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ピピピ……チッチッ……。
―――鳥の声が聞こえる……もう朝なの……?
“―――様、お目覚めですか?……お早う御座います”
“――お早う。今日は良い天気ね”
朝日が差し込む明るい部屋の中、ニコリと微笑む女の人の姿が見える。
微笑む口元はぼんやりと見えるのに、体や顔がはっきりしない―――
―――あなたは、誰――?
「あ、起きたのか?」
――ここは、どこ?
娘は気だるい体を動かして声のした方を見た。目覚めかけた瞳にぼんやりと映るのは、ブラウンの髪に黒い瞳の少年。年の頃は18歳くらいに見える。
「あぁ、やっぱり起きたんだな。おい、ラヴル様を呼んで来い」
ドアの横で控えていたメイドのような服を着た女の子に言った後、ベッドの傍に近づいてきた。
「覚えてるか?俺のこと」
にこにこと笑いながら見下ろしてくる表情は、とても優しそうに見える。
――そう言えば、私、オークションで売られたんだった……。ということは、今、目の前にいるこの方が私を買った方なの?覚えてるかって言ってるけれど……―――
娘はぼんやりと少年の顔を見つめていた。
「あぁ、昨日は仮面をかぶっていたからな。俺、ツバキだ。お前の鎖をはずしたツバキだよ」
「ツバキ……?」
―――そう言えば、ツバキって言う人に首のベルトを外して貰ったような……この方が……。もう一人背の高い方がいたような覚えがあるわ。
確か、名前はラ……―――
娘が昨夜の記憶を辿っていると、部屋の中にコツコツと大きな足音が響き、それはどんどんベッドの傍に近付いてきた。
「ツバキ、目覚めたと聞いてきたが―――」
「はい。ラヴル様」
ツバキが脇に避けると、黒髪の若い男性の顔が現れた。若く溌剌とした雰囲気のツバキと違い、静かな落ち着いた大人の男性の顔。肩まである艶やかな漆黒の髪、黒い瞳に意志の強そうな薄い唇。眉を寄せている表情は少し心配そうに見える。
「起きられるか?」
ぼんやりと男の顔を見ていたら、背中に腕が差し込まれ、ベッドの上に体を起こされた。途端にクラッと視界が揺らぎ、体がふらっと揺れてしまう。
それをラヴルの腕にしっかりと支えられ、背中にクッションを当てられてベッドの上に座らされた。
「ナーダ、消化の良い食事を持って来い」
「かしこまりました、ラヴル様」
さっきラヴルを呼びに行ったメイドが、すぐさま部屋の外に消えていった。
「ラヴル様、まだ名前を聞いておりません。テスタの者たちも名前は知らないようで教えてくれませんでしたし……あ、此方にどうぞ―――」
ツバキがラヴルのために、ベッドの脇に椅子を持ってきて置いた。ラヴルは椅子に座り、俯いたままの娘の顔を覗き込んだ。
娘の顔色がとても悪い。テスタでどんな扱いを受けていたのか。それとも、昨夜の私の所業のせいか。
「私はラヴル・ヴェスタ・ロヴェルト。ラヴルと呼んでくれ。貴女の名前は?」
――私の名前……名前……名前…………。
“…―――様……”
ッ―――キン―――
「ぅっ―――」
―――……何で、何も思い出せないのか。日常的なことは分かるのに、どうして自分の名前と今まで過ごしてきた日々を思い出せないの?
娘は遅い来る痛みと、何も思い出せない哀しさを振り払うように、瞳をギュッと閉じた。
――何も分からない事がこんなに悔しいなんて―――
娘の体がベッドの上にうつ伏せに倒れ込んでいく。すーっと倒れ込んでいくその体を、ラヴルの腕が咄嗟に支えた。
顎を支えて上を向かせると、娘は具合が悪いのか、苦しげに呼吸をしている。
「ラヴル様、もしかしてこの娘、名前が無いんじゃないですか?」
「違うぞツバキ。名前が無いんじゃない。多分これは記憶を失っているんだろう」
ラヴルの手が額にそっと当てられた。すると、不思議なことに波打つような頭の痛みがひいていった。辛そうに眉を寄せていた娘の表情が、穏やかなものに変わっていった。
「私が貴女に名前をあげよう。貴女は今日から“ユリア”と名乗るといい」
「ユリア?私の、名前……」
ラヴルが額から手を離すと、丁度食事が運ばれてきた。メイドがユリアの顔をちらちらと見ながら、テーブルの上に食事をセットしている。
「ユリア、お腹が空いているはずだ。これを食べるといい。ナーダ、ユリアのことを頼む……。昨夜――つい無理をさせてしまった。多分、相当体がきついはずだ。私は少し出かけてくる―――ツバキ、行くぞ」
「はい、ラヴル様」
ラヴルは来た時と同じ様に、コツコツと大きな足音をさせて部屋を出ていった。
ナーダは腰に手を当ててユリアを眺めた。
―――この人間の娘のどこがいいのかしら……。確かに綺麗だけど、薄ぼんやりしてて、とてもラヴル様の好みではないのに……。人間の娘なんて、命じられれば、この私が喜んで攫って来るのに。
ほら、せっかく用意した食事も見もしないじゃない―――
ナーダは、動きそうにないユリアを睨み、あからさまに不機嫌そうな声を出した。
「ユリア様、早くお食事をなさってください」
言いながらベッドの傍に近付き、ユリアの手を引っ張った。兎に角ベッドから降りて貰わないと……このままじっと待っていても、ユリアは食事をしそうにない。
「ほら、ユリア様―――」
急に手を掴まれびっくりしたのと同時に、ユリアの心に言いようのない恐怖感がむくむくと湧きあがってきた。その恐怖感は本能がもたらしたものなのか、目の前のナーダは、普通の人と変わらない風貌で、バルのように獣のにおいも漂ってこない。それなのに、何故か、怖いと感じてしまう。
――この人、怖い―――
「嫌―――!離して下さい。自分でしますから」
ナーダの手を振り払って、ベッドから降りるユリア。その途端にクラッと視界が揺らぎ、体が床に近づいていく。
―――私どうしたのかしら……なんだか、体に力が入らない―――――
成す術もなくゆっくりと倒れていく体を、ナーダが咄嗟に抱き止めて、椅子まで運んで座らせた。
「ユリア様―――大丈夫ですか?」
「えぇ」
「食べてないから体が弱ってるんですよ。この食事はユリア様のために作られたものです。いいですか?“全部”食べて下さい。食べ終わるまで私はここで見てますから!」
ナーダは鼻息も荒く、“全部”の部分を強調して言った。ラヴルのためにも、この娘に体力をつけて貰わないといけないのだ。
―――これを全部……?確か、あのとき“消化の良い食事”って言ってた気がするけど。これって消化が良いの??―――
見れば、大きな皿の上には、血の滴るようなステーキ、ほうれん草とヒジキのサラダ、それに何で出来ているのかよく分からないスープが、あたたかい湯気を出してテーブルの上でユリアに食べられるのを待っていた。
「あ、あの……ナーダさん」
「ナーダで宜しいです。何でしょうか?」
「ナーダ、コレ全部なんて、とても食べきれません」
困ったようにナーダを見上げると、無言のままじっと見下ろしている。
その表情は“いいから、文句を言わずにさっさと食べろ”と言っていた。
ユリアは諦めたようにため息をついて、ナイフとフォークを持って、まずは肉から攻略し始めた。