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―――クリスティナ…クリスティナ……―――
…聞き覚えのある声。
これは、誰…?
…貴方は、誰を呼んでいるの―――?
――チチ・チュン…チュン
小鳥のさえずりが聞こえてくる。
…夢、見てたみたい。何だかとても嫌な夢を……
徐々に意識が覚醒していく。
瞼の向こう、薄明るい気配がする。
もう、朝なのね。
もうすぐリリィが起こしに来る頃―――
頬に触れるのはふかふかのクッション。
いつもの感触。
だけど、何かが違う気がする。
コツコツと部屋の中を歩き回る音。
カーテンを開けるような音もする。
「リリィ、なの?どうしたの……」
呼びかけても返事がない。
寝ぼけながらも寝返りをうてば、柔らかな壁のようなモノに額がこつんと当たった。
――――……この感触には覚えがある。
でも、おかしいわ。どうしてここにいるの?
薄目を開けてもぞもぞと上を見やれば、ぼんやりとした視界にサラサラの黒髪があった。
まさか、うそでしょう?
いつの間に来てくれたの?
というか、そうだわ。
ここは、あの小さなお屋敷なのかも。
ヘカテの夜に過ごした、あの場所。
いつもと違う感じがするのも、そのせいね、きっと。
ということは。もしかして今のもリリィじゃなくて、あの綺麗な女の方なのかも―――
“待っていろ”
約束通り迎えに来てくれたのね?
―――良かった、あれはやっぱり夢だったんだわ。
あんな怖ろしいこと、あるはずがないもの。
貴方を信じてて良かった。
待ってて良かった―――
幸せな気持ちになって目の前の胸にそっと手を置く。
―――あたたかい―――
ずっと待ち望んでいたぬくもり。
規則正しい胸の動き。
きっとまだ起きてないわね。
私も、頭がぼんやりしてて何だか重いの。
もう少し、一緒に眠っててもいい?
「ラヴル……?」
「……今より、その名は二度と呼ばせん。もう、忘れよ」
重低音の囁きが鼓膜を擽り、全身を駆け巡る甘く痺れる感覚とともに一気に目覚める。
これはラヴルじゃないわ。
「――――っ、誰!?」
毛布がすっぽりと被され、狭い視界に映るのは厚い胸板と肩から零れる黒髪だけ。
跳ね起きようにも指先一つ動かせず、全身が固まったかのよう。
この状態は――――
毛布に包まれたままの体が、ずりずりと抱き寄せられる。
「漸く、だ…漸く我が元に来た……」
体の動きを縛られ、毛布をすっぽりと被されたまま仰向けにされる。
ギシリ…と体の両脇が沈み込む気配がして心臓が跳ね上がる。
どう考えても、この状態は……。
「んーーっ…んーーー!」
叫ぼうにも、唇まで固まっていて声が出ない。
―――嫌、お願い。誰かっ、ラヴル―――
「待ち望んだぞ」
そう囁きながら、何かが毛布越しに頬に触れる。
優しい掌と指先が、毛布の上を滑るような感覚。
視界が遮られてる分触感が際立つのか、意に反して敏感に反応してしまう。
唇…胸…腰…脚…
ゆっくり這いまわるそれは、直に触れられていないのに熱が伝わってきて、徐々に体の奥を痺れさせていく。
自分の意思で動かすことも出来ない体は自由自在に転がされ、思うままに熱が伝えられる。
次第に抵抗する気力を奪われ声も出せず、甘く熱い息だけが毛布の中に渦巻いた。
「意地を張るな。身を任せ、我がモノとなれ」
重低音で囁かれて体中に震えが走る。
―――何でこんなところにいるの。この方は誰なの……。
とろんと蕩けていく意識の中、懸命に記憶を掘り起こす。
やっぱりあれは夢ではなくて、本当にあったこと。
私は、昨日、ケルヴェスに……。
となればこの方は、謀反を企む例の王子様!?
するとこれは、贄にする儀式か何かで―――?
容赦なく与えられる甘く優しい刺激。
恍惚の海に落ちておぼれそうになるのを、昨日のことを思い出してなんとか引張り上げる。
だめ…思い通りになっては、ダメ。
「我が妃よ。セラヴィと呼ぶを許す」
―――妃?勝手にそんなこと決めないで。私は―――
体中に触れる感触が消え、顔の上の毛布がゆっくりと取り除かれていく。
徐々に広がる視界に、あの日瑠璃の森で見た青年の顔が映った。
力強い光を放つ漆黒の瞳は予想とは違って優しく感じる。
あの時の印象と同じ。
やっぱり悪いお方には見えない。
けれど、この方はあのケルヴェスの主―――
「その薔薇色の頬、潤んだ瞳。この香り…非常に魅惑的だ…縛りを解く。さぁ、その愛らしい唇で我が名を呼ぶがいい」
唇のあたりが解れた感覚がするけれど、体はまだ固く縛られたまま。
セラヴィの瞳は顎のあたりに固定されてて、動くのを待ってるよう。
だけど、名を呼んではいけない気がする。
何となく、何かが終わって始まるような、そんな嫌な予感がする。
儀式が完成するような。
取り返しのつかないことが起こりそうな。
狼の国を、皆を守ると決めたのだもの。
贄になる可能性を少しでも低くして、この方の野望を打ち砕かないと―――――――
「貴方のことを何も知らないのです。名前は、まだ呼べません」
そう言えば、目の前の瞳が哀しみを含んだように見えた。
「我が妃になるは、嫌か?私のことが、きらいか?」
穏やかに囁くように言いながら大きな掌が頬に向かっておりてくる。
が、それが、触れる寸前でピタリと止まった。
瞬間に眉を上げたセラヴィの顔が少しだけ歪む。
唇をキュッと結び、何か見えないものと闘ってるようにも見える。
「くっ…ラヴル、がっ……」
忌々しげにそう呟いた後に、宙に浮いていた掌が引っ込んだ。
覆い被さっていた体が退き、同時に体の縛りも解ける。
何だかよく分からないけど、何とか危機を脱したみたい。
極度の緊張から心と体が解放されて、ほぅ…と息を吐いていると、再びベッドが軋む音がして覆い被る体にどきりとする。
逃げる間もなくて、端正な顔をつい凝視してしまった。
「ふむ…やはり急ぎ過ぎたようだな。もう何もしないから安心しろ」
掌が目の前の宙を動くのと同時に髪を撫でられた感覚がした。
ふわっと微笑むその表情がとても哀しげに見える。
「貴女は、今。名を何という?」
―――この方は、本当に、悪者なのかしら―――
「…ユリアです」
「ユリア、か……侍女を呼ぶ。しっかり食事を取れ」
そう言い残して、セラヴィは部屋の外に出ていった。
しばらくの間、耳を澄ませる。
今、鍵を掛けた音は聞こえなかった。
ということは、いつか逃げられる機会が出来るはず。
ドアの向こう、廊下の様子だけでも見られれば。
意を決して起き上がり、毛布を剥いだ自らの体を見てギョッとする。
急いで毛布を引き寄せて、ぐるぐるに巻き付けてその場にへなへなと座り込んだ。
―――もしかして、私、一晩中この姿だったの?
朝隣にいた彼は…セラヴィは、ずっとベッドで一緒だったの―――?
昨日のことやさっきまでのこと、羞恥心だけでなく恐怖心も、いろんな感情が一息に湧きあがってきてぐるぐると回り、どうにも制御できなくなる。
もういてもたってもいられない。
「まったくもうっ、なんてことなのかしら!」
毛布の端を握り締めて、行き場のない憤懣を発散するように叫ぶ。
手近に物があれば是非とも壁に投げつけてみたい。
はしたない行為だけど、そうしなくてはいられない程に、精神は追い詰められていた。
ここは知らない場所だもの、知ってるお方もいないし何かないかしら、とキョロキョロと探す。
と。
激しいノック音が何度も響き
「大丈夫ですか!?」
「何か御座いましたか!?」
と衛兵らしき男性の声が、二人分聞こえてきた。
今にもドアを開けて入ってきそうな勢い。
「何でもありません。大丈夫です」
慌ててそう返しながら、物を投げなくて良かったと心底思う。
うっかり派手な音でも立ててしまえば、有無もなく部屋に入って来たに違いない。
こんな恰好を見られたら、今以上に憤懣が溜まってしまう。
不幸中の幸いか、ドアの向こうは見られなかったけれど、見張りが常駐してるらしいことだけは分かった。
しかも、二人も。
こんなところに二人も付いていれば、外にはもっと沢山の衛兵がいそうな気がする。
余程の運がなければとても逃げ出せそうにない。
この部屋も大きいもの、結構大きなお城のよう。
ここはなんて名前の国なのかしら。
毛布がずれないようしっかりと持って立ち上がる。
窓の外を見れば、見渡す限りこんもりと繁る緑の葉の群れ。
どうやら山の中腹に建っているようで、頂上が目線の上にあった。
地面は遥か下のほう。
階数はバルの城宮と同じくらいの高さに思える。
これだと、窓を破って逃げることも出来ないわね……。
第一の策は泡と消えそうだ。
となれば、もう一つの策を…目を閉じて、きゅっと唇を結ぶ。
―――いつか、決心しなければ――――
だけど、髪飾りもドレスも、おまけに下着も。
一体どこにあるの。とてもこのままではいられないわ。
ジークの家で目覚めたときでさえ、衣服は身に着けていたというのに。
部屋の中を見廻しても、ぴかぴかに磨かれて整えられた美しい調度品が並ぶばかりで、身に着けていたものはどこにも見当たらない。
いくら意識がなかったとはいえ、姫が身ぐるみはがれてしまうなんて。
カフカのお父様がご存命なら嘆かれてしまうわ。
――っ、そうだわ。
ハッと気付いて指を見る。
あのオラペルトに似た指輪がない。
あれだけは、なくしてはいけないものなのに―――
ふいにノック音が響いたので、反射的に毛布を握り締めてその場に座り込んだ。
「ユリア様、失礼致します」
返事も待たずにドアが開き、澄ました顔の若い侍女を先頭に、幾つもの箱を積み上げて抱えたヒト達がしずしずと部屋に入ってきた。
中にはよたよたとしてるヒトもいて、ぐらぐら揺れる箱が今にも崩れてしまいそう。
見る間に部屋の隅に箱が積み上げられていき、開かれたそれからは色とりどりのドレスが次々に出されて、クローゼットの中にどんどん仕舞われていく。
あっけに取られて見てる間に、ものの数分で箱もヒトも消えていった。
窓際で座り込む体の前に、侍女の手が差し出される。
「ユリア様、大変失礼致しました。急なことにドレスの手配もままならず、つい今しがたに揃いましたので」
誘導されるままに毛布をずりずりと引きずりながらクローゼットの前に行けば、今揃えられたばかりのドレスをあれこれと出して見せ、侍女はニッコリと微笑んだ。
「さぁ、ユリア様?どれになさいますか?」
差し出されるまま手に持てば、全部上質な出来で布はすべすべと肌触りよくとても軽い。
装飾も少なくシンプルなデザインは多分セラヴィの趣味なのだろう。
どれも黒髪に似合う綺麗な色のものばかり。
…本当は、着てたドレスが一番いいけど。
この格好だもの、そうも言っていられないわね…。
「そうね、迷うけれど―――」
ふと、クローゼットの中にある瑠璃色のドレスが目に入って、城宮の美しい屋根を思い出して切なくなってしまった。
優しく強い狼族。
最後まで私を守ろうとしてくれた。
―――アリ―――
ジークは間に合ったかしら。
バルは、騎士団の皆は、無事城に戻れたかしら。
リリィは今どうしてる?
危険なことなんて考えてないといいけど―――
不安が胸を過る。何だか思い切ったことをしそうで。
ザキがついてるから、大丈夫、よね。
「これがいいわ」
クローゼットの中を指差せば、侍女の表情が一瞬曇って「これはイヴニングドレスですわ」と言って、困ったように微笑んだ。
「あれは今夜お召しいただくと致しまして。今は――これは、いかがです?」
にっこり笑って手に持っていた数着の中から紅色のドレスを差し出したので、それでいいわと頷いて見せた。
「……昨夜は、よく眠れましたか?」
鏡越しに聞いてくる侍女の表情は、今までのにこやかさが陰って少し慎重に見える。
聞くように言われてるのかもしれない。
髪を整えながらも忙しなくチラチラ見る様は、こちらの表情の変化を読み取るかのよう。
セラヴィがベッドにいたこと、知ってるのかしら。
この娘たちにとって、私は何の前触れもなく突然現れたのだもの、興味深いだろうし不思議に思うのは当然のことだわ。
「えぇ、とてもよく眠れました」
そう。ケルヴェスのおかげで。
哀しむ間もなく、ぐっすりと。
おまけに幸か不幸か身ぐるみ剥がれた羞恥心も感じることなく。
と。寝起きに起きた一部始終をありありと思い出してしまい、今度は無性に腹がたってきた。
毛布越しとはいえ、女性の抵抗を奪って自由自在に体を撫でまわすなんて、とても卑劣だわ。
儀式なのかどうかは知らないけれど、全く失礼極まりない行為。
例え王子様であっても了承を得るべきだわ。
それが、常識というものよ。
バルは惜しげもなく愛情を表現してきたけれど、最低限私の心を優先してくれた。
ご主人様なラヴルだって、あのとき動きを奪ったのは腕だけだった。
なのに、あの方は。
全身だなんて!
考えれば考えるほどにムカムカしてくる。
優しげな雰囲気だったけれど、本性はまだ分からない。
何と言ってもケルヴェスの例があるもの。
あんなに穏やかな顔してるのに、することはとても残虐だった。
無意識に唇を噛む。
今度顔を合わせたら、あのとき言いそびれた文句を必ず言ってあげるわ。
それでも気はすまないのはわかってる。
本当は、頬を思い切り叩きたいくらいなんだから。
あの方だけは、どんなに謝ったとしても、絶対に、許さないんだから!
意識を失う寸前に見た嬉しげににやりと笑う表情を思い出せば、更に怒りが増してくる。
行き場のない感情を発散するように、てのひらが自らの膝をペシペシと叩き始める。
すると、頭の後ろからおずおずと訊ねる声が聞こえてきた。
「あの、どうかなさいましたか?できれば、動かないで頂きたいのですが…」
「あ、ごめんなさい。何でもないの、気にしないで」
怒りを懸命に抑え込んで侍女を見れば、結い上げた髪にアクセサリーをつけるところだった。
そういえば。
「あの、貴女は何処にあるのか知りませんか?私が身に着けていたもの。中に、とても大切なものがあるんです。失っては、困るわ」
そう尋ねたら、鏡の向こうの表情は訝しげなものになった。
「身につけていらしたものですか?―――昨夜にお世話した者は何も申しませんでしたか?」
「あ…えぇ、何も」
「…普段どおりの処理であればドレスは洗濯に。アクセサリーは洗浄に出してると思われます。昨夜お世話した侍女に聞いておきましょう。ですが、ご心配なさらなくても明日には戻ってきますわ」
…お手入れ中。それなら、良かった…
ホッと胸をなでおろしていると、身支度を整え終わりテキパキと片付けを済ませた侍女が「では、すぐに朝食をお持ちいたします」と言って出ていった。
その開けられたドアの向こうに、衛兵のものらしき腕が動くのが見える。
常にドアの脇に立っているみたい。
聞こえた声から判断するに、もう片側にも立ってるはずだわ。
やっぱり城の警備の仕方は、どこもあまり変わらないのね。
ということは。
これは、夜も同じなのかしら。
警備のこと、城の間取り、しっかり調べる必要があるわ。
まだ諦めてはダメ。
気弱になってはいけないわ。
少しでも可能性があるのなら、逃げる方法を考えた方がいいもの。
侍女と入れ替わるようにガラガラとワゴンが入ってくる。
食事を運んできたヒトに笑顔を向けて話しかけた。
「おはようございます」
まずは、この方から――――




