい攻撃力を発揮してくれた。


「・・・で、奈緒ちゃんの話分かった?下で九時までレッスンすると。分かったね、いいね」

「夜やとけ、夜は貸さんというとるやないね」

「おとうさん、夜いうても九時までよ。九時までに終わってみんな帰るの。あんただって、十時まで大きな音でテレビ見とるでしょ、おんなじよ」

「同じやあるかいね、大きな声で『イヤアアーァー』って言うてみい。みんな何ごつかとびっくりするがね」

義母は呆れた声で、

「それはあんたやろ。奈緒ちゃんは・・何言うたっけ?ヨガよヨガ。そんなんすると。だれが叫ぶかね。静かーなレッスンなんよ」

「静かとか、そんなん関係ないんよ、夜は迷惑になると!」

「おとうさん、お隣の山田設備さん、夜遅うまでトラック出たり入ったりするがね。そんなん迷惑やて言うたことないやろ」

義父は口を開けて言い返そうとするが思いつかなかったようで、

「夜は練習せんって決まってるとよ・・・」

すると義母がここで、強烈なロングシュート。

「おとうさん!奈緒ちゃんはお金払って下を借りるとよ。うちはお金もらうと!もらう方が変な理屈で反対ばっかりしてどげんすっと。ちっとは協力したらどげんね。静かなヨガもしたらいかん言うならあんたも夜いっさいテレビ見れんとよ。それから道場でお金取るのやめ!そしたら奈緒ちゃんはおとなしく昼だけで我慢すると」

「んんな、ママが何言うとると。ワシの道場ぞ」

「・・・おとうさん忘れとるようやけど、ここ建てるとき私の実家からもお金用立てたとよ。半分は私の道場よ。奈緒ちゃんには私が貸すわ。それでええね?ええね?」

この時の義父の顔、鳩が豆鉄砲くらった(想像)表情とはまさにこれか、と思う顔で。


・・・お義父さん、表情が豊かというか素直というか、おもしろい?かわいい?


とさえ思えてしまった。

「お義父さん、決してご近所にご迷惑かけるようなことはしません。ちゃんと挨拶にも行ってきますので」

フィニッシュをかけると義父は蚊の啼くような声で、

「・・・ママと組んでいやらしかね、ワシがどげん言うてもやるならもう言うことはないとよ」

と、自室へ引っ込んでいった。わたしが両手でガッツポーズをとると、

「うーん、まだ油断はできんよ。全然納得してない。人の言うことには耳を貸さん人やけんね」

と義母。

「まあでも、どんどんやんね、やんね。おとうさんがまた何か言うたらそん時言い返せばいいわ」

「はい!ありがとうございます。頑張ります」


・・・やった!


禍福はあざなえる縄のごとし


 最近のわたしの周りはまさにこの言葉通りで。

良いことの後には悪いことが、悲しいことのあとには喜びが、入れ替わりたち替わりやってくる。お義父さんにだって負けてばかりじゃない、たまには勝つことだってある。そう思うと勇気が湧いてくる。

わたしには義母という強い味方がいる。しげくんだっている、京香や奈々香もいる。レッスンを待ってくれる人もいる。義父にだって、そのうち認めてもらえればいい。わたしはただ前をみて、がむしゃらにやるだけ。今はそれしかない。





「発表します。チーム名はー・・・『スパークルズ』です!拍手~」

パチパチパチと拍手が起こる。

「えー、なんで『ダイキーズ』じゃないねん?」

「えー、『ダイキーズ』は一票です」

「ズコーッ」と声に出してコケる大貴。笑いが起きる。

 

結成からもうすぐ四ヶ月。

わが小学生チアダンスチームも週三回の練習の成果が少しずつ感じられるようになってきた。

そろそろ、振り付けをして夏頃にはダンスチームとしてステージに立つ経験をと、そう思った時、名前がないのに気がついた。

みんなで意見を出し合う。

「七人のチームだから、なんとかなんとかズってエスをつけるのが一般的かな?」とわたし。

「チアーズは?」と京香。「それかわいい」とわかな。「えー普通っぽすぎ」とさえ。

のぞみ、あかりの双子ちゃんは様子見といった感じ。大貴が、

「はいはい、はーい。ダイキーズ、これ決定やろ」

「ダイキーズって、大貴は一人やろ」と塔子。

「ズコーッ」おきまりの大貴のズッコケ。

「塔子さんはじゃあ、何がいいの?」わたしが聞くと、しばらく考えて

「・・・あ、先生、それ、何て書いてるの?」

「え?」

わたしが飲んでいるペットボトルを指差して「それ」と言う。わたしが手にしているのは薄い緑色のボトルに入ったスパークリングウォーターで。

「これ?ああ、スパークリングって書いてあるの。パチパチっと弾ける、キラキラ、シュワシュワ、そんな意味かな」

「キラキラ、シュワシュワ・・・」じっとボトルに見入る塔子。

「あ、それいい!」京香が声をあげた。

「いい、いい、すごくいい!」「あーそれやったらいいかも。炭酸好きやしー」

双子ちゃんもうんうんとうなずいている。

「スパークリング?スパークル・・・スパークルズ!」

声に出してみる。

「スパークルズ。キラキラ輝いて、シュワシュワっとした泡がパチパチっと弾ける、いいねいいね。スパークルズ!」

「スパークルズ!」


わたしはみんなに宣言する。

「えー、わたしたちスパークルズは今年七月にチーム初めてとなるお披露目ステージに立ちます」

「えー、ステージぃ」「マジか」「やったー、やっとだよ」「ええー?」

「そのために色々な準備が要ります。ユニフォームとか、靴とか。それはまたお迎えの時、保護者の方にお願いするとして、今日から新しい練習を始めます」

用意していたノートパソコンを開いて、

「これよ。よく見てね」

頭を突っ込んでくる六人、と少し離れて見ている塔子。こういう時塔子はいつも少し引いている。


画面の中では、揃いのユニフォームを着た中学生くらいのチアリーダーが十名ほど肩を組んで一列に並んでいる。そこから音楽に合わせて高く足を振り上げる。前へ、斜めへ、つま先まで伸ばして美しく。リズムを取って角度を合わせて勢いよく上げる。時間差で片足を隣の人の腰まで上げて時間差で戻して。そう、これはラインダンスと呼ばれるもので、チアダンスには必須の動きなのだ。


「げえぇー、なんなんこれー!」と叫ぶ大貴。

「ぜってえ無理、ぜってえ無理、やりたくないこんなの!」

いつもより数段高めの声でブンブン首を振る。わたしは動画を止めて、

「あ、そう。じゃ、みんなはどう思った?」

「シンクロみたいでかっこいい!」「そう、そう、できたらかっこいいなあ」「できればねー」

双子ちゃんは顔を見合わせて「??」

「塔子さんは?」少し離れて見ているようにみえて、でもその目は画面に釘付けだったのをわたしは見逃さなかった。塔子はしばらく考えるようにして、

「大貴、なんでやりたくないの?」と言った。

急に振られて「えっ?」と言い、

「だって、だって、あれは女がすることじゃん。恥ずすぎる」

大貴の反応は予想通り。まあ始めは絶対そう言うだろうと思っていた。

意外だったのは塔子で、塔子は大貴になんと説教を始めたのだ。

「あんたさ、チア始めるなんて度胸あるし、どんどん体柔らかくなってるし、努力家なんだなあって感心してたんだ。えらいなあって。なのに・・・あれは女がやるもんだだって?あんたショーワか?」

「え、なんだよ、ショーワじゃねえわ」

「女がやるもんとか、男がやるもんとかって、決め付けて考えるのがショーワなんだって」

「・・・んなこと言ったって、こんな足上げたりするの、男がやってるの見たことねえもん。かっこ悪すぎる」

大貴の言い分に、にやっとするわたし。

「はいー。では次にこれ見て下さい。大貴、よーく目を見開いて見なさいよ」

わたしは準備しておいた別の動画を再生する。


それは、ミュージカル映画「コーラスライン」のハイライト、「ワン」のダンスシーン。あまりにも有名なこのシーンも初めて見る子どもたちにはどう映るのか。興味津々で子どもたちの顔をじっと見つめる。金色の衣装に身を包んだダンサーたち。金髪の女性もいれば、ひげ面のごっつい男性もいる。  男女混合の豪華なライン。絵のような完璧さ。


真っ先に口を開いたのは京香。「きっれーい。キラキラしてる」

つづいてわかなが「こんな風になるのー?すっごーい。夢みたい」

さえが「も一回、も一回!」双子ちゃんはうんうんうなずいている。

そして大貴は口を開けて見入っている。

「ほら、見た?男もやってるじゃん。」と塔子。

大貴は何か言いたそうだが、そのまま口をとんがらかせた。わたしは、

「まあ、とにかくやってみようよ。やる前からごちゃごちゃ言っても始まらない。スパークルズ、練習練習!」

「はーい」


そう、とにかくやるのだ。やらない理由を考えるのではなくて、やりたい気持ちだけ考えよう。

子どもたちにというより、それはわたしがわたし自身にかける呪文の言葉のようになっている。


 レッスン前に、わたしは義母のところに顔を出した。義父がこの時間昼寝をしていることが多いからだ。


スタジオの生徒さんは少しずつ増えてはいた。昼の子どもと一緒のピラティスクラスと夜の一般クラスが週に一回ずつ。幼児のチアダンスクラスはまだ週一回で五人のみ。

 問い合わせは時々あるのだが、現実はそう甘くない。

 もうすぐ三月が終わる。四月が来る。

言わなきゃいけないこのことがどうしても言い出せず、ずるずると引き延ばしてしまった。今日こそは言わなくてはいけない。

義父がいないのを確認して、わたしは義母の隣に正座した。

「あの、お義母さん。今日はちょっとお話が・・・」

「なんね、あらたまって」

義母はいつものソファーに座っていつもこの時間に読んでいる夕刊ミヤザキから目を上げる。

わたしは一つふっと息を吐いてから意を決して話し始める。

「スタジオの賃貸料のことなんですけど、お義父さんにちょっと待ってもらえないでしょうか」

義母は「ああ」と言う顔でわたしを見て、

「なんかと思ったらその話ね、ああ、よかよか」

「へっ?」わたしから変な声が出た。

「いいと、いいと。そんなん初めから分かってたとよ。おとうさんの言う金額は無茶苦茶よ。今の分だって多いくらいよ。充分すぎよ。奈緒ちゃんもしんどいんじゃないと?大丈夫?」

パアアーッと義母から後光が差している。わたしは思わず両手を合わせる。

「ありがとうございます。ほんとにいいんですね。今のままでいいんですね。倍にしなくていいんですね。ほんとですね」

「よかよー。あ、おとうさんにはちゃんともらってるってことにした方が、奈緒ちゃんが楽やろね。そういうことにしとこうか」

義母の後光はさらに輝きを増してまぶしいくらいだ。


・・・ああ、神様!よかった。ホントによかった。なんだ、もう、こんなにあっさりとクリアできるのだったらもっと早くくればよかったのに~わたしのバカバカ!


「ほいじゃ、そういうことでね」お義母さんはまた新聞を読み始める。

「はい!ありがとうございました!」


 急に肩の荷が下りて気が抜けた。これでなんとか四月からも続けていける。思いつめていたことがおかしくさえ感じられて。


・・・なんだー、もうそれならそうとお義母さんも言ってくれたらよかったのにー。もうー、ふふふ


スキップしながら階段を軽やかに駆け下りて。「ダンス、がんばろうー」なんて声に出してみたりしたのだが。


 ああ、甘くない・・・人生は甘くない



 四月に入って、子どもたちは春休みだった。その日は木曜日で、チアダンスの後、夜七時半からの大人のピラティスのレッスン。

 メールで問い合わせをしてくれたOLの河野さんとその友人三名は二月から、今月からはなんと大貴君のお母さん、佐野さんと社宅のお隣さんの東山さんが入って、あわせて六名でのレッスン。

「ずっとやりたかったんよ。三月末で組長の仕事が終わってやっと来させてもらいました。あ、こちらお隣の東山さん、桜小の6年よ。」

「東山です。よろしくお願いします。体、硬いんやけど大丈夫ですかね」

「大丈夫です。こちらこそよろしくお願いします」

 挨拶のあとレッスンを始める。まずはマットに座って足首回しをして、おしゃべりしながら今日のコンディションを訊いていく。次はマットに仰向けに寝て説明しながらピラティスの呼吸を行なっていく。

 スタジオには静かなやさしいオルゴールの音楽が流れている。

 

と外から聞こえてくるあの鈴の音。

チャリリン・・チャリリン・・・チャリリン・・・・

だんだん近づいてスタジオの前で止まった。


・・・え?


と思った次の瞬間、ガラガラガラ、と勢いよく開けられる扉。

「奈緒ちゃんー、ちょっと話があると!」

静かなスタジオに響き渡る声。マットに横になったみんなの目線が一斉に入り口に向けられる。

わたしは慌てて駆け寄って、

「すいません、お義父さん、今レッスン中なんですが・・・」

「んな、なに勝手に・・・。夜は貸さんと言うたはずよ、あんたに聞きたいことがあるとよ」

ざわざわ・・・妙な雰囲気を感じたみなさんが体を起こし始める。


・・・まずい、また?


幼児クラスのあの出来事が蘇ってくる。

「お義父さん、今はレッスン中なんです」

必死に止める。義父はたった今、スタジオに他の人がいることに気がついたようで、

「あんたら何?ここで何しとるんね」と上がってきた。

「お義父さん、今レッスン中ですから!」

止めるのも聞かず、どんどん入ってくる。

こうなってはもうレッスンどころではない。あっけにとられる人、隅へと逃げる人。佐野さんが、

「大成さんの・・・お義父さん?」といぶかしげに声をかけてくる。

すると義父は大声で、

「ここはワシん道場よ。奈緒ちゃんのじゃないと。もうね、こん人には貸さんと決めたけん、終わり、終わり。はよ出て行かんね!」と、しっしっとばかりに両腕を振る。


・・・おかしくなった?


わたしは怖くなった。いくらなんでもこんなことって・・・


・・・そうだ、お義母さん!


わたしは外へ出て全力で階段を駆け上がって、開いているドアを開け、玄関へ飛び込んだ。

「お義母さん、お義母さんっ!」

しかし、義母はいない、出掛けているようで。


・・・ああ、どうしよう。お義父さんが変になった!


また急いでスタジオへと取って返す。スタジオでは義父が何か説教のようなことを話していて、みんなはもう帰り支度をしていた。河野さんの友達は呆れた顔、佐野さんと東山さんは興味津々と言った顔で。バッグを肩に掛けてわたしの顔を見る河野さんは、口にこそ出さないが「なんなのよ、もう・・・」と言った表情をしている。わたしは、あまりのことに言葉が出ない。

すると佐野さんが、

「あー、すいません。なんだかおかしなことになってるようで、これ、どうしますかね?今日は・・帰ったほうがいいですかね」

すると、義父が

「帰んね、帰んね、んんもう夜にこんなとこで家、留守にして何やっとっかねえ、今の主婦は」

わたしは唾を飲み込み、やっとのことで、

「・・・皆さん。本当に申し訳ありません。またご連絡させていただきますので、今日は・・・これで」と言いかけて・・・・・やめた。


突然思い出したあの時の感触。

奈々香がわたしの服の裾をぎゅっとつかんで顔を押し付けていたあの感触。あの時・・・奈々香は悔しかったのだ。みんなの前で楽しい時間を台無しにされて。おじいちゃんが怖かったんじゃない。悔しかった・・・きっとそう!


わたしは顔を上げて真っ直ぐ前を見た。そしてこれ以上ないくらい大きい声で言う。

「・・・すいません、大変な邪魔が入りましたが、続けます。どうぞマットに戻って下さい。続けます!」

声はみっともないほど震えている。

すいません、すいません、と一人ひとりのところへ行って頭を下げ、「どうぞ座ってください、続けます」と声をかける。気まずい雰囲気の中、それでもみんなマットに戻ってくれた。

「お義父さん、仕事中ですから、話なら終わってからお願いします」

耳のそばへ行ってはっきりと言う。CD音量をやや大きめにしてわたしは鏡の前へ戻り、レッスンを再開する。

義父は真ん中に突っ立っている。それでも構わずレッスンを続けた。

「はい、では正面を向いて座ってください。後ろに肘をついて、そうです、足は軽く揃えて・・・」

しばらくはレッスンの様子を伺っているようだったが、義父は何事もなかったように黙ってスタジオを出て行った。あっけないくらいにすたすたと。わたしはその後姿を見て、あ、前より早く歩けてる

なんて思った。そんな、感心なんかしている場合ではないのに。


 なんとか十分遅れでレッスンを終えることができた。平謝りに謝るわたしに河野さんが言った。

「先生のとこも大変ですね、うちもそうなの。おじいちゃん、認知症で」

「えっ」わたしは驚く。

「今は病院に入ってるんだけど、一時期ひどくて・・・今日はちょっとびっくりしたけど先生がしっかりされてたから良かったわ、レッスンできて。まあ上手く付き合っていくしかないし、先生も大変やけど頑張って下さいね」

「・・・あ、ええ、はい。すいません。ありがとうございます」

河野さんたちは意外にも普通に「じゃあまた来週」と帰っていった。

そこへ佐野さん。

「いやー、さっきはびっくらこいたねえ、で、そうなの、おじいちゃんぼけてるの?」

わたしが逆に質問する。

「どう思いました?あれ、ぼけてるの?」

「え?私に聞かれても」「・・・?」


  夜のレッスンの後は忙しく、義母や夫にこのことを話さなければと思いながら翌日になってしまった。こういう日に限って夫は朝早くからいないし、義母の車もない。もう出掛けたようだ。

 奈々香を自転車で幼稚園に送り届けて、家に帰ってみると、玄関前に人の姿が。義父だ。

 ドキン、と跳ね上がる心臓。


・・・あ、しまった、昨日の話、そのままだった


玄関脇に自転車を停めて、おそるおそる話しかける。

「おはようございます、あの・・・」

くるっとこちらを振り向いた義父は笑っていた。

「ん、あ、奈緒ちゃん。どこ行ってたと」

「え?あ、はい。奈々香の幼稚園です、送ってきたところで」

「そうけ。ふーん。あ、名簿、名簿出しんさい」

「え?な、何の名簿です?」

「道場来とる人の名簿よ、名簿ぐらいあるろ」

「・・・それは、ありますけど、どうしてですか?」

義父に対しては口答えしてはいけない。それは取り説として分かってはいるのだがどうしてもこういう聞き方になってしまう。とたんに義父がむっとするのが分かる。

「どうしてて・・・。道場の主がここ使ってる人を全然知らんとではいかんと。住所とか電話番号とか何才とか、知っとかにゃ。今何名おると?百人ぐらいおるとけ?」

「・・・百人って」

今は個人情報の管理は常識なので、特に必要がなさそうな義父には見せられません、とは言えず。

「まだちゃんと整理できてないので、今はちょっと」

うまくごまかしたつもりがいけなかった。

「ふーん、そうけ。人数そんなにおらんとやもん、出せんわね。あんたはワシにうそばっかりついて、信用ならん、もういいと。もう道場は一切使わさんけんね。そのつもりでおりんさいよ」

「・・・・・!」

帰ろうとする義父を引き留めて、

「え?ちょっ、お義父さん。なんで、そのつもりでって・・・」

「あんた、ママと一緒になってワシをだまそうとしたね。払っちょらんもんをいかにも払ったようになんてこすいことを考えてワシをだまそうなんてこつ、絶対許せん、絶対許せんとよ!分かったね」


・・・あ、ばれてる?なんで?お義母さん?


「そういうことやけ」

杖を突き帰って行く義父の後ろ姿はなぜかとても嬉しそうだ。

さーっと音をたてて血の気が引いていく。


・・・どうする?どうしよう?どうしたらいい?お義母さん、しげくん!


わたしは家に入らず、そのまま駐車場を向いておろおろとするばかりだった。



「あちゃあ、そういうことにはものすご鼻が利くんよ、まいった」

その日のお昼、わたしが緊急招集した三者会談で義母はため息まじりにそう言った。

「あの、今日も練習ありますけど大丈夫でしょうか?何かしなくて大丈夫でしょうか?」

夫があり合わせのおかずでご飯を食べながらふがふが言う。

「なんか、って言ったってひょうがないれしょ。」

「しょうがないってねえ!それじゃ済まないでしょうが!」

「まあまあ。奈緒ちゃんに言いいたかったんよ。もう使わさん、とか。言うと気が済むってのもあるよ。そんな気にせんでも大丈夫と思うよ」と義母。

「お義母さん、なんでばれたんですか?お義母さん、お義父さんから何か言われてませんか?」

義母はちょっと考えて、

「あ、あれやね。この前あん人、うちの通帳をじーっと見とったんよ。もうちょっと上手くやればよかったんね。道場の賃貸料を上手くごまかそう思って、家の通帳から引いて道場の通帳にほいって、奈緒ちゃんからもらった分に足して入れといたんだけど。流れが読めたんやね。すごいわ」

感心したように言う。わたしはあのことを言ってみる。

「お義父さん・・・ぼけてませんよね、認知症とかじゃないですよね」 

夫と義母が顔を見合わせて、

「いやー、それはないない。ぼけてあれだったらかえって怖いよ」と言う。

「あ、でもねえ」と義母。

「こん前病院行ったら、おとうさん、目が悪うなっているんよ。前やった白内障の手術、あん後からようないわ。耳も遠くなってるし、事故の後は手も震えるし。体がやっぱいうこときかんのよ。イライラするし、そんでなんでもはいはい言ってくれる奈緒ちゃんに当たってるんかねえ」

「お義父さん、今家にいます?」わたしが聞くと

「いや、さっきなんか、コンビニ行ってくるって出掛けたよ。お菓子大好きやから買いに行ったんとちがう?」

「ま、おれもおふくろも気にかけておやじを見張ることにするから、あんまり気にしすぎずに、な?」

「・・・うん」

そうはいっても昨日のこともある。わたしは気が気ではない。いつ、あの杖の鈴の音が聞えてくるか、いつ義父がスタジオに乗り込んでくるか。

その日のレッスンはどうしても入り口の扉にばかり視線が行って、集中できなかった。



 その翌週のことだった。

学校から帰ってきた京香がランドセルを背負ったままスタジオに飛び込んできた。

「ママー、なんか変な看板がいっぱいあるよー」

「え?」

京香に言われて表へ出てみると、家の前の道路脇に白く塗られた四つ切画用紙大のベニア板が置かれていて。

そこには黒の筆書きで

「剣道教室 月曜から金曜午後5時から7時 無料 元気な子どもの遊び場」

とあり、矢印が書かれている。

さらに行くと、バス通り沿いにも

「遊び場 剣道教室こっち」「剣道無料こっち」「錬心館道場 心と体を鍛えましょう」


・・・え、なに、何これ


そこへ家から出てきた奈々香が、

「ママー、家の電話が鳴ってるー」

「え?」

慌てて家に戻ると電話機の着信を示すランプがぴかぴかしている。発信元は「桜ヶ丘小学校」。急いで電話をかけるとすぐに事務の方が教頭先生に繋いでくれた。

「・・・あ、大成さんですか。教頭の平林です。すいません、それがですね、あの、今、不審者情報がありまして。えー、『黒っぽい服を着た年配の男に下校中の男子児童が声をかけられた。男はチョコレートを渡して、ちらしのようなものを無理やり児童のポケットに入れようとした。児童が逃げると追いかけてきた』ということなんです。で、ここにそのちらしがあるんですが。・・・大成とあって、剣道教室と書いてあるんです。これ、もしかして大成さんのお知り合い・・・とかではないですかね」


・・・ああ、それは多分!


「すいません、あの、今からそちらへ伺います」

京香に奈々香と留守番しててと頼んで急いで小学校に向かう。


・・・今朝はあの看板はなかった。お義父さん、今どこに?


もしかしてまだこの辺にいるかもときょろきょろしながら自転車で学校に向かった。


教頭先生は、すいませんねーと言いながらことのあらましを説明してくれた。

「いや、大成さんのお義父様とは知らず、不審者なんて言って申し訳ないです。それが、五年の男子の保護者の方から電話がありまして、「うちの子がさっき変な人に声をかけられて逃げて帰ってきた」といった内容でして。これがちらしです。どうも、今朝方もこれ、登校途中の児童に配っていたらしいです、すぐそこの横断歩道のところで。校門指導の先生が気がついて一言注意したらしいです。そうしたら、すぐにいなくなったということですが・・・」

わたしは頭を下げる。

「すいません。悪気はないんですが、その・・・お子さんをびっくりさせるようなことをしまして、本当にすいません。」

「いや、こちらも分かりましたので、電話があった保護者の方にも、事情を説明して安心してもらいます」

「すいません・・・」


このあとも、すいませんを5回は言って家に戻った。帰り道には手書きの看板が転々と置かれている。

・・・これ、どうしよう。勝手に片付けたらえらいことになってしまう気がする。でもこれ・・・

 

心にまたちくちくと棘が刺さる。


・・・月曜日から金曜日、午後五時から七時、チアのレッスンの時間

・・・剣道教室、無料・・・


 どす黒い感情が込み上げてきて、また心臓が変な速さで動き出す。看板を睨んで、しばらくそこから動けなかった。


わたしの心配をよそに、昨日、義父はスタジオに現われなかった。それでもレッスンの始まる五時すぎになると冷や汗が出てくるくらい緊張した。

義父は夕方帰ってきたようで、小学校から連絡があったことを義母に注意されると、

「そげんこつがあるか?声かけただけとよ。んんな、変な世の中になったもんじゃね」と言いながらも、少しはしょげていたようで。

「でもねえ。おとうさんの言うことも分かるよ。昔は近所のお年寄りが学校の行き帰りに子どもに声かけるのなんて当たり前じゃったもの。それが今は不審者扱いやもんねえ。もう、懲りたろうから」

わたしは一番気になっている剣道教室のことを尋ねた。義母は

「気にせんでいいと。心配せんでも誰も来やせんて。あんな看板見て来る子はおらんよ。大体、おとうさん、稽古つけれるのかねえ、床の竹刀を拾うのも一苦労なのに」

「でも、もしも、もしもですよ。剣道やってみたい子どもが一人でも来たら?お義父さん、練習やる気なんですよね。そうしたら、わたしどうしたらいいんですかね?」

「来やせんて。もう、心配症やねえ」

そんなこと言われても心配なものは心配で。

「今日は私が家に居るから、もし誰か来たら言うておいで。私からびしっと言うたげる。剣道教室はやってないって」

下がり眉の情けない顔のわたしはそれでも落ち着かない。義父は今日も出掛けているようで家にはいない。どこに行っているのだろう。

「最近、よく出掛けてるんよ。歩き具合もだいぶよくなってるし、それはええことなんやけどね」

今日は早い時間から幼児さんクラスがある。そのあと、スパークルズの練習だ。こんなに気が重く憂鬱なのに、レッスン中は明るく元気に笑わなくてはいけない。


・・・ああ、肩が凝る。なんか考えてばかりでよく眠れてないせいかな


最近は布団に入ってもなかなか寝付けない。考え事がぐるぐると頭の中を走り回る。それはそう、義父のことだ。


・・・お義父さんは本当に剣道がやりたくなったの?体調がよくなったから。でも今月分のお金払ってるし!半分だけど払ってるし!おかしいでしょ?絶対おかしいでしょ?そこまでわたしに使わせたくない理由ってなに?わたしがお義父さんになんかした?なんか悪いことでもした?掃除して、きれいにして・・・なんでこんなに嫌われてるの?嫌われてるの・・・


そうなのだ。わたしはこんなにあからさまに人から嫌なことを言われたりされたりするのに慣れていない。特に身内の、親しいはずの人から嫌われるということが信じられず、堪えるのだ。人間、自分を多少偽っても、やはり人からは好かれたいし、嫌な態度をとられたくない。当たり前だ。その当たり前がここに来てから崩れているのだ。それも義理とはいえ父からで。


 布団を顔まであげて目を閉じる。今日も眠れなさそうだ。



 義父は何回か、スタジオにやってきた。

紺の道着とはかま、竹刀を持ってスタジオの入り口で子どもがやってくるのを待ち構えていた。

わたしはその横で緊張しながらレッスンの準備をする。そのうちチアの子たちが集まり始める。

「ここは剣道場よ。神聖な場所よ。ああ、また元気ないっちゃねー声が全然聞えんもんね」

独り言のように話しているのを見て、大貴が、

「おじいちゃん、何話してん?」と話しかけて、

「ったく口のきき方がなっとらんたいね。先生と呼ばんね」

と叱られていたりした。義母の言ったことは当たっていたようで、剣道教室には誰も来なかった。見学にくらい来るかと思ったが、一人も来ることはなかった。


・・・無料でも誰も来ない。今の子どもの教室は甘くない、厳しい、厳しいわ


十日くらいの間は、スタジオに来て待っていた義父も、さすがに諦めたのか、来なくなった。義父には悪いが、わたしはもう、本当に、本当にほっとした。


そして、嬉しいことに四月から幼児クラスの問い合わせと希望者が徐々に増えて、週に2クラス、九名の生徒さんが新しく加わった。奈々香を入れて十五名。プチクラスだけでも十分にチアチームとしての形がとれる人数だ。

最初は「ともだちがいないから」とやるのをしぶっていた奈々香だったが、スタジオから楽しい音楽と笑い声が聞こえてくると「やっぱりやる」と言ってきた。

七月のお披露目ステージにむけて、わたしも子どもたちも練習にも熱が入ってくる。

そしてスパークルズ。

ずいぶん筋力がついてきて、真っ直ぐに腕を伸ばして演技する「ストレートアームモーション」もはじめと比べれば見違えるようだ。課題のラインダンスもなんとか見られる程度に足が上がるようになってきた。ただ、全員の息が合うというにはまだまだ遠い。そう、ラインを合わせるには身体能力はもちろんのこと、お互いの心を通わせることが重要なのだ。


「そろそろこの七人の中のキャプテンを決めたいと思います。みんなを引っ張っていける、まとめていけるリーダーね」

「先生、それ、運動会の応援団長みたいな役?」と大貴。

「んー。まあ、そう。そうかな」

「はいはいはい、おれ。おれやりたい」と大貴。わたしはみんなをぐるっと見回して、

「みんなは?他にやりたい人は?」

みんなは顔を見合わせて。遠慮がちに若菜が言う。

「わたしはー、京香ちゃんがいいと思う。一番なんでも上手いし教えてくれるし」

さえがじろっと若菜を見て、

「くじ引きがいいと思いまーす」と言った。

「みんな、いろいろ考えはあると思いますが、今回、キャプテンは先生が指名させてもらいます。この人ならできる、この人にやって欲しい、そういう人がいます」

わたしがそう言うと、みんなは一斉に「ええー、だれーだれー」

じっとわたしの顔を見てくる。

「キャプテンは・・・塔子さんにやってもらいます」

「ええー」「やっぱりー」「そんなー」いろいろな声があがる中、当の塔子は膝を抱えたまま、

「六年だからでしょ」と言った。

「もちろんそれもあります。でもそれだけじゃない。塔子さんには隠してるいいところがいっぱいあります。それをどんどん出して欲しい。そして七人の心を一つにしていって欲しいです。塔子さんならできると思う。お願いします」

「よっ、スパークルズ、キャプテン、うわっ、超かっこいい!いいなあー」と大貴。

京香もわかなも双子ののぞみ、あかりも、少し遅れてさえもパチパチパチ、と拍手した。

「さあ、キャプテンも決まったところで、今日も練習練習!」

「はいっ!」

七月のステージまであと一月半。もう一月半しかない。

いくら踊っても踊り足りないような京香、その京香に必死についていくわかな、みんなを笑わせて場を和ませるムードメーカーの大貴、もっと上手くなりたいという根性のあるさえ、二人ならシンクロ率100パーセントののぞみとあかり、そしてきっとみんなを引っ張る力を持っている塔子。

わたしもやるしかない。この七人を信じて今できるすべてのことをやるしかない。


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