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―――こんな時間に何しに来たの。というか、体の具合は―――
体を包み込む気は力強く感じられて、病気の気配は微塵も感じられない。
あの時はたまたま辛そうに見えただけなのか。
ヒインコに伝わることを願いつつ「そこから逃げて」と念を送ると同時に、セラヴィから見えないようにそっと合図を送る。
と、分かってくれたのか、すぐに山肌の方へ飛んでいった。
あのコの本能で怖さを感じたかもしれないけれど、逃げてくれたことにホッとした。
暗い中独りきりなんて可哀想だけれど、見つかって攻撃されるより遥かにマシだ。
「なにも…何も、していません。景色を、眺めていただけです」
「ふむ―――やはり、貴女は緑がいいのだな」
これよりもっと増やそう、貴女は何が良い。花か、木か。
そう囁いてくるこの声には、媚薬でも含まれているのだろうか、心地好く全身が痺れて力が抜けていく。
意識が柔らかな布に包まれたようにぼやけて、しっかり床についてるはずの足は感覚を失ってしまって、どこにあるのかわからない。
ふわふわする体はあまりに心地良くて、まるごとセラヴィに預けそうになるのをお腹に力を集めてなんとか踏ん張った。
「会えず、寂しかったぞ。貴女もか」
「そんなこと、ありま…せんっ……ん……」
耳から首筋にかけてセラヴィの吐息が掛けられて、その熱さをやり過ごそうにもどうにも体は反応してしまう。
ぴくんとする度、知らずに握り締めていたカーテンが一緒に揺れる。
「ふむ…妃よ。自然に任せよ。逆らおうとするな。我が腕の中に沈め」
「さぁ、来い…」と、まったりと甘やかな響きが耳から伝わり体を支配しようとする。
懸命に闘うも、セラヴィが発声するたび体の奥底で何かが熱くうち震えるのを感じる。
発声の加減なのか、魔力なのか。
脅しの他に、こんなことも出来るなんて―――――――……
『ふむ…そうだ……そのまま、沈め。……今までにない夢を、見させてやる』
セラヴィの声がやけに遠くから聞こえてくる。
視界は霞んでしまって手の力も失い、指から滑り落ちたカーテンが窓の横でゆらゆら揺れていた。
呪文のように繰り返されるセラヴィの誘導の声に従って、力なくぐったりとした体は熱の籠められた気のただ中に徐々に沈んでいく。
「貴方が…夢を……?」
『そうだ。我が心と体が見させる、心地好いものだ。未練を忘れさせてやる。そう……そのまま……そうだ…いい子だ……来い』
「…未練」
セラヴィの声が、心の中にある壁を浸食してゆき、とろとろに溶かしていく。
―――忘れる…私の、未練……―――
そう、ね。そうすれば、辛くないのかも…私の想いを手放せれば……。
心を無にできれば…セラヴィが、貴方が忘れさせてくれるの…本当に?
霞む景色が濡れて膜が出来、ゆらゆらと揺らぐ。
まるで今の心の中のように。
――来ない迎えを待つ辛さ。
刻みつけられたご主人様ラヴルへの想い。
ここにいる限りこの先もずっと続く寂しい孤独な日々。
この切ない感情から、セラヴィは解放してくれると言う。
テスタにいた時のように、無になって楽になれる?
でも――――本当に、忘れてしまっていいの―――?
視界がゆっくりと動いてセラヴィの漆黒の瞳と合わさり、見えない掌に瞳と頬を撫でられた。
穏やかに見える微笑みの向こうに天井があり、抱き上げられたことを知る。
紅く染まっていく漆黒の瞳。
…これを見ちゃ駄目。逸らさないと。しっかりしないと…。
そう思うのに、吸い寄せられるように定まってしまって逃げることが出来ない。
次第に周りが暗くなって、セラヴィの紅い双眸だけが大きくなった。
『貴女は、我が妃だ。分かるな』
ぼぉっとする頭に、重低音の声が木霊する。
それは耳から届いてるわけではなく、直接働きかけて来るようで塞いでも何をしても閉ざす術がない。
『他の誰のモノでもない。私の、妃だ』
「…妃……私が…?」
―――違う。違うわ…私は、ラヴルの…。
ラヴルの…何…?
私は―――?
『そうだ。貴女は、私の、モノ。私の、妃だ』
セラヴィの双眸が強まった紅い光を放ちながらゆっくりと回り始める。
心の片隅から聞こえてくる「それを追うな」と。
分かってはいるけれど支配されかかった体は言うことをきかず、意に反して瞳を追いかけてしまう。
最初叫ぶようだったその心の声はだんだんと小さくなり、ぷつん…と途絶えた時には、視界全てが紅く染まっていた。
…私は、この方の…モノ…
「私は…貴方の、妃…」
『愛しい妃よ…さぁ、我が名を呼べ』
…貴方の、名前を…?
『そうだ。その甘い声で、我が名を、呼べ』
…そう。私は、呼ばなくちゃいけない。
この方の名前を。
でも、何だったかしら…。
ラ―――違うわ、この名前じゃない。
早く、早く思い出して呼ばないと。
「名前…貴方の…名前……?」
『そうだ。我が名は、セラヴィ、だ』
「セ…ラヴィ……?」
“ユリア!”
―――っ、ラヴル―――!?
「ふむ、好く言った」
「ぃ―――っ!……ん、んあぁ…ぁ…」
名を口にした瞬間、体の中にある何かが弾け飛び、胸に強烈な痛みを感じた。
術に嵌ったとはいえ、あれほど名を呼ばないようにって肝に銘じていた筈なのにそれを破ってしまった。
今更後悔してももう遅い。
息もできないほどの苦しさ。
体中を襲う痛み。
このまま命が消えてしまうのかも。
でもそれも良いかもしれない。
頭もずきずきと痛みだして、呼吸も乱れ悶えていると、大きな掌が額を覆った。
「妃よ、今暫くの我慢だ。すぐに楽にしてやる」
セラヴィの腕の逞しさを感じるとともに首筋にちくんとした痛みが襲った。
徐々に体の芯が火照り、セラヴィがもたらす恍惚に意識が支配されていく。
セラヴィの唇が首から離れていき、満足げに唇を舐めるのが見えた。
ちくちくした痛みが消えて、あれほどに苦しかった頭と胸の痛みが癒えるも、今度は異常な倦怠感に襲われた。
ずん…と沈み込むような感覚。
体中が鉛のように重く、手も脚も指一本さえも動かせない。
勿論声も出せず、体の具合を訴えることもできない。
これは、ご主人様ラヴルを裏切った罰なのかもしれない。
「む…これは―――妃よ、しっかりせよ」
…ラヴル…貴方の他に、肌を許すなんて。
ごめんなさい。きっと貴方は、私を許さないわね。
私はもう、貴方の元には…。
戻れないのなら…もう、このまま―――……
「気が逸ったな。人相手は加減が難しい。―――ルルカ、来い。今すぐだ―――」
セラヴィから空気が振動するような声が出された後、数秒と経たずにドアがノックされて誰かが入ってきた気配がした。
「セラヴィ様、お呼びにより馳せ参じました。っ、この方は。人ではないですか」
「詮索はいい。早急に診よ」
知らない顔。
大きな手が体のあちらこちらを触る。
この方は、まさか、お医者様?
やめて。
治療しないで。
触らないで。
見知らぬ老人の顔がどんどん歪んでいくのが見える。
「これは不味いですな。この方は、既に他の殿方のモノで―――」
「能書きは良い、治せ」
…やめて。放っておいて…おね…が……い……――――――
***
―――クリスティナ―――
我が愛する者、黒髪の姫よ。
早く記憶を戻せ。
して、我を愛せ。
クリスティナ―――
誰?また、この名前。何度も耳にするわ。
もしかして、私のことなの?
貴方は私を知っているの?
でも、どうして、その名前なの。
だって、それは…それは……何だっけ…―――
あたたかなものが頬と額にひたひたと当たってる。
時に髪を整えるように触れるそれがとても気持ちいい。
優しく慈しむようで、温かくて大きくて甘えたくなる。
「ん、誰…?」
「目覚めたか。我が声は聞こえるか。昨夜は乱暴なことをした。具合はどうだ。気分はいいか。食事は口にできるか。目をあけよ」
―――この声は、セラヴィのものだわ。
口調はゆっくりながらも矢継ぎ早に話し、問いかけてくるそれは、随分と近くに感じる。
気のせいかしら―――
ゆっくり目を開ければ、真上にある漆黒の瞳とぶつかった。
その向こうには、見慣れない天蓋があるのが見える。
「っ、え…?あの、ここは―――」
「黙れ。回答以外は受け付けん」
眉をしかめた怖い顔でそんなことを言われても、あんな矢継ぎ早に聞かれたら、寝ぼけた頭には最後の“目をあけろ”しか残ってない。
さっき感じた優しい手は、絶対に貴方じゃない。
そう決め付けてむっすりと見返す。
「どれから答えればいいのですか。というか、もう一度言って下さい」
強めの声を出したつもりが、意外にも小さくて自分でも驚く。
何故か、お腹に力が入らないのだ。
真上にあるセラヴィの片眉がぴくんと上がったのが見える。
もしかして、怒ったのかも。
「む、一つでいい。具合はどうだ、と聞いた」
「具合―――?何ともないわ。いつもと、同じです」
本当は、頭がぼぉっとして体は気だるく感じる。
声を出すたび息が苦しくなる。
けど、そんなことよりそれよりも。
ここに、私の横に、どうして貴方が寝ているの。
状況が今一つ掴めないままに顔を横に向ければ、ベッド周りは透ける素材の布がふんわりと取り囲んでいて、部屋には風が吹き込んでいるのかふわふわと柔らかに揺れていた。
そのはるか向こうの壁際に調度品が置かれてるのが見えて、寝ぼけた頭でも、いつもの部屋じゃないことが十分理解できた。
しかも、向こうにあるあの大きな窓。
あれはセラヴィの寝室で見たものにとても似ている。
今更ながらもハッとし、急いで胸元の毛布をしっかり握って、セラヴィの傍から離れるよう試みる。
けれど、思いのほか体は重く、ずりずり移動するどころか腕も動かすのがやっとの状態だった。
じたばたするだけに終わり、動くのを諦め息を乱しながら考える。
どうしてこんなに動けないのか。
――えっと、これは。そういえば。
そう、昨夜は確か……セラヴィが突然部屋に来て、あんなこんなで…血を―――
半ば夢心地の中で起きた出来事。
あれは紛れもなくほんとにあったことで、私はまだこの通りに生きていて。
どうしてあのまま放っておいてくれなかったの―――?
私がどんなにむっすりしようが睨もうが、セラヴィは悠々と隣に寝転んでいて頬に髪に触れてきた。
どうして直に触れることが出来るのかしら。
今まで出来なかったはずなのに。
おぼろげな記憶を辿ってみれば、名前を呼んでしまったことを思い出す。
「――っ、貴方、まさか」
そぉっと毛布の下を覗いてみると、意外にもきちんと夜着を身に着けていた。
まだ抱かれてはいないみたい?
「無茶をしたが、意識のない貴女を抱くほどに私は卑劣ではない」
今ならばいける、抱かれてみるか。と口の端を上げて覆い被さってきたので逃げようとするけれど、体が思うように動かない。
それでもなんとか体を起こそうと身をよじり懸命に腕を立てると、ふ…と目の前が暗くなり、気付いたときにはクッションの海に沈んでいた。
真上にある老人のしかめっ面が目に映る。
…貴方、誰?何だかどこかで見たような…。
「目覚められましたぞ」
ホッとした様な声と表情の老人が引っ込んでいって、代わりに眉根を寄せたセラヴィの顔が現れた。
「その様な状況であるのに、何故言わん。何故無理に動いた。昨夜は随分危なかったのだ」
まこと人はか弱き者だ、すぐに治らんとは…とぶつぶつ呟きながら、長い指が首筋をすーと撫でていくその表情が、何だか辛そうに見える。
「セラヴィ様―――」
急に違う方向から声が聞こえて来て、この部屋に意外にもヒトが沢山いることに気がついた。
多分、あの日見た従者の方たちだろう。
「セラヴィ様、お時間が迫っております」
「分かっている、先に暫し待てと言ったはずだ」
「は…申し訳御座いません」
地の底から聞こえてくるような重低音の声に、従者の方たちが息を飲んで怯んでるのが伝わってくる。
「我が妃よ、政務に行ってくる。しかと栄養をとり大人しく寝ていろ。起きようなどと思うな、また意識を失う。分かったな」
従者たちに向けられた声色とは違い、手を握って言ってくるそれは、とても穏やかなものに聞こえた。
返事をするまで手を離す気はないらしく、漆黒の瞳にじーっと見つめられ“返事をしろ”と無言の圧力が掛けられる。
「はい、分かりました」
妃じゃないわ、と心の中で呟きつつも返事を返すと、セラヴィはルルカの方へ向き直った。
「後を頼む」
「承知致しました。…貴方様も、薬湯をお忘れなく」
「ふん、分かっている」
ルルカは、薬湯の袋を奪うように持って出ていくセラヴィの背中を見送った後、くるんと振り返ってにこりと微笑んだ。
「さぁ、お妃様。我が特製の薬食を、お召し上がりいただきますぞ」
何故だかとても嬉しげにそう言って、ドアに向かってパンパンと手を叩いた。
運んでくる侍女たちの鼻に皺を寄せた表情は、何だかとても嫌そうに見える。
もしかして――――?
ルルカの差し出すスプーンから、苦そうな、とてもいやな臭いが漂ってくるのは、気のせいだと信じたい……。
「はい、お妃様、口をお開け下さい」
「き…妃じゃないわ…もぐっ…」
と。
入れられたものの凄まじい味に、声にならない心の叫びが、息となって唇から洩れた。




