白雪の過去
本格的に、厚着をしなくてはいけない季節になってきた。おそらく積雪の多い地域は、すでに雪が降っているであろう。
そんな十二月の、ある日の事だ。
日が暮れてきた夕方、僕はコートを着て、とある豪華な家の建物の前にいる。
二階建て、いや三階建てだろうか。その家は僕の住んでいる家よりも、遥かに大きい。周囲の家と比べてもそれは明白でありとても目立つ。
外見はここではあまり見られない、おしゃれな雰囲気があり、まるで都会のように思えた。
「とても立派な家だ。白雪の家はお金持ちなの?」
僕は呟くように言い、隣にいる僕の彼女、白雪に目線だけを移す。
彼女は一度頷いて、それから言った。
「お父さんが金融関係の仕事に勤めているから、それなりにね」
「それなり?」
「昔はマンションに住んでいたけど物価が高くて、ここなら土地も安いから家を建てたんだって」
彼女はさりげなく言った。
都会の事は詳しくないけど、家を買うのが難しいのは知っている。
それでも都会に住んでいたということは、白雪の家庭は裕福な方であろう。
そう考えていると、だんだん緊張してきた。
僕は今日、はじめて白雪の家に行きご両親に挨拶をする。
彼女の家の場所を知ったのは、今日がはじめてだ。聞いても今はまだ内緒と言って、今までどこに住んでいるのか知らなかった。
だからここに来たときから、彼女の家とご両親への挨拶を考えて冷や汗が出ている。
中に入る前に、ご両親に悪い印象を与えないよう身だしなみを整える。
彼女はそんな僕を見てなにも言わず、にこにこと微笑むだけだった。
それから呼吸を落ち着かせ、僕は決心する。
「行こう」
僕はそう言って、玄関のチャイムを鳴らす。しばらくすると、扉がガチャリと開き一人の女性が現れる。
「お母さん、ただいま」
白雪がその女性に向かって言った。
見た目は三十代くらいの女性だ。長い髪を一つに束ねており、肌は白くそれは白雪に似た印象だった。
この人が白雪の母親のようだ。だけど母親にしては、白雪の年齢を考えると少し若々しくも感じた。
白雪のお母さんはおかえりと白雪に言ったあと、僕の方を見た。
こんばんは、と僕は挨拶をする。
緊張はしているけどそれは表に出さないように、声も表情もいつも通り社交的であるように心掛ける。
そのあと僕は笑顔を忘れずに、言葉を続けた。
「はじめまして、白雪さんとお付き合いをさせていただいています。清瀬彼方です。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
敬語を使い、また白雪の事をいつもとは違う、本来の名前で言った。
言ったあとに、ちょっと高校生にしては堅苦しい言い方かもしれないと思った。けれど悪い印象を与えることはないだろう。
挨拶を終えたあと、白雪のお母さんは僕を見て微笑んだ。親子だからか、白雪に似ていて、どこか優しい雰囲気があった。
「はじめまして彼方君。ここに来るまで寒かったでしょう? さぁ、上がってちょうだい」
白雪のお母さんは、僕を優しく迎え入れてくれた。
玄関先でコートを脱ぎ、その後白雪と白雪のお母さんについていくように、リビングへと向かった。外見から分かるように白雪の家はとても広く、リビングにつくまで少し時間がかかった。
リビングに向かうと、一人の男性がソファーに座っていた。
その男性に向かって、白雪のお母さんは声をかける。
「お父さん、白雪の彼氏が来ましたよ」
その男性はやはり、白雪の父親のようであった。眼鏡をかけ、顎に髭を生やしている男性だ。四十代あたりに見えるが、顔はしっかりと整っていた。
でも白雪のお父さんは、声をかけられても反応しない。
彼の目線は小説に釘付けにされており、ページを時々めくりながら小説を読んでいるだけでだった。
それでもなお、威厳のある雰囲気を醸し出しており近寄りがたかった。
「ごめんなさい、この人ったら一度新聞や本を読むと区切りがつくまで人の話を聞かなくて……いつもこうなの」
機嫌が悪い訳じゃないから安心してね、と白雪のお母さんは申し訳なさそうに言った。
内心ほっとする。
まだどう思われているのか分からないが、あまり僕と白雪の交際をよく思ってない上での態度なのかと思い不安だった。
母親に好かれるのも大事だが、やはり彼女の父親に交際を反対されるとなると今後の付き合いが難しくなる。
彼氏にとってみれば、父親に好かれる事はとても大事なことだ。
「白雪、お母さん料理の準備してるんだけど手伝ってくれる?」
「うん、いいよ。それじゃ彼方は好きに座って待ってて」
「ああ、分かったよ」
表には出さなかったが、追い討ちをかける事態だ。
それはつまり、僕はこの部屋で白雪のお父さんと二人きりになるということだった。
その事に気付いた白雪は小声でごめんねと囁いた。白雪に一緒にいてほしいとも言えないし、僕も小声で大丈夫だよと返事をする。
僕は白雪のお父さんと、距離を置くかのようにソファーの端の方に腰をかけた。その後白雪たちはリビングを出てキッチンへと向かった。
気まずい沈黙が流れる。
リビングには男二人。僕と白雪のお父さんだけだ。
白雪のお父さんはただ、小説を読んでいるだけで僕の方には見向きもしない。
僕も出来るだけ顔色を見ないように下を向き、両手を力強く握り締め膝に置く。
今までにない緊張だ。
彼女の父親というだけで、ここまで緊張するとは思いもよらなかった。おそらくこの沈黙がなおさら緊張感を増しているのだろう。
沈黙によって、時計の針が進む音だけがまわりに響いた。
その後しばらくして時計の針以外の、なにかを閉じるような音が聞こえた。思わず僕は、音の聞こえた方に顔を向ける。
予想していたことだが、それは本を閉じる音であって、つまり白雪のお父さんは本を読むのをやめたのだ。
「清瀬彼方君、だったかね?」
それがはじめて、彼が僕にたいして言った言葉だった。その声は低く、でも落ち着いた声だ。
彼は本をテーブルに置いた後、僕の顔を見た。その表情は怒りなどの感情は感じなかったが、ただただ真剣な眼差しだった。
思わず僕は息を呑む。
「はい……白雪さんとお付き合いさせてもらってる、清瀬彼方と言います。本日はお招き頂き、ありがとうございます。どうぞ、よろしくお願いします」
「ははっ、緊張する事はないよ。もっと気楽に話してくれていい」
白雪のお父さんは笑うように言った。
一応いつも通り話したつもりだったが、どうやら緊張していることを見抜かれていたらしい。
「いや、さっきはすまなかった。昔からの悪い癖でね。悪気があった訳ではないんだ」
「いえ、大丈夫ですよ」
はじめは緊張していたけれど、話してみると良い人そうであった。少なくとも悪い印象を持たれていないのは救いだ。
「少し話をしようか。君や娘の事について色々と聞きたいからね。私の事は……そうだな、誠二と呼んでくれ」
「では誠二さんと呼ばせていただきます」
白雪のお父さん、もとい誠二さんはにこやかに言った。
すっかり安心しきった僕は、握り締めていた拳の力を緩める。
「君と白雪はいつ頃出会ったんだい?」
「白雪さんとは同じクラスです。でもクラスで話す機会はありませんでした。はじめて話をしたのは市立の図書館です」
それから僕は白雪との出会いから、これまでの事をざっくりと説明した。
趣味や話が合い、互いに互いの考え方に惹かれ、恋人になったと説明をする。
小説を一緒に書いていた事と偽りの恋人を演じていた事は、一応伏せておいた。
誠二さんは僕の話を、ただ相槌をしながら聞いてくれた。
「なるほど、それで白雪は君に好意を抱いたわけだ」
僕が話を終えた後、誠二さんは納得するかのように言った。
「君は白雪がここに引っ越して来る前の事を知っているかい?」
誠二さんの言った問いに僕はいいえと答えた。
白雪が中学三年生の時、ここに引っ越して来たのは聞いた。けれど、それ以前の彼女の事を僕は何も知らなかった。
知らないと言うよりも彼女は何も言ったりしなかった。
「なにかあったんですか?」
僕はおそるおそる聞いてみる。
「あったと言えばあったね。都会にいた頃の白雪は友達が出来たことがないんだ」
「一度も?」
「ああ、幼い頃から他人よりも本の世界に夢中になっていた。小説家になりたいと、言っていたこともあったね」
それは想像のつく事ではあった。
僕が白雪と直接話す前も似たような事を思っていた。
彼女は他人に滅多に興味を示さない。
唯一、彼女の友人である天原を除けば、彼女が誰かと積極的に話す姿を見たことがなかった。
「それがずっと続いてて、中学生になった頃いろいろ問題があったんだ」
「問題……ですか」
「単純に言えばいじめだよ。直接的ないじめは無かったんだけど、よく物が隠されたり悪口を言われてたらしい」
「白雪さんはどうしたんですか?」
「何一つ、変わらなかったよ。そんな事があっても、私たちには何も言わなかった。担任の先生に言われるまで、きっと気付かなかっただろうね」
確かに白雪ならば、そうする気がした。彼女はそれに気付いていても、きっとまわりに流されない。良くも悪くも芯の強い少女だ。
だから僕は尋ねる。
「ここに引っ越してきたのは、それが理由ですか?」
「もちろんそれも含まれてるけど、それだけじゃない。一番の理由は私の仕事の都合だよ。でも今なら、娘のためにここに引っ越して良かったと思える」
誠二さんは話を続ける。
「中学三年の頃は特にいじめは起きず、それ以外は今まで通りに過ごしていた。けれど高校に入って、娘は変わったよ。高校生になってすぐ、友達が出来たと私たちに言ってきたんだ」
その人物は聞かなくても分かる。天原初音の事だ。
それは多分、白雪が変わったと言うよりは、白雪にとって興味がある人物に出会えたという事だ。彼女は今まで、親しくなれる友達に出会えなかっただけなんだ。
「それから娘は、時々友達の事を話したりするようになった。昔に比べると、学校の事をよく話してくれるようになってね。私としては嬉しかったよ」
「それは良かったですね」
「ああ、こうして君と出会ってくれた事も、きっと娘を変えた」
突然、話題の方向が天原から僕の事へと変わった。
それを聞いて僕は、なんと言葉を返せばいいか分からずに口ごもってしまう。
なんと返せばいいのか、なんと言われるのか分からない。
だけど誠二さんは僕に構わず、言葉を続けた。
「夏休みの頃、好きな人が出来たと娘が私たちに言ってきたんだ。はじめは驚いたよ。まさか娘が誰かに恋するなんて、思ってもいなかったからね。でも母さんが協力的でね、夏祭りに二人で行きなさいと浴衣や髪型を整えたんだ」
それは初耳だった。あの時白雪は、友人である天原も誘うつもりだったと言っていたはずだ。
いやそれよりも、その時点で既に僕の事を好きであるということに驚いた。
「その時私はなにも言わなかった。私がとやかく言うことでもないし、実際に会って見なければ、なにも分からないからね」
「それで僕を今日呼んだわけですか」
「ああ、君に直接会って私は決心したよ」
その後、また沈黙が起きた。
僕は何も言わないし言えない。
ただ誠二さんが話し出すのを待つ。
そしてしばらくして、誠二さんは口を開いた。
「娘をこれからも幸せにしてほしい」
たったそれだけの、でもとても重要なその言葉の意味に、さっきまで沈黙が発生していた。
「君と話をして、娘を預けていいと思えた。いや、きっとその前から結論は出ていたんだよ。あの娘が好きになった男だ。悪い男のはずがない」
誠二さんは自分の娘を、とにかく信じていた。だから僕の事を、受け入れてくれた。
これはとても嬉しいことだ。だけどそれはつまり、そういうことなんだ。
今の時点で、僕と白雪が結婚することを誠二さんは認めてくれている。
まだかなり先の話だ。僕たちの年齢ならば少なくとも、あと三年以上先の話になる。いきなりこんな話をされても、普通の高校生ならば戸惑う。
だけど僕はもうその答えを決めていた。
「誠二さん……」
僕の答えを言おうとした、その時だった。
「彼方、お父さん。夕食の準備が出来たよ」
突然リビングの扉が開かれ、白雪がこの場に現れた。
都合が良すぎないかと思えるようなタイミングで。
「ああ、行くよ。白雪は先に行っててくれ」
誠二さんがそう言い、白雪は分かったと返事をして、すぐにその場から立ち去った。
そしてまた、僕と誠二さんの二人になる。その時には、言おうと決意していた言葉を、僕は忘れかけていた。
「さっきの話は……まあいいさ。こんな話、今するべき事でもないからね」
僕の表情を察したのか、誠二さんは気を遣うように先程の話を保留にした。
助かったと、僕は安堵する。
いつかは話さなくてはいけないことだ、けれど今じゃなくてもいい。
でも結局、それはいつかを先のばしにして、逃げているだけとも思えた。