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オニシュート日記    作者: てん
6/7

スタジオオープン!ああ、でもでもでも・・・

 床のサンダー掛けも残すところ出入り口付近だけとなった。長かった戦いの日々が今日で終わる。二十五年の垢を落とし、さっぱりと白くなった道場。苦闘の二十日間を忘れないために、上がりかまちの縁だけこげ茶のまま残すことにした。

・・・おお、アクセントになっていいじゃん

昼前にはすべてのサンダー掛けは終わった。わたしが携帯で呼ぶと夫が見に来た。

「ああー、きれいになったなー。すごい、拍手!」ぱちぱちと手を叩く。

「言われた通り、300番で全体をささっと磨いておきました」

「おお、完璧!このあとは掃除機かけて、モップで水拭きして乾かしておこう。で、いよいよ明日、ワックスかける」

「ふんふん」

「天気がよかったら、仕上げ磨きしても一週間もかからないよ。おれも手伝えるから」

「うんうん」


道場の仕上がりの見通しはついた。

と同時にわたしには新しい決断が要求される。ダンススタジオを開くにあたって、絶対必要な設備、用具の購入である。

それについては夫ともう話し合っていて、

「やっぱり、わたしのスタジオなんだからわたしが揃えないとと思う。まず、オーディオ。そんな本格的なのは買えないからCDプレイヤーのちょっといいやつを、スピーカーもいるね。あと、ストレッチマットと、事務机もいるよねえ」

「事務机はおれの部屋に使ってないのがあるよ」

「あー、助かる。じゃ、それで。それとトイレね。今和式でしょ、古いし。洋式にしてシャワートイレにしたらいくらかかるかなあ。あと、これ・・・照明。お義父さん天井工事するのに全部外しちゃってるでしょ。また付けたら使えるかな?・・・え!捨てちゃったの?全部?・・・ああ、じゃ買わなきゃだめだね」

わたしは天井を見上げてつぶやく。


・・・なんで、なんで捨てる?どうでもいいものいーっぱい取ってあるのに


それから、多分これが一番高い。

ダンススタジオにどうしても必要で一番高そうなものと言えば、そう、『鏡』だ。この広い道場の、前の壁に一面だけでも、どうしても欲しい。これはケチれない。

わたしは押入れの小物入れから通帳を取り出してページをめくる。


・・・自分のダンススタジオを開くということはこういうことなんだ。いやいや、こんな広い場所があるというだけでありがたい、すごいことなんだから、感謝しなきゃ

独身時代からこつこつ貯めてきた、スズメ・・・よりはもうちょっと大きいか、ハトの涙くらいの貯金。

・・・こういう時のために貯めてきたんだから、思い切ってサヨナラしましょ。いや、ほんと、これがあってよかった。京香、奈々香、貯金はやっぱり大事だよ


 ワックス掛けは、床削りのあとではあっけないくらい簡単だった。

ワックスをバケツに必要量出して、きれいなモップを浸してバケツの縁で適度に絞る。まず壁に沿って「コ」の字を描くように外側を塗る。薄く、壁からちょっとだけ離して塗っていく。そのあと、真ん中を奥から「S」字に塗って。これで一回目のワックス終了。ちなみにワックスの上手な掛け方は。ワックスの説明書に書いてあった。

「天気もいいし、空気も乾燥してるからすぐ乾くよ。乾いたらもう一回塗って。乾燥させたらサンダー400番くらいで軽く仕上げ磨きして終わりだよ」

サンダーと聞いてげっそりしたが、夫と二人でなでるようにかけて・・・。



「写真!写真、撮っておこう。完成記念写真!」


つやつやと光を反射する白く生まれ変わった床。ひと月前の荒れた姿はうそのよう。

初めてやった大工仕事、DIY。初めてで大変で、でも今となっては楽しかったと思えてくる。夫と二人、手作りで仕上げた道場。

今日からは「スタジオ」!わたし

の「スタジオ」!

頭タオルにマスク、ゴーグル、作業用グローブのまま、わたしは満足気な笑顔で写真に納まった。





天井の照明工事は義母の知り合いの町内の電気設備会社に頼むことになった。オーディオとスピーカーは、夫と二人ネットで調べて良さそうな物を購入した。トイレの工事は半日もかからず。そして鏡。市内いくつかある専門業者さんの中から、ここはどうかな?というところを見つけて、実際にそこへ行ってみた。高い買い物だ。電話一本では済ませたくなかった。

「岡本ガラス工芸」

わたしが行くと直々に社長さんが出てきてくれた。取り付ける場所は元剣道場で、古いこと、鏡を取り付けられる壁なのか心配なこと、そして、予算が少ないことなどを説明すると

「壁によっては取り付けを考えないといけないですから、今から見に行きましょう」

と、早速スタジオを見に来てくれた。この道場の壁は外壁にベニア板を直接打ち付けた簡素なものなので、強く押すとそこがぺこっと凹んでしまう。社長さんは壁を押したり叩いたりして、

「・・・うんまあ、なんとか付くでしょう。で、大きさですが」

姿見サイズから特大サイズまでサイズも厚さもいろいろあるが、この壁だと繋ぎ合わせるより、一枚ものの方が映る姿にゆがみがでないということで、規格品では最大の大きさの鏡を二枚取り付けることにした。鏡が用意出来次第、二、三日中には取り付けてもらえることになった。


 三日後、スタジオの前の道路にトラックが横づけされて、その荷台にはまわりの風景をそのまま取り込んで複製している異次元空間のような板が固定されていた。


・・・うっわー大きい、映ってる景色がめちゃめちゃ不思議なかんじ、イリュージョン!


まずは道場入り口のサッシが外された。それから男の人三人がかりで鏡が荷台から下ろされる。そのままそっとそっと、運ばれていく。

「あ、ちょっと斜め、ストップ!当たる!」

鏡の短い方の径とスタジオ入り口の幅がほぼ同じでぎりぎりだ。ソユーズが宇宙ステーションにドッキングするかのような微妙なコントロールで(想像)少しずつ、少しずつ、鏡が建物内へと吸い込まれていった。

思わず息を止めていたわたしは「はあぁーっ」と声が出てしまった。

鏡を運び込むと、「岡本ガラス工芸」の人たちは手際よく壁の下準備に取り掛かった。そのうち社長の岡本さんまでもが来てくれて、

「どう、大丈夫?反ってない?そうそう、補強して水平にして」

わたしは用意していた飲み物とおしぼりを持ってきて、

「すいません、わざわざ社長さんまで来てくださって」

岡本社長はまんまるな顔をさらにまんまるにして、

「いやー、僕もこれがついた感じ、見ておきたくて。なかなかこの大きさのは出ないから」

と、ありがたい言葉を言ってくださった。

と、その時、あの音がわたしの耳に入ってきた。 

チャリリン・・・チャリリン・・・

ぱっと振り向くわたし。


・・・なんか、イヤな予感


こういう予感は外れないのはなんでだろう?


義父は杖をつきながら靴のままでスタジオへ上がってきた。

「あ、お義父さん、すいません。あの・・・靴を」

わたしが目に入らないような様子で、義父はまっすぐ鏡に向かってきた。そしてスタジオ中に響き渡る声で、

「なんね!なんばしよっとけ!」

岡本社長も、社員さんもわたしも、瞬間フリーズ。

壁の前に仁王立ちして杖を鏡に向ける。

「こんなもんを、勝手に置くな、やめ、やめ、いらん!」

杖が鏡に当たりそうで、わたしは身を呈して、義父と鏡の間に割り込んだ。

「・・・や、お義父さん。先週、わたし言いましたよね。どうしても練習に必要なので鏡を入れさせていただきますって」

わたしは必死だ。

「・・・・」

「お義父さん、その時何もおっしゃらなかったので、お義母さんに『いいってことでしょうか?』って確認しましたよ。そしたら『ええよええよー。いつ入るのー?』って」

「ママがええ言うたからって、それがなんね」

「今になって、そんなこと言われても困ります、もう、買っちゃってるんですから!」

「そんなん、ワシには関係ないわ」

わたしと義父の話を聞いていた岡本社長が、静かな声で口を開いた。

「あの、お義父さまは、剣道の師範でいらっしゃるんですよね」

義父は社長の方をくいっと向いて、

「だれ?」

「あー、私、ガラス屋です。昭和町の・・・岡本といいます。いや、立派な道場ですね」

岡本社長はスタジオを見回して、

「築二十五年とお聞きしましたが、いやいやまだまだこの道場はしっかりしてます。おかげでこの大きさの鏡も難なくつけられます」

義父は岡本社長が何を言いたいのか探っているようで、

「お義父さまはまだ、現役でいらっしゃいますよね。さすが背筋もぴしっとされてる。毎日素振りとかはされてる?いや、僕も昔は剣士でしたから、道場は懐かしいですよ」

「あんたも剣道されてたとけ?」

ちょっと言葉の勢いがゆるんだ。

「はいー、昔はみんな、剣道でした。エイイッツ、トオオォッって」

竹刀を持つまねをして、

「素振りの時とか、鏡があると自分で自分を見ることができますよね。便利ですし役に立ちますよ。で、この大きさの鏡、なかなかないんですよ。宮崎でもここくらいですよ。いや、すごい、ほんとに」

「そうけ・・・?まあ、姿勢が大事やからね」

「あの、もう御代は頂戴してますし、この道場のサイズに加工してしまっていますから、要らないのなら引き取りはしますが、もったいないですよ。これだけの鏡を」

「こんなもの、じゃまなだけたいね」

「いえいえ、全くじゃまにはなりません。この前に立ってみてください。ほら、全身が映って稽古しやすくなりますよ」

「・・・・・」

「すいません、今日はこのまま置かせて下さい。もし、どうしても要らないって時はまた引き取りに参りますから」

「・・・・・」義父は黙ったままで。

岡本社長は、わたしにちょこっと笑いかけて、

「さあ、急いで仕上げして。今日はもう一軒いくとこあるぞ」

社員の皆さんの手が再び動き出す。情けなく眉を下げたわたしは岡本社長に、深く深くお辞儀をした。義父はしばらく作業の様子を見ていたが、急に回れ右をして、スタジオを出て行った。

その場の全員に、ほっとした空気が流れた。

「・・・すみません、本当に、すみません」

わたしにはそれしか言いようがなくて。岡本社長は笑いながら「うーん!」と言って伸びをして、一言、

「なかなか大変そうだねえ」と言った。わたしはまたふかぶかとお辞儀をして。

この時は岡本社長に助けられた。社長があの場にいなかったら、一体どうなっていたか分からない。

でも、社長のこの時の一言が、後になってわたしを悩ませることになる。




鏡がついて、道場はダンススタジオとしての体裁が立派に整った。ぴかぴかの、輝くような美しい鏡。何度も何度もうっとりと眺める。


・・・はっ・・・うっとりしてばかりはいられない!


いつでもレッスンができる状態になり、わたしはもっとも大変な「人を集める」作業に本腰を入れた。

 

ある程度は分かってはいたが、これがこんなに大変だとは・・・。


まず、ここへ引っ越してきてまだ間がない。昔からの知り合いも友達も皆無。普通、ダンススタジオを始める場合には、どこかの施設を借りてまたは別のスタジオで数年教えて、生徒さんが自分についてきてくれる準備ができてから独立する。そうでなくてはとたんに経営が行き詰る。

なのにわたしは全くの全くのゼロからのスタート。しかも、「ある程度人が集まってからはじめよう」なんて言ってはいられない。


・・・もう十一月も半分過ぎてしまった。絶対十二月には、今年中にはレッスン始めなきゃ!


まずは正攻法から始める。ここの周辺には学校、幼稚園など子どもが集まる場所がある。調べてみると、児童館や公民館、市民センターまである。少し行くと大型のアパート棟や社宅群まで。

まずちらしとポスターを作った。両方とも手作り。ちらしは自宅のコピー機で、ポスターはコンビニのカラーコピーで。

園長先生に許可をもらって、奈々香の幼稚園のお迎えの時に校門の外で、保護者の方にちらしを配った。

「あのー、今度『キッズチアダンス教室』を開きます。ぜひ遊びに来てみてください」

「チアダンス?なんですそれ?」「へー、場所は・・・あ、近いのね」「あ、結構です」

反応はさまざま。無視する人、ポケットティッシュ配りの時のようにさっと受け取って無言で行ってしまう人。いちいち相手の反応にびくついている自分が情けない。


・・・今度、ティッシュ配っていたら、絶対笑顔で受け取ろう


奈々香と一番仲良しというひなこちゃんのお母さんにも声をかけてみた。

「チアダンス、奈々香ちゃんと一緒だったら楽しいですね。きっと行くって言うと思います」

「そうですか、ありがとうございます」

「他にも何人か、誘いたいお友達もいるんですけど、いいですか?」


・・・ああ神様!


「もちろんです!十一月いっぱいは体験レッスンで何回でも無料です。スケジュールはここに。ぜひいらしてください。お待ちしています」

 京香の小学校ではPTA活動で一緒の委員会になった方や、参観日に来ている保護者にそれとなくちらしを渡したりした。ここでも心臓バクバク、冷や汗がとまらなかった。京香と同じクラスの子が一人、とても興味を持ったらしく、「絶対行く!」と言ってくれた。

十一月は半端だし、どんな風にレッスンをしていくか探りさぐりでもある。とりあえず幼稚園クラスと小学生クラスの二つを作って、体験レッスンのスケジュールを組んだ。十一月中はすべて無料にして、自由に何回でも体験してもらうことにする。正式オープンは十二月から。


・・・来る子の年齢によってさらにレッスンを分ける必要があるかもしれない。何曜日の何時からが集まりやすいのかも分からない。とにかく、やってみないと


ポスターは近くのスーパーやホームセンター、児童館に貼ってもらえた。これにもいろいろと条件があって、「仲間募集してます」はよくても「○○教室生徒募集」はダメとか、「有料の教室はだめ、でも体験無料期間内だけ貼り出せる」とか。なかなか厳しくてコンビニで二十枚刷ったポスターはぜんぜん減らなかった。


「なーな、ママとお散歩しよっか?」

「かえりにコープにいく?」

「行く行く」

「じゃ、いく」

夕方、奈々香と手をつないで、近くのアパートや社宅にちらしをポスティングしに行く。ななと手をつないでいるだけで、ちらし配りがとても心強い。

「あのね、ひなこちゃんがね。来週レッスン受けに来てくれるって」

「えーななもやる!」

「そう、ななも一緒にやろうね」


ご近所の四棟並んだ社宅群。四階建てアパートの一階、階段の横に集合ポストがある。三つ折りにしたちらしを一軒一軒入れていく。入れ終えたら次の棟へ。二棟めのポスティングをしていた時、

「ちょっと!何入れてるん?誰に断って入れてるん!」

厳しい声にびくっと振り返るわたしと奈々香。奈々香の顔は硬直している、いや、きっとわたしも。

「・・・あ、あの、これ。すいません」と、ちらしを差し出す。

ひっつめた髪、化粧気のない顔、スリムで飾りのない感じのその人はちらしを見て、

「ふーん、チアダンス?あ、見たことあるよ、『チアダン』でしょ」

と、意外にもにっこり笑って。固まっている奈々香の顔を見て、

「ああ、ごめーん、ごめんね。驚かせたよね。ごめんごめん」と何度も謝った。

「すいません。勝手に入れていたわたしが悪かったんです、すいません」わたしが謝ると、

「いえいえ、この位のやったら別にいいのいいの。あたし、この棟の組長なんやけど、それがね、この頃何回もローン関係のとか、いかがわしい電話のちらしとかが入ってるんよ。で、嫌なんやろうね、ポイッて下に捨てていく人もいて、掃除がめんどいんよ。『あ、また捨てられてる!』って」

「そうなんですか」

その人はじっくりちらしを読んで、

「これ場所・・・あ、二丁目。すぐそこやん。十一月無料体験!やあ、これ、行きたいわ、ダイエットにもなるやろ?」

「・・・そんなに細いですもん、ダイエットとかは必要ないですよ。あ、それにすいません。まだ子どものクラスしかないんです」

「えー、そうなん?残念、作ってよ、大人もできるクラス。近いから行きたいわ」と、嬉しい言葉。

「はい、落ち着いたら大人もやりたいなって思ってます」と、わたしが言うと、

「これ、一人で始めはるの?いや、えらいわあ、小さいお子さんもいてはるのに。あ、私ここの棟の佐野です。佐野今日子。子どもは桜小の4年と六年。あー、いくつかな?一年生?幼稚園?」

佐野さんは奈々香の顔を覗き込んでにかっと笑って。

「年中さん、今五才です。あ、桜小の4年!うちも上の子が4年です。4の2の大成京香です」

「あ、分かった!転校生の京香ちゃん!うちも4の2よ。いややー、京香ちゃんのお母さんですか!」

いやーいややー、となんだかものすごい反応。

「うち、佐野大貴、男子やからあんまり知らんかも知れんけど。大貴が新学期早々、『おかあちゃん、おかあちゃん!今日、すごい子が転校してきた!』言うてもうえらい騒ぎやったんよ」

「え、えらい騒ぎ?」

佐野さんはもう、ノリノリで再現VTRのように演技しだして、

「アニメの主人公みたいやって。『真っ直ぐの長い髪でー色が真っ白で、目が大きくてー「得意なのは算数とバレエです」って言ったとき男子全員がズギューンと来た!』って言ってたよ。おまけにめちゃめちゃ頭がよくて、男子も女子もおんなじ班になりたがってるんやて。『あああ~今月も同じ班になれんかった~担任ブッコロス!』あ、ちゃうちゃう、もんのすご残念がってたわ!」

ププッと思わず吹いてしまった。佐野さんの関西弁のおもしろさ。それに、初めて聞く学校での京香の話。


・・・そうなんだ。京ちゃん、クラスでそんな感じなの、知らなかった。なじんでるようだし、よかった


「ママ~、もうコープいこう」

奈々香がわたしの手を握って揺らす。

「あ、ごめんごめん。立ち話長うなったね」

佐野さんはそう言い、わたしが持っている紙袋を見て、

「それどこまで配ったの?向こうからここまで?・・・じゃああと五十枚くらいちょうだい。一応やけど、ポストに入れるちらしには自治会のはんこ押すことになってるんよ。残りの分私がはんこもらってポスト入れとくから。大丈夫、大丈夫、大貴にやらせるから。あ、ちゃんっとやらせるから任せなさーい。それから、掲示板にも貼っておくね。がんばって~」

袋からがばっとちらしを取ってまた、にかっと笑って、佐野さんは階段を上がっていった。

その後ろ姿をじっと見送っているとじわっと目頭が熱くなってしまった。

「ママー、いこ~う」

「・・・うん、うん。・・・いこか!」


 西の空にはオレンジ色と朱色の雲が秋の陽を受けて輝いていた。風が出てきて肌寒い。


「ななっぴ、寒くない?」

「ぜんぜんさむくないー、ねえ、おだんごかって?」

「はいはい、おだんご」

「みたらしね」

「はいはい、みたらし」


日に日に暗くなるのが早くなり、風も冷たさを増してきた。

けれど、たった今知り合ったばかりの人にもらった笑顔が、わたしの心をぽっと暖かくしてくれていた。つないでいる奈々香の手も暖かい。


・・・だいじょうぶ。きっとなんとかなる


「なな、走るよ。よーい、どん!」

「ええー、ずるいー」

「ママが勝ったら、あんこに変更~」

「むうぅー、とりゃああー」

全力で追い抜いていく奈々香の後を、わたしは走って行った。




          4




「チアダンス教室」オープン

   レッスン曜日・・・ 月曜日から金曜日まで毎日(土・日はお休み)

レッスン時間・・・ 午後四時から五時・・・プチクラス(未就学児クラス3才から)

              午後五時半から七時・・・ ジュニアクラス(小学生以上)

   十一月二十日(月)から三十日(木)まで 無料体験レッスン実施中

『キッズチアダンス さくらがおか』


スタジオの外扉にラミネートしたスケジュール表を貼り付けて、わたしは緊張していた。

「行きますね」と言ってくれた人はいたが、本当に集まるのかは分からない。スタジオの道路に面した入り口には、これまたわたしの手作りの看板が揺れている。ホームセンターで買ってきた長方形の板。サンダーをかけて表面をつるつるにして、アクリル絵の具で『CHEER DANCE さくらがおか』と書いた。エル字の支柱を立てて、上の部分にねじくぎで看板を取り付けた、夏休みの工作みたいな看板。

「ねえママ、もうくる?ひなこちゃんは?」

「うん、そろそろ来る頃かな多分」

ひなこちゃんを待ちわびている奈々香は、さっきからスタジオを出たり入ったり忙しい。そう言うわたしもCDの音量を上げたり下げたり立ったり座ったり。我慢できなくなって外に出て、祈るような気持ちで通りを見つめていると、バス通りから十人くらいの子ども連れの集団がやってくるのが見えた。

「あ、ここ?」 「大成さーん、きたよー」

ひなこちゃんのお母さんとその友達の一行で、わたしの目はみるみる潤んでくる。

「ななかちゃーん!」「ひなこちゃーん!」

「うわ、広い、きれい」「こんなところが近くにあったんやねー」「知らなかったわーすごいねえ」

口々に嬉しい感想を述べてくれる。わたしはひなこちゃんママに心からお礼を言った。

「・・・ありがとうございます。本当に来てくれて嬉しいです」

すると、ひなこちゃんママは、

「えー、行くっていったもの。今日はこちらこそ遊ばせてもらいに来たかんじで・・・よろしくお願いします」


・・・ミヤザキの人、口約束もしっかり守る!素晴らしい!


他のお母さん方にも挨拶してから、奈々香を含めて七人の子どもたちの前に立ち、先生の顔になる。

「さあ、ではみなさん、今日はここで、ダンスして遊びましょう!」

「わーい」「やったー」「きゃー」


バレエの基礎の要素を入れた最初の準備運動から始めて、広いスタジオをスキップやジャンプをしながら順番に走るクロスフロア、音楽に合わせて動いたり止まったりするゲーム、最後はビニールテープで作ったポンポンを持って簡単な振り付けダンスをした。

子どもは広い場所が大好きだ。そこを走りまわるのも、音楽に合わせて動くのも、ゲームするのも。久しぶりのレッスンに時間を忘れてしまい、気が付くともう終わりの時間になっていたほどだった。


 無料体験レッスンは思ったよりも人が集まった。五時半からの小学生のクラスは京香と同じクラスの子が五人来てくれて、中にはなんとあの、佐野大貴くんもいた。

「いやーどんなところか一回来てみたかってん。すご、広いんやね」

大貴くんと一緒に来てみたという佐野さんはこそっとわたしに耳打ちして、

「大貴、チアダンって何か知らんからだまして連れて来たったわ」

当の大貴くんは女子に混じってかっちかちに固まっていた。

来てくれた人たちに聞いてみると、ちらしやポスターを見て来たという人はいなくて、わたしが声を掛けた人やその友達、一回体験に来てくれた人の声かけなど、いわゆる「口コミ」で来たという人がほとんどだった。

曜日によっては少ない日もあったが、スタジオの出だしとしてはかなり順調じゃないかなと、わたしの緊張が少し緩んできた矢先事件は起きた。。



二回目、三回目と体験レッスンを受けてくれる人が出てきたある日。レッスンの準備をしていると、チャリリン・・チャリリン・・・とあの音。後ろを見ると、入り口に、にこにこ顔の義母と義父。

「いやー、奈緒ちゃん。子どもいっぱい集まったっちゃね、立派立派!道場から子どもの声が聞えてくるのいつくらいぶりっちゃろ」と義母。義父も同じくにこにこ顔で、

「きれいになったっちゃね。ワシがここ建てた時を思いだすっちゃ。道場が喜んどる」

と、嬉しいお言葉。

「はい、まだまだですが頑張ります」とわたし。

「じゃねー、お義父さんとちょっと出掛けてくるわ」

義母は車を出しにすたすた歩いていった。すると義父は胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出して、

「奈緒ちゃん、これ。やっぱ子どもは走らせんといかん。今の子は特にね。あとー声が小せえわ。蚊がなくごたる、聞こえやせんよ。もっと腹からこう『タアアッ!タアアッ!』って声出させんといかんよ」

やってみんさいねーと言って義父は駐車場の方へと歩いていった。

わたしの手に残った一枚の紙。開いてみるとそこには、


「練習メニュー ①道場三十周、掛け声をあわせること、先頭「ヤーセイッ」後方「セイッセイッ」 ②うさぎとび十往復 足腰をきたえる  ③鏡にむかって踏み込みの気合三十回 大きい声が出る  ④鏡に向かって正座瞑想 心をきたえる」


・・・なにこれ?なにこれ、なにこれ!


チアリーダーのユニフォームで額に鉢巻したわたしが「ヤーセイッ!」と掛け声をかけ、後ろに続く子どもたちが「セイッ!セイッ!」と声を合わせて道場をぐるぐる、ぐるぐる走る。フラフラの子供たち。それを道場の真ん中で腕組みした義父が厳しい目で追っている。手には竹刀。


・・・いやいやいや、ないないそれはない


同じくユニフォームでうさぎ跳びするわたしと、後ろで「先生―、足痛い~」とひっくり返っている子どもたち


・・・いやいやいや、うさぎ跳びは今どきやらないって


同じくユニフォームで鏡に向かいポンポンを両手に持って、「キエエーッ!」子どもたちも「キエエーッ」、「ヤアアーッ!」「ヤアアーッ」、「メエエーンッ!」「メエエーンッ」


・・・いやいやいや、おかしいでしょ、異常でしょ


最後におなじくユニフォームで座禅を組むわたしたち。ゆらっと頭が動いたわたしに後ろから義父の警策(きょうさく・あの肩を叩くあれね)がバシイッ!ころんころん倒れる子どもたち


・・・いやいやいや、もうね、わたしの妄想こそがおかしいの、うん


義父のにやにやした顔がフィードードバックしてきて、わたしはぶるっと震えた。


・・・いや、・・・まあ、まあ落ち着け。大きな声とか、心を静かにするっていうのはいいことだ。でも・・・どうも剣道に傾いてる気が・・・はは、まさかね  


しかしこの「まさかね」は、さっそく次の日現実となった。


レッスンの用意をしてスタジオに向かうと既に出入り口は開いていて、中には紺色の道着とはかまを着けた義父が、竹刀を手にわたしを待っていた。

「あ、奈緒ちゃんー。待っとったとよ、もっとはよ来んね!今日は何人くると?」

義父は鏡に向かって竹刀を構え、角度を変えてポーズを取っている。

「うん、なかなかいいごたる。あの鏡屋ウソは言わんかった。稽古しやすそうげな」


・・・え、稽古?


「ああ、今日の体験は、多分6、7名くらいかと」

「かーっ、少なかねえ。ワシがここで教えてたときはもう百名からの子どもが、わんわんおったこつあるに」

わたしは窓を開けて回り、音楽の準備をしながら、

「ああ、でも今は子どもの数が減ってきていますし」

と言ったとたん、義父は鏡に向かって、

「メエエェエーーン!」

「ひやっ!!」

驚いた拍子にCDを落っことした。

「言い訳すな!すみません、ひとことでいいと!」

「え・・・あ、は、はい、すみません」

わたしはどきどきする胸を押さえて言った。

 ・・・今のなに?怖かった、ほんとにびっくりした


なかなか静まらない心臓と少し震える指でCDを順番通り並べていると、

「せんせいー、こんにちはー」「今日も来させてもらいました」と、体験の参加者さんたちが集まり始めた。

「ママー、今日もひなこちゃんきたよー」

にこにこしてひなこちゃんと手をつないで奈々香も入ってきた。

義父はまだそこにいる。

「はいー、こんにちは。待っていましたよ」わたしはつとめて明るく言って。


・・・中でずっと見る気なのかしら どうしよう


義父はわたしの横で鏡を見据えている。すぐにレッスンの時間になった。

しょうがない!わたしは気持ちを切り替えて、

「では今日も楽しくチアダンスしましょう!」

と、バレエの基礎用の軽やかなクラシック音楽をかける。すると、

「なにしよっと?」と音楽をかき消す大声。

「まずは、走らせるとよ。んんな・・・昨日言うたばっかりやのに。ほらみんな、走らんね!」

義父はゆっくりとすり足でスタジオの真ん中に移動して、竹刀を振って催促する。


・・・これ、これって、昨日の妄想?妄想の現実化?


いつもと違う雰囲気に戸惑うお母さんと子どもたち。わたしは慌てて、

「そう!今日はスキップとシャッセからいきましょう。さ、先生のあとについてきてー」

と、音楽に合わせていろいろなステップでスタジオを回った。五周もしたところで止まって、

「はい、みんなからだ暖まったね。じゃあ並んで・・・」

「まだ十周もしとらんよ、たったそれだけけ!」

また怒鳴るような大声。子どもたちも、びくっとしている。


・・・なんとか、なんとかしないと


とっさに頭に浮かんだのは、先日の岡本社長。わたしはできるだけ大きな声で、

「みなさーん、今日、来てくれているこの剣道の道着を着た人は、わたしのお義父さんです。それからこの道場を建てた人です。拍手~!」

パチパチとわたし一人が手を叩いて、

「みなさんがどんな風に練習しているか見に来てくれています。せんせいも今日はいつもの二倍、がんばってやります。みなさんも元気にいきましょうー」

いつもなら「はーい」と返事が返ってくるのだが、今日はみんなそんな気にならないようで。誰かが、

「じゃあ、ななかちゃんのおじいちゃんなの?」と言った。奈々香はすっと下を向いた。

「・・・あ、じゃあ次いきますよ。ポンポン持ってダンス・・・」

「うさぎとびはどしたと?声だし踏み込みは?」義父がわたしの言葉をさえぎる。

「あ、あの、今日は足をちょっと痛めてるので、ポンポン・・・」

「声出しは?声出しはすっとけ?」

「あ、それは・・・、それはまだわたしやったことがないので・・・」

義父はにまーっと笑ってうなずいて、

「はい、では、みんな来んさい、来んさい!こっち、鏡向いて集まって」

子どもは素直だ。変だなと思いながらもみんな鏡を向いて義父を見る。

「はい、それでは先生のまねをしてください・・・ではいくよー」

義父は竹刀を前に構えて、スウーっと息を吸い、「ダンッ!」と勢いよく床を鳴らして、


「キヒャアアーーエエエーーイィッ!!」


と断末魔のような(聞いたことないので想像)叫び声を張り上げた。

これ以上ないくらい目を見開く子どもたち。そして、

「・・・うぇええーーん」

ひなこちゃんが声をあげて泣き出した。

「ママ~!こわい~」

みんなが口々に騒ぎ始めて。一人が泣き出すともう止まらない。全員が涙なみだで、

「かえる~」「うえっうえっ・・・」

スタジオは子どもの泣き声で充満した。

「だいじょぶ、だいじょぶ、なかないで・・・」奈々香が必死でひなこちゃんを慰めている。でも、

「こわい~かえりたい~」ひなこちゃんはお母さんのところに走っていってしまった。


・・・あ・・・やってしまった・・・


わたしは細かく震える指をぎゅっと握りこんで、

「・・・あ、あの、義父さん、これはちょっと」

義父はなぜ子どもが泣いたのが理解できないといった顔で、

「・・・はあ。なんで泣くと?できんからけ?できんなら、できるまですりゃええだけじゃがね」

ひなこちゃんママの隣に座っていたはるなちゃんのお母さんが、キッと義父を見て言った。

「驚いたんですよ!わたしも、びっくりして飛び上がりましたよ・・・今の、何なんですか、もう!・・これじゃ、今日はもうレッスンはムリなようなので帰ります。」

さ、もう帰るよとはるなちゃんをうながすと、

「はあ、子どもが泣いたら帰るって、そげん親でどうするとけ?子どもにも泣いたら負けって、教えんといかんもんを、なっさけなかねえ今の若い人は・・・」

「分かりました、分かりましたから、すいませんお義父さん。レッスンをさせていただけませんか」

わたしも必死だ。

すると義父はわたしの顔をぐっと睨んで、

「分かったって、どう分かったんけ?奈緒ちゃん」

義父がズッズッとわたしに近づいてきた。わたしはそれをかわしてお母さん方のところへ走って行って、

「すみません、すみません・・あのレッスン再開しますので・・・」

ひなこちゃんはまだ、うっうっとしゃくりあげている。奈々香もひなこちゃんの隣でうつむいている。

「あの・・・、ごめんなさい。うちも今日はもう・・・」

ひなこちゃんのお母さんは荷物を持つと、子どもの手を引いて出て行ってしまった。

「・・・うちも」

「すいません、今日は帰ります・・・」


その日来てくれていた全員が次々と帰っていき、わたしと奈々香、そして義父だけが残った。

かけていたCDが終わって、スタジオはしんとなる。

奈々香はわたしの服をぎゅっと掴んで顔をうずめている。

わたしはただその場に立ち尽くすしかなく。

義父はさすがに気まずそうに、だが、はっきりと言った。

「・・・やっぱり、ダンスとかは根性ねえわ。ちいっとのことですぐやめる。ここは道場よ。苦しい修養を積んで体と精神を鍛える場所よ。神聖な場所なんよ。んな、ダンスなんちゅう、そんなちゃらちゃらしたもんするための場所じゃねえっちゃわ」

わたしの頭の中は怒りと悔しさと失望感でぐちゃぐちゃで、言い返したいのに言葉が喉につっかえて出てこない。出てこないことがさらに悔しくてわたしの胸は大きく上下する。

「・・・おじいちゃん、キライ!」

奈々香が吐くように言った。

それが聞えたかどうか分からないが。

義父は竹刀を杖がわりにつきながらスタジオを出て行った。





「あのさあ、おふくろから電話があって・・・」

夕ご飯用のお米を研いでいるわたしに夫が声をかけてきた。

「・・・あって、なに?」わたしは手を止めずに聞き返す。

シャカシャカシャカシャカ・・・

「うん、あの剣道場の照明代、おやじが払うって。いくらか訊いて来た」

わたしは一瞬手を止めて

「スタジオ、のね」

「うん、そう、それ。・・・よかったじゃん、結構掛かったし、だいぶ助かるだろ」

ざあーっと水を入れてざあーっと水を切る。

「そう。後で領収持っていく」


言いたいことを言えなかったせいでわたしの腹の中はまだ怒りのマグマが煮えたぎっていた。悔しさと、無念さと、レッスンと子どもたちを守れなかった自分自身の不甲斐なさ・・・思い出しては涙が出てくる。


あんなことがあったがスタジオは予定通りオープンさせた。


五時半からの小学生クラスは京香を入れて全部で7人。火曜日、木曜日、金曜日をレッスン日とした。

そして幼児クラス。

口コミで集まってくれた人たちは、口コミによって去っていってしまった。

幼児クラスはゼロ。開店休業。


「ね、ちょっとこれ見て。作ってみた」

彼がタブレットをわたしに見せる。そこには『CHEER DANCEスクール さくらがおか』の文字。

「ホームページ作ってみた。まだ写真とかないけど。どうよこういうイメージで」

そこには桜を連想させるピンクと宮崎の澄んだ空のようなスカイブルーのロゴ。色とりどりのポンポンと、ダンスする子どもたちのイメージ写真。

・・・ん?顔はよく分からないけどけど・・・これ去年の京香のバレエ発表会の時の、あ、ななの運動会のダンスの写真!うまいこと加工してごまかしてる

詳細な地図ものっている。

「会費とか、曜日とかの所チェックしてよ。あーあと、プチクラス?随時体験レッスン実施中にしといた。まずメールか電話で予約してもらってからなら問題ないでしょ」

わたしは食い入るように画面を見てうなづく。

「うんうん、問題ない」

「ちらし見てくる人がいなかったって言ってたでしょ。やっぱりこれからはこういうネットで見て興味を持って来るんだよ。きっと」

わたしは彼を見て目を細めて、感激の気持ちを身振りで表す。

「しげくん、ありがとー、きれい、きれい、さすがプロ~最高!」

さっきまでの態度をすっかり改めて。

「ま、このくらいはね。お安い御用っていうことで」

わたしはエプロンを外して、

「ちょっとお義母さんとこ行ってくる」


領収書を持って実家の階段を上る。あの日以来、義父の顔を見ていない。

「おじゃまします・・・お義母さん」

玄関のドアはたいてい開けっ放しで、わたしは靴をぬいで部屋に上がる。上がったすぐ左側が義父の部屋。ドアは閉まっていた。様子を伺いながら居間に入る。義母はソファーに座って新聞を読んでいた。

「あー、奈緒ちゃん。、いらっしゃい」

「はいー。あの、お義父さんは?」

「いま昼寝中。おそーい昼寝。」

ちょっとほっとする。義父がいたら聞きたいことが聞けないからだ。

「あ、あのこれ、照明の領収書ですけど、出してくださるって、いいんですか?」

わたしは義母に聞いてみる。

「お義父さん、どうしてこれ払ってくれる気になったんでしょう?」

義母は眼鏡をちょっとずらして、

「さーあ?ちょっとくらい出させんといかんよ。もともとあったのを勝手に外したんだから」

「はあ・・・」

「この間の罪ほろぼし、じゃないことは確かやけどね」

・・・はあ・・・じゃないんだ

「おとうさんから話は聞いたよー。しつっこいから同じこと三回は聞いた。奈緒ちゃんからしたらえらい迷惑って言うか、災難よね」

「・・・災難」

「おとうさんとやっていくには、気にせんこと、これが一番大事よ。いちいち気にしてたら身がもたんよ」

義母は自分に言い聞かせるように言った。

「・・・はあ」

そう言われてもそれは至難の業です、と言いたいのをぐっとこらえた。わたしは聞きたかったことをこの際聞いてみる。

「お義父さんって・・・どんな人なんですか?」


これまでは、休みに実家へ帰省した時会うくらいで、義父と直接話す機会はあまりなかった。これからは家は違うとはいえ一緒に暮らしていくのだ。まず相手を知らなくては。相手を知ることは自分の身を守る第一歩だ。


「そうねえ。一言でいうとまじめ、やね。あと熱血。自分大好きなとこもあるね」


・・・まじめ、熱血、自分大好き・・・あのテニスのが思い浮かぶ


「そんで頑固。これがいっちばんの問題点やね。この4つが合わさるとあんなんが出来上がるんかねえ」

「そう、なんですかね」

わたしは先日の義父に感じたことを話す。

「お義母さん、失礼だったらほんとすみません。お義父さん、何かあるとすごく大きな声っていうか、人を驚かす声を出すんです。この前も子どもたちの前でものすごい声を出して。それにみんな、びっくりしたというか、怖気づいたというか・・・。あれは、剣道では普通なんですか?」

「ああ、試合では出すよ。相手をびびらせるためにも出すし、自分を鼓舞する気迫のためやから。やけど、そんなん普段は出さんよー。出さん出さん。おとうさんは、分かってて、相手に言うこと聞かすときとか威嚇するときあの声出すんよ」

「・・・威嚇ですか」

「そう。わたしと普通に話すときはほんとかわいいもんよ。でも何か自分の考えと違うこと言われたり否定されたりしたら、もう大変よ。なんてったってうちのお殿様やもん」

「・・・はあ」

わたしはそれしか言えない。

「ああ、あったわ、昔。ずっと昔、シゲの弟のヨシちゃんが小学校の頃よ。この道場建ててすぐくらいの頃。聞きたい?」

わたしはうんうんとうなずく。

夫には五つ年下の弟さんが一人いる。今は一家で東京で暮らしている。


「PTAのね。なんかの行事の打ち上げでね。みんなで近所のスナックへ行ったのよ。この辺じゃそこしかなくてね。で、特にその日は盛り上がってね。ついつい時間が経つのを忘れてしもたんよ。その頃、うちの門限・・・これおとうさんが勝手に決めた門限ね。十二時やったのを、ほんの二分か三分遅れて帰ってきたのよ。大急ぎで帰ってきたの。シンデレラよー。そしたら、玄関のカギが閉まってる。『おとうさーん、開けてー』って言ったら、なんかドサドサッて音がして。下おりてみたら、道路にわたしの布団が落とされてるんよ」

「ええ!?」

「おとうさん、ベランダから『ほーら』いうてぽーんと枕も落として、『今日はそこで寝え』だって。あきれるよねえ。あれ、待ち構えてたんよ、あと1分・・・あと三十秒って。・・・仕方ないから道場の軒先のコンクリのとこで寝たよ。そんで、翌日言うことには、『この指導を忘れずに、まちがいは二度とおかさないように』だって。今やったらただじゃすまさんけどね」


目に浮かぶ。道路沿いに植えてあるキンモクセイにひっかかっているシーツと掛け布団・・・


「もちろんええとこもあるんよ。おとうさんはね、一度こうと決めたら絶対にやり抜くバイタリティーがあるんよ。責任感もある人やし、ついていったら楽よ、楽。ま、だからかあたしも一緒におれるんかね」

義母はわたしのひざをポンポンとたたいて、

「まあ、奈緒ちゃん、始めたばっかりやし、ながーい目で楽にやっていって。おとうさんのことは気にしない、気にしない」

お義母さんは台所に立って行って、三温糖の袋を持ってきて

「これ、セール品やったの、持って行って」

「あ、すみません、いただいていきます。ありがとうございます」

とお礼を言った。

・・・あれ?なんか、聞きたかったことあったんだけど、あれ・・・

何だったっけと思いながらわたしは家へと戻っていった。





レッスンが始まった。

たった7人といえど、新スタジオに集まってくれた大事な7人だ。ひとり一人の様子を見ながらレッスン計画をたてる。京香と同じクラスのさえ、この子が最初に「絶対やる」と言ってくれた子だ。       もう一人同じクラスのわかなは体が大きくて6年生のよう。それから隣の校区の小学校から来ている5年生の塔子は「なんとなく入ってみようかと思った」そうで、桜ヶ丘小2年ののぞみとあかりは一卵性の双子だ。そしてそして、嬉しいことにあの、大貴まで入会したのだ。


・・・男女混成チアチーム、かっこいい!


わたしが長年やってきたダンスドリルというのは14のそれぞれ特性のあるカテゴリーに分かれた競技的ダンスの総称、とでも言えばいいか。中でもわたしが得意だったのは、ジャズダンス、ポンポンを使って踊るポムダンス、ストーリー性のある観客を楽しませるためのダンス、ショードリルだ。この三つをうまく組み合わせてわたしらしいチアダンスの形を作ってみようと思う。


・・・チアダンスなら絶対に欠かせない「アレ」をできるようにせねば


まずはからだ作りから始める。京香以外のメンバーは初めてのバレエの基礎に全くからだがついていかない。体の軸となる筋肉がない上に体が硬い。体力もまだ全然足りない。

それでも一つずつ、一つずつ今出来ることを積み重ねていく。一つ一つ動きを覚えていく。そしてある時、前は出来なかった事が「できるようになってる」自分に気がつく。

うまくいったら嬉しくて、できなかったら悔しい。頑張ってできるようになったらまた次の目標を見つける。その繰り返しをを楽しんで、成長していってくれたらいい。それがわたしの目指すダンススタジオ。


「はい、じゃ、最後にいつものあれね」

わたしがそう言うと大貴がオーバーに「ひええぇえー地獄の股裂きや!」と嘆く。

あははは、と笑いながら、マットを出して柔軟運動を始める。


・・・ホントにね、柔軟ほど不公平なものはないよねえ


両足を前に投げ出して膝をのばして長座体前屈、そこから両足を開いて横開脚、体の向きを変えて足を前後に開く前後開脚。

わたしや京香、奈々香は生まれつき体が柔らかく、柔軟はそれほど苦にならない。もちろん極限までのばす時は痛いのだが、すぐ忘れるということはその程度の痛みなのだと思う。一方、男子は女子に比べるとやはり体が硬いようにも思える。特に大貴は膝をピンとのばして座ることさえ難しい筋金入りのカチカチ。柔軟はまさに地獄の責め苦(想像)なのだろう。いつも目の端にうっすらと涙を浮かべて、

「・・・先生、お酢飲んだらからだやわくなるって本当?」

「うーん、疲れは取れそうだから、飲めたら飲んで?」

「マジか?うちのかあちゃんが飲め飲めいうねん、オエッ」

「プッ、ククク」

と、笑いながら隣では京香が見事な前後開脚からの上体反らしでポーズをきめている。

「京香ちゃんきれいーすごいー」と感嘆の声をあげているのは、同じクラスのわかな。わかなは身長も大きいのだが、それに輪を掛けて体重もある。が、必死に京香の柔らかさに近づこうと頑張っている。

「そんな頑張ったって同じにはなれんのに」と、諦めモードに入っているさえ。わたしは、

「毎日やってたら必ずできるようになるの。ほら、諦めない、諦めない」

と声をかける。二年生の双子、のぞみとあかりはさすがというか、柔らかい。上体反らしでは自分のつま先で自分のあごを挟めるほどだ。そして5年生にして飄々とした雰囲気の塔子。体も柔らかいし体力もあるのだが、なぜかやる気が感じられない。言われたらやるけど言われなかったらやらない、と言った感じで。

「もったいない、もっともっとできるよ」と言っても、

「いや、これで全力なんで」と言い方までゆとり世代の大学生風で。

塔子の入会理由は「なんとなく」だった。なんとなく何をどうしたいんだろう?


スタジオの扉にカギを掛けて、家に戻ろうとした時、またもあの音が。

チャリリン・・チャリリン・・・階段を下り終えて、一歩ずつゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。疲れた体にピッと緊張が走る。わたしは姿勢を正して、

「お義父さん、こんばんは」と大きい声で挨拶した。

最近耳がかなり遠くなってきていて少々の声では「声が小さい!」とお叱りを受けるからだ。

「ああ、よかった、ちょうど奈緒ちゃんとこ行こうとしてたとこよ」

「あ、はい、なんでしょう?」

・・・なんだろう・・・またも悪い予感が

「奈緒ちゃん、あんたとこ、ちゃんと月謝集めてやってるとよね」

「あ、はい、そうです」

「ん。じゃあね道場の家賃払いんさい。今月分と来月分」

「!」

 

それはわたしも思わなかった訳ではない。タダより高いものはないということは引越しのリフォームで身に沁みている。電気も使うし、水も使う。建物の固定資産税だってあるだろう。ただ、スタジオの設備にかなりの金額がかかっている。義母の「長―い目で、楽にやんなさい」の言葉を鵜呑みにして、もう少し経って、スタジオの運営が軌道にのったら、なんて甘い考えでいたことは確かで。


・・・はあ、やっぱ、そうだよね


「はい。すいません。こちらから言い出せなくて。・・・あの、ひと月おいくらぐらいですか?」

わたしは遠慮がちに聞いた。義父はにかっと笑って、

「うん、十二万よ」

「・・・・・?・・・ええっ!!」

わたしは聞き間違えたと思ってもう一回「ええっ?」と言った。

「・・・なんね、聞こえんとけ?じゅうにまんえんよ」

「・・・・・・・・・」

電気代込みで十二万円。来月分は今月の末までに払うこと。ええね」

義父は「じゃ」と言って帰ろうとした。わたしは、慌てて、

「ちょ、ちょ、ちょっと待った、じゃなくて、ちょっと待ってください」

義父の前に回りこんで、

「急な話で、そんな話今初めて聞きました。じゅうに万って!どこからその金額が出たんですか?」

ああ、この時の義父の顔ったら、まるで鼠をいたぶる猫のような(実際には見たことないから想像)表情で、

「・・・なんね。この広さよ。十二万じゃ安いとよ。奈緒ちゃんだから十二万にしとくんやからね」

「いや、そんなお義父さん、そんなのいきなり無理ですよ。まだはじめたばっかりで、十二万って、そんなばかな」

あ、しまったと思ったが時遅く。

「ばかなとはなんね!」

杖をばしっと地面に叩きつける。

「ひっ!」

「ここはね、アパートになるんやったの。ワシのアパート、アパート!ワシがどんだけこれに心血を注いでたか、あんた全然知らんちゃろ」

義父は怒鳴り声をあげる。

「ワシはね、同期に比べて年金少ないっちゃよ。だから、ワシがおらんようになってもママが困らんようにアパート建てたかったとよ。ここ、三部屋作る予定やった。一部屋四万として三部屋で十二万よ。だから、ここ使いたいんなら十二万払いんさい!」

完全に気圧されて、心臓がものすごい速さで脈打っている。


・・・怖い、でもこの前の二の舞はごめんだ


やっとのことで言い返す。

「・・・でも、でも、お義父さん、それはやっぱり、あんまりですよ。ここ、使えるように修理したのはわたしですよ。そのために費用だってかかっているし。わたしが直さなかったら、十二万どころか今だってあのままですよ。それを・・・」

言った、言えた!言いながら、込み上げてくる感情に言葉が詰まる。

「だから、ここを使う権利があるって言いたいっちゃろ。やけんど、ワシはあんままでよかったとよ。アパートのままでよかったと!あんたたちがここ使いたくて、無理やり、勝手にやったとよ。それに、トイレとか鏡とか、あんたの好きでやったもんたいね。天井の明かりはワシが直したとやけん、ここはワシの道場よ。家主が家賃決めてなんの文句があるとけ。嫌なら借りんでよか!それだけよ」

 義父は最後の言葉を言い捨てるようにして、階段を上がっていく。

チャリリン・・チャリリン・・・

杖をついて手すりにつかまって。途中、踊り場で小休止して、また、チャリリン・・・

なぜかわたしはその後姿を見て、「ああ、ずいぶん早く上れるようになった」なんて思って。


スタジオの入り口に座り込んで扉にもたれかかった。辺りはもう真っ暗で、野村さんの家の前の街灯の明かりでやっと通路が分かる程度だ。

こんなところに座り込んでいても何がどうなるわけでもない。

・・・寒い、あ、ごはん構えなきゃ

そう思うのに。

わたしはそのまま、自分の足元が暗闇に溶け込んでいくのをじっと見つめていた。



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