白雪姫は眠りにつく
白雪が死んだ。
突然、そのような事を言われて、誰が信じるというのだろう。それはあまりにも唐突で、あまりにも信憑性がない。
実際に僕も、はじめは理解ができなかった。悪い冗談にもほどがある、と思っていた。
彼女はまだ高校一年生の女の子だ。華奢な身体をしているが、病気にも掛かっておらず健康的である。
彼女が死ぬ理由なんて、普通は見当たらない。
でもこれは────嘘ではない。
実際に白雪の両親から聞かされ、僕は病院へ行った。
白雪がいる病院へと駆けつけた僕は、看護師に病室の番号を教えてもらい、その病室の中へと入る。
部屋に入ったとき、はじめに聞こえたのは泣き声だった。それはとても悲しそうに、喉がかれかかっている声。
はじめは分からなかったが、聞いているうちに、聞き覚えのある女性の声だと分かった。
声の主は白雪のお母さんだ。
部屋の中に進んでいくと、白雪の両親がいた。白雪のお母さんは、ベッドに顔をうずめるように泣いていた。
一方白雪のお父さんである誠二さんが、僕の方に気が付き、こちらを向く。涙こそ流してなかったが、その表情はしんみりしていて悲しさが伝わってくる。誠二さんはなにも言わず、ベッドのそばから離れた。
僕は誠二さんが先程いた、ベッドのそばに行くことにした。
ベッドに向かう一歩一歩が、とても重く感じていた。
一歩歩くのは一秒すら掛からないはずなのに、その一歩が何秒にも何分にも感じられた。
まるで僕以外の時が、全部止まってるかのように。
足音以外の音が、一切聞こえないように。
怖かった。
歩く時間を終えたら、僕は現実を見ないといけない。
それを嘘だと思いたくても、真実を突きつけられ認めねばならない。
だからどうしようもなく、怖かった。
そして僕はベッドのそばに立つ。
ベッドには目を閉じ、眠りについている白雪が横になっていた。
いつものように綺麗な顔だ。
雪のように白い肌、紅い唇。
なにも変わったところはない。
なんだ、やっぱり嘘じゃないかと言いたかった。
──でも違った。
彼女は息をしていなかった。
本来聞こえるはずの寝息が、呼吸が、一切聞こえてこない。
僕は唾を飲み込む。
それから震えた手で彼女の頬に触れた。
頬に触れたとき、これが人間の肌だと僕は思いたくなかった。
人間の肌が、雪のように冷たいはずがないからだ。
これは言いすぎだとしても僕にはそれくらい、彼女の頬と肌が、冷たく感じた。
僕は、認めざる終えなかった。
──姫乃白雪は──僕が愛した彼女は──もう、この世にいない。
「トラックにはねられたんだ」
僕が一通り彼女の状態を把握した後、今まで黙っていた誠二さんが言った。
「どうして……?」
「赤信号を待ってた時、子供が気づかずに道路の方に出てしまったらしい。ちょうどトラックがやってきて、このままだと子供がはねられるところだった。その時、娘はとっさの判断で子供のところへ行き、庇うように子供を安全な所に行かせた。でも娘は間に合わなくて、そのままトラックに……」
「だいたいのことは、理解しました」
誠二さんは、だんだん辛そうな顔をしていった。話すたびに思い出して、辛いのだと分かった。
僕はこれ以上聞こうとは思わず、一通り把握したところで話をやめるように言った。
そして僕は冷静に、感情を殺して言い出した。
「今日はとりあえず、これで失礼します。あとはご両親が、白雪のそばにいてあげてください」
「私たちに気を使わなくていい。遠慮する必要なんてないよ」
「いえ、僕はいいです。僕と白雪の関係は、たった一年にも及ばないんです。だから今は僕よりも、ご両親がそばにいてあげるべきです」
それだけを告げ、僕は背を向けた。
理由はなんでもよかった。
ここにいたくなかったのだ。
そのまま逃げるかのように僕は病室を出る。
病室を出た後、拳に力を入れた。
血が出てきてもおかしくないほどの強い力で。
痛いとは感じない。
それよりもっと痛いものが、すでに自分の中に突き刺さっているから。
歩くペースも、自然と小走りで速くなっている。
一人になりたくて、とにかく急いでいた。
通路に来たときには、もう人の気配が無かった。
それから僕は徐々にペースを落としていき、立ち止まる。
──もう我慢ができなかった。
「クソッ!」
僕は通路の壁を強く握った拳で叩いた。
反動の痛みが拳に伝わる。
でも、足りない。
これだけでは、足りない。
彼女の苦しみには、到底及ばない。
わけが分からなかった。
僕の恋人が、白雪が死ぬなんて理解できるはずもない。
彼女はまだ女子高生。まだ大人にもなっていないのに、彼女は死んだ。
彼女は小説家になる夢のために、頑張っている真っ最中だった。
それなのに、彼女は死んだ。
僕はご両親の前で自分を偽っていた。ほんとはあの時から、もっと感情的になりたかった。でも、強がっていた。
思えば、僕がここまで感情的になるのはいつぶりだろう。
もともと感情的に怒ったり泣いたりする性格でもなかったから、小学生以降泣いた事があるか覚えがない。
でも今は久しぶりに、それだけ感情的になっていた。
怒りと悲しみが交差していた。
もしかしたら今、僕は泣いているかもしれない。
でもそれに気づける余裕が無い。
それくらい怒りにみちあふれていた。
どうして彼女なのか。
彼女がここで死ぬ必要があるのか。
理解できるはずがない。理解したいとも、思えない。
「仕方ないんだよ、それが運命なんだから」
突然後ろから声がした。
振り向くと、そこには髪の短い黒髪の、背の小さい少女が立っている。
僕はその少女の事を知っていた。
「天原……」
「今きみがすべきことは、彼女の死を受け入れることさ」
彼女は全てを見透かしているような、そんな目をしていた。表情は至って普通で、そこには怒りも悲しみも、他のどのような表情も見えない。無表情と言っていい。
窓から差し当たる夕焼けの光が、彼女の髪と制服を紅く染めている。
「なんだよそれ……」
僕は再び、拳に力を入れて言った。
彼女がなぜそこまで冷静に、そんな言葉を口に出来るのか分からなかった。
「悲しいと思わないのか? なんでそんな冷静でいられるんだよ……」
「もちろん、ひめちゃんが死んだことは悲しいよ。でも誰であれ、生き物はいつか死ぬんだ。生きると言うことはすなわち、死があるということだから。だから私は、ひめちゃんの死を受け入れる」
その言葉はまるで、知らない誰かが死ぬのと変わらない言い方だ。
親しい友人が亡くなったとき、すぐに言える言葉ではない。
「どうしてとっさに、そんな事が言えるんだ。僕にはお前の考えがよく分からない」
「じゃあきみは、道端で死んでいる虫や小鳥を見て、いちいち涙を流すほど悲しむのかい?」
「そんな事ない。死体を見つければ悲しいとは思うけど、そこまで感情的にはならない」
「だろうね。私にとってひめちゃんの死は、それと変わらないのだよ」
なに一つ変わらない表情で彼女は言った。
拳を握りしめる力が、ますます強くなる。理解できない事への怒りが満ち溢れていた。
「大事な友人の死と道端で死んでいる動物を比べて、同じだと言うのかよっ!」
僕は、はじめて感情的な想いを天原にぶつけた。
ここまで誰かに対し、怒りをぶつけるなんてはじめてかもしれない。
でも、それだけ白雪の死が、僕にとって感情的に揺さぶられる事なんだと思う。
その白雪の死を親友である天原が簡単に受け入れ、他の生き物の死と同じように扱っているのが許せなかった。
「彼女はまだ死ぬべきじゃなかった。高校生で夢を見つけ頑張ろうとしていた彼女が、死んでいいはずがなかった」
「いつか死ぬのは当然のことさ。遅かれ早かれね。今だって、どこかで人が死んでいるかもしれない。生物全体で見れば、常になにかが死んでいるんだよ。それにいちいち、涙を流すことはない。けれど、まあきみの気持ちも分からなくはないよ」
それから天原は、まっすぐに数歩歩き僕に近づいた。
「例え話をしようか」
「例え話?」
「そう、もしきみがこの出来事を知ったまま、過去に戻ることが出来る。そんな能力があるとしよう。きみはひめちゃんを助けるために、過去に戻ろうとするかい?」
「そんな非現実的な話、今すべき事じゃないだろ」
ふざけるな、と僕は思った。
不可能なことを言っても、今さら何の得にもならない。
「これは例え話だよ。非現実的とかそんな事、今は必要ない。きみが、死んだひめちゃんを助けたいかどうかの話さ」
「そんなの、助けたいに決まってるだろ……」
誰だって死んだ人を助けられるなら、助けるに決まっている。
「そっか……」
そう言って彼女は、無表情だった表情がにっこりとした笑顔へと変わった。
でもそれは一瞬の事だった。
「きみにはがっかりだよ……清瀬彼方」
目を開き、次に向けた彼女の目付きと声は、とても冷たいものへと変わっていた。
彼女の言ってることが、よく分からなかった。
「きみが選んだ選択は、死んでしまったひめちゃんを見捨てると言うことだよ。過去に戻ればひめちゃんは生きてて、ひめちゃんを助けることが出来る。けれどそのひめちゃんは本当に、きみの知っているひめちゃんなのかな?」
「それは……」
「私はね、タイムリープって言葉が大嫌いなんだよ。過去に戻って都合のいい未来に変える。誰かが死んだから死なない未来に移る。なんて馬鹿馬鹿しい考えなんだ、とさえ思うよ。だからきみには失望した」
「例え話じゃないのかっ……」
「例え話だよ。でもきみは、ひめちゃんの死から逃げようとした。彼女が死んだことを忘れ、またべつの、彼女に似た誰かを代用しようとした。その事実に嘘はないさ」
言葉に詰まった。彼女の言っていることは事実である。
僕は実際、白雪が死んだことを認められなくて、未だに彼女の死を受け入れていない。
逃げていると言われれば事実なのかもしれない。
だけど、賛同できるかといえば違う。
もしこの例え話のように言われたら、誰だってそうするはずだ。
大切な人を救える未来を求めたい。
そんなの当たり前の話だ。
「もちろん当たり前だと思うよ。きっとそれが普通さ。でもきみが、ひめちゃんに認められたきみが、そんなありきたりな答えを言うのに私はがっかりしたんだ」
「どういう事だよ」
当たり前のように、彼女は僕の思っていたことを言い当てた。
最早、そのことに動じはしなかった。
「きみの考え方は普通とはちょったと違う。だから私は面白い答えを期待してた。でも、今のきみにはとてもがっかりだ。それはどこにでもいる普通の人間の考えさ。それにね、彼女は死ぬ直前、はねられそうになった少年を助けたんだ。きみの考えは、彼女の行いを否定することでもあるよ」
「否定?」
「もし、ひめちゃんが死なない世界があったとして、じゃ誰がその少年を助けるんだい? 彼女が死なない代わり、少年やまたべつの、誰かが死ぬかもしれないんだよ。そして別の誰かが悲しむ。だから結局、運命を変えると言うのは実に自分勝手なものなのだよ」
「それは白雪が死んでいい理由にならないだろ」
「そうかもね。でも私としては、彼女の死は彼女の理想だと思ってるよ。死ぬ直前、彼女は誰かを助けることができたんだ。そしてトラックにねられて死んだ。これはまるで、異世界に転生するような死に方じゃないか。異世界に憧れを抱いていたひめちゃんにとって、この死に方は理想だよ」
もし、天原が女でなく男であるなら、僕はこの時点で天原をぶん殴っていたと思う。
だけどそうする訳にもいかなくて、僕は抑えきれない気持ちをぐっと我慢する。
確かに白雪は時折、死後の世界には異世界があるかもしれないと憧れを抱いていた。 証明されてない出来事にはなんだって、可能性を否定できないと彼女は言っていた。
はじめは僕も戸惑いを見せたが、彼女はまっすぐでとにかく理想を抱いていた。その姿を見ると、彼女の考えは否定できなくて、むしろ正しいかもしれないとさえ思いもした。
しかし、だからと言ってそれが、彼女が死んでいい理由にはならない。
その死がたとえ、非現実的であったにしても、理想的だとか死ぬべきだとか、存在していいはずがない。
そして、僕はやっとあることに気付いた。
──僕は、天原初音という人物が嫌いだ。
ちょうど一週間前に話をしたときは、不思議に思えど彼女の考えは面白いと思っていた。白雪とはまた別の考えではあったが、興味深い考察であった。
けれども、それは間違いだった。
彼女はあまりにも冷たい存在だ。
知人も他人も、関係なく平等に。
人とは思えないほどに、残酷だ。
そのすべてを見透かしているような態度と、それに対し彼女の考えが全く分からない不気味さが嫌いであった。
だから僕はまた、一度聞いたことを再び言う。
「お前はいったい何者なんだ」
彼女は口元を緩めて、それからこう言った。
「私は、天原初音は普通の女子高生だよ。ひめちゃんの王子様である、その事以外はね」
彼女はその後、僕に背を向けそして歩き出した。
「それじゃあね。またいつか、会えたらいいね」
背を向けたまま右手を僕が見えるように広げ、彼女は言った。
その時、僕にはその言葉の意味が分からなかった。
またいつか、とはどういう意味なのか分かりっこなかった。
でもその言葉と同時に、なにかが溶けはじめるような、そんな感覚がした。