変わりつつある日常
翌日の朝、僕は昨日の出来事が夢のように思えた。起きたらそこには、変わらない日常がある。
僕はいつもと変わらない、いつもと同じ時間に、いつもと同じペースで学校へ向かう道を歩く。
最近変わったことと言えば、衣替えがあったりして服装が人によってバラつきがあるくらいだ。
それ以外にはなにも変わらない。
道路を走る車の数も、毎日この時間にペットの散歩やジョギングをしている人も、僕のように学校へ向かう生徒も。
何一つ、ごく当たり前の光景だ。
交差点に差し掛かる。信号はちょうど赤だ。
別に問題はない。僕はただ、信号が青になるのを待つ。
その時、背後から声がした。
「彼方」
その声は、この一年で最も聞き馴れた声かもしれない。
そしてこの声で、変わらない日常が変わっていたんだと自覚する。
僕は振り向く。当たり前のようにそこには見馴れた彼女がいる。
「おはよう、白雪」
僕は、今僕にとって最も大切で僕だけが呼んでいいその名前で、目の前の最愛の彼女の名を呼ぶ。
「うん、おはよう」
白雪はそれに対してにっこりと笑った。いつみても素敵な笑顔だった。
「こんな時間に会うなんて奇遇だ。白雪はいつも早くに、学校に行ってるのだと思ったんだけど」
今まで登校中に白雪を見かけたことは一度もない。彼女曰く、朝はだいたいクラスで一番最初に来ているらしい。
その彼女がここにいる。早く来る生徒ならば、もう学校に着いていてもおかしくない時間だというのに。
なにかあったのと僕は尋ねる。
だが彼女は首を横に振った。
「違うよ。ここで彼方を待ってたんだよ」
「僕を?」
「うん、一緒に登校したかったから」
白雪は頷く。予想外だった。
少し前まで僕たちは偽りの恋人であったけど、制服を着て人前で一緒にいることはほとんど無かった。あくまで創作のためであって、まわりに見せつけるためでは無かったから。
でもそれが変化したということはつまり、そういう事なのだろう。
ちょうど信号が青になり、僕たちは話すのを一旦やめ交差点を渡る。
渡り終えた後、僕の隣を白雪が歩く。
この光景自体ははじめてでない。
だけど今までとは意味が違う。
僕たちの関係は変化した。
僕たちは昨日、本物の恋人になった。
今までは偽りの、互いの好意が分からない形だけの恋人だった。
でもこれからは、互いを愛する本当の恋人になる。
彼女への好意に気付いた僕は、もちろんその事に関して嬉しかった。
だけど一体どうすればいいんだろう。恋人のようで恋人でない関係を続けたわけで、ここからなにが変わるのか具体的には分からない。
とりあえず白雪に、先程の話の続きを聞く事にした。
「僕も一緒に登校できるのは嬉しいよ。けどなんで僕に言わなかったの? 時間も通学路も分からないのにさ」
白雪は僕の家を知っているけど、僕が何時に登校してどこを通学路として歩いているか知ってるはずがない。すれ違う可能性もあった。
「家まで行くのはちょっと恥ずかしかったから。それに驚かせたいなって思ったの」
「会えなかったらどうするつもりだったの?」
「その時は遅刻してもいいよ。時間一杯まで待つつもりだったから」
「計画性がないね」
「うん、分かってる」
白雪は髪の毛を、右手で弄りながら言った。横目で見ると、その姿はとても可愛らしく思えた。
「白雪の気持ちは嬉しいけど僕は君に負担を掛けたくないよ。これから一緒に登校するなら、時間と場所をちゃんと決めた方がいい」
「……そうだね。じゃこれからは一緒に、登下校しようね」
彼女は微笑んだ。
いつの間にか下校までも決められていた。でも、拒む理由はない。
それから僕たち二人はどこでこれから待ち合わせをするか、そして昨日完成した小説の事を話した。
完結したことにより、ネットでの評価はそれなりに上がっていた。ストーリーの方も、互いに納得できる内容になっていて満足のいく出来になっている。
結末としては主人公とヒロインは結婚し、数年後には子供を授かった。
ハッピーエンドと言っていいだろう。
彼らの物語はここで終わりを迎える。
それなりに望んでいる人もいるし、後日談を書くのもいいかもしれない。主人公たちの子供を主人公に、新しく物語を書くのもいいかもしれない。と、僕は思い白雪に言った。
けれど白雪はそれを拒否した。
なぜかと尋ねると、結末は最も良いと思える場面でわたしたち作者が終わらせるから結末なんだよ。もともと続きを書くのを前提としているならともかく、その後の話を書いたらせっかくの結末が薄くなると彼女は主張した。
そう言われると、そうかもしれない。と僕は言った。
有名な漫画ならば、漫画家が最も良いと思える場面で終わらせたいと思っても、売り上げなどの原因ですぐに完結させることができない。
たとえ一度完結してもまた別の雑誌に移り、後日談や新たな主人公を主人公の息子にして連載を再開することも多い。
ファンであれば、好きな作品が長く続いてくれることは嬉しいだろう。
だけどそれが本当に、作者のやりたいことなのかは分からない。
もし好きなところで完結させていいのならそうしたいだろうとは思う。
僕たち素人の作品はそれが出来る。
仕事ではなくあくまで趣味でやっているから。
確かに、僕も出来るならあの物語はあそこで終わってほしいとは思う。
結末としては良かった。良かったからこそ、それ以上素敵な結末をあの世界で書けるとは思えない。
だから続けない、あのハッピーエンドでこの物語は終わった方がいい。
二人で会話をしていると、少し遠くの場所に学校が見えた。
学校までもうすぐか。なんて思っていると突然、後ろの方から大声が響いた。
「ヒメちゃーーん! 彼方くーーん!」
振り向くとそこには案の定、ショートヘアで背の小さい少女、天原初音が大きく手を振って近付いてきた。
「おはよう初音」
「おはよーヒメちゃん!」
白雪は微笑み、天原は元気な声で言った。
「彼方くんもおっはよっ!」
「ああ……おはよう」
僕は面倒だと思いながらも挨拶をする。やはり僕は彼女があまり好きでない。
単純に、彼女のテンションには少しついていけないところがあった。
「それにしてもめずらいねえ。二人が一緒に登校なんて」
天原は僕たちのちょうど間くらいのところに立ち、僕たちの事を見てニヤニヤと笑う。
「あ、初音にはまだ話してなかったね実は……」
「正式に恋人になったんでしょ?」
白雪が言うよりも先に天原が答えた。
おそらく白雪はまだ天原に事情をいっていない。だから目を丸くし、尋ねた。
「どうして分かったの?」
「簡単な話だよ。遅かれ早かれ、もうそろそろくっつくかなーって思ってたからね。キミたち二人は気付いてないようだけど、私からみれば二人が相思相愛なんて分かりきってたのだよ」
天原はえっへんとでも言いたそうにふんぞり返った。
僕たちの関係を唯一知る、彼女にはそう見えてたようだ。根拠としては微妙だけど、天原の言うことはいつも合っている。まるではじめからすべてを知っていたかのように、彼女は話すのだ。
「ま、そんな事別にいいんだよ。それよりはい、プレゼント」
話題の方向を変えるかのように、天原は白雪の手に、見えないように何かを渡す。天原が手を離し、白雪が手を広げるとその正体が分かった。
それは鍵だった。見覚えのある、屋上に繋がる合鍵だ。
「これからは二人っきりで屋上に行くといいよ。これ以上私が干渉するのも駄目だからね」
「そんな、初音を邪魔だなんてわたしは思ったりしないよ。遠慮しなくてもいいのに……」
「ありがとヒメちゃん。でもいいんだよ。私はヒメちゃんの友達であることに変わりないけど、きみが愛する彼方くんとの時間を大切にしてほしいんだ。あとバカップルのイチャイチャ見せつけられても嬉しくないよっ」
最後の方は嫉妬のような冗談を交えて、舌をちょこっと出し天原は言う。
そんな天原につられて白雪の頬も自然と緩んだ。
「たしかに、嫉妬させちゃうかも。わたしたち、もうあんな事やこんな事した仲だからね」
「ぬぬぬっ、もうそこまでいってたかっ。妬けるぞー、嫉妬しちゃうぞー」
あきらかに誤解を招くような発言をした白雪だが、天原は分かっているのか否か、便乗してふざけた感じに言った。
天原と話しているときの白雪は、僕と話しているときとはまた違う笑みを見せていた。二人は互いに親友なんだと再確認する。
「そうそう、彼方くん」
一通り白雪との会話を終えた天原が、僕に向かって言ってきた。
なんだい、と僕は尋ねる。
「ヒメちゃんの事、彼氏としてちゃんと大切にしてあげてね。残りの時間を後悔しないように、ね」
「なんだよそれ」
少し意味ありげに天原は言った。
それはまるでなにかを知っているかのように。少なくとも女子高生が、友達の恋人に言うことなのだろうか。
「なにって……」
天原は背中を向け歩き出す。
数歩歩いた後、顔だけをこちらに向け彼女は言った。
「ボクは彼女の王子様だよ」
一瞬、時が止まったかのように思った。
天原が天原でないように見えた。口調、表情、雰囲気、それらがいつもの彼女と同じようで、どこか違った。
だけどそれは、ほんの一瞬の出来事。彼女の表情や雰囲気は、すぐにいつものものへと戻った。
「私は先に行くよ。それじゃヒメちゃん、また学校でね!」
天原はそれだけ言って、急ぐように走り去った。白雪は返事をしようとしたけれど、その時にはもう彼女は遠くにいた。
思えば彼女との会話でずいぶん時間を使ってしまった。けれど急ぐほどの距離ではない。
僕と白雪は自分達のペースで、学校へと歩くことにした。