第四話
――繊!!
それは十六夜の声だった。
声のする方へ顔を向けると、そこには白いセーラーの十六夜が裸足で立っていた。困ったように眉をしかめて、悲しそうにまぶたを時折震わせている。
「十六夜、どうしたんだよ?」
久しぶりに見た十六夜に、俺は嬉しくなってそちらに駆けだそうとした。
俺たちは元の世界では一つしか違わない姉弟だっただけあって、仲は良い方だと思っている。十六夜の存在はそれまでどうしてか、ずっと忘れていた元の世界を思い出させた。
走っていくのに、全然近づかない。走っても走っても、届かなくて俺はだんだんと走る速度を落とし、その場に立ち止まった。
周りの景色は光に覆われていて、綿毛のような光が十六夜の回りを漂っている。なんだか不思議な光景だった。
「繊!!」
そう叫ぶ十六夜の声に聞き覚えがあった。そうだ、あれは確か、最後に聞いた十六夜の声だ。
もしかして。
あいつ、俺が腹を刺されたことに責任感じてんのかも。
十六夜は昔から、自分の方が姉だから俺を守っているつもりでいる。もうとっくに俺の方が十六夜の背丈を追い越し、体だってでかいのに、十六夜の中で俺はいつまでも小さい弟のままだ。って言っても、高校生になってから十六夜に心配ばかりかけているんだから、やっぱり図体がでかいだけのただの子どもかもしれない。
「俺、結構こっちで楽しくやってるよ」
十六夜に話しかける。だけど、十六夜は黙ったままだった。
何かを言おうとして顔を上げるけれど、一瞬目が合うとふっと十六夜は目を伏せる。
おい、十六夜――!
手を伸ばした時、俺ははっと我に返った。
辺りを見回すと、まだ暗かった。
隣にはマンドラゴラがすやすやと寝ている。
こいつはなぜか俺に懐いて、俺の後をついて回る。そして寝ようとしたら一緒に布団に入ってきて、俺よりも早く眠りについた。
あまつさえ「ピ!」とか寝言のような声を突然あげたりとか、すうすうと気持ちよさそうな寝息までたてている。
お前、大根じゃないのかよ!? 寝言言う大根てどんなだよ!? と内心ツッコみながらもその姿を見ていると、なんだか和んだ。
幸せそうに眠っているマンドラゴラに、ああ、今のは夢だったんだと実感した。
あいつ、泣きそうだった。
俺がこっちの世界に来て、十六夜は責任を感じているのかもしれない。
ああそうだ。俺、ずっと元の世界のことを失念していた。なんだろう。どうして今まですっぽりと頭の中から忘れてたんだろう。
一つの懸念が頭の中に浮かんだ。
もしかしたらここは、俺の夢の世界なんじゃないか?
死にかけている俺の、最後の夢の世界。
お前死んじゃうから、最後くらいいい夢みせてやるよ。同級生に刺されて死ぬなんて、間抜けもいいとこだもんな。
黒いマントを羽織った死神の、そんな言葉が聞こえてきそうだ。
あいつが俺の心配して泣いているんだったら、俺はあいつにちゃんとさよならをした方がいいんじゃないか?
いや、それよりも、あいつが泣いてるなら、自分のせいだと責任を感じないように、俺はちゃんと元の世界に帰った方がいいんじゃないか?
――元の世界に帰る方法は、あるのだろうか?
そんな疑問を初めて持った。
翌朝、朝食の席で爺に昨夜の疑問を尋ねてみた。
「なあ、爺。俺、元の世界に帰る事って出来んの?」
今日のヴィータさんの飯は、ベーコンにスクランブルエッグだった。
おお、正しい朝食だ。しかし、ヴィータさんが調理しているところを見てぶったまげた。
だって、卵が水色なんだもん。
ああ、もちろん卵の殻が水色なんだけどね。中の白身と黄身はちゃんと俺の知っている卵の色だった。恐る恐る食べると、普通の卵よりもぎゅっと味が詰まった感じがして、割とおいしい。
スクランブルエッグを食べながら聞くと、爺さんはもぐもぐと動かしていた髭に覆われた口の動きを止める。食べていたものを飲み込むと、コップに入ったヤギのミルクを飲む。
俺はこれが苦手だ。牛乳に比べるとクセがある。まずいわけじゃないんだけど、ここよりかはかなり衛生的な環境で育ってきた純日本人の俺には、このクセってのがちょっと厄介だ。
アディールはそれに気がついて、いつも俺にはヤギのミルクじゃなく、グレープフルーツのような酸味のある果物のジュースを入れてくれるようになった。
ヴィータさんには甘やかすなって怒られたらしいけどね。
で、本題。
爺は少し考えると、
「勇者のその後というのは、誰にもわからんのじゃよ。存在自体が消えてしまうのか、元の世界のゲートが開くのかは分からん。生き長らえているのかも知らん。
ただ、勇者のその後に関する文献や言い伝えなどは何も残っていないのじゃ」
「え? なにソレ??」
爺の言ってる言葉の意味が、まるきりよくわからなかった。
なんだそれ。
「おい爺、今までそれでよく勇者になれとか言ってやがったな」
ひどい話もいいとこだ。吐き捨てると爺は慌てて取り繕う。
「いや、実際のところわしらにはわからんのじゃ。勇者が世界を救った後は、王都に銅像が建てられる。しかし実際の勇者の一行がどうしたのかは、歴代の光の王しか知らないのじゃ」
「いいじゃないか、セン。魔王を倒したら、またこの村に帰ってくればいい。 他の勇者もきっとそうだったんじゃないか。ゲートの開く場所は極秘だからな。勇者のその後を知られて、ゲートの場所を特定されるのは困るんじゃないか?」
能天気にそう言うのは、ガイスターだ。話しながら食うもんだから、卵が飛んでくるッつーの。しゃべるか食べるかどっちかにしろって、しつけられなかったのかよ? とツッコもうとしたら、ヴィータさんの方が先にツッコんでいた。
「あんた、口の物が無くなってからしゃべんなさいよッ!」
やっぱ、異世界でもマナーってのはあるんだね。人が生活する最低限のことは一緒ってこったな。ヴィータさんに同調するように頷くと、じろりとガイスターに睨まれた。
いや、お前が怒られてんのは俺のせいじゃないよ!?
光の王――今まで勇者に関することは全部こいつに繋がった。
とりあえず、フラグはこいつに向かっているんだ。
ゲートはアルフガルド王国――光の王の力が届く範囲ならばどの場所に開いてもおかしくないそうだ。法則性があるのかは、誰も調べたことはないようだった。
俺は、なんのためにこの世界に来たんだろう。爺さんやアディールに助けられて、ガイスターの後を追いかけて。
このままじゃ、前の世界と何も変わらない。
爺さんたちがいい奴らだったから甘えているけど、俺の生活自体は学校に行かなくなったくらいで、ぐだぐだ過ごしていることには変わりなかった。
あの、ガイスターがやられてから駆け抜けた衝撃のような力。
あれがあったから、巨大マンドラゴラを倒すことができた。
爺があれを知ったら、それこそ勇者の力! とか言い出すのが目に見えている。
だけどそれが勇者力だという実感なんて、まるでない。
あの時はガイスターがやられて頭が真っ白になっただけだ。
必要な時に力が使えないんじゃ、勇者とは言えないんじゃないか?
十六夜の夢を見て、俺はどうしてか帰郷の念に駆られた。
俺ができることなんて高が知れてる。だったら、光の王とやらに会って、俺を帰してもらって改めて他の奴を召喚した方がよっぽど効率がいい。
俺の存在なんて、はじめからなかったことにしてもらえばいいんだ。
俺は、俺の世界でやり直す。
だからこの村を出ることに、その朝決めたんだ。