ながされて宮崎
転校するなら二学期から新しい学校に行けるようにと、引越しは八月中と決めた。
夫の退職も八月末と決まり、平日は社内での残務調整、土日は自分の事務所開設の準備とこれまでよりもさらに忙しくなった。小学校が夏休みに入った七月の終わりに、わたしは子どもを連れて引越しの下準備のために宮崎に行くことにした。
長距離運転に自信がないので今回は列車での旅。JRを乗り継いで宮崎駅へ。宮崎の表玄関であろう駅前には南国らしいフェニックスの街路樹が堂々と立っている。
「うわあー、空が、まっ青!」
何回も来ているはずなのに、今回はなんだか特別、スカイブルーの空に感動した。
・・・青い空に白い雲、連なる緑のヤシの木。なんかリゾートに遊びに来たみたい。・・・にしても強烈に暑い!
手持ちの荷物が多いので駅からタクシーで実家に向かった。タクシーの窓から見える風景に
「ななたち、ここに引越しするの?」と奈々香。
「ああ~、超いなか!何にもないじゃん」と京香。
「えー、そんなことないって。観光地だよ、みどころ多いんだよ。そうだ、ママのお仕事終わったら、いろいろまわってみようか?ママもあんまり行ったことないんだよね、観光スポット」
タクシーの運転手さんが話しかけてきた。
「お客さん、どちらからね?」
「あ、はい。福岡です」
「あー、福岡ね?こちらへは夏休みのご旅行か何かね?」
「あ、夫の実家があるもので」
「あー、じゃあよく分かってらっしゃるね。今日はまた猛暑日げな。こげん日はとてもとても歩けんとよ。タクシーが一番げな」
「そうですねえ・・・ははは」
タクシーで涼むこと十五分、実家のある桜ヶ丘町に到着した。
この辺りは住宅街でほとんどが一戸建て、アパートなどがあまりない。のどかで落ち着いた雰囲気だ。
到着時間を知らせていたので、義母が家の前で出迎えてくれた。
「よう来たねー。暑かったやろ、ささ、入って入って」
剣道場の入り口の前を通って外付けの階段の鉄製の手すりを持って
「うんしょ、うんしょ・・・」
と奈々香が上っていく。なかなか上りがいのある階段だ。
「さあーついた。お疲れ様~」
夫の実家は広い。下の道場の建面積が百二十平米あるらしいから、その真上のこの家もそのくらいあるわけで。
京香と奈々香がベランダに走り出て行く。
「うわー気持ちいい~、あっ!プールがある~、おばあちゃんプール入っていい?」
「よかよー、今日は暑いから、プール出しておいたよ」
ベランダも広々としていて、大きめのビニールプールにはもう水が入っていた。
「すみません、お義母さん。ありがとうございます。ほんと、ここは風が通りますね、気持ちいい」
「そうなんよ。夏も風があったらまあまあ涼しいし・・・」
元は夫の部屋だったという和室に荷物を置いて、さっそくわたしは用件に入る。
「あの、お義母さん。わたしたちが住ませていただく家を見せていただきたいんですけど、見られますかね?」
「ああ、いつでも見られるよ。借りてた浜田さん先週もう出られたとよ。なんか新しい仕事が日南のほうで見つかって、早く来て欲しいって言われたって。今月は半月分の家賃にしてくれ、半月で出るからって言ってきてねえ。まいっかと思って」
「じゃあ、さっそくですが、わたし見てきていいですか?」
「いいよー、カギは開いてるから」
下におりて駐車場にまわる。砂利と小石がゴロゴロの空き地のような駐車場。車が五、六台は停められそうな広さがある。ブロック塀沿いにはバナナの樹が植わっていて青々とした大きな葉を茂らせている。
・・・さすが南国!バナナが生えてる。これって宮崎じゃ普通なの?
わたしはしげしげとこの貸家を眺めてみた。築四十五年の年季が入った建物だ。義父が結婚を機に一念発起して建てたというコンクリートの小さな二階建て。外壁は薄汚れてところどころ割れたり欠けたりしている。
「おじゃましまーす・・・」
一応声をかけて玄関の引き戸を引いた。
「え、あれ?なんか開かない、お、重い・・・」
ガタピシ音をさせながらやっと通れる幅に戸を開けた。
・・・これ、これダメだ!京香や奈々香じゃ開けられない
開けっ放しだった理由も分かった。カギは壊れていてそもそもかからないのだ。
・・・平和なのかね。カギなしでも大丈夫なんだ・・・って?ほんとに大丈夫なの、宮崎?
半畳位のタタキがありそこを上がると左手にすぐドアがあり、そこがキッチンとダイニング、奥は六畳ほどの狭いリビングになっているようだ。壁や天井はおびただしいシミと汚れで部屋が暗く見える。
・・・これは、壁紙貼り替えだけじゃ済まなそうだよ・・・
廊下に戻って少し行くと突き当りがトイレ。わたしは恐る恐るドアを開けてみる。
キイイイーッ・・・。
・・・ほっ、ああよかった!フツーの水洗トイレ、フツーの洋式、フツーの汚れ具合。ここはなんとか大丈夫。
トイレのすぐ脇にもう一つドアがある。そこをバタンと開けて、わたしは固まった。
ゴミが山のように積み上げられたそこはお風呂場。ヒビ割れた浴槽には発泡スチロールの魚箱やビールの空き缶、壁時計や毛布に雑誌、わたが飛び出た折りたたみベッドまで、ありとあらゆる物が乱雑に放り込まれていた。洗い場もゴミの袋で床が見えない。
・・・もしかして、ここに住んでた人、要らないもの全部、ここに放り込んで出ていった?
呆然とそれを眺めるわたしの足元で、何かがさっと動いた。
「・・・??!!」
シャッ、としっぽの長い灰色のかたまりがわたしの足をかすめて風呂場の隅へと走りこんだ。
「~~~!!」
ついつい目で追ってしまったその隅っこのタイルの壁を、うにょうにょと這い上がる特大の赤黒い脚が百あるという生物!
「×○♂△※凸~~~!!」
これがマンガだったら、わたしは白目を剝いて倒れるところだ。だがさすがにそうはいかない。
そろーっと後ずさりしてドアを閉めた。
・・・見てない・・・わたしはなんにも見てない・・・
ダダアッと、大急ぎで玄関に戻り、深呼吸する。スーハー、スーハー。
少し落ち着いた所で、
・・・さあ、あとは二階だぞ!レッツゴー!
・・・いや~、行きたくない、行きたくないよ~(泣)
・・・はあ?行かなきゃ!はるばるこのために来たんでしょ!
・・・いや~、無理、無理だよう~(泣)
・・・頑張れ、頑張るんだわたし!やればできる! YDK(子)! Y・D・K!
必死で自分を鼓舞しつつ、覚悟を決めて一歩一歩慎重に階段を上がっていく。まさに「出る」と分かっている幽霊屋敷を探検する気分で。
途中で九十度曲がって上がりきったその先には・・・六畳ほどの洋室と和室があった。
「あ・・・」
窓とベランダへ出るサッシからの光が明るく届き、何もないがらんとしたこぎれいな部屋。一階とうってかわっての白さと明るさに逆に驚いた。
・・・前の住人さんは二階は使ってなかったんだわ、これは
少し硬くなっているサッシを開けると熱をはらんだ風が勢いよく流れ込んできた。ベランダは洗濯物を干すのには十分な広さで、隣の実家から京香と奈々香のはしゃぎ声が聞こえる。気をつけてベランダに出ると鉄製の柵が錆びてボロボロで危険なのが分かった。
・・・この柵、付け直す、と
わたしは手帳を出して書き留める。
一階、壁と天井、床のリフォーム、お風呂場は・・・業者に頼んでゴミ持って行ってもらうか?リフォーム必要。エアコン工事全部屋に必要・・・、玄関!ドア交換?ここもリフォーム?
・・・はあ、これって全部でいくらぐらいかかるかな。うちが全部直さなきゃいけないのかな?家賃がタダでもこれじゃあ・・・
「ママー!ママー!」
わたしに気づいた奈々香が手を振っている。京香も一緒になってジャンプしながら両手を振っている。
・・・あらー、めずらしい。最近はお姉ちゃん風吹かせてクールにきめてる京香が・・・
「ママー、ママもおいでよー、気持ちいいよーー!」
確かに、このベランダは気持ちいい。風がわたしの顔を撫でて通り抜けて行く。
・・・風通し良し、日当たり良し!おまけに子どもの機嫌良し!少々?の出費は・・・仕方ないか!
わたしもブンブン手を振って返した。
「いーまー行くよー!」
上がってきた時よりははるかに足取り軽く、わたしは階段を駆け下りていった。