7
あの後ナーダに見張られながらも、何とか全部食べ終わり、すっかり満腹になってお腹をさすっていたところに、最後のデザートが運ばれてきた。
そのデザートも“全部食べて下さい!”と言われ、やっとの思いでお腹の中に収めた。おかげで、ぼんやりしていた頭が随分とすっきりした。
空っぽになったお皿を見て、満足げにうんうんと頷き、ナーダは食器を片付けてさっき部屋を出ていった。
窓の外はもう夕闇が迫ってきている。
「私が起きたのは、朝じゃなかったのね」
大きく開け放たれた窓からは、水面に沈んでいく太陽が見える。夕焼け色の光がゆらゆらと水面を照らし、部屋の中がオレンジ色に染まっていく。
部屋の中の家具もベッドのシーツも、みんな夕焼け色に染まり、ユリアの頬もオレンジ色に染めていた。太陽は水面にゆっくりと身を沈め、それに呼応するように星が空に瞬き始めた。夕日にキラキラと輝いていた水面が、闇に支配されていく。
―――綺麗―――
閉ざされた空間から解放された瞳には、映る景色はとても美しくて、飽きることなく眺めていられた。
窓の傍に佇み、外をじっと眺めているユリアの傍に、ゆっくりと近付いていく人影。漆黒の髪に黒い衣装を身に纏い、足音を立てず滑る様に部屋の中を進んでいく。
「ユリア、気分はどうだ」
「ぇ……?」
声の方に振り返ると、いつの間に傍に来たのかラヴルが後ろに立っていた。
――今足音が全く聞こえなかったわ……。昼間はあんなに大きな足音がしていたのに。それになんだか雰囲気が違う?―――
昼間の服はベージュでとても優しげな印象だったのに、今は黒い衣装を身に纏ってるせいか、とても威厳があって怖く感じた。
空には満月からは少し欠けた月が浮かび上がり、遠くの水面を妖しく照らす。
ラヴルの漆黒の瞳が月明かりに照らされて妖しく光り、ユリアの姿を見つめる。ストレートの黒髪が夜風にサラサラ揺れて柔らかな光を受け艶々と艶めく。滑らかな頬に形の良い唇、それに白い肌が夜の闇に一層美しく映えていた。
ラヴルの長い指がスゥっと髪に伸び、一束すくった。恭しく持ち上げ、そっと唇を落とし、そのまま長い指が丁寧に黒髪を梳いた。
「具合はどうだ?食事は全部食べられたか?」
「はい……」
髪を梳く指が心地く感じる。まるで魔法にかけられたように、体が痺れて動かない。
「そうか、それは良かった」
その言葉と同時に指が髪から離れ、ラヴルの体が足元に沈み込んだと思ったら、ふわりと体が浮いた。
「ぇ……あの……何を?」
「私にはユリアが必要だ……うむ、少し重くなったな」
「なっ……重いって……あの、それに必要――――って、どういうことですか?それに何処に行くのですか?あの……降ろして下さい」
何を言っても、何を問いかけても、ラヴルは黙ったままスタスタと歩いていく。一体何処に行くのか、そのまま部屋を出てしまった。
廊下を進んで行き階段をずんずん上っていく。
すると、ナーダの焦ったような声が追いかけてきた。
「お待ち下さい!何処に行かれるのですか?ラヴル様、ユリア様は夜着のままで御座います」
「ナーダは黙っていろ」
「そう言うわけには参りません。ユリア様はか弱き方です。せめて羽織るものをお持ちください―――」
ナーダは急いで部屋に行き、ショールを手に戻ってユリアの体に掛けた。そして居住まいを正して丁寧に頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
「うむ、朝には戻る―――」
出かけるって言うけれど、これは何処に向かっているのか。
このままだと、一番上の階に行ってしまうように思える。
ラヴルは階段をどんどん上がっていく。
やがてユリアの思ったとおり、最上階まで来てしまった。そこは窓もない上に、明かりもなくとても暗い。目を凝らしてよく見てみると、前方に細長いドアが見えた。
「あの、何処に行くんですか?ここはどう見ても、出かけられるような場所には見えないんですけど」
「ここからの方が都合がいい。どこにいくかは内緒だが、ユリアに見せたいものがある」
静かな声で言うと、ラヴルは漆黒の瞳を赤く光らせた。すると細長いドアが勝手に開き、二人が外に出ると勝手に閉まった。
ユリアは手も使わずにドアをが開いたことに驚いたが、それよりも、目の前に広がった光景にもっと驚いた。
―――ここは何なの?山の上??……にしても――――――
そこは、今の今まで思っていた世界と全く違っていた。さっき部屋から見た景色は遠くに水面が見え、窓の下には森が広がっていて、その中に家があるのか、まばらに灯りが灯ってて、そこに住む人の息吹が感じられたのに。
あの景色は幻なのか、本当なのか、今見てるこっちの方が幻なのか。
ドアを開いた先に広がっていたのは、遮るものが何もない、見渡す限りの星空。申し訳程度に取りつけられた柵の下は真っ黒な闇が続き、底が全く見えない。覗き込むと吸い込まれてしまいそうな闇が広がる。
ラヴルは人がやっと二人立てるかどうかの、ほんの少しのスペースに立っていた。少しでも強い風が吹けばよろけて落ちてしまいそうで、堪らなく不安になる。
「来い、ヴィーラ」
ラヴルが呼び声を発すると、遠くの方から鳥の羽が羽ばたくような音が聞こえてきた。何処から来るのか姿は見えないけど、その音はどんどん近付いてくる。
「何の音ですか?」
「……ヴィーラの飛ぶ音だ。あまり動くな。落ちるぞ?」
「……はい」
じっとしていると、上から大きな翼を持った生き物が悠然と降りてきた。バッサバッサと音を立てて目の前で浮遊している。その大きな目玉がギョロリと動き、ユリアの顔をじろじろと見る。口の端には大きな牙がニョキっと出ていた。
――ん、これって何かしら……顔が怖い……まさか……まさか、これに乗って出掛けるの?―――
不安定に上下するヴィーラの体。ユリアの顔がスーッと青ざめていく。堪らずにラヴルの肩にしがみついて、頬を胸に埋めて瞳をギュッと閉じた。
「怖いのか?大丈夫だ、ヴィーラはユリアを落としはしない」
「こ……怖くなんて……怖くなんて、ありません。ただ、びっくりしているだけです」
「そうか、怖くない、か。ならば自分で乗って貰おうかな?」
「……?待って。あの……え―――えぇ!?」
ラヴルは楽しげな声を出し、抱き抱えていた腕をふっと緩めた。体がスルリと離れ、僅かなスペースにすとんと下ろされるユリア。バランスを崩した体はふわりと揺れ、柵の外の闇が近付いてくる。そのあまりの恐怖に声も出ない。
ダメだ―――落ちる!と思った瞬間に、ラヴルの腕が目の前に現れてがっしりと体を支えたので、それをぎゅっと掴んでしがみつく。すると、何がおかしいのか、クスクスと笑う声が耳に聞こえてきた。
「冗談だ。ユリアは面白いな」
―――冗談って、そんな!ちっとも面白くないわ!私は、私は、こんなに、こんなに、怖かったのに!―――
声にならない叫び声を上げて涙を浮かべるユリアを見て、しっかり掴まってろ、と優しく言うと、ラヴルは震える体をしっかりと抱え込み、まるで地上にいる馬に乗るかのように、いとも簡単に、ヴィーラの背中にひらりと乗った。
「行け、ヴィーラ」
さっき味わった恐怖が消えずぎゅっと目を瞑るユリアに、暫くすると悠然と羽を動かす音が聞こえ、ふわふわとした浮遊感が体に伝わってきた。その感覚も慣れなくて怖くて、必死にしがみついてしまう。
「ユリア、そう怖がるな。大丈夫だ、ほら、目を開けろ」
震えながらも恐る恐る目を開けてみると、眼下に光りの海が広がっていた。
それは、部屋の窓から見たあの水面で、ヴィーラが起こす風でさざ波が起こり、月明かりに照らされてキラキラと輝いていた。
ラヴルにしがみついたまま後ろを見てみると、さっきまでいた場所が見えた。山の上に建てられているそれは、下の方にある家と比べてはるかに大きく見える。遠くから見ても、広大な屋敷だということが分かった。
――あれは屋敷っていうよりも、別の何かだわ……。あんなに大きかったの?ラヴルって一体何者なの―――?
ユリアは前を見据える漆黒の瞳を不思議そうに見つめた。
「これが、これから私とともに住む街だ。ユリアの物と言ってもいい。よく見ておけ」
ヴィーラが方向を変えて、後ろの景色を見せるようにその場に浮遊する。広大な屋敷が建つ山。その裾野から海辺に向かって徐々に家の灯りが増えている。港のような所には特に家が多いのか、灯りがひと塊りになって煌々と輝いていた。
「あの、見せたいものって、これですか?」
「あぁ、そうだ。ここは、小さいが良い街だ……。よし、行くぞヴィーラ」
ラヴルが声を掛けると、再び方向転換をして、ヴィーラは水面が続く空を飛んでいく。風のように早く、後ろにあった街があっという間に見えなくなった。
どれ程飛んでいただろうか、やがて、進む先に小さな島が見えてきた。こんもりとした森の一角に小さな灯りが見える。
ヴィーラがそこに近づいていくと、小さめな屋敷がそこにあるのが分かった。そこから眼鏡をかけた白髪の男性が一人と赤毛の若い娘が一人出てきた。
ヴィーラが大きな羽根をふわふわと羽ばたかせ、少し開けた場所にゆっくり着地した。
「ヴィーラ、ご苦労様。ユリア、降りるぞ」
ラヴルは乗った時と同じ様に抱きかかえたまま、いとも簡単に飛び降りる。そのまま白髪の男性の前にいくと、ストンと下に降ろした。
「カルティス、此方はユリアだ。連絡した通り、準備は出来ているか」
「はい、ラヴル様、もちろんで御座います。はじめましてユリア様。カルティスで御座います。コレは孫のリリィで―――ほら、ご挨拶を」
「お初にお目にかかります。リリィと申します。ラヴル様にはいつもお世話になっています」
リリィは赤毛の髪をふんわりと揺らし、ぺこりと頭を下げた。
「ユリア様は初めてのヴィーラ飛行で御座いましょう?お疲れのことと思い、湯を用意して御座います。さぁ、どうぞこちらへ」
カルティスに案内されるまま、ユリアは屋敷の中に入って行った。その背中を見送り、リリィはラヴルの顔を見上げた。
「ラヴル様、もしかしてユリア様は人間ですか?」
「あぁ、そうだ―――リリィ、いいか?食べてはいかんぞ?」
「そんな!ラヴル様のお連れ様を食べるだなんて・・・そんなこと出来ません!」
リリィは悪戯こく笑うラヴルを軽く睨んで、ぷぅっと頬を膨らませた。しかし内心では、ユリアの放つ何とも言えない甘い香りにとても揺らいでいた。
体から漂う甘い香りはとても美味しそうで、お腹が空いていたらやばいかもしれない……。女の私がこうなんだから、おじい様は大丈夫なのか。
心配そうに二人の消えた屋敷の入口を見つめるリリィの心の内を感じた取ったのか、ラヴルはこう言った。
「リリィ、カルティスなら平気だ。そうでなければ、わざわざここに連れて来ない。それにリリィも、な――?」
大きな掌が柔らかな赤毛のてっぺんをポンポンと叩く。見上げるリリィに微笑みを向け、ラヴルは二人の後を追うように屋敷の中に入った。
残されたリリィは、頬を染めて触れられた頭をそっと抑えた。