13
出した声が震えてる。
アリの背中の辺りから煙のようなものがモヤモヤと立ち昇ってる。
この臭いの元は…。
嫌っ。まさか、そんな……。
「アリ殿!」
「アリ!?私を下ろして!下ろしなさい!!」
遠くから叫ぶジークの声を聞きながら必死で呼び掛ける。
私を下ろして。
お願いだから負担を減らして。
蒼白な顔色に額から吹き出る汗。
無理矢理に微笑む顔が見下ろしてくる。
それはまるで、大丈夫だとでも言うように。
「だめ…おろして…おねがい」
首を横に振って訴える。
―――嫌……どうして?いつもそんな顔しないじゃない…。
こんな時に優しい瞳をしないで。
それじゃまるで……まるで―――――…
記憶がフッと浮かび上がる。
“良いのです!さぁ、行きますよ”
騎士団長の顔と重なる。
あの時と同じ。
剣の音が響くのを背後に聞きながら森の中を必死で走った、あの時最後に見た笑顔と。
駄目。
そんなの絶対に駄目なんだから。
そんなこと、許さないんだから。
「下ろしなさいったら!アリ!?」
遠くからかけ戻ったジークが背中を診て唇を噛んだ。
…ジーク、アリの背中はどうなってるの…?
聞きたいことが声になって出て来ない。
「なんてことを…」と唸る声にケルヴェスの高らかなそれが重なる。
「逃がしません。絶対に」
ケルヴェスの足音が近づいてくる。
――逃げなくちゃ。でも。一体どうすれば…。
こうしている間にもケルヴェスの足音は近付き、足元近くの地面に例の閃光がぶつけられる。
考える間を与えないよう。
逃げる隙も与えないよう。
「おっと、邪魔なこれを退けなければいけませんね」
その声とともに空を走る閃光が目に入ったかと思えば、派手な音を立てて馬車が横倒しになった。
驚いた馬がいななきながら大きく体を跳ね上げる。
そのまま狂ったように走りだし、ずりずりと馬車を引きずって行くので、アリはジークに支えられよろめきながらもその場から離れた。
「ぃつっ――…何て様でしょう……すみません、失敗しました……ジーク殿…あとを、頼みます……バル様に」
絞り出すような声。
―――後を頼むって…そんな…。
こんな状況。やっぱり嫌な考えしか浮かばない。
汗を光らせ薄く微笑む顔をじっと見つめる。
「待って、一緒に逃げるのよ」
体がアリから離されていくのを感じる。
「駄目!アリ、お願いやめて!そんなこと許さないわ」
「さぁ早く王子様の元に!」
「アリ!!嫌っ――ジーク、待って!嫌よ!!」
ジークの腕の中に転がされるように渡された私の体はがっちりと抱えられ「口を閉じろ!」の声を最後に、耳は風を切る音に支配された。
アリに向かって伸ばした腕が虚しく空を切る。
駄目だって言ってるのに。
瞬く間に流れていく周りの景色がぼやける。
―――アリと過ごした日々。
初めて会った時のこと。
講師をする姿。
冷たい顔。
いろんな場面が現れては消える。
アリ…アリ、お願い…無事でいて――――――
どんな速度なのか、風圧で息をするのもままならないほどの全力疾走をし続けるジーク。
やがて高い木の向こうに建物の影が見え始めた時、走る速度が緩まった。
「もう…少し、だ……我慢しろ」
走りに走ったジークの息は荒く乱れてる。
「ジーク、少し休んで。彼は来てないから」
恐る恐る後ろを確認すれば、追ってくる姿は何処にもない。
アリが止めているのだろう。
最後に見たのは、ケルヴェスの前に移動した姿。
唇をぎゅっと引き結んでただ一心に願う。
―――アリ、お願い。
無茶しないで逃げて。
逃げていて―――
息を整えるジークの顔を見上げると、額には汗が光っていた。
「ジーク、アリが怪我をしたのは、私が」
「それ以上言うな。潜り込むお前を止めなかった俺も同罪だ」
ギリリと歯噛みする音が聞こえる。
ジークはお医者様。
怪我人を置いて行くなんて行為、私以上に辛いに違いない。
私をバルに引き渡したら、すぐに引き返すつもりだわ。
「行くぞ、口を閉じろ」
再び走りだすジークの脚が次第に緩まり、やがてピタと止まった。
「もう少しなのに。何故、だ」
愕然とした様子で呟くジーク。
視線の先を見れば、道の真ん中にもやもやとした影があった。
―――あれは、まさか―――
注視すれば、それはだんだんに人の形を成していく。
「参りました。気付けば彼と知らぬ場所にいましたよ」
この声は―――
ぞくっと背中が震える。
「大変でした。ここを探り出すのに時間がかかりました。彼はやりますね」
話しているうちにそれは体の輪郭がくっきりとしていき、やがて完全にケルヴェスの姿となった。
そういえば。
初めて見たときも、こうして部屋に入り込んで来たのだった。
「アリは…彼は、どうしたの?まさか……」
最悪の状態が頭を過る。そんなことあって欲しくない。
「申し上げておきますが、私は何もしていません。気を失い息も絶え絶えの様子でしたので、そのままその場に置いてきました」
置いてきた、だと…?と呟くジークの腕が、ぶるぶる震えてるのが伝わってくる。
「例え敵だとしても、その状態の者をそのまま置いてくるとはどういうことだ!!」
見上げれば怖ろしい形相でケルヴェスを睨みつけている。
きっかけさえあればすぐにでも襲いかかりそうな気が濃く漂う。
「申し訳ありません。急いでいたものですから」
丁寧に頭を垂れるケルヴェス。
ぐぅぅ…とジークの唸り声が耳の傍で聞こえてくる。
「彼は何処にいるの。教えて」
そう問いかければ、さぁ?何処でしょうと言って、飄々とした様子でケルヴェスは首をひねった。
その態度がジークの心を刺激したよう。
お前は黙ってろと言いながら、ジークはゆっくりと私を下ろして背に庇うように前に進み出た。
ぶつぶつと何かを呟くのは、事態を打開する策を考えてるのか、ケルヴェスを倒す術を探ってるのか。
唇を噛みしめながらジークの服を掴む。
―――私も気持ちは一緒よ。
でも、お願い。早まったことだけは、しないで―――
「ですが―――私もやりすぎたと、これでも反省しているのです。交換条件を出しましょう。彼女が大人しくこちらに来れば、周りにあった物を教えます。地元な医者の貴方には分かるでしょうから。すぐに行けば間に合うかもしれません。私はもう手を出さないと約束しますよ」
両掌を此方に見せ、あくまでも穏やかに紳士的な態度でどうですか?と問いかけてくる。
「それに、言っておきますが。狼の王子は此方には気付きませんよ。賊の張った結界に加え、私も施しておきましたので。二重の結界というやつです。それに、暫くは一般客も通らないでしょう」
貴方が帰しましたからね、誰もこの状況に気付きませんよ、と言って不敵に微笑む。
この状況。
きっと、何もかもが彼の思い通りなんだわ。
それに結界だなんて。
だから、音も何も聞こえなかったのね。
彼の言う通り、バルは私たちがこんなところにいるなんて思いもしないはず。
城に戻ってるものだと思ってるわ。
ジークが「いいか、絶対に奴の言うことなど聞くな」と言ってくる。
けれどこうしているうちにもアリの命は……それにジークも……。
どうすれば―――
ふ…と、ある結論に至って肩の力が落ちる。
―――そう、よね。
これ以上、狼族の方に迷惑はかけられない。
あのとき、皆を守るために今度こそ前に出るって決めたじゃない。
今、出なくてどうするの。
その先のことを考えて、怖気づいて泣きたくなる心を懸命に叱咤する。
それしかないもの。
もう、覚悟を決めなければ―――
建物の方を見れば、バルの顔が思い浮かぶ。
今、貴方は賊と闘ってるのよね。
お別れの言葉も、お礼も言わずにごめんなさい。
お店の中にいる時は、こんなことになるなんて、思ってもいなかった。
瑠璃の森で貴方が看病してくれたことを思い出すわ。
とても心配性な貴方は、しょっちゅう「大丈夫か?」って気遣ってくれたっけ。
カフカから宝物を持ち帰ってくれたこと嬉しかった。
部屋に置いたままになってしまうけれど、お父様のお姿は私の心には深く刻み込まれてるわ。
バルのしてくれた、いろいろなことが走馬灯のように頭の中を過っていく。
部屋の中で過ごしたこと。
いつも警戒しててごめんなさい。
沢山のありがとうを伝えたかった。
最後に、貴方と話をしたかった。
前にある広い背中に額をつける。
逞しい背中。
何度ジークに助けられたかしら。
涙が出そうになるけれど、必死でこらえる。
「ジーク、今まで本当にありがとう。リリィに、黙って行ってごめんなさいって伝えて。それから、私のこと好きになってくれてありがとう、名前を教えられなくてごめんなさいって、バルに」
「待て!お前は何を言ってるんだ!俺は伝えんぞ」
振り返り腕を強く掴まれ、ずいっと近付く怒りに満ちた瞳が私を見つめる。
ありがとう、そんな貴方たちだから、私は身を投げだせるの。
「分かってジーク。貴方に怪我をさせるわけにはいかないの。アリを救えるのは貴方だけ。私は、自分のすべきことをするわ」
「すべきこと?それは―――…まさか、お前―――…駄目だ。俺は認めんぞ。バル様も、アリ殿もだ。何のために身を投げ出したと思ってるんだ!」
でも、もう決めたの。
お願い。
決心を揺るがさないで。
「…ジークを止めて、ケルヴェス。貴方なら出来るのでしょう」
「はい、承知しました。ですが、なにぶん苦手な技ですので。すぐに此方に来るよう願います」
「分かったわ…」
「な、……やめろ。行くな!」
ジークの体が動かなくなった。
固まったみたい。
毎日私を診察してくれた優しい手をそっと撫でる。
少し毛深い手の甲。
狼に変身する話になった時に、貴方は隠したっけ。
この手に沢山助けられた。
私の大好きな手。
この腕も……。
血管の浮き出た医者らしくない、逞しくて男らしい腕。
いつもあったかくて面白くて、親身になって私のお話を聞いてくれた。
この世界の私のお父さん。
沢山の優しさをありがとう。
貴方のこと、絶対に忘れないわ。
フレアさんと幸せに―――
「―――ありがとう、ジーク」
大きな手からそっと腕を外して、ケルヴェスのところへ向かう。
呼び声が聞こえる。
けど、振り向けない。
振り向いたら、もう一度駆け寄ってしまいそうになる。
優しい世界に戻りたくなる。
でも、今は。
私がそのあたたかい国を守らなくてはならない。
この世界の平和も。
そうすることが、私に出来る皆への最大限の恩返しだもの。
きっと、守ってみせるわ。
ジークの体を睨みつけ、最大限に集中してる様子のケルヴェス。
言う通り、本当に苦手な分野のよう。
「アリは何処にいるの。彼に教えて」
「……畑の直中にいた。道の向こうに『まーぶる』という店があった。それで分かるでしょう。急いだ方がいいですよ」
ケルヴェスの腕に抱えられ青い瞳を見るよう誘導されれば、くらりと視界が揺らいだ。
「待て!いいか、絶対に伝えんからな!必ず自分で言わせる。それから礼は言わんぞ。今度会った時だ。必ずだ!いいな!待ってろ!!」
叫ぶジークの声をおぼろげに聞きながら、ゆっくり意識を手放した。




