スタジオ作っちゃう?
3
十月の空は高く、晴れ渡っていて。
「ぶあっ!奈緒ちゃん、マスク、マスク!」
窓を開けたとたん風が吹き込み、床のほこりを巻き上げて目の前が真っ白くなった。
マスクに軍手姿の夫とわたしは道場の入り口から中を見渡した。
「・・・はあ、よくもまあ、こんなにズタズタにできたもんだ」
剣道場をぐるっと見渡しながら、彼がつぶやいた。
結婚してすぐの頃だっただろうか?夫の実家に帰省した時見たこの場所は、窓から日光が斜めに差し込んで光の帯ができていた。両側の壁には防具が整然と掛けられ、広々とした静かな場所だった。
今目の前にあるのは、よく映画なんかで出てくる荒れ果てた工事現場か廃屋のセットのようだ。
「さあ、まずは、この材木、下に入れないとな」
まだ一言だって「やる」とは言ってないのに、わたしは夫の
「さあ、やるかあー!」
の気合に押されるようにして剣道場に立っていた。まあ、たしかに、京香と奈々香を送り出した後は時間はあることはある。すぐ隣の実家の一階がこんなに荒れ放題の汚れ放題じゃ、気持ち悪いし何かと心配でもある。
「そこ持って、いくよっ」
彼の掛け声にしぶしぶ木材の端を持つ。
使われることのなかった三メートルの角材を二人で担いで注意深く外に出る。この建物の前の道路は剣道場入り口から駐車場に向かってゆるい下り坂になっている。駐車場側から見ると道場の床部分はかさ上げされ宙に浮いた形となっていて、太い鉄骨が建物を支えている。そのちょうど大人の背丈くらいのかさ上げ空間は倉庫兼、屋根付きの駐車スペースになっているが、なにせ広い。夫はどんどんいらない木材を奥に運び込んでいく。彼は義父同様、背が高く体もがっちりしていて、腕力もある。こういう力仕事は得意なのだろう。楽しそうにさえ見える。わたしは角材を三、四本も運んだところで肩が痛くてたまらなくなった。見ると、肩には帯状の赤い内出血ができている。
・・・ひええ、こんな薄いTシャツとかじゃだめなんだ、先に言ってよもう~
重いものは力持ちに任せることにして、壁に立てかけられていた白い板のようなものに目をやる。
両腕で抱え込んで持ち上げようとした瞬間、ビビッ!と腰に衝撃が走る。
「・・・ぎぁ!」
腰を押さえてよろけるわたし。
「?奈緒ちゃん、大丈夫?あ、それ、石膏ボード、重いよ」
・・・そうだったの?こいつ・・・白くて軽そうなくせに
涙目で、ちょっと座ろうとタタキに出たわたしの足に、妙な違和感。
「あイタタ・・・なにこれ?」
上がりかまちに座って左の靴を脱いで見ると・・・。なんと五センチほどの釘が靴底を貫通して突き刺さっていた。奇跡的にちょうど親指と人差し指の付け根のすき間の部分。わたしはぞぞーっと青くなった。
・・・安全靴の必要性、今、分かったわ、わたし!
腰は痛いし肩は痛いし、気力も萎えてしまったわたしは、砂山の横に転がっていたバケツを持ってちまちまとこの危険物を拾うことにした。
・・・あいたた、腰がいたい。このところ運動不足だったからか。これっくらいで情けない・・・
これが噂に聞く(呪いの)五寸クギかーとか、「の」や「ひ」の字に曲がったクギを見つけて、こんなぶっといクギが床に打ち込まれていたなんてと、なんだか痛々しさを感じながら拾っているうちにあっという間にお昼になった。
・・ああ、作りたくない、出掛けたくもない・・・それでもお腹は空いてくる
彼の方を見ると一人で黙々と木材を運んでいる。仕方なく家に戻って念入りに手を洗ってうがいをした。よたよたとキッチンに入る。
・・・あ、そうだ、あるある!これ!こういう時のお助けは
冷凍室から取り出したのは、「ライスバーガー牛カルビ焼肉」。袋から取り出して中袋に切り込みを入れ、600ワットでたったの2分20秒!インスタントの味噌汁をお椀に入れてお湯を注ぎ、昨日作っておいたきゅうりのゴマ油一夜づけを出して完成と。
「お昼だよー」と呼ぼうとした時、ちょうどのタイミングで彼が入ってきた。
「ああー、疲れた。腹減ったー」
「ほんとだよ、ささ、たべよ食べよ。いただきまーす」
・・・うーん、このライスバーガー。某ハンバーガーチェーンのものと遜色ない美味しさ。ジューシーな
カルビと香る焼肉のタレがごはんにちょうどの量で沁みこんで。バンズがわりのライスの食感もいい。ありがとう、冷食、やっぱ日本の冷凍食品は世界一だわ
彼はバーガーを三、四口であっという間に平らげ、炊飯器からごはんをよそって食べだした。
「おやじのアパート、まだ基礎段階だったから助かったよ。柱をどかせばすぐ平面に戻ると思う。にしてもまあ、ほんと適っ当すぎる工事、巨大な工作だよ」
「そうなの?」
「おやじ、器用なのは器用でさ、昔から何でも作っちゃう。でも、いかんせんクオリティーが低いんだよ」
「はあ」中途半端な相槌を打つ。
「今度のこのアパート計画だって、三部屋を軽自動車一台分くらいの予算で作る気だったんだよ。で、本職の大工さんはできるだけ使わず、部屋に備え付ける洗面台とか流しとかも廃品みたいなの探してきて再利用する気だったんだから」
「あ、下の駐車場に転がってたあの・・・」
木材を入れる時に気がついた。隅のほうに立てかけられていたサッシやガラス戸。
「そうそう、ドアとかサッシとかも全部そう。そんなボロアパート作ったって、今時の人は気味悪がって入らないって。もしも入る人がいたとしても、その人たちの入居管理とかはおふくろだろ?絶対いやだってさ」
「はあ・・・」
「おふくろも社交ダンスやってるから体動かすの好きだし。おれもさ、昔ここで剣道やってたしここが変なアパートになるより、昔みたいにみんなが集まる広いスペースのほうがいいに決まってるよ」
「うん・・・。そうだね」
ふと、昨日の義父のあのくやしそうな表情を思い出してしまった。
「・・・しげくん、朝からずっと片付けしてるけど、いいの、仕事は?」
「大丈夫、今週は特に急ぐ仕事ないし。あ、あさってから福岡行ってくる」
「泊まり?何泊?」
「二泊の予定。前の会社のパソコンでやることあるから」
「ふうん」
「だからなんとか今日と明日で柱なくしちゃって、フラットにしとく。立てるのは大変だけど、外す作業はそれよりはずっと早いから。あ、壁は今日中に仮に塞いどく。そしたらおれのいない間にいろいろ作業できるだろ。まあ、とにかく掃除が大変だよ」
「うん・・・そうだね。大変そうだよねえ・・・」
・・・えー、わたしがひとりでやるの?えー
わたしは急須に沸かしたお湯を入れながら一番気になっていることを言う。
「あのね、昨日の今日でこんなにどんどん片付けしちゃって、みるみるきれいになるのはいいんだけど・・・お義父さんさ、全然納得してなかったでしょ。昨日もすごい顔してたよ、見たでしょ?」
「ああ、おやじ?そうだろうね。大好きなおもちゃを取り上げられた子ども、って顔だったね」
「なんか、心配」
「そう、だから急いでるの。チンタラチンタラやってたら、いつまた『やっぱりアパート作る~』って言い出すか分からない。往生際が悪いからねー、うちのオヤジは。早くもと通りの剣道場に戻して、奈緒ちゃんがレッスン始めちゃえばさ、もう言い出したくても言えなくなるよ。昨日あの場の全員が聞いたからね、オヤジが自分で言ったんだから、奈緒ちゃんにやってみろって」
「ま・・・そうか。そうだよね」
「そうだよ」
「お義父さんが言ったんだよね、わたしにダンス教えたらいいって」
「そう!」
「武士に二言はないよね」
「そうそう、痩せても枯れても剣士だよ」
「そっか!」
「そうそう!」
厚い灰色の雨雲が千切れて、そのむこうにあった青空が見えた、そんな気がした。雲間からわたしに向かって降りてくる一筋の光・・・。シャラララーン、シャラララーンというウィンドチャイムの音色まで聞えてきた。心の中に細々と点っていた火種が急にスパークして輝きを増したようだった。
「そうと決まれば、さ、午後もやるよ!ガンガン運んじゃうよ~!」
「えー、コーヒー淹れてよ」
「コーヒーは三時じゃ!」
「え~」
わたしはTシャツの上からタンスから引っ張り出したGジャンを羽織り、一番靴底の厚いホーキンスを履いた。
「もうー、食べ過ぎると、動けなるよ、ほら、行くよ」
彼をキッチンに残してわたしは一足先に
戦場へと戻って行った。
「さて、始めますか」
今日のわたしは完全防備。キャップ、首タオル、ゴーグルにマスク。作業着と化してしまったお気に入りのGジャンにGパン。軍手も作業用のグローブに変えた。
昨日は朝、起きられなかった。
京香が、
「ママー、起きてー。もう七時二十分だよー」
とわたしをゆさぶって
「・・・ん、え?ええっ!えーー!やだ、うっそ、こんな時間!」
起き上がろうとしたとたん、
「ひあっ、い痛い!あ・・・こ、腰が、肩が、ふとももが・・・!」
体中が痛くて思わず悲鳴をあげた。
「な、なんで目覚まし鳴らなかったの?」
「鳴ったよー、ママはも一回寝ちゃったんだよ」
「え、そうなの?いや、まじマズイわ、遅刻する!京ちゃん、急いで!」
「あたしはもう学校行けるよ」
「ごはん!ごはん食べなきゃ」
「もう食べた」
「そ、そうなの?って、痛ったあ!あ、なな、ななっぴ!起きて、起きなさい」
わたしのベッドにくっつけて置いてある二段ベッドの下の段の奈々香はまだぐっすり寝ているようだ。
寝ぼけている奈々香を引きずり出して、どうにかこうにか一階に下りた。
「京ちゃん、忘れ物ない?水筒持った?」
「持った。いってきまーす」
大慌てのわたしと対照的に平然と登校していく四年生。
・・・朝から自分ひとりでなんて立派なの えらい、えらすぎる
テーブルの上には冷凍チャーハンが出ていた。これをチンして食べて行ったらしい。
「なな、ほら、顔洗って、早く着替えして・・・ってわたしのほうが急げだよね!」
もう今日は自分の顔を作ってる時間はない。とにかく奈々香のお弁当作らねば。しかし、とにかく体が痛くて早く動けない。わたしはテーブルの上をちらっと見て、
「たまには・・・こういうのもアリだよね」
レンチンしたチャーハンをお弁当箱に詰め、ウサギに剝いたリンゴを添えて出来上がり。
・・・お弁当作り最短記録を更新してしまいました
「ほらほら、朝ごはん食べて、かわいいねーウサギさんだよー」
朝食とお弁当が全く同じという禁じ手を使う後ろめたさからか、ななの大好きなアニメの戦うヒロインを声まねしてしまった。
「・・・ぜんぜんにてない」
奈々香は不機嫌な声でパジャマのままテレビの前に転がっている。
・・・あ、これ、家出るまでにヤクルト二本パターンだわ
「ななっぴ、どうしたのかな?今日もどっか痛いのかな?」
あいたたた・・・と言いながら、わたしも奈々香の隣にごろんと横になった。
「ママ、どっかいたいの?」
「うん、ママ昨日働きすぎて、体の全部が痛いよ、めちゃくちゃ痛い」
「じゃあ、ママも今日はおやすみする?」
わたしは笑って奈々香をぎゅうっと抱きしめる。
「あー、ななは優しいなあ、そう言ってくれるだけでうれしいなあ」
奈々香は目を閉じてわたしのお腹にくっついてくる。
「でもー、ママは大人だからやることがたくさんあるの。今日やらなきゃいけないことがあるから休まない。絶対休まない」
そう言うと奈々香の目がうるうる潤みだしたが、ごしごしと両手でこすって、
「うん、ななもきょうはもっきんれんしゅうのひだから行く。やすまない」
わたしは奈々香を抱っこしたままよいしょっと起こして、
「いたたた・・・さすが、ななっぴ。えらいよ、大好き」
「・・・でもー」
「んー?なに?」
「ヤクルトはちょうだい?」
後から起きてきた夫も同じくひどい筋肉痛で、何かする度にうめき声をあげていた。作業の方は、さすがにペースダウンしたが、二人で何とか床に打ちつけられていた柱を外して、下の置き場所まで運び出した。これでやっと道場がすっきりと見渡せるようになった。
「・・・これで今日の作業は終了ということで」
「頑張りました。やりましたね」
ひしっと握手をかわす彼とわたし。たった二日間でこの剣道場を廃墟に見せていた一切合財の大物を運び出したのだ。
・・・ほんと、わたしたちって Y・D・K!
ということで、夫が福岡に行ってる間に、わたしはここを掃除して、床が見える状態にまでもっていきたいのである。
・・・と言うものの、これ、どこから手をつけようか?
iPODのPLAYを押してやる気を上げる。今日のBGMはサバイバーの「アイ オブ ザ タイガー」。困難なミッションに立ち向かうにはアグレッシブな応援歌が必要だ。
道場の右手中ほどに、こんもり盛られた砂山。わたしはマスクをきっちり顔に当て、砂山崩しに取り掛かった。
まずはここに立ち込める悪臭の元を排除する。スコップで塊のある部分をバケツに入れていく。たまったら、駐車場のブロック塀際の植え込みに穴を掘ってそこに入れて埋め戻す。半年間のネコトイレ。十杯位の砂を埋め戻してやっともう大丈夫なんじゃないか、という感じになった。
さて次はこの砂を全部ここから運び出さなくてはならない。
・・・あ、たしか下にあれ、あったよね
手押しの一輪車。さっそく倉庫に行って隅の方に立てかけられているそれを起こしてみる。
・・・バケツ手で運ぶより効率良さそう
なにせこういう仕事をするのが初めてで、もちろん一輪車を押すのも初めてだ。ゆるい上り坂道を押して行くのだが、
・・・なにこれ、お、重い、まっすぐ進まない
右へ左へ、よれよれ揺れながらやっとのことで道場の入り口まできたが、ちょっとの段差が上がらない。
・・・ふーう。しょうがない。ここへバケツで運びこもう
大きなシャベルでざくっと砂をすくい、バケツに入れる。それを入り口まで運んでいって一輪車に入れる。二、三回やって、
・・・いや、待てよこれ、効率いいか?
一輪車のハンドルを持ってゆっくりと道路へ出ようとしたが、
・・・え、なにこれ、ものすごく、ものすごく重い、動かない、前へ進まない!
悪戦苦闘しながらじりじりと坂を下っていたが、あとちょっとで駐車場、というところでバランスを崩して「あっ!」という間もなく道路に砂をぶちまけてしまった。
「あ・・・あぁ・・・」
わたしががっくり首をうなだれていると、お向かいの野村さんのご主人がひょっこり出てきて、
「なになさっとるだね?ああ、砂?よかよか、こんくらいなんでもないよ」
と家から大きなちりとりと箒を持ってきてくれた。
「ああ、すみません。やります、やります。ありがとうございます」
砂を掃き集めているわたしの横で、
「ああー、これ!こんなんでよう押しなさったねえ。これ空気抜けとるが」
「へっ?」
野村さんはまた家に入って自転車の空気入れを持ってきてくれた。
「どれ、入れてみようかね」
よく見ると一輪車のタイヤはぺったんこで。野村さんは慣れた手つきでタイヤに空気を入れてくれた。
「タイヤはなんともなっちょらんかったよ。こんくらいでよかね?」
押してみると、
「あっ!軽い、ちゃんと進む!」
さっきのは一体なんだったんだと言うくらいの軽さと安定感で。
「よかったっちゃ。なに?道場、何かしとるこつあっとかいね?」
わたしは手短に、剣道場をもと通りに戻してダンスの教室を開く予定だということを伝えた。
「いやあー、それはよかったっちゃ!大成さん、アパートにするいうて工事されてたこつあるけど、まあ、わしらも家の前がアパートで知らん人が出入りするよりも、道場でいてくれたほうがなんぼか安心よ」
「すみません、昼間だけですけど、まだちょっとここをきれいにするのに騒がしくするかと思います」
わたしが言うと、
「ここは、ワシらがここに越してくる前から道場やったんよ。そりゃあ、毎日賑やかでね。ちょっとやそっとじゃ全然驚かんから大丈夫。いやー、そうかね、アパートやめなさったか。いやーそうか。ははは」
野村さんは笑いながら家に入っていった。その後ろ姿に心の中で手を合わせた。
・・・宮崎の人はほんと親切だわ ありがたや、ありがたや・・・
わたしは軽くなった一輪車を押してまた作業に取り掛かった。今度は小さい段差を楽々越えられた。道場の上がりかまちも越えた。
・・・うっそーすごい、わたし、建設現場でバイトできる?
一輪車が砂山のすぐ傍まで来るのでそのあとの作業効率がグンと上がった。はじめはおっかなびっくりシャベルを使っていたが、三十分もすると、コツが分かってきた。
砂山にサクッとシャベルを入れる。右足でシャベルの頭をガッと踏んで押し込む。右手は柄の部分を左手はシャベルの頭に近い部分を持って、砂をすくい上げて一輪車のバケットに入れる。
気をつけて後ろ向きに段差を下りて力を入れずバランスをとる。植え込みにきたらてこの原理でひっくり返す。あとはシャベルで均等に砂をならす。
・・・植え込みが広いから砂を捨て放題でよかったわー。
十往復もするとすっかり砂はなくなった。
・・・見たか、砂山!はあー、腕がパンパン・・・
この辺でお昼にしようかと思っている所へ、
「奈緒ちゃんー」と義母がやってきた。
「あれ、まあ!びっくり もうこんなきれいになってる!」
義母は中まで入ってきて、剣道場を眺め回した。
「・・・こんなに広かったかね。もう忘れてたよ」
わたしはマスクとグローブを外して、
「はいー 。柱と梁がなくなったらほんと広く感じますね」
義母はわたしの顔を見て頷いた。
「ああ、やっぱシゲと奈緒ちゃんに頼んでよかったっちゃ。私らじゃこうはいかんもん。あのしっちゃかめっちゃかな道場見たら何とかしようっていうやる気が失われるっていうか。やっぱり若さよねえ・・・」
「あーいやまあ、あんまり若くはないんですけど・・・」
「ほんとにねえ・・・もしかしてアパートが出来上がって借りる人がおったらどうしようって思ってたから、よかったわー。おとうさんのケガはあれやけど、これがほんとの怪我の功名よ」
「お義母さんはアパート反対だったんですか?」わたしは聞いてみる。
「あたりまえよ!おとうさん、剣道やめて次の遊びがこれよ。遊びよ、趣味よ」
「・・・にしても、あの、よく思い切りましたね、大事な道場をアパートにだなんて」
「ああ、あん人はそういうとこスッパリしてるんよ。自分に要るもの、要らないもの。要らんとなったらアパートにだって何にだってするよ。それに、こんなぜいたくな遊び他にないやろ?んで、遊んだあとにお金も入ってくる。一石二鳥やったんよ」
「はあ」
「んでもね、そのお金もね、大変なんよ集金が」
義母は手を腰に当てて、ため息まじりに話を続ける。
「前に家、貸してた浜田さん、そうよ、あのゴミ全部風呂場へつっこんで行った人よ。独り身でね、おとなしい、工事の仕事してた人なんやけど。まあまあきちんとお金入れてくれてた。家賃はね、月末までに次の月の分を入れてもらうようにしてたんやけど、ま、一日くらい遅れる時もあるわけよ。そうしたらおとうさん、浜田さんとこ行って、『浜田さーん、浜田さーん、家賃払わんね!』って大きな声でどなるんよ。私がいくら『おとうさん、そげに大きな声でいわんでもええって、ちゃんと持ってきてくれるって』って言っても『なんね!約束の日を守らんとはむこうが悪いとよ!』って。もうそれがいやで嫌で」
「・・・ああ、それは・・・」たしかにそんな大家、嫌である。
「アパート作って借りてくれる人いても、絶対おんなじことになるろ。いや、その人が悪い人やったらおとうさん、殴られるかもしれんよ。それこそ火つけられるかもしれん」
「・・・ああ、そうですね」十分考えられる話である。
「それにここ、防音とかなんにもしてないから道場おっても上のテレビの音聞こえるんよ。だから、アパートの人が夜中テレビつけたり音楽聴いたりしたら・・・ほら私、下の物音が気になるって言うたやろ、そういうところナイーブなんよ。もう気になって眠れんと思うんよ。おとうさんは耳が遠いから平気やけど」
・・・これは義母が反対するのはもっともだ
「だから、ほんと、元の道場に戻ってくれるの、ありがたいんよ。ありがとね」
義父が心からわたしにOKを出したのではないというのが分かっていたから、どうしても「申し訳ない・・・」という気持ちがあった。でも、この義母の話は強くわたしを後押ししてくれた。
「何かさらにやる気出てきました。ありがとうございます」
頭を下げてそう言うと、義母は笑って手を振って二階へ戻っていった。
わたしはあらためて道場を見回してみた。
鏡の前に立つわたし。その後ろにはたくさんの子どもたち。踊りたくてたまらない、という顔をしている。音楽が流れ、みんなが一斉に踊り出す・・・。
・・・やってみようか、思い切って。
わたしはその場でくるくるっとターンしてポーズを決めた。
「これ、張り替えなきゃだめかな?いやー、でもこの広さだからな・・・」
床掃除は木屑と舞い上がる砂埃との戦いだった。はじめは家にあった庭用箒で掃いてちりとりで取っていたがとにかく埃がすごい。福岡の時から使っていたクイッ○ルハンドワイパーは一発で壊れてしまった。先人の知恵、濡らした新聞紙を散らして一緒に掃き取る方法もやってみたが手間がかかってゴミがふえる。
・・・しょうがない、ここでケチケチしてたら埒があかない
近所のホームセンターへ行って、学校でよく見かけるフラットタイプの箒か、フロアモップを買おうと掃除用品コーナーを見る。
「ちゃんとしたフラット箒って意外と高いんだなあ。モップも・・・。これうちの二日分の食費じゃん・・・」
箒とフロアモップを交互に眺めていたら、
「・・・あ、あれなんだろ?」
掃除道具が吊り下げられた棚になんだか使えそうな形状の物、発見!
・・・これ、なんだかいいんじゃない?あ、おまけに箒よりも断然安い!
それは、窓ガラス用のスイーパー。柄の一番長いやつを買って使ってみると・・・
・・・おおおーこれ思ったよりいい!早い、安い、楽ちん!
道場の奥から出入り口に向かってスイーとスイーパーをかけていき、木屑もほこりもゴミもそのままたたきに落とす。たたきには新聞紙をあらかじめ敷いておいて新聞紙ごとビニール袋に入れる。
・・・おおおーわたしって頭いい~
掃除は大の苦手だが、最初の二日間の肉体労働に比べれば、このくらいは楽勝と言った感じだ。。
床掃除を難なくクリアし、ドヤ顔で出張から帰ってきた夫を迎えたわたしだったのだが・・・まず彼の口から出た言葉は「この床じゃ使えない」だった。
「ほら、クギ打って、外したとことか穴が開いてるし、何、引きずったのか床が削れてる。あっちもこっちもささくれだらけだ。この床じゃ危なくて裸足になれないよ」
「あら、ほんとだ」わたしは今さら気づく。
彼は、クギを抜いてめくれあがった床を靴先でこすりながら、
「張り替えればきれいになるけど、この広さじゃ・・・いや~それはないな、費用がかかりすぎる」
「費用ってどれくらい?」
「はっきりわかんないけど、・・・エアコン三台分以上?」
「いや、それは!ないです・・・ないです・・・ないです・・・・・」ヒロシのようにつぶやく。
資材をどけて、きれいに掃除すればまた道場に戻ると、スタジオとして使えると思っていたわたしはがっくりと肩を落とす。
・・・手塩にかけて育てた剣道場を、ようここまでキズものにできたな?ええ、オッサン!(関西風。)
「あのさあ、時間はかかるけど、せっかくだからピカピカにする?」
「え?できるの?お金かけずに?」
「そのかわり労力はかかるよ」
「時間と労力はあります!」
「んじゃあ、ちょっと揃えるものがいるな。善は急げで、お、まだ店やってるから今から買いに行こう」
「えー、ごはんの支度しないとだよ」
「今日くらい外行こ、働いてばっかじゃ、疲れるよ」
「・・・そうする?行く行く!」
久しぶりの四人揃っての外食に京香も奈々香も嬉しそう。わたしも嬉しい。
お店が閉まると困るので、先に工具の品揃えが豊富なホームセンターに寄った。
この店に入るのは初めてで、その広さに圧倒される。
「うわ…なんでもあるねえ。あ、安全靴」
「しげくん、なにかうの?」と、奈々香。
わたしが夫をしげくんと呼ぶので、子どもたちもそれを真似て「しげくん」と呼んでいる。
「えーっとね。あ、こっちこっち」
頭上の案内版を目印に奥に進んでいく。「工具・部品」コーナーに辿り着き、
「・・・サンダー、サンダー、あった。サンダーは二台要るよな。紙ヤスリはこっちか」
京香が押すカートにどさっと箱を入れていく。
「あー、それからね、掃除機いるわ。泥とか土とか吸い込むやつ」
「え?掃除機買うの?」
「これこれ、このドラム缶みたいなやつ、まだおんなじタイプ売ってんだなー。これないと大変だよ」
「え?いくらよ?」
見ると、うちにある「ダ○ソン」なんかよりはずっと安くてちょっとほっとする。
「それから、マスク・・・防塵マスク。これでいいか?と、防塵ゴーグル、これも絶対要ると」
ドサドサ・・・。
「あー、パテも買っとくか。木材用パテ」
カートが下段も上段もいっぱいになっていく。
「ああー、重くなってきたー」と京香。
「ななが押すー」「ななに押せるわけないじゃん」「押せるー」「前が見えないじゃん」「みえるもんー」
わたしはフラフラと蛇行するカートを押さえて、
・・・ちょっとまじ?どれだけ買ってんの?え、え?まだ要るの?
塗料コーナーに来た夫は、
「これで最後かな。えー、樹脂ワックス・・・樹脂ワックス。アクリル系・・これでいいな」
夫はワックスの一斗缶十八リットル入りを一缶とモップ、モップバケツを持って、
「はい、おしまい。レジ行こう」
すたすたと歩いていく。
・・・え、ちょっとこれ全部買うの?返すもんとかないの?
夫はなんのためらいもなくさっさとレジに並ぶ。わたしはピッ、ピッとレジを通っていく買い物と金額を交互に睨みながら最終合計金額にごくっと生唾を飲んで。
・・・六万八千五百円!!
彼はカードを出して「一回で」とサラリと言った。
彼が何も言わないので、わたしもそのまま黙っていた。山のような買い物を袋に詰めながら彼の顔を見るとなんだか上機嫌だ。
買い物を済ませて向かったのは『焼肉大船』。 ここはリーズナブルな料金で宮崎牛が食べられる、市内でも人気の焼肉店だ。
「えーと、桜ユッケ二人前と、牛カルビとハラミ、牛ホルモンと塩タン、全部二人前ずつ。あと野菜焼きとサンチュ、甘辛味噌つきね。あとキムチ盛りも」
「あたしオレンジジュース飲みたい」「ななもー」
「じゃあ、それも。あと冷麺」
さらさらっと、まるでフレンチレストランで前菜からデザートまでをオーダーするかのように注文した。
・・・なんか、今日のしげくん、男前・・・
「しげくん、ビールでも飲む?いいよ、帰りわたし、運転するから」
「え?いい?じゃ、飲もうかな。すいませーん、生ひとつー」
わたしは顔の前で指を組んで前に座る夫の顔を眺める。
「・・・福岡でなんかいいことあった?」
わたしはおしぼりで手を拭きながらたずねる。
「え?」と夫。
「はいー、生とオレンジュースでーす」元気いい店員さんが飲み物を運んできた。
「あ、ママは?ママはお水でいいの?」と京香。
「うん、ママはお冷でいいの」
グビグビと喉を鳴らしてビールを飲む彼に、
「ねえ、絶対何かあったでしょ!新しい契約が入ったとか、収入増の予定が立ったとか・・・」
一気にジョッキを半分空けて、
「え?ないよ、別に」
「えー、そんなわけないじゃん」
「なんで?」
「だって、ほら。しげくん、家のお金使う時は必ずわたしに訊いてくるでしょ。『これ買おうと思うんだけど・・・』って。なのにさ、さっきの買い物。即決ってことは、あれ、しげくんが買ってくれるってことなんでしょ、そうだよね。だからそうなのかなあと思って」
「・・・ああ、それね。」
彼は残りのビールをグビッっと空けて、
「あー、生、おかわりー」
と、ジョッキを上げてオーダーした。
「ねー、なになに?何があったの?教えてよー」
わたしが体を揺らして催促すると、
「あー・・・。おふくろから金一封が出た」
「え?・・・」わたしの目と口が同時に丸くなる。
「なにそれ、いつ?」
「さっき。おれがおやじん家、顔出した時。頑張って道場を元に戻してるその労働と、おやじにアパートを諦めさせたご褒美だって」
「えー、なにそれ!いくらよ?」
彼はわたしの顔を見て、指を一本立てた。
「え・・・一万・・・じゃなくて十・・・!」
目を見開くわたし。
「はいー、桜ユッケ、カルビとハラミ、野菜、サンチュ、キムチ盛りと生でーす」さっきの元気な店員さんが見事なトレイさばきで持ってきた。
「わーい、おにくきたーなながやるー」
「ちょっと、なな、できないでしょ。ママー、なながトング取って返さないよ」
「え、ちょっと、しげくん。十万って・・・年金暮らしの親からだよ、多すぎない?」
「なな、ちょっと貸して。もう、これ全部焼いちゃって。・・・えー、大丈夫だよ。うちの親しっかり貯めてるもん。それにアパートだって止めなかったらまだまだこの先、大金がかかってたんだから」
「や、それはだから、入院費に・・・」
彼は肉をひっくり返しながら、
「甘いね~、あれはおやじに諦めさせるために言ったの。実はさ、おふくろ、おやじにしっかり保険掛けててほとんど保険でカバーできるみたいよ」
・・・なにそれ?何それ、何それ?
「・・・なんでわたしが聞く前に言ってくれないのよ、それ」
「え?いや、だって、さっきだよ。ついさっき」
「聞かなかったら、黙ってる気だったでしょ」
「それはないよー、え?奈緒ちゃん、おふくろから聞いてなかったの?聞いてるもんとばかり思ってた。さ、焼けたぞー」
「いただきまーす!うわー、おいしいー」「おいちいー」
わたしのじとっとした視線から目をそらせて、キムチを口に放り込む彼。
・・・わたしは、箒一本買うにも節約してるんですよ。一円でも安いものを、いやできれば買わずに済ませたいと。それをなに?ぱっぱかぱっぱか、よく値段も見ずにカート一杯の買い物して。これだから男は・・・。そうか!だからか、今日は注文によどみがないのは・・・
「お待たせしました、ホルモンと塩タン、冷麺でーす。ご注文は以上でお揃いですか」
元気な店員さんが会計表を置こうとした。
「いやー、ちょっと待って。わたしも生ビール、カルビ二人前追加、それから、タマゴクッパ」
「・・・え?車は」
「代行で帰るんじゃい!」
サンチュで巻いた肉を頬張りながら、わたしは猛烈な勢いでホルモンを焼き始めた。
「こうやって、このサンドペーパーをクリップに挟んで後ろへ持ってきて留めると」
「ふんふん・・・」
「ここがスイッチね。ここを押すと・・・ほら振動で床が削れていくでしょ」
「おおおー」
「左手、軽く上から当てて・・・そうそう、軽くね、強くやるとかえってデコボコになるから」
「おお、見て、白い!きれいな面が出てきたよ」
昨日の山のような買い物は全てこのためだった。安心して裸足で踊れる滑らかな床のため。
夫の「電動サンダー講習」の後、わたしはさっそく「床の薄皮を一枚剝く作業」に取りかかった。
「奈緒ちゃんは隅からずっとそれ掛けてって。おれはもうちょっと荒い番数で、ささくれと削れ取るところやっていくから」
「了解です」ビシッ!
今日はいつもに増してフル装備。コンタクトのわたしはごついゴーグルに分厚い灰色のマスク、ビニルグローブのいでたちで。
上から軽くサンダーを押し当てていくと焦げ茶色の床がそこだけみるみる肌色に変わっていく。
電動工具を使うのが初めてのわたしは、どんどんきれいになっていく床に感動していた。
「おもしろいねー。DIYってやみつきになりそ。あ、でもなんか惜しくない?せっかくのきれいなマホガニー調の床なのにね。」
わたしがそういうと、彼は「ぶぶっ」と吹き出して、
「・・・マホガニーって。ここ、もともと白木だよ。そんな高い床材使うわけないじゃん」
「ふーん。じゃあ、この焦がし飴色は塗装したの?」
「いーや」
「じゃ、なによ」
「あー、子どもの泥足色?二十五年分の」
「げ!」
思わず手が止まる。ちょうどその時。
チャリリン・・・チャリリン・・・チャリリン・・・
杖の柄につけたキーホルダーの鈴を鳴らしながら、義父が入り口から入ってきた。
ゆっくりと片足づつ摺るように歩いてくる。
「ああ・・・なーんもなくなったんね。」剣道場をぐるっと見回して呟く。
「おお、きれいに片付いたろ」
夫とわたしの格好と電動サンダーを見て、
「んん?シゲ、おまえ何してるごつある?」
「ああ、これ?床をきれいにしてるとこ」
「きれいって・・・きれいやろうが、なしてそげなことすると?」
床の色が変わっている所に目を留めて、
「これ、床、削ってるっちゃろ?なしてそっげなこつすると?ああ、なんね?色がかわってはげちょろけになっとるやないか!」
わたしがサンダーのスイッチを切ると急に静かになって、義父の声がさらに大きく聞える。
「シゲ、やめんね!ここきれいにしてとは言うたけど、こんなハゲハゲのみっともないもんにしてよかとは言うとらん、やめんね!」
「しょうがないだろ。おれだって、できたらこんな大変なことやりたくないよ、ほんとどれだけ時間かかるか。だけど、見てみ?ほらこことか、ここも、ここも!」
夫は義父を連れてまわって床を指差して、
「ささくれて、足に刺さるだろ、危ないだろ」
「ダンス・・・は、上履き履いてやるろうが、こんなちょっとのキズ、どうってことないが」
「バレエとかもするの。裸足にもなるの」
「バレー?バレーもすっとけ?そんなんこの天井高ではできんとよ」
「そのバレーじゃない方、踊る方。」
「ダンスはやっていいとは言うたけど、バレーやっていいとは言うとらんが。んもう、あんたらは何を勝手にやっとるんか、ワシの道場よ」
夫はシュッシュッと長い延長コードをさばいてサンダーのスイッチを入れた。ブーーンという音が響く。
「ハゲだらけはみっともないから、大変だけど全面にサンダー掛けて、ちゃんと真っ白にする。きれいに仕上げるからまあ、任せておいてよ!」
屈みこんで作業に戻る。それでも義父は、
「真っ白って・・・シゲよ。この道場の色はね、ワシのこの二十五年間の、歴史なんよ。毎日毎日練習して、汗と涙が染み込んでできた色なんよ。それを勝手に真っ白にって・・・」
遠巻きに眺めていたわたしも義父の方を見ながら作業を再開する。
「・・・ああもう、このまんまでいいって。そげんこつせんでよか・・・ああ、ワシがもうちょっと自由に動けたらね・・・」
横目で義父を見ながらサンダーを掛けるわたし。義父はしばらくそのまま作業の様子を見ていたが、チャリリン、チャリリンと、来た時同様鈴を鳴らして出て行った。
・・・これは・・・。しげくんの言った通りだわ。ゆっくりやってたんではお義父さんの気が変わるかもしれない
ちりちりと、わたしの中に不安とあせりが生まれた。
・・・床の作業だけじゃなくて、教室を開く準備をしないと
目の前の床にサンダーを押し付けながら考える。
・・・どうやって子どもを募集しよう?ちらしを作って配る?や、そもそもどういう教室にしよう?
宮崎のダンス事情がよく分かってないからな、リサーチしないと・・・教室の名前は?
教室を開く、と決心したのはつい先日。まだ三日ばかりしか経っていないことに驚く。とにかく道場を元に戻して、スタジオとして使えるようにしなくてはとそればかりが先に立っていた。が、肝心な「スタジオ」のイメージができていないのに気づいた。
・・・いやー、どうしよ、実はこっちの方が大変かも・・・
窓から差し込む光は床に長く伸びて、細かい粉塵がきらきらと揺れている。
サンダーの機械音が響く道場で、わたしはああでもない、こうでもないと思いをめぐらせていた。
「行ってき!」
そう言って、七時三十分に京香が登校していく。
この「行ってき」に対するわたしの返事は「行ってら」だ。
「これがミヤザキ語!」
子どもの順応性にはただただ感心する。福岡では都会のクールな小学生だった京香が、最近ではうちの誰よりも巧みに宮崎弁を操るし、あんなに神経質だった前の日からの学校の準備も、朝にちゃちゃっとやっているのを見かける。
ここはミヤザキ。人をのんびり屋さんにしてしまう宮崎。
給食の献立が夕食とかぶらないように、学校からの「給食だより」を見て「今日は何にしようかな」と考えるのだが、月が変わっても給食だよりが届かない。京香に
「ちょっとー、プリントちゃんと親にちょうだいよ」と言うのだが、
「えー、まだもらってないよ」
「そんなはずないでしょうが」
「そんなはずあるっちゃが!」
で、四日くらいして配られるのである。福岡だったら学校に
「給食の献立はどうなってるんですか?」「前月末までには配布してください」
と電話の嵐が吹きそうなのだが、宮崎では、
「ああー、きっと何かの事情で遅れたんね」「そういうこともあるっちゃが」「よかよか」
これを「てげてげ」(大体でいい、てきとーに、ぼちぼちいこか、の意)というのだそうだ。
・・・人に優しく、自分にも甘く?
うちの義母は生まれも育ちも宮崎で、みんな納得のおおらかな人である。しかし、義母いわく「うちの殿様」の義父は、お隣の大分生まれで。
・・・ああ、お義父さんも宮崎県人だったらよかったのになあ
八時十五分に自転車の後ろに奈々香を乗せて幼稚園に送っていく。自転車で十分。奈々香は二ヶ月たってもまだ行きたがらない日もある。先生に様子を聞いてみると、
「奈々香ちゃん、人気者ですよ。クラスのみんなが奈々香ちゃんと遊びたがるんですよ」
「そうなんですか?あの、特に仲良しな子とかいますか?」
「はい、ひなこちゃんとはいつも一緒ですね。あと、男の子にもお友達たくさんいますよ」
・・・へー、そうなんだ。今度ひなこちゃんのお母さんに声かけてみよう
夫は九時頃から自室で仕事を始める。月の半ばから月末にかけては特に忙しいらしく、時には夜遅くまで仕事をしている。なのでサンダー掛けはもっぱらわたしの担当となっている。
ちゃちゃっと家の片づけをしたら作業着になって道場へ行く。窓を開け、持ち運べるラジカセのFMラジオをつけたら作業開始。始めの二、三日はCDをかけていたのだが、あっという間に一周してしまう。CDをチェンジするのがめんどくさいのでFMにしたのだが、これが意外と生活情報を集めるのに役に立った。
紙ヤスリをセットして床の目に沿って均等な力加減でサンダーを動かしていく。集塵パックが付いているのだがあっという間に一杯になるので外してしまった。まわりはすぐ粉だらけになる。少し溜まったら、R2D2みたいな形の掃除機をかけてできるだけ粉が舞わないように注意する。それでもマスクの外側にはびっしりと茶色いものが付着する。
・・・うー、こんなの吸ったら確実に病気になるずら(なぜか静岡弁。)
お風呂の時に見たら、ひざが暗い紫色になっていて、
・・・ああ、ずっとヒザついてるから。首も痛いし肩もガチガチ
要らなくなった奈々香のパズルマットを膝の下に敷いてただひたすらサンダーをゆっくりと動かしていく。
「えー次は、週末のイベント情報です。明日、土曜日午前十時から大淀河川中央公園にて「オータムフェスタ」が開催されます。県内全域から集まった郷土品の販売と美味いもの市、特設ステージでは市内七つのダンススタジオによるダンスパフォーマンスが行なわれます。入場は無料です・・・」
・・・へー明日、ダンス。行ってみようかな?
ラジオから軽やかなチャイム音が聞えて、パーソナリティーの
「時刻は十二時をまわりました」の声。
「あ・・、もうお昼か・・・」
いよっこらしょ、と体を起こす。午前中、一回も休みを取らず、何も飲まず、ずっと同じ姿勢でいたので立ち上がっても背中が伸びない。
・・・ううう、ロボットになった・・・
カクカクしながら体中についたほこりを払う。家に入る前に頭のタオルを外してそれでさらに体中を叩く。それでもこの頃、家の中がわたしが持ち込むほこりでザラついている。
・・・ああ、もう、ほんとはお昼に家入りたくない。適当に玄関先で済ませたい。
何か一つのことを集中してやっている時は、ごはんの支度や洗濯物の取り込みなど、他の事をやるのがとても億劫に感じられる。
・・・自分ひとりだったらきっと、飲まず食わずで作業して、疲れきって脱水症状になっても気づか
なくてそのまま道場で倒れているのを発見されたりして・・・いやいや、いかんいかん、水分補給、ごはん食べねば・・・
冷蔵庫に頭をつっこんで中をのぞいてみる。
「あー、朝のお味噌汁がある。・・・レトルト肉団子でも温めようか」
棚の片手鍋を持とうとすると右手がぶるぶる震えて、がしゃんと鍋をシンクに取り落とした。
・・・ちょっと、働きすぎ・・・体がおかしいわ
適当に休憩したり、ストレッチしたりして気楽にやればいいと思うのだが、時々義父が下りてきて、道場の入り口からじっとこちらを見ているのに気が付いて。そうすると、一日でも、半日でも早くやり終えなければという強いあせりに急きたてられて休む気になれない。
でも、どんなに頑張っても一日にできる床の面積には限界がある。自分でその日のノルマを決めてただただひたすら床を削る。最初は途方もない広さに感じた。削っても削っても、折り紙一枚分くらいずつしかきれいにはならなくて。それでも毎日やっていると、ふと気が付けば、道場の前側三分の一が真っ白になっていた。
・・・おお、もうこんなに!四日で三分の一!・・・ということは八日で三分の二。十二日でフィニッシュ?
こうなると欲が出て、ほとんど一日中、床削りにかかっていた。
だが一週間目くらいから体の調子がおかしくなった。朝がだるく起きられない。気力で起きても体が動かない。包丁を持つ手に力が入らない。腕が震えて、字が書けない。
わたしは椅子に座って腕をだらーんとのばした。
・・・根、詰めすぎなんよねえ、分かっちゃいても働いてしまう。・・・働きバチか?働きバチは一ヶ月で死んでしまうよ
「明日・・・休んで、京香やななと、お祭り行こうか・・・」
宮崎に越してきて二ヶ月経つのに、まだどこにも連れて行ってあげてない。この間の土日もずっと剣道場にかかりきりだ。
トントントンと足音がして、二階から夫が降りてきた。
「もう、お昼?昼ごはんなに?あれ・・・」夫の声が聞えた気がしたが。
わたしは椅子に座ったまま眠ってしまっていた。
「うわー、空が青い!空気がきれい!気持ちいいねえー」
「きもちいいねえー」
「ママー、早くきてよー!」
近くの駐車場に車を停めて、金色の河川敷の歩道を歩いていく。夫と京香はずっと先を行っている。わたしは奈々香と手をつないでだらだらと寄り道しながら歩いていた。
「あ、バッタだ。大きい!」
奈々香が両手で草むらを押さえると、「キチキチキチーー」と鳴きながらバッタが見事な羽ばたきを見せて飛んでいった。
「あー、あみもってきたらよかったー」と奈々香。
河川敷には無数の赤トンボが飛んでいる。
「ママ、ぼうしかしてー、それでとる」
「えー、いくらななでも帽子じゃとんぼ、取れないよ」
「とーれーるー!」
「その前になんか食べよ。もうお昼だよ」
目の前の河川敷の一角には大小たくさんのテントが建っていて、スピーカーからは明るい音楽が流れていた。歩道から階段を下りると、様々な屋台やキッチンカーなどからもくもくとした煙や香ばしいにおいがしている。テントに囲まれるように設けられた特設のステージでは、音楽に乗って軽快なダンスが始まっていた。
「ママー、こっちー」と京香。
ステージの前には丸いテーブルと椅子が並べられ、食事しながらステージを楽しめるようになっている。夫と京香はもういろいろと食べ物を買ってわたしたちを待っていてくれたようで。
「なになに、何買ったの?から揚げ?」
「チキン南蛮!これ延岡から来てる店のだよ。もうバツグンにおいしいから」と夫。
「どれどれ」
立ったまま、割り箸で一切れはさんでパクっとほおばる。
「~!おいひいー!」わたしは思わず声をあげる。
甘酢ダレに漬けた揚げ鶏にクリーミーなタルタルソースがかかっている。鶏肉がもっちもちで柔らかくてジューシーで。ソースが甘めで鶏との相性がぴったり。
「こんなおいしいの食べたことない!」
「だろー」
彼は自分が作ったように自慢げだ。
「あたしも食べよ。いただきまーす」
大きな切れをがぶっと一口でいく京香。口の周りは白いソースと油でてらてらしている。
・・・あらー、ダイナミック。ダイナミックになってきたわ京ちゃん
奈々香はじっと、煙をもくもく出しているテントを見つめている。
「なに、なな?何か気になる?」
奈々香は煙の先を指差して、
「あれ、たべたい」
行ってみるとそれは炭火で炙られている、鮎の塩焼きだった。
・・・うわーしぶい。うちの奈々香はしぶいねえ
「あー、これ一本下さい。」「はいーまいどー」
結構な大きさの、串刺しの鮎の塩焼きを持って満面の笑みを浮かべる奈々香。
「お、いいねえなな。ちょっと食べさせて」「ダメー」「ちょっと」「ダメー」
ダメーといいながら嬉しそうな奈々香。
・・・ああ、来てよかった
昨日はあれから作業には戻らず寝てしまい、気が付くと夕方だった。あせって飛び起きたが、奈々香の幼稚園の迎えには夫が行った後だった。ついでに近くのスーパーでお惣菜も買ってきてくれていて、それを食べてお風呂に入って、わたしは早々とまた寝てしまった。そのおかげか、今朝起きた時には気分すっきり、体が軽く、腕も震えなくなっていた。
チキン南蛮を食べ終えて、茶色のかしわ飯を頬張る夫に、
「あー、昨日はありがとね。助かった」と言うと
「おれも・・・あと二、三日で手が空くから、二人ががりならすぐ終わるさ。あんまり根詰めるなよな」
「うん」
ステージでは小学生のヒップホップグループが踊っている。全員が黒のTシャツにダメージパンツ。スタジオ名の入ったキャップをかぶっている。
「なかなか上手だねー。京ちゃんはこういうのどう?」
きんかんジャムソフトをスプーンですくっている京香にきいてみる。
「うーん。ねえママ、あたしまたバレエ習うの?」
「バレエがいいの?」
「うーん、わかんない」
・・・そうねえ。バレエはやっといて損はないからね
音楽が変わって次のグループが登場する。今度のチームもヒップホップらしい。
周りを見回すと、これから出番なのか、もう終わったのか、揃いの衣装にメイクをした小、中学生くらいの集団がいて、やはりこのチームもヒップホップのグループらしい。
・・・宮崎は、っていうかやっぱり今はヒップホップが人気なのよね、でもねえ・・・
いざ自分で教室を始めるとなったら、迷ってしまった。
・・・ずっとバレエとジャズダンスをやってきてるんだから、「子どもバレエ教室」?・・・いやいや、わたしにはバレエ教室を開くだけの技量はないよ。じゃ、「子どもジャズダンス教室」、それとも「子どもダンス教室」。ダンスもいろいろあるからなあ・・・
ウーロン茶を飲みながら考えを巡らせていると、音楽が止まって、辺りから拍手が起きた。MCが次のグループを紹介する。
「それではステージ第一部、最後のチームをご紹介します。今日は一年生と二年生、十五名での参加です。宮崎花岡高校チアダンス部、チームブロッサム!」
金色のポンポンをキラキラさせながら、胸にチーム名の入ったユニフォームで登場してきた高校生たち。立ち位置についてぴたっと止まる。一人が合図するように腕を頭上に上げると、音楽が始まる。と同時に全員が一斉に動き出した。
わたしはその瞬間、もう彼女たちの世界に引き込まれていた。
両手両足を開いての高いジャンプからのターン。肩を左右に揺すってコミカルな動き。隊形が二列に変化してのびのあるラインダンスが始まる。足を上げる高さ、角度、顔の向きまで揃えて。その笑顔、その表情の豊かさ、その表現力。全員が一糸乱れぬ動きをしながら音楽とリズムを心から楽しんでいる。曲が変わってジャズの名曲「SING SING」になると、帽子を投げるようなアクションから時間差のジャンプ。
・・・このジャンプ一つに、どれだけの筋力と柔軟性が必要か。動きをここまで揃えるのにどれだけの練習と叱咤を重ねたか・・・
最後は全員が中央に集まって一つの絵画のようにポーズを決めた。わああっと、湧き上がる拍手と歓声。肩で息をしながらポンポンを振って観客に応える彼女たちの笑顔は輝いている。
・・・なんてきれいで、なんて気持ち良さそう・・・
ずいぶん昔の学生だった自分を、ダンスドリルで初優勝した時の自分を思い出した。優勝と分かった瞬間の、あの驚きと興奮。あの時の汗とうれし涙。
「ママー?」
奈々香がわたしの顔をのぞきこんでくる。ちょっと心配そうな声で。
・・・あら、やだ。あらあら・・・
慌ててハンカチを取り出し頬を拭った。
「今の、すごかった!あのお姉さんたちすごかった~きれいだった」と京香。
「うん、きれいだったね。すごかった」
「あんなに何回も続けてターンして。どうやったらあんなにできるの?」京香も興奮気味だ。さっきのチームでステージは休憩に入ったらしく、会場には明るいアイドルグループの曲が流れている。わたしは誰もいないステージをまだじっと見つめていた。
「ママ~」
奈々香が頭としっぽだけになった鮎の串を「食べる?」というふうに差し出した。わたしも、それを見ていた夫も思わず爆笑する。
「あははは、な、なな。あ、ありがと、ありがとー」
「すっごいキレイに食べたなあー、さすがななっぴ」
「えー、そんなに美味しかったの?あたしも食べたい、買って買ってー」
「さっき、ソフトクリームも買ったろ」
「ぜんぜんちがうもん、お魚食べたいよ」
「しょうがないなあ・・・半分ずつね」
夫と京香が鮎を買いに立った。奈々香は鮎の頭の方についているちょっとの身をはぐはぐと食べ出した。会場に紛れ込んだ赤とんぼが、スイーとテーブルのまわりを旋回している。それを横目で見ていた奈々香がぱっと手を出すと、とんぼはすうーっと高く上がっていった。つられて見上げた空はどこまでも続く水色で。
わたしは奈々香に話しかけた。
「ななちゃん、ママねー。チアダンスするわ」