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「そう考えると、お前があいつら……テスタの連中に掴まっていたのは、ある意味運が良かったと言うべきだろうな。待遇はどうあれ、少なくとも、安全だった。お前に出会うことも出来たし、不本意で複雑ではあるが、俺は奴らに感謝すべきか」
ぐうぅー…と唸り、バルは自分の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、顔を歪めた。
心の中にわき出る何かと闘っているよう。
きっと、あの組織の中にいた時のことを思い出しているに違いない。
「あの、バル達は…狼族は…そんな風にはならないの?その、私を食べたいとか、思わないの?」
「震えてるな……驚かせてすまん。俺たちはそう思わない。太古、人と狼は一緒に暮らしていたからな。だが。別の意味でなら―――…今すぐにでも、俺はお前を喰いたいと思ってるぞ」
そう言ったバルの腕が優しく体に絡み付いてきたので、胸をそっと押した。
今は、そんな場合じゃない。
「バル、それはっ」
言いながら睨むようにして見上げれば、バルの手が素早く動いて唇に押しつけられ、言葉を止められた。
「あー……すまん。分かっている、冗談だ。頼むから、断るな。怒るな。今から、きちんと話すから」
バルの真剣な眼差しが向けられたので、無言のままに頷く。
「瞳と髪の色、言葉遣い、調査結果と付き合わせ、浮かび上がった国は3つある。カフカ、シルリア、ルーベック。みな人の暮らす国だ。どの国にも黒髪の姫が生まれたと噂があり、同等の可能性に悩んだんだが、最終的にカフカを選んだのは、俺の勘だ」
最初の国が当たりで運が良かったと言うべきだな、とボソリと付け加えたバルは遠くを見るように目を細めた。
旅を、思い返しているのかもしれない。
想像も出来ないほどの、たくさんの危険な目に合って来たに違いない。
「勘、なの?それなら…もしもカフカじゃなかったら、バルは……」
「あぁ、俺はまだ戻ってなかっただろう。場所は滅多に行けない異界だからな。証拠を見つけるまでは、帰る事が出来ん」
ブラウンの瞳がふと壁に向けられる。
そこには、持ち帰ってきてくれた絵が飾られている。
色の塗られていないシンプルな絵は、デッサンの段階で止まってしまったかのよう。
明るい日の元で見れば、雑に描かれた線が目立つものだった。
端はところどころに欠けていて、焦げた部分もあるけれど、私にはとても大切な宝物。
「バル、本当にありがとう」
「こっちに。ここに座って。ゆっくり話そう」
ソファに誘導されるままに座れば、バルは隣に腰をおろして私の手をとった。
「今から話すこと。お前にとっては辛い事実かもしれん。他人から伝え聞くよりも、自然に思い出すのが一番いいと考えていたが……それでも、聞きたいか?」
「覚悟は、しているわ」
「人の王と魔の王の間で交わされた一つの約束事がある」
そう切り出してバルが語り始めたのは、遠い遠い昔のことだった――――……
“人の子に黒髪黒目生ずれば、全力を持って守護すべし”
「これは、占師サナの長の家に伝わる書にあった言葉だ。
似た言葉が書かれた伝記が城の書物庫にもある。
これは、まだラッツィオが独立するずっと以前の話。
人と魔の国の境目が薄く、混沌としていた頃のことだ―――
世界は二つの国に分かれていた。
人の国と魔の国。
その頃狼族は人と仲が良く、身近に暮らし生きてきた。
言うなれば、人と魔の丁度境目にいたらしい。
人の王が住む城にも出入りし、魔の侵略から守るよう警備を請け負うこともあった。
魔の世界は、今も昔も変わらずに吸血族の王はいたが力弱く統一出来ず、それにより皆の秩序も低い。
人と違い、それぞれの種族が好き勝手に生きる性質を持ってるからな、仕方のないことなんだが。
それらを支配するには強大な力がいるんだ。
時の魔王には全てを征服できる力がまだ無かった。
“無暗に人を襲うことならず”
人の王と協定を結び、そう規則を作り告示してあっても守る者など皆無に等しい。
多くの者は夜な夜な国の境界線を破り人を襲っていた。
肉食の者は若く瑞々しい体を貪り、そうでない者は、自らの性欲を満たしていた。
我々魔者にとって人の動きは鈍く力弱く、簡単に思い通りになる。
若い娘にとってはさぞかし夜が恐怖だっただろう。
それは守ろうとする男たちにとっても。
様々な魔除けも造られ、人なりに懸命に防御はしていた。
だが、特に吸血族からしてみれば、人の血を啜れば自身の力が漲り生命力が増すということがある……だんだんに長寿になり力は増幅するわけだ。
野心を持つ者が人を襲わない手はないだろう。
いつか御代を奪い国を手中に治めたいと、そう考えない者はいない。
狼族はそんな魔者たちから守っていたんだ。
だから、この国の者は皆お前を食おうなどとは思わない。
却って守ろうとするわけだ」
――優しく穏やかな狼の人達。
バルの妃候補だからとはいえ、こんな私を守ってくれるなんて…と常々不思議に思っていたけれど、そんな出来事が根底にあるからなのね。
先祖から受け継がれた、記憶―――
「…だが、俺たち狼族でも、男はこの香りに魅惑的なものを感じる。それを忘れないでいて欲しい。別の意味で危険だと。すまんな。ヘカテの夜に、アリに襲われそうになったと聞いた。鉄の心だからと信用して任せていたんだが、すまなかった。よく考えれば当然だが、奴も普通の男だった訳だ。――――――っと、話がまた逸れたな。―――すまん……」
困ったように頭をボリボリと掻く。
さっきから謝ってばかりのバルに対し、クスッと笑みが零れる。
「バル、もういいわ。あの時は、結局は何もなかったのだから」
今にしてよく思い出してみれば、アリ自身もかなり自分の気持ちと闘っていたようだった。
許そう、と思う。あの時のことだけは。
「で、だ。話を戻すぞ――――――
あまりの傍若武人な魔の仕打ちに耐えかねた時の人の王は、何度も魔王と話し合いを持った。
このままでは若い娘が減り、人の存亡にかかわると。
きちんと境界を作り、こちらには来れないようにして欲しいと。
ならば、魔王の力を強大なものにするしかない。
境界を作れるよう、新たな世界を作れるよう、魔者たちを支配出来うる畏怖と確固たる魔力を持つよう。
深い思考に至る答えは、ただ一つ。
“人の王よ、ならば貴様の黒髪の姫、彼女を貰い受けよう。さすれば我が力は強大となり、そなたの願いを叶えられよう”
人の言葉で言えば、贄を差し出せと要求されたようなものだ。
だが、魔王にとっては願ってもない機会だった。
なぜならば、会を開いて会う度ごとに、その黒髪の姫にほのかな愛情を感じていったからだ。
姫を手に入れ、力も手に入れられる。
魔王にとってこんな旨味のある話はない。
人の王は悩みに悩んだが“それが人の世のためになるなら、私はこの身を捧げましょう”との姫の決意と覚悟を聞き、泣く泣く愛しい姫を差し出すことを決意した。
その後、黒髪の姫と婚姻を結び強大な力を手に入れた魔王は、その魔力をもって小さな世界を作り人の世と完全に分ける事に成功した。
が、無理矢理作った世界だ。
保つには、またこれ力が必要となる。
妃となった黒髪の姫とも相談し、次の御世のために人の王と約束事を交わした。
“この平和を保ちたくば、人に黒髪の姫が生まれし時は、魔王のものとせよ”
と。
そうなれば、また新たな危険が人の世に舞い込む。
滅多に生まれることのない黒の色彩。
黒髪の姫にしてみれば、魔王の贄になる可能性を持つ者を減らしたつもりだろうが、反勢力が黒髪を狙い亡きものにしようとすることまでは予測していなかった。
新しい世界に狼族は移住したが、魔王に黒を守れと命じられ再び人の世に下った者も大勢いる。
その後、何代か御世が変わり今のように安定した世界が構築されるまで、狼による黒の守護は続いたんだ。
今は平和になったからな。
そんな約束ごとも薄れて、魔王も人ではなく愛する魔族の娘を娶り、愛妾を人の世に持つこともある。
先代の魔王がそうだったな。よく人界に下りていたらしい」
――そのお話が、未だに人の世で息づいているのなら。
言葉は悪いけれど、私は魔王に捧げる贄として、育てられたことになる。
近所の人たちが、私を怖がった理由が分かったわ。
遥か昔のこととはいえ、この国でも書物に残されていたんだもの。
こういうことは、言い伝えとして人々の心に深く根付いてるはず。
“黒は魔者を引き寄せる者”
近寄りたくないと思うのは、当然だわ。
ましてや一緒に遊ぶだなんて…。
言い伝え通りに“もしも襲われたら”と考えれば、誰でも普通に黒き者を避けさせる。
哀しいことだったけれど、こんな理由があったなんて。
“お前は特別なんだよ”
“大きくなれば分かるさ”
おばば様の言っていたことが少しずつ解れてくる―――
「お前の黒の色彩。姫らしい身のこなし。セラヴィが手に入れたがる訳。俺がこの書物に行き当たり人の国を調べれば、自ずと先の答えに辿り着いた、というわけだ。一気に話してしまったが…平気か?」
「えぇ、話してくれてありがとう、バル」
こんなこと、私には知らされてなかったかもしれないもの。
ただ、立派な王に望まれることを喜ぶよう、強国に嫁ぐことを良しとするよう、教え込まれただけのような気がする。
「今の話は魔の国からの見解だからな、人から見た話とはまた風味が違うかもしれん。だが、基本的には同じだろう。必要なら、書物を見せるが?」
「いいわ。今のお話で十分に分かったもの」
「そうか……黒髪の姫のいる国。それを調べるには、かなり苦労させられたんだぞ。何処からも情報が出て来なかったんだ。最終的には、釈放と引き換えにして、捕えていたテスタの男に聞いたからな……あそこは、魔者が大半だが人も属しているんだ」
バルの顔が苦渋に歪む。
そこまで、してくれたの?
テスタは、あのオークションの組織。
メイクを直してくれた女の人や私を担いだ男の人は魔者で、人は……あの果物を口に運んでくれた優しい男の人なのかも。
「だから、お前は多分人目を避けるよう、外に情報が漏れないよう、隠されて育てられたんじゃないかと思ってるんだが。心当たりはあるか?」
「……あるわ」
なんとなく、そうじゃないかと思っていた。
おばば様と一緒にセリンドルの森で暮らしていたのは何故なのか、ほんとのところはまだ分からないけれど。
黒の色彩と関係があるに違いないもの。
大きくなった私が外出するのにも、人目を避けていたようだし……。
「俺は、お前がどんな風に育ってきたか知りたいと思っている。どんな思いをしてきたか、話を聞き、支えてやりたい。俺の独りよがりな願いだが、思い出して話せるようになったら、教えてくれ」
「…はい」
そのあと。
このまま傍にいてやりたいが、お前は拒むだろう?と苦笑混じりに言ったバルは、また明日に、とジークの部屋へと向かった。
室長も戻らず一人きりの部屋。
宝物の絵をそっと指でなぞる。
頭に浮かぶのは、数種類の名前。
「お父様……お父様は、一度でも私の名前を呼んでくれた?私は、誰?」




