とうとうリターン、戦い開始?
2
「えええー、まさか、そんな・・・そうなの??」
わたしの隣では半泣きの京香が真っ赤な顔をしてこっちをにらんでいる。
「ああ、分かった、分かったから今から一緒に行こ、ママも一緒に先生に説明するから・・・」
八月の第四週の月曜日。ここ宮崎では今日から二学期が始まる。新しい学校での初めての登校。私も一緒に、とは思ったが、今日はこれから電気工事の業者さんが来る予定。
「ぜんぜんだいじょぶ。まっすぐ行くだけだもん」
そう言って、京香は特に緊張している様子もなくあっさりと学校へと出かけて行ったのだが・・・。
三日前の金曜日、わたしは京香を連れて新しく通う「桜ヶ丘小学校」に挨拶に行ってきたばかりだった。二人で手をつないで学校までの通学路を歩いた。家からまっすぐ約十分。途中、「桜ヶ丘中」「旭カトリック幼稚園」「私立旭高校」などの校門前を通り過ぎた。この辺りは学校が集中している地区だ。
開校六十年という、中規模の小学校。開け放された校門や正面玄関前の花壇には、サルビアやケイトウなどの赤い花が連日の暑さに負けず咲いていた。
教頭先生と新しく担任になる先生に挨拶して前の学校の通知表も提出して、
「なかなか優秀なお子さんですねー。まあ、ここは福岡とは違ってのんびりしている所もありますが、みんな元気いっぱい、のびのびと活動しています。京香さん、早く仲良しのお友達できるといいですね」
なんて、ひとしきり世間話までしたのに・・・
行ったと思った京香はその十数分後、泣きながら走って帰って来てしまったのだ。
「ど、ど、どうしたの?」
わたしは化粧の真っ最中、ペンシルを放り出して慌てて駆け寄る。
「明日は初登校だし、いつもより早く行く」
「それがいいね。十分あったら余裕で行けるから・・・そうねー、チャイムの鳴る三十分前についていれば充分じゃない?」
「じゃ、七時五十分に家出る!」
「はいはーい」
なんて言って送り出したのに・・・。
京香の話によると、京香が歩いていても他に誰も見かけなかったそうで、学校に着いて下駄箱のホールにも誰もいない。心配で恐る恐る階段を上がり、4の2の教室へ行ってみたら・・・なんとクラスのみんなはもう着席していて朝の会が始まっていたというのだ。入り口の前で立っていると
「チコクや」「チコク!」「だれ?」「知らん」
先生まで
「あ、あれ?どうした?遅いぞ、道、迷ったか?」
そして京香はくるっと回れ右をして走って帰ってきてしまった、というわけで。
急いで学校に電話すると、
「小学校の始業時間は八時で、その十分前に教室に入ることになっています。クラスによってはみんな揃っていれば朝の健康観察を早めに始めるところもあります」
・・えええー、小学校は八時三十分からじゃないの?いや、福岡は八時三十分からだった!ってい
うか全国的には八時三十分からじゃないの?いや、百歩譲って、八時からでもいい。いいけれどその説明してもらった?いや、聞いてないし!県外からの転校生にはその説明してくれなきゃ困るんですけど!
業者さんが来るまであと十五分ある。
「すみません、お義母さん、わたし、小学校行ってきますんで、もし業者の方が来たらちょっと待っててくださいって、言っていただけませんか?」
義母はまだパジャマ姿で、居間でテレビを見ているところだった。
「あ、ああ、いいよー、あれ?なんかあったの?」
貸家だった家の工事が終わるまで、わたしと子どもたちは夫の実家に居候させてもらっていた。彼はまだ福岡だ。
「大丈夫です、大丈夫です、ちょっと行ってきます」
免許証の入ったサイフとスマホだけ持って急いで車に乗った。
しぶしぶ乗った助手席の京香は目を細めて口をとんがらしている。
「・・・ねえ、初日なのに、びっくりしたね、ほんと」
話しかけるが、プイッと横を向いてしまった。
家では四つ下の奈々香に常に上から目線で偉そうな態度の京香だが、実は超がつくマジメなのだ。時間とか約束とかは守るのがあたりまえ、わたしが言わなくても宿題や明日の支度ををきっちりやってからじゃないと寝ない子で、忘れ物なんかしたことない。そんな京香にとって「チコク」呼ばわりされることは死にも等しい屈辱なのであろう。
「ほらほら、機嫌なおして、にこっと笑ってよ。もう着くよ」
車で走っているこの道を、ひとりぼっちで歩いている間、どんなに心細かったろう。シーンと静まりかえった校舎の階段を上がる時、どんなに不安でハラハラしただろう。今日くらい一緒に行っていれば・・・。
「あー・・・ママの失敗だね、大事なことだからこの前学校行った時訊かなきゃいけなかった。・・・ほんと、ごめんね」
すると京香が、
「ママのせいじゃない。ママじゃなくて、ミヤザキのせい!」
と言った。
わたしは「プッ!」と吹き出した。
そう言えばそうだ、その通り、ミヤザキのせいだ!
「あははは・・・それ、気に入った!よし、これからは何でもミヤザキのせいにする!」
やっと、ブーたれ顔を元に戻した京香も笑った。
学校のすぐ手前の信号に引っかかって車が止まった時、京香がじっとわたしの顔を見て言った。
「ママ・・・こっち側のまゆないのもミヤザキのせい?」
「・・・って、えええ~!」
バックミラーに映る作りかけのわたし!恐ろしいことこのうえない。
「いや、これ、どうする?どうしたらいい?へん?変か?どう見ても変!いや、どうしよーー!」
仕方なく前髪を引っ張り引っ張り、誰に聞かれてもいないのに「あー、なんだか今日は左目の調子がおかしいわあ・・・」なんて言いながら手のひらを顔に当てつつ。
わたしと京香は教室への階段を上がっていった。
パチパチ、パチパチ・・・
キッチンの横の小さいテーブルで、わたしは電卓をはじいている。隣では床にゴロンと横になった夫がクッションを枕にしてお昼のワイドショーを見ている。ときおり「んん?」とか「はあ?」とかいう彼の独り言をを聞きながら、請求書と領収書をめくっていく。
「・・・やっぱり、エアコン、三台はキビシイわ」
「んー、じゃ、どうする?とりあえずおれの仕事部屋と二階の寝室にする?」
「そうだねえ、ここにも欲しいけど・・・」
秋分の日を過ぎて、昼間の風もめっきり涼しくなって、季節が入れ替わったことを実感する。
始めは新しい自分の事務所を探していたのだったが、この近辺にちょうどの条件の物件がないことや、仕事が安定して軌道にのるまでは支出は最小限に抑えようという考えもあって、夫は二階の一室を自分の部屋兼事務所にしていた。
・・・夏の終わりの今、お買い得なエアコンつけたいとこだけど・・・
「この部屋はさ、冬までに考えればいいだろ」
「まあ、そうだけど・・・」
玄関にお風呂、みんなが集まるこのキッチンとリビング。最低限で済ませたにもかかわらず、家のリフォームは予想を上回る出費で、わたしの車と家電製品買い替えに貯めていた貯金を残らず使うはめになってしまった。おまけに、
「今月、いろいろと追加で購入するものがあって、家に入れられるのこれだけ・・・」
と彼が寄こした生活費は以前の三分の一で。
・・・え?・・・え!
「これ、これ・・・今月だけよね?今月だけよね?そうよね?」
問い詰めるわたしの顔がよほど怖かったのだろうか?
「も、も、も、もも、もちろん」
と、桃の早口言葉のように夫は頷いた。
・・・なんでそんなにどもるのよ?あやしいわ・・・
「あ、そうそう、聞いた?おやじ、あさって一時帰宅だって」
話題を急に変えて振ってくる。
「あ、うん、お義母さんから聞いた。今日、ベッドが届くって言ってた」
驚いたことに、わたしたちが引越しを決めた頃から、義父の状態はみるみる良くなっていくようだった。義母は、
「よっぽど、一茂と奈緒子さんたちが来てくれるのが嬉しいんやろね、なんかこう、気持ちに張りが出てるんよ。自分から歩行の訓練行くし、暇さえあれば腕の筋トレとかしてるし。もう、夜中も一人でトイレに行けるようになったんよ」
と、喜ぶかたわら
「あー、でもあん人が四六時中家に居るとなったら、それはそれで大変やっちゃがね」
寝たきりになるかも、と言われて覚悟した分、肩透かしをくらった感はあるが、元通りとまではいかなくても元気で動き回れる方がいいに決まっている。
・・・そうじゃなかったら本格的な介護を考えなきゃいけなかった・・・
わたしたちが来たことが励みになって、義父が元気を取り戻したのなら、やっぱりこの引越しは正解だったと思うことにしよう。
・・・そう思わなきゃ、やってられんバイ!(あ、これは熊本?)
ここへ来て、夫の仕事の動向がどうもあやしい気がする。彼の言うことを鵜呑みにして疑わなかった自分のうかつさが今頃悔やまれる。誰か、元の会社の同僚の人からとか、友人とかから、話を聞いておくべきだった。夫の社内での評価とか、今回の独立に至った経緯とか、もっと詳しく第三者の意見もきいておくんだった。
京香と奈々香の学校、幼稚園の手続き、住民票や銀行の手続き、わたしの仕事関係の手続き。手続き、手続き、手続き・・・。おまけに引越しの荷造りに新居の準備。
・・・もうね、夏の引越しは地獄よ、ジゴク・・・
やらなきゃいけないことに忙殺されて、彼の仕事のことまで頭が回らなかった。
・・・ほんと、大丈夫なんですかね?
ずっと家にいるせいか、ゴロゴロしている姿が目につく。
「え?こんな昼の日中からテレビとか見てて大丈夫なの?仕事は?打ち合わせとかは?」
と思ってしまう。まだ新しい仕事を始めてひと月なんだから、
「マイペースでどーんと構えて、地に足をつけて頑張ってね」
という穏やかな気持ちと、
「しっかり稼いで、んなゴロゴロする時間あるなら、ちょっとは家のこともやってよ!」
という攻撃的な気持ちが頭の中でケンカしている。
・・・わたしの意識が家の中ばっかりに向いてるからだ、いかん、イカン。外のことにも目を向けなきゃ。それにはやっぱ、仕事を持つのが一石二鳥なんだけど・・・なんだけどねえ・・・。
おととい、彼が「見つけておいた」と言ったスポーツクラブに面接に行った。久しぶりに書いた履歴書にホームセンターの脇にあるインスタント証明写真で撮った写真を貼り付けて。
・・・やだ、なんか、すごい顔、疲れてる・・・暑っつかったもんねー、まだ家にクーラーがないし。
少しでも好印象を与えようと、いつもの二倍の時間をかけて丁寧に化粧して面接に行った。
国道からちょっと入ったところにある中規模のスポーツクラブ。入り口を入るとすぐ受付があり、わたしが用件を伝えるとすぐに別室に案内された。待つこと二十分。事務机と椅子があるだけのがらんとした部屋。ときおり次のレッスン案内の館内放送が聞こえてきた。
・・・待つなあ。わたし時間どうりだよね。まちがってないよね。
じっと座っているのに耐えられなくなり、施設の中でも見学させてもらおうかと、腰を上げかけたその時、
「いやー、すいませんー、すいませんーお待たせして、ちょーっと急ぎの電話が入りまして。あ、私支配人の黒木と申しますー」
と、入ってくるやいなや、いきなり大声でまくしたてるように挨拶された。
「はあ、いえ、こちらこそすみません」
わたしも頭を下げて挨拶した。
にこにこ顔の元ラグビーのディフェンスといった、がっしりとした体格のその人は
「はいー、どうぞよろしくお願いします。えー、で、さっそくですが、大成さんに担当していただきたいのはこれでしてー」
と、一枚の紙を出してきた。そこには一週間のレッスンスケジュールが書かれていて
「えー、まずですね、ここ。火曜と水曜の二十一時からのスタジオレッスンと土曜日、日曜日の朝一番のレッスン。これね、需要が多くてね、ぜひお願いしたいんですよー」
「・・・?」
・・・平日の夜九時からと、土日の朝?
「あの、すみません、先日の電話でもお話した通り、できれば平日の午後二時くらいまでで、土日は子どもが小さくてまだちょっと・・・」
わたしがそう言うと
「え!」と、明らかに表情が一変した。
「え?何?応相談で何でもできるんじゃなかったの?」
私の顔もかちかちにこわばる。
「あの・・・レッスンは今までいろいろやってきているのでたいていのものはできるんですが、時間は先ほど申し上げた通りで・・・」
「え!誰や、この電話受けたの。話が全然ちがうやないか」
「・・・え、あの・・・」
何と言えばいいのか、わたしが言葉に詰まっていると、その支配人は椅子に深ぶかと座り直して言った。
「あのねえ。・・・あなた、歳も結構いってるでしょ、そんな、選り好みしてたら仕事なんかないよ。うちは、見ても分かるけどスタッフはみんな若いでしょ。うちが欲しいのは夜と土日の朝なの。そんな、平日の昼なんて、いくらでもやる人いるのよ、あなたじゃなくたって」
わたしと履歴書を見比べながら続けて言う。
「えー、学生時代にダンス選手権で何回か優勝。アマチュア指導をずっと続けてる・・・でも最近は、「福岡フィットネス」で二年勤務?たった二年?たった二年って、この業界じゃ経験無いに等しいから」
わたしは返す言葉が見つからない。
「はい、じゃあ、そういうことで。気が変わったら、また連絡してきて下さい」
そう言うとその人はポンと履歴書をテーブルに置いてさっき入ってきたばかりのドアを出て行った。
この間三分。
わたしはその場で固まってしまって動けなかった。
しばらくしてから、逃げるように急ぎ足で自分の車に戻った。はああーっと大きく息をついて、
・・・くっそ、あいつ、何が「歳、結構いってるでしょ」だ、こんな美人をつかまえて・・・
バックミラーに顔を映すと、いつもより厚化粧の情けない顔が見えた。
・・・何でなにも言い返せなかった?
今頃になって悔しさが込み上げてきた。
・・・あの言い方!あの態度!クズよクズ、とんでもない。あんな支配人のいる所なんてこっちから願い下げだわ。
一言も言い返せず、すごすごと帰ってきた自分が腹立たしくて、情けなくて、涙が出てきた。
・・・くっそ、なにが、何が「奈緒ちゃんならきっとすぐ採用されるよ」だ!ふざけんな!
夫の言うことを真に受けて、採用されるものとばかり思っていた自分が恥ずかしくて、また泣けてきた。
「ああー、もう!もう、もーーーっ!!」
オーディオをスマホにつないで選曲する。音量をぐんと上げて目頭を拭う。
イントロに続いて、大声を張り上げて、
「・・・エ・イ・エ・ンーなんてものぉーあるワケーないでしょ!!」
一人、車内カラオケを熱唱しながら車を走らせた。
そろそろ帰ってくる頃かと、わたしは家の前に出て、ほんの十メートルくらい向こうのバス通りを眺めていた。うちの向かいのお宅の野村さんの玄関先には、赤と白のヒガンバナが咲いている。
と、野村さんの奥さんが出てきて、
「大成さんー、大成さんとこのだんなさん、今日病院から帰って来られるとけ?」
・・・わたしも大成さんだけど、うちの夫のことじゃない、たぶん
「あ、はい。今日は一時帰宅で・・・」
「いやあ~、良かったことだわね、もう随分長く入院してらっしゃったものね」
「はいー」
つい、わたしの返事も語尾がのびる。
「大成さんと話したことよ。『一時はもうだめじゃと思ったのに、茂ちゃんやらお嫁さんやら、お孫さんまで近くに越してきてくれて、なんか生き返ったように元気になってきたー』って。やっぱり、長男さんがおるって心強いもんね、まあよく越してきてくれたもんですわ。いまどきなかなかできることじゃないって、うちのひととも話したことよ。えらいわ~」
「・・・はは、そう、ですかね。そうだといいんですが」
野村さんのご主人は、退職まで義父が勤めていた会社の系列の会社にお勤めだったそうで、家がすぐ前ということもあって、家族ぐるみでのお付き合いがあるらしい。京香や奈々香にもよく声をかけてくれて子どもたちとももう仲良しだ。この地区のお世話係のような人で、ごみや資源物の出し方を尋ねると丁寧にいろいろと教えてくれた。
「だんなさん、怪我された時は、まあ、このへん、えらい騒ぎじゃったんよ。わたしもね、夕方、「ドーン」ゆう音、聞いた気もするし。その後ね、夕刊ミヤザキの人がうちに飛びこんで来なさって『大変や、救急車、救急車!』いうて。急いで見に行ったら、そこの道場のコンクリのとこに、だんなさんがこううつ伏せで倒れてて。わたしが電話かけたんよ、もう、手が震えて~」
「そうだったんですか。すみません、助けていただいたの今知りまして。本当にありがとうございました」
野村さんは顔の前で手を振って、
「いんやいんや、そんなのはあたりまえっちゃが。んで、奥さんに知らせようと思って上に上がってみたけどもおらんし、連絡先が分からんし。だんなさんが時々、『痛いぃ~痛いぃ~』いうてそら痛そうに唸ってねえ、わたしと夕刊の人もどうしていいかわからんし、ようさわらんでね。そうこうしてたら救急車と消防の車が来てね、もう、ほんとほっとしたわ」
「それは・・・大変でした。野村さんがいてくださって本当によかったです」
「で、救急車に乗せられてるとこに反対側から奥さんの車が帰ってらっしゃって。『あれ?どげんしたと?』って」
その時の光景が目にうかんで、つい笑ってしまった。
「あ、帰ってらっしゃった!」
夫の運転する車がバス通りを曲がって入ってきた。剣道場の入り口で停止する。先に降りた夫がドアを開け、義父が、続いて義母がゆっくりと道路に降り立った。
「大丈夫?歩ける?」義母が話しかける。夫が肩を貸し脇から支えるようにした。
「まあまあ、よう帰ってらしたわー」と野村さん。
「ほんとありがとね、野村さん。あ、奈緒ちゃん、荷物お願い」
わたしは後ろのハッチを開けて荷物を取り出して、
「お義父さん、お帰りなさい、大丈夫ですか?」
わたしの言葉が聞こえたかどうか分からなかったが、義父は振り返らずにすり足で一歩一歩進んでいく。わたしは野村さんにお辞儀をして、後ろからついて行く。
そのまま数メートル歩いた所で立ち止まって、
「ママ、ちょっとここ開けてくれんね、なか、見たい」
「え?なんね?」
「ここ、開けてくれんね」
「あ、道場?はいはい・・・」
義母は手提げから小さなカギを取り出し、剣道場の入り口のささやかな、これも小さい南京錠を外した。
ガラガラガラ・・・
もあっと埃っぽい空気が流れ出てきた。入り口のタタキに歩を進めて、義父はゆっくりと剣道場を、もと剣道場だった場所を見渡した。ちょうど真ん中あたりにたてられた柱の横に、仰ぎ見る高さのはしごが立っている。
・・・あそこから落ちたんだよね
床から天井までは四メートルくらいはあるから、このはしごは3メートルくらいか。このはしごの一番上から落ちたと聞いた。剣道場の中は義父が落ちた時のままの状態だ。使う予定の木材が窓際に積み上げられている。右手の壁が一部が壊されて建物と外のブロック塀の間の狭い通路に出られるようになっていて、その通路に使うためだったのか、床にはコンクリート用の砂が盛り上げられている。さっきから気になるこのニオイは、外から入ってきた猫がそこで用をたしているのだと思った。
「ん・・・もういい。上へ上がる」
義父は力なくそう言い、階段の方へと足を進めた。
・・・上れるのかしら?
ズッズッと足を引きずって歩いているのを見てわたしだけでなくみんながそう思ったと思う。
左肩を夫に支えられながら、義父は右手で手すりを掴むとグッっと伸び上がるようにして一段一段階段を上り始めた。足はあまり上がらないが、シャツからでた腕は十分に筋肉質で力強く八十才とはとても思えない。
意外にもあっという間に上りきってしまった。
「おやじ、大したもんだ。これならすぐ一人で上れるようになるよ」
「えらかねー。さすが、うちのおとうさんだけあるわー」
たしかに、ついこの間までは一人でベッドから降りることさえできなかったのに、すごい進歩だ。
居間のベランダよりの一角に介護用ベッドが置かれている。テレビも、外の景色も見える絶好の位置。元は三人掛けのソファーが置かれていた場所だ。義父はほとんど義母や夫の力を借りずに自力でベッドに横になった。
「ふうう~っ」とため息をつきニヤッっと笑って、
「どげんね、医者の言うことなんかちっともあてにはならん。何が歩けんようになるとけ」
「はいはい、おとうさんの勝ちよ。やっぱり体のできようが今の人とちがう。すごいわ」
わたしはコップに冷たいお茶を入れて、居間に運んでいった。
「はいー。ちょっと休憩して下さい」
「あ、サンキュ奈緒ちゃん」と、うちの夫。
義父のベッドを囲んでみんなでお茶を飲んだ。風がレースのカーテンを揺らして玄関へと吹き抜けていく。チリーン、と風鈴が綺麗な音をたてた。
「シゲ、ちょっと頭んほう高くして・・・」
「ん、これくらい?」
「おお、ちょうど、ふう。・・・愛宕山がみえるよ」
目を細めてベランダ越しに外の風景を眺める義父は、感無量といった感じで言った。
「・・・はあぁ、帰って来られたいね・・・」
義母の目元が少し潤んでいる。
・・・六ヶ月だものねえ、本当に大変だったでしょう。なのに、いつも笑顔で明るくて。
家のリフォームしている三週間の間、わたしたちはちゃっかり義母のお世話になった。一人だったところに急に一家で居候されたら、わたしだったらかなりのストレスだ。生活習慣が違う。子どもは騒ぐ。プライベートな時間と空間が制限される。あれやこれやでカリカリしてしまうんじゃないかと思う。だが、この義母、一切そんなそぶりも見せず、暗く落ち込んでいる姿も見たことがない。
・・・柳の枝のような人だわ・・・
風に吹かれるままユラユラと自由で、それでいて芯があって強い。
・・・友達と久しぶりに電話で話したりすると、やはり出てくる「嫁・姑」問題。だけどうちにはそれがない。これって超ラッキーなんじゃない?
今日は「おとうさん(おじいちゃん)帰宅祝い」ということで、こっちの家でみんなで夕食を食べることにした。そんなに得意というわけでもないが、わたしも張り切って料理を作る。
「お義父さん、なにがお好きなんでしたかね?」
「あー、お肉?お肉が好きよ、あとチョコレート」
「お義父さん、若いわ、だから、骨もよくくっつくんですよ」
「そうそう。それ本人の前で言うたげて、喜ぶから」
この近辺には大型、中型のスーパーマーケットやドラッグストアが何件もある。お肉ならここ、お魚ならここ、というように使い分けもできるようになってきた。
早速買出しに行って、近所のスーパー「鮮度一番!」でステーキ用の肉を見る。
・・・国産和牛はやっぱ、高っい。でもお祝いだし・・・。いや、でも六人分だから・・・600グラム、800はいるか。あ、ムリムリ、今月は特に無理!、ここは、オーストラリア産で我慢してもらおう。それだって十分痛い出費だわ
肉をあらかじめ筋切りして、粗挽きコショウを振り、にんにくのスライスを貼り付けて少し置く。その間に付け合せのコーンとオクラを塩茹でし、義父が気に入っているというまるまる一個の卵が入った味噌汁も作る。ステーキソースはおろし玉ねぎとにんにくの和風ソース。少し赤みが残る絶妙なミディアムに焼きあげたステーキは食べ易く切っておく。たっぷりとソースをかけてあさつきの小口切りを散らして、
・・・ジャーン、今日のディナーの完成です!
「わあー、お肉だーおにくー」
「すっごいおいしそう!」
「今日はおじいちゃんが家に帰ってきたお祝いです。はい、みんなグラス持って。お義母さん、お義父さん、何飲まれますか?」
「んー、わたしらはお茶もらうね。はい、おとうさん、カンパイよ、おとうさんの快気祝い」
「ああ、ありがとありがとね」
義父はにこやかにグラスを受け取って。義母が、
「さ、じゃあ、さっそくいただき・・・」
と言いかけたその時、
「ええー、それでは」
と、グラスを持って挨拶を始める義父。
「ああ、それではみなさん・・・。今日はワシのためにこんなご馳走を構えてくれてみんなが集まってくれて、ほんとうに、ありがたく思っております。・・・えー今から半年前、ワシははしごから落ちて大怪我しました。まさに生死の境をさまよったのであります。思い返せば昭和十九年、太平洋戦争末期、当時学徒動員で鹿児島に送られていたワシは・・・」
奈々香が「おなかすいた」と耳打ちしてきた。
「だよな!」
夫はすくっと立ち上がるとグラスを突き出して、
「おやじ!腹へって死にそう~。その話はあとでじーっくりじーっくり聞くから。はいじゃあ、みんなカンパーイ!」
「カンパーイ」「かんぱーい!」「はい、カンパイ」
一斉にステーキに箸をのばすうちの夫と子どもたち。
・・・ははは、ここんとこ牛肉なんて全然お目にかからなかったものねえ
「あーら、おいしそ、おとうさんも食べんね。はいお肉」
「んああ、うん」
義父はベッドで上体を起こして食事をしている。体を前に倒せないせいで食べ物が時々ぼろっと落ちる。義母はそれをさっと拾って義父の皿に戻す。
「だいじょうぶ、大丈夫。下へは落ちとりゃせんもん」
飲み物を受け取ったり、また渡したり。
・・・お義父さんが帰ってきたら、お義母さん、することが増えるよね。家は別だけど、わたしも何か・・・しなくちゃいけないよね
「おばあーちゃんー」
お腹がいっぱいになった奈々香が義母のところに寄っていった。
「はーい、ななちゃん。幼稚園もう慣れた?楽しい?」
「ううん、楽しくない」
と、即答。
「あれー、そうかね?ま、そのうち楽しくなるよ」
・・・はは、早くそうなってほしいんだけど
新学期早々ひと悶着あった京香は、意外にもすんなりとクラスに溶け込み友達もできて、
「この学校、算数がすっごく遅れてるから、みんながまだ習ってないとこあたしがすらすら解いたらみんなのソンケーの的になっちゃってー」
と嬉しそうに話してきたり、学校が楽しくて仕方ないといった様子だ。
反対に、あんなに幼稚園好きだった奈々香が新しいところになじめず、毎日のように行きたがらない。
「ママー、なな、おなかがいたいの。おなかがいたいこはようちえん行っちゃだめだって」
「ええ?昨日も痛かったでしょ?・・・じゃ、今日は絶対病院行くよ。お腹を調べてもらわなきゃ」
「・・しらべるのはいやだなあ。どうしようかなあ」
「ヤクルト飲んでごらん。きっとお腹の痛いの治るから」
と、好きなもので釣って、どうにかこうにか行かせている。
・・・小さい子どもだってストレス抱えるって言うし、今度の土日は、ゆっくり奈々香に付き合ってあげようか。
プシッと、三本目のビールのタブを開け、ご機嫌のうちの夫が言う。
「いやー、おやじの回復力はすごいわ。おれ、正直、車椅子生活を覚悟してたよ」
「ほんとよねー。おとうさんはえらい、こん人は昔から、努力の人やったもの」
今日の義父は終始上機嫌で、
「ママ、ちょっと、ワシにもビールついでくれんね」
「ええ?クスリ飲んどるに大丈夫?」
「んんーなこつ大丈夫に決まっとろうがね。ちょっとだけよー」
「はいはい」
・・・え?飲ませるの?
コポコポコポ・・・
舌なめずりでもしそうな顔で注がれていくビールを見ていた義父は、グラスを持つと一気にゴクゴクゴク、と飲み干してしまった。
「プッハアーッ!」
その満足そうな顔。
・・・あ、そうだった。お義父さん、かなりの酒豪だったよね。前にお正月に来たとき一人で焼酎一升空けてたんだった
半年ぶりのお酒の味はどんなにか沁みるのだろう。家へ帰ってきたという安心感からか、
「・・・ママぁ、ワシ、もう病院には戻らんでいいちゃが」
甘えるような声で言う。
「え?でも、そんなん勝手におとうさんが決めれんとよ」
「いや、東先生がこん前、『もういつでも通院に変えられますね。』言うてくれたとよ。もう治ったってことよ」
義母は思案顔で、
「そうやねえ・・・。いつまでん二人部屋はもったいないねえ。でも、通院、通院ねえ・・・」
プシイッと、次のビールを開けながら、うちの夫が口を挟む。
「通院もそうだけど、この三階って生活に困るんじゃないの?下のさ、アパートだっけ?おやじの作りかけのやつ。いっそのことひと部屋ちゃんと作ってそこで生活できるようにしたらどうよ。楽だよー」
グビグビとビールを流し込みながら、
「あ、そうしたらさ、ここ空くよね。おれらがここに引っ越して、あっちの家はまた貸家にすればさ、賃貸料も入ってくるよ。これ、グッドアイデアじゃない?」
すると、柔和な義母の目が一瞬、きっ、と鋭くなった。
「それは絶対ない」
「え、なんで?」
そろそろデザートのチョコレートケーキを出そうか、と立ちかけたのをやめるわたし。
「あんたね、人間、どこんでも住めればいいんじゃなかとよ。ここがわたしとおとうさんの家なんよ」
義母が厳しい口調なのは初めてで。
「ここは周りの家より一段高くて見晴らしはいいし、風は通るし、ほんとに気持ちのいい所なんよ。も少しして十五夜にはそんベランダからお月さんが上がってくるのを『あ、上がってきたね、大きいねえ』って、おとうさんとずうっと見てきたんよ。あんたらがおらんようになってからもずっと。・・・そんな急ごしらえの暑っ苦しい、冬寒い、壁に囲まれただけの家は家やないよ」
急に黙り込む夫。
・・・あーあ、調子に乗るからこうなる
わたしは京香を呼んで、ケーキとお皿を取りに立った。
「ななが切る~」
「やだ、あんたぐちゃぐちゃにするもん、ママ切って」
「はいはい、じゃあ、ななとママでケーキ入刀でーす」
長方形のカカオクリームのたっぷりのったケーキに奈々香とわたしがナイフを入れる。子どもがいると、ほら、重い空気がとたんに軽くなる。
「・・・でもまあ、シゲちゃんの言うことも分かるよ。道場、あんなになっちゃって。あんまま放っておくわけにはいかんよ。おとうさん、もうアパートはやめんね?」
義母の言葉に、義父も黙りこんでしまった。
「おとうさんが自分で建てるからって始めたけど、もうあんたしばらくははしごにも乗れん、材木も運べんでしょ。業者さんに頼んで作るお金はないからね。あんたの入院にぜーんぶ要ったから」
・・・そうだ、差額ベッド代!恐ろしい~
「猫が入ってきてフンだらけやし、雨風が吹き込んでもうぐちゃぐちゃやろ。それに、誰かが入ってきて火でもつけられんかと上におっても心配なんよ。早う、何とかせんと」
義父は何か言いたそうに口を開けたが、そのままケーキをがぶっと頬張った。同じくケーキを食べていた夫が急にわたしの方を向いて言った。
「奈緒ちゃんさ、ずっとダンスしてきてるからやりたくならない?下がきれいだったらさ、好きな時に体動かせるじゃない」
「えっ、わたし?」
急に振られた話に戸惑っていると、
「それ!、それいいわ!下きれいにして、子どもとか集めてダンス教えたらどげんね?」
とお義母さん。
「それいいよ。奈緒ちゃん、ダンス上手いんだよ。福岡でも教えてたし、いいんじゃない、やってみなよ」
「あー、そう、そうですねえ・・・」
急に降って湧いた話に中途半端な返事をするわたし。でも義母はかなり乗り気で、
「おとうさん、聞いてた?ね、奈緒ちゃんが道場でダンス教えるのいいよね」
義父はウンともスンとも言わない。
「おとうさん、どげんね?あんたが始めたことやよ。ちゃんとしてくれんといけんよ」
義父は聞こえてないようなそぶりで、
「あー、シゲ、焼酎、これ入れてきて。ママ、テレビつけて」
「ああ、じゃ、おれも焼酎にしよ」
「なんね?ひとが話してるのに・・・」
テレビではちょうど全国を勝ち抜いたグループによるダンス選手権のような番組が放送されていて、わたしの目は釘付けになった。
「あら、ほら、見て。こんな小さい子も踊るんやねえ。うまいねえ」
「おばあちゃん、あたしもバレエ習ってるよ」と京香。
「ななもならうー」
「あー、京香ちゃんとななちゃんのダンス、見たいねー、今度見せてね」
ベッドサイドでは義父と夫の酒盛りが始まっている。
「しげくん、お義父さん大丈夫なの?」
わたしが小声で聞くと、
「大丈夫、大丈夫。おやじはこのくらいの酒、屁でもないから。今日は飲ませてやってよ」
義母の方を見ると「仕方ない。ほっといて」と言う顔で。
「ああー、シゲぇ、これ薄いっちゃが。もうちょっと入れんねー」
「はいはい、分かりましたよ。もうちょっとだけね」
義父のお酒の相手は彼に任せて、わたしはテレビに戻る。
・・・ダンス選手権、ああ、懐かしいな。まだ踊れるかな?いや、ここまでの踊りはなかなか・・
わたしが教室をひらく。
そんなこと今まで考えたこともなかった。自分のスタジオなんて夢のまた夢。いや、夢でも考えたことなかった。わたしは楽しくレッスンできればいいだけで、自分で起業するなんてそんなめっそうもない。
・・・ないない。絶対ない。
京香と奈々香は食い入るように画面のダンサーを見つめている。
「ママ!今のチームすごかった、ねえ見た?」
わたしがぼんやりしているように見えたのか、
「ねえ!ママってば」
京香に太ももをぐいぐい押されて
「え?ああ、すごい、すごく揃ってたね」
「今のうまいの?すごいの?」
奈々香がわたしの顔をのぞき込んできいた。
けれどわたしはもうテレビを見ていなかった。わたしの頭の中で小さな火花のようなものがポンっと点ったようだった。まだ形のないぼんやりした光。小さくて捉えどころがないくせに、その光はずっとわたしの中で消えることなく点ったままで。
「ママ!聞いてない!もーー!」
奈々香がドサッと背中から覆いかぶさってきた。
「あー、ギブギブ、なな助けて、重い~」
わたしの声に、さらに大きく朗々とした声がかぶさる。
「ママぁー!あれ出しんさい、泡盛よ、そん奥に隠しとるぅ」
男たちの酒盛りはまだまだ続くようだった。
「退院の条件はひとりで階段の上り下りができること」
土、日と自宅で過ごした義父は月曜日には病院へと戻っていった。義父の性格からしてごねて戻らないのではと思ったが、意外にもあっさりと戻ったのにはちょっと驚いた。
「お酒もだいぶ飲ましたし、『おとうさんならできる!すんぐにひとりでスイスイ上り下りできるようになるよ。だいじょうぶ、大丈夫、がんばろ!』ってほめて励まして、目標を与えたんよ。あん人は目標を与えられるとそれしか考えられんようになって、ものすごい努力できる人なんよ」
と義母。
・・・ほお―、子育ての参考になります
「だって、こん階段上れんかったら、家入れんとよ。いっつもシゲちゃんが居るとは限らんし、わたしや奈緒ちゃんじゃ、あん人を支えきれんもん。帰ってきたらいかん!」
なるほどなるほど、と頷くわたし。
「で、バッチリよ。おとうさん、前にもましてリハビリするし、え?ああ、あの理学さんじゃなくて自分でするのよ。人がやってるの見よう見まねで。で、病院の階段、一日中上り下りしてるんよ。疲れたら座り込むんで、『大成さん、どうかされましたか?ご気分でも悪いですか?』って言われて。おとうさん、何て答えたと思う?『どうかほっといてつかあさい。これはワシに課せられた使命なんですけ』だって。あん人、ほんと超マジメなとこあるんよねー。そうじゃないとことの差がありすぎなんよね」
・・・超マジメ、いるなあうちにも。遺伝かしらん?
さすが、長年連れ添った義母。
見事、義母の策は功を奏して、義父は一時帰宅からたった二週間で、晴れて退院の日を迎えることができた。
車から降りた義父は杖をついて、ゆっくりと、でもしっかりとした足取りで歩いた。途中また、
「ママ、ここちょっと開けてくれんね。なか、見たい」
「はいはい・・・」
剣道場の中は何も変わっていない。
義父の一時帰宅のあと、わたしは夫に、
「しげくん、あの、壁だけでも塞いであげたらいいんじゃない?ほら、外から動物が入ってこれないように」
すると彼は、
「だーめだめ!そんな情けはおやじには不要だよ。現状をしっかり認識させて、あー、このままじゃいかんな、でもワシにはどうすることもできない、おれと奈緒ちゃんの手を借りるしか方法はない、って分からせなきゃ」
・・・うーん。なるほど
「奈緒ちゃん、やってみなよ、ダンスの教室。おれもできる限り手伝うからさ。奈緒ちゃん、好きじゃんダンス。やめたままなんてもったいないよ。」
「・・・そうね、そうよねえ・・・」
やるともやらないとも、はっきりと決心がつかないままのわたし。しかし彼の読みは当たったようだ。
義父がめでたく退院したその翌日の夕方、義母から電話がかかってきて、
「おとうさんが、大事な話があるから今からシゲと奈緒ちゃん呼べって」
晩ご飯の味噌汁の出汁パックを鍋に投入したところだったが、慌てて火を止め、夫と二人で実家に向かった。
・・・大事な話、とか言われるとなんか緊張するなあ
どきどきしながら入っていくと、義父はベッドではなくお気に入りの肘掛け椅子に座ってわたしたちを待っていた。
「あー、シゲ、奈緒ちゃん、そこに座んね」
ちゃぶ台の横のカーペットに座る。ベランダを背にして大きな肘掛け椅子に座る義父と、その前に正座するわたしと夫(夫はあぐら)。
・・・いや、なんかこれって玉座の王さまと臣下の図じゃない?
「ママ、ママも早よ、来んね」
「あー、はいはい」
義母もエプロンで手をふき拭き、わたしの後ろのローソファーに座る。
じっと正面を見据えていた義父がおもむろに口を開いた。
「あー、みんなのおかげで、ワシはこうやってまた家に戻ってくることができました。ママには特に、苦労をかけたと思っちょります」
「ほんとよ、ねー」と義母。
「一時はだめかと思うた体もどんどんね、良くなって、まだまだやれると、頑張れると思う。もうちょっと良くなったら・・・。ワシにはやりたいこと、まだまだたーくさんあるとよ」
ん、ん、んー、と義母の咳払い。
「・・・・・・・。じゃが、今はまだ自由のきかんこん体で、ママが言うっちゃよ。下で物音がするたんびに何かおるんじゃないかと、そのうち火事でも出るんじゃないかと。そげなことないっちゃがってワシがいくら言うても、ママが聞かんとよ!」
ん、ん、んんー、とまた義母の咳払い。
「・・・・・・・。ママが言うことももっともじゃと思う。ワシは今日、一人で下へ行って道場をよーく見てきた。まったく、はあ・・・正視に堪えん惨状じゃった。ワシが心をこめて大事に大事にしてきた道場が、二十五年間手塩にかけて育て上げてきた道場が、無残としかいいようのない荒れぶりじゃった。涙出てくるこつあったとよ」
・・・いやいやいや、お義父さんがそれ言う?それ言う?
心でツッコミながら義母を見ると、義母も確実にツッコんでいる顔で。義父はついっと壁に目を逸らして、急にペラペラっと早口で言った。
「奈緒ちゃん、やってみんね。下でダンス教えたらよかよ。シゲもおるし、なんとかなるじゃろ」
おっしゃあー!と夫。わたしも何か言わないといけないと思い、
「あ、すみません。ありがとうございます」
と言ってしまった。義母は、
「はいはい。じゃ、そういうことで」
と席を立ち、夕食の準備に戻っていった。
義父はじっと何もない壁を見つめている。眉をしかめ目を細めたその顔にはくっきりと「無念なり・・。」と書いてある。
玄関で靴を履きながら、
「さあ、これで決まり!明日っから忙しくなるぞ~」
と妙にやる気マンマンのうちの夫。
・・・え?これで決まりなの?わたし、やることになったの?それに、ほんとにいいの?よくないんじゃない?あのお義父さんの顔
さっきの義父の顔が忘れられないわたしは、すんなりと良かったとは思えない気持ちで階段を下りていった。




