第百四十六話 馬車の中で
Side:ライ
「ウオオオォォォ……」
兄さんの残した4篇の遺書。
マジックバックの中から発見したそれを読み終えてから、ロック王子はずっと慟哭の涙を流し続けていた。
悲壮感溢れるその姿を見れば、王子にとって兄さんを失うことがどれだけの意味を持っていたのか分かるというものだろう。
そこには王族でも勇者でもない、1人の青年の偽らざる本音が現れていた。
滴り落ちるに任せたままの涙と鼻水が入り混じり、王子の顔は正視に耐えない状態になっている。
だが誰一人として王子の痴態を諌める者はいなかった。
ハヤテとデンデは手足を縛り付けられたままですすり泣き、シャインは放心し、兵士たちは僕たちの監視に余念がない。
僕たちが乗り込んでいるこの馬車の中には、王子の涙を止められる者など一人もいなかったのだから。
僕たちを乗せた馬車は、街道に沿って作られた高速馬車専用の道を脇目も振らずに南へと向かって進んでいた。
御者台には朱雀の国の兵士の1人が腰を下ろし、馬車の中では残りの2人が僕たちの動向を見守っている。
いや、この言い方は間違いだろう。
まず僕たちは、馬車に乗って逃げているのだ。
そして兵士たちは、僕たちがバードへ戻るために馬車から飛び出さないように監視しているのだから。
あの時、兄さんが僕たちを逃がすために1人バードの町の中に残ることを選んだあの瞬間、僕たちはわけも分からずに状況に流されるままだった。
氷壁に開けられた脱出口から外壁の外まで飛ばされた僕たちは、ゴミ山に不時着し、勢いそのままにスラムまでゴロゴロと転がり落ちていったのだ。
最初に僕とハヤテが、続けてシャインとデンデが兵士に抱きかかえられたままゴミ山を転がり、少し遅れてロック王子を担いだ兵士が脱出口から飛び出してきた。
そしてその直後だ、僕たちは兵士に突然薬を嗅がされて、体の動きを封じられてしまったのである。
その時兵士たちは言ったのだ、これは兄さんの指示なのだと。
僕たちを確実に逃がすためには、僕たちの体の自由を奪う必要があると考えた兄さんは、あらかじめ兵士たちに痺れ薬を渡していたらしい。
実際その効果はてきめんであり、僕たちはしばらくの間指一本動かせない状態にされてしまった。
状況を理解したハヤテとデンデ、そしてシャインは絶叫を上げて体を動かそうとしていたが、仮にも兄さんの作った薬である、抵抗なんて出来るわけがない。
彼らの鬼気迫る表情を見て、兄さんの指示は正しかったのだと証明されたのは果たして良かったのか悪かったのか。
体が自由に動いたのならば、兵士の拘束を振り切って、町の中へ戻る危険性もあったと考えれば、この処置は非道なれど必要なことだったのだろう。
結局騒ぎ続けた3人は更に睡眠薬を嗅がされて、強制的に意識を奪われてしまった。
この睡眠薬も兄さんから預かった代物らしい。一体兄さんはどこまで読んでいたというのか。
戦場から強制的に離脱させられて悔しさと悲しさが入り混じっているはずなのに、この状況下でもまだ僕は兄さんの凄さに圧倒されて、彼らのように騒ぐことができないでいた。
ちなみに王子は薬を嗅がされた時点で抵抗を諦めていた。
結局動きを封じられた僕たち5人は、兵士たちがどこからか用意してきた馬車に乗せられてバードの町からの脱出を果たすこととなる。
ちなみにこの馬車は緊急時に使用するためにと、スラムの中に幾つか用意してあるという軍の秘密倉庫の中に保管されていた代物らしい。
突然の大魔王の襲撃と、大量の魔物の襲来。そして氷のドームに閉ざされたバードの町の姿を見たからだろうか、あれだけいたスラムの住人の姿はどこにも見当たらない。
僕たちは人気のないスラムを通過して、町から脱出。一路玄武の国へと向かっていく。
逃げなければならないことは頭の中では理解していたが、現状を受け入れるには正直時間が短すぎた。
だから僕は、兵士の1人に頼んで町が完全に視界から消えるまでの間、出来る限り脱出口の様子を見てもらっていた。
だが、そこから出てくる者は誰一人としていなかったという。
僕たちは僕たちだけであの死地からの脱出を果たしたのだ。
父さんを始めとした数多の兵士たち、そして兄さんを置き去りにして。
それからしばらくは何事もなく街道を進んでいたのだが、途中避難民たちの最後尾に出くわしてしまい、彼らが馬車に群がってくるという事件が発生した。
窓から見えた彼らの形相は凄まじいものだった。彼らもまた生きるために必死なのだ。
だがこの馬車はあくまでも緊急用であり、それほど多くの人が乗り込めるような作りにはなっていない。
御者をしていた兵士は巧みに避難民たちの囲いをすり抜けて走り続け、途中高速馬車専用の道を見つけると、そちらへと入り込んで移動を続けた。
この状況下では高速馬車が走るはずもないので、ここを通っても誰も文句は言わないはずなのだが、律儀なのか、逃亡先として頭に浮かんでこないのか、高速馬車専用の道には避難民たちの姿は見当たらない。
どちらにしても再び馬車は快調に進んでいった。
そんな中だったのだ、僕たちの動きを妨げていた痺れ薬の効果が切れ始めたのは。
僕たちの中で最初に体が動くようになったのはロック王子だった。
王子は体の自由を取り戻したあと、馬車の中を這って扉へと近づき、ドアを開けて、後方を振り返る。
そこからはすでにバードの町の姿は見えないはずだ。
なにしろ随分前に見えなくなったと兵士が報告をしていたのだから。
王子は現状を理解したのだろう、その場で崩れ落ち、泣き出してしまった。
あの場に最後まで残っていたのは王子であり、あの場に今も残っているのは兄さんである。
そして2人は親友だ。というか、王子には対等な友人が兄さんしかいないのである。
僕も王子とは物心ついた頃からの付き合いではあるが、親友である兄さんと王子の間には、僕でも入り込めない絆のようなものが確かにあった。
よりによって、その唯一の親友を置き去りにして逃げているのだ。
王子の悲しみは如何ばかりなのだろうか。
ちなみにこの時点で僕の体も動くようになっていたのだが、荒れ狂う王子の心の動きを、王子の嗚咽から読み取ってしまった僕は、同じように兄を失ったにも関わらず、どこか冷静になってしまって、本格的に悲しむことが出来ないでいた。
それからしばらく経ったあと、今度は眠らされた3人が、ほぼ同時に目を覚ました。
だがこの3人が王子のように大人しくしているわけがない。
一番最初に目覚めたデンデは横で寝ていたハヤテの顔を何の躊躇もなく張り飛ばし、文字通りの意味で叩き起こした。
ハヤテが殴られた衝撃が伝わったのだろう、隣で寝ていたシャインもまた2人と同様に目を覚ます。
最初に嗅がされた痺れ薬の効果は眠っている間に切れたのだろう、起きた瞬間から3人は十全に体を動かすことができていた。
馬車に乗っていることを自覚した3人は、状況の説明を兵士に求める。
そして兵士が話を始めると、途中であるにもかかわらず、3人は揃って馬車の外へ向かって駆け出したのだ。
慌てて2人の兵士が3人に向かって手を伸ばすが、デンデとシャインしか捕まえられない。
兵士の手をすり抜けたハヤテは今まさに馬車から外へと飛び出そうとしていた。
しかしそこで泣き崩れていた王子がハヤテの体に縋り付いて暴走を阻止したのである。
「離せ! 離せよ兄貴! とうちゃんが! とうちゃんがまだ残っているんだぞ!」
「だべだぁ! だべだんだぁ!」
暴れるハヤテを涙でグチャグチャになりながらも必死に止め続ける王子。
そこに2人の兵士が背後から忍び寄り、暴れるハヤテを拘束してしまう。
見ればいつの間にやらデンデとシャインも拘束されていた。
どうやら馬車に備え付けられていたロープを使って縛り上げてしまったらしい。
「皆様! 皆様はこれから私たちと共に一刻も早くこの国を脱出し、玄武の国へと逃れるのです!」
兵士の一人が縛り上げた3人に向かって大声を上げる。
しかしそんなことをされてはたまらないと、3人は縛られたままでもがき続けた。
「馬鹿なことを言わないでください! あそこには父さんが! 父さんがまだ残っているのです!」
「父ちゃんが! ウチの父ちゃんがまだ残っとるんやぁ!」
「とうちゃんを1人残して逃げられるかぁ! 今度こそ一緒に死ぬんだぁ!」
3人は3人共、自分たちの父親を置き去りにしたことで恐慌状態に陥っていた。
特にハヤテとデンデの暴れっぷりは常軌を逸している。
2人にとって、老師と引き離されるのはこれで2度目なのだ。
恐らく2人の脳裏には前回の苦い記憶が蘇っているのだろう。
「いい加減に現実を見てください! 私たちは負けたのです! 『勇者』は独占されてしまったのです! あなた方の親代わりをしていたフクロウ殿があなたたちを助けるために死地に残った気持ちを少しは考えてはどうなのですか!」
「そんな!」
「嫌だぁ!!」
2人はひとしきり暴れた後、シクシクと泣き出してしまった。
それはシャインも同様だ。僕たちを助けるためにテルゾウ殿が囮となって残っていることは既に説明されている。
そして大魔王に手傷を負わせてしまったテルゾウ殿が生き残っている確率は万に一つもないだろう。
彼女は理解しているのだ、既に自分の父親が死んでしまっていることを。
それからしばらくして、ロック王子がバードの町から脱出する時に見た、最後の光景の説明を始めた。
王子は、テルゾウ殿やジェイク殿が殺され、老師が撃ち落とされ、兄さんがたった一人で大魔王たちに相対している場面を目撃しながら逃げる羽目になったという。
それがトドメとなったのだろう、シャインの体から力が失われ、彼女はぐったりとその体を馬車の座席に預けることとなった。
その目は絶望に彩られ、両目からは細い涙の線が絶えることなく続いていく。
襲いかかる絶望の深さに対抗しようと、僕は何かないかと頭を捻る。
せめて沈黙だけでも回避しようと、僕は疑問に思っていたことを2人の兵士に尋ねたのだった。
それは彼らが最後に兄さんたちと話した内容だ。
あの時の話の内容を聞けば、ひょっとしたら兄さんが生き残っている可能性を見つけることも出来るかもしれない。
僕は期待を込めて彼らに話を振ったが、それは期待していた内容とはだいぶかけ離れたものでしかなかった。
「自分が聞いた話は、皆さまを脱出させるための作戦のみです」
「申し訳ございません。本来ならば光の勇者様の代わりに私たちが死ぬべきところを、革命武器を十全に扱うためには私たちのステータスでは高すぎるとのことで、囮にもなれずに生き恥を晒すことに」
「おい、それは違うぞ。私たちの使命は、勇者様方を無事に玄武の国へとお送りし、反撃の機会を手に入れるという重大なものだ。そうジェイク殿に言われていただろう」
「そうだったな……。いや、失礼しました。同僚が死んでいるのに生きながらえている自分がどうしても許せなくて……」
「それは……お互い様ですよ」
「ライ殿……」
彼らの話を聞いて、僕はようやく『生かされた』という現実を理解し始めた。
頼りになる大人たちは全滅し、光の勇者テルゾウ殿も死亡。
大魔王と複数の魔王が残るバードの町には、兄さんがたった1人で残っている。
たった1人、そうたった1人だけなのだ。
あそこにはもう戦える者は誰もいない。
最後に残っていたテルゾウ殿たちも倒されたのだと、王子が自らの目で確認している。
その前にはヨンやゼロ、そして父さんも瀕死の状態でクラゲの魔王に捕らえられていたではないか。
……ああ、そうか。あそこには父さんもいたのだった。
父さんだけではなく、玄武の国の兵士たちも大勢いたのだ。
顔馴染みも多く、良くしてもらった記憶もある。
しかし彼らは軒並み倒されて、最後の瞬間に五体満足で立っていたのは兄さんだけ。
それも随分と前の話だ。
きっと今頃は兄さんもまた殺されてしまっているのだろう。
……殺されてしまっているのだろう?
「ははは……」
乾いた笑い声が聞こえたので、馬車の中を見渡せば、誰も彼もが揃って僕に視線を向けていた。
どうやら今の声は僕の口から放たれたものだったらしい。
彼らの顔には一様に戸惑いと不安が見て取れた。
どうやら唯一取り乱さずに冷静であった僕が不用意な発言をしてしまったことで、一気に場の雰囲気が悪くなってしまったようだ。
「あ~その……あ~……」
参ったなぁ、言葉が出てこないや。
僕は動揺しているのだろうか?
いやそれはもちろんしているのだろう。
死ぬ寸前だったのだ、全滅寸前だったのだ。
町の中に残った者たちは皆殺されているはずなのだから。
「あ……あああ……」
駄目だ駄目だ、この流れは駄目だ。
何かしゃべっていないと、この恐ろしいまでの不安に体が押しつぶされてしまいそうだ。
ははは、何を言っているのかな。
いざとなったらステータス2万を超える王子に守ってもらえばいいじゃないか。
ああ、違う違う。もう『勇者』はなくなったのだ。
だから王子のステータスは2万ではなくて数十しかない。
王子はまともに動くこともできないのだ。
頼れる勇者様に頼ることはもうできない。
「あ……あうあ……」
それにしても喉が渇いた。
当たり前か、兄さんのスキルの更新が終わってからずっと戦い詰めで、その後は息が切れるまで走っていたのだ。喉の1つも乾くだろうさ。
僕は足元に置いてあったマジックバックに手を伸ばした。
そこから取り出した水瓶からひしゃくで水をすくい取り、一口飲む。
マジックバックに液体を入れる場合、こうして入れ物に入れておけば、一つの枠で大量の液体を収納できるので、水瓶ごと収納している。
ちなみに中身の水は水の入れ替えができる場所で頻繁に兄さんが交換していたので、腐っていない新鮮なものだ。
とは言え、冷たい水ではなく常温の水なので、さほど旨くはないはずだった。
でも旨かった。予想外に旨かったのだ。
大して旨いはずのない水を旨く感じるということは、それだけ僕の体が水を欲していたのだろう。
僕は気が済むまで水を飲み続けると、水瓶に蓋をしてマジックバックに収納する。
それからマジックバックの中身を確認しようと、外のポケットに入れておいた目録に目を通す。
目録とは言うが、簡単なメモ用紙のようなものだ。
マジックバックの中身をいちいち全部出して確認するのは面倒なので、中に何が入っているのかは、メモをとって外側のポケットに入れておいてあるのだ。
基本的には中身は変化していない。
旅立った当初のラインナップの通り、勇者の旅に必要な物のみが収納されている。
予備のスペースには兄さんが追加していたのだろう、薬やら食料やらが追加されていた。
そこで僕は、見慣れない物が追加されていることに気がついたのである。
そこには『仮に俺が死んだ場合に開ける箱』と書かれた項目があり、それを取り出して確認してみたところ、そこには兄さんの遺書が入っていたのだ。
そこに書かれていた、兄さんの気持ち。
どうしてあの時躊躇なく死地に残るという判断を下せたのかという説明。
最後に残された僕たちへの想いを読み、僕らは涙を流したのであった。
そうして涙を流しながら、僕は理解した。
もうここに兄さんはいないのだということを。
僕の大好きな兄さんは僕たちを助けるために、大魔王の前に1人で残ってしまったのだ。
そして『勇者』を失くした王子を助けられる勇者の供は、もはや僕だけになってしまったのだということを、揺れる馬車の中で理解したのであった。




