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魔王に甘いくちづけを  作者: 涼川 凛
記憶の扉
77/118

10

冷たい夜風が心地よく肌を撫でる。


小さな雲が時折月を隠し、テラスに柔らかな影を落としながら通り過ぎていく。


城を包む柔らかな空気。



空の神が王子様の帰還を喜んでいて、国中をあたたかな気で満たしているのかしら。


それとも、バル自身の気がこの城を包み込んでいるのかしら。



瑠璃の森で幾度も触れた、大きく包み込むような優しい気に似ている。


これに触れていると、荒れていた心の波が自然と静かになっていく。


軽い眩暈を起こしていた体も、すっかり元に戻っていた。


「バル、ありがとう。もう平気よ」


体を気遣って支えてくれてる優しい腕を、そっと押した。


「本当に、もういいのか?」


身を屈めた、バルのブラウンの瞳が心配げに覗き込む。


手は、まだ背中に当てられたまま。


3度目に言った、半ば呆れを含ませた「もう平気よ」で、漸く手が離された。


けれど、ゆっくりと移動した手は中途半端に差し出されたままで、少しでもふらつけば何時でも支えられるようにしている。


視線も様子を窺うようにじっと定められたまま。


心配性なのは性格だから仕方のないことだけれど、これでは王子様の威厳が形無しだ。


気を逸らせるためにも、話題をふってみる。


このままでは、いつまでも心配していそうだ。



「……旅のお話は、もう終わったの?」


「あぁ、俺の話はルーガルの歌に負けたよ。彼は国一番の美声の持ち主だからな。一国の王子の旅話などでは奴には勝てん」


「まぁ、そうなの?でも、声ならバルも負けてないわ。一度皆の前で歌ってみたら?案外勝てるかもしれないわよ」


「そうか?お前がそう言うなら―――――……あーあ~あー…‥あぁ、やはりやめておく。俺ではただの遠吠えになりそうだ」


少しだけ歌う真似をして、肩をかっくりと落としておどけてみせたバル。


その表情が、何とも可笑しい。


凛々しい眉も目も、おまけに口角までもが下がってしまってる。


あまりにもショボンとした姿。


懸命に耐えていたけれど、プッと噴き出してしまった。


一度笑いだすと、こんなことで笑ってる自分が可笑しくなってしまい、更に笑いを呼ぶ。


「そんなに可笑しかったか?」


そう尋ねるバルに、瞳に滲んだ涙を拭きながら頷いて


「だって、バルったら、王子様なのに――」


笑いながら返事をすると、釣られてバルも笑い出した。


静かな夜のテラスは、二人の楽しげな声で満たされる。



ひとしきり笑ったあと、平和だな、いいものだ……と呟いて、バルは空を仰ぎ見た。


「俺は、向こうでもこうして月を眺めていた。健やかなあの月も美しく良いものだったが―――――やはりこの空の月が、俺は好きだ。時に清く、時に禍々しくなる、この月が」


「旅は、大変だったのでしょう?天候が荒れてしまって―――ジーク達から何度も聞いたわ、危険だと。どちらまで、行っていたのですか?」


「お前も、旅の話を、聞きたいのか?」


こちらを見たバルに、無言のまま頷いて見せる。


「そうだな、お前に話さんといかんな」


そう呟いたバルは、城宮の庭に視線を落とした。


そこには、王の趣味でもある果樹が数本植えられている。


管理の行き届いた木は、みな枝がしなるほどに沢山の実をつけている。


これらの木の実は赤や桃色などに色づき、時たま食卓を美しく彩ってくれるものだ。


中でも月明かりに照らされて輝く黄色い実は、まるで月の子供たちのように美しい。


それらを眺めながら、バルはポツポツ話し始めた。



「……向こうの世界にも、あれと似た木の実があった。ありし日はきちんと手入れされていただろう農園と思われる場所が、たくさんあった。……国は滅び、人の気配はほとんどなく民家も荒れていたが、自然の営みだけは続いていた。人々の息吹きは消え去っても、時は流れ季節は移り変わっていく――――かの地は豊かだった。いつかきっと、心ある者に再興されるだろう」


「バル、向こうの世界って……それは―――」



―――滅んだ国……それに、再興だなんて。


もしかして……まさか。


でも、バルはカフカのことなんて知らないはず。


でもこのお話は――――



城宮の庭を眺めながらも、遠くを見るようなバルの横顔。


ここではないどこか。あちらの世界を見据えてるような。


視線を上げ、こちらを向いたブラウンの瞳が真摯な色に変わり、一歩近付いた。


「お前の考えてる通りだ。俺は異界に行ってきた。お前の祖国のある世界に……旅に出る前、俺はお前に“帰ったら大事な話がある”と言ったが……覚えてるか?」


「もちろん、覚えてるわ」



―――あの日のことは、忘れる筈がない。


身のうちに色濃く残ってるもの。


起きた事件も見た記憶も、バルのことも―――



「旅は、俺にとって重要な目的があった。危険であろうと、行かずにはおれなかった。お前の身にあんなことが起こると分かっていたとしても、取りやめることはしなかっただろう」


一緒に連れて行くことはあったとしても…、と付け加えたバルの体がまた一歩近づく。


怖いほどの真剣な瞳が向けられる。


さっきまでの笑みを含んだものからは想像できないほどに豹変した姿。


その威厳を含んだ気に呑まれてしまい、体も視線も動かすことが出来なくなった。



「あの時……瑠璃の森で再会した時、お前に一つ質問したな。あれは、答え難かっただろう。今更だが、すまなかった。約束通り他言していない。その点は心配するな」


「……はい」



――よく覚えてる。あの時は、確か二つ質問があるって言っていた。


一つは私の値段。


もう一つは、結局問われていないままで、日々は過ぎてしまっている。


もしかして、今、残りの質問をするつもりなのかしら……。



バルの顔をじっと見つめていると、また一歩近付かれた。


二人の間の距離がさらに縮まり、少し腕を動かせば互いの体に触れられるほどになってしまった。



「今から、大切な話をする。俺としては、最大限の勇気を持ってするものだ。よく聞いて欲しい」



一旦瞳を閉じて深く息を吸い込んだバルの緊張感が、強めの吐息にのせられて伝わってくる。


開いた唇を再び閉じて、バルは空を仰ぎ見た。


何か呟いているように唇は動くけれど、言葉は風にのって掻き消えてしまって全く伝わってこない。



「その前に、確認したいことがある。やはりこれを聞かんと、どうにも前に進めんようだ」


夜風が二人の間を通り抜ける。


ふわふわと揺れたバルの髪が月に照らされ、所々金色に艶々と光る。


「お前は、彼の元に――――ラヴル・ヴェスタのところへ、戻りたいか?」


一つ息を吐いて、ゆっくりと空から視線を下げたバルは、一つ一つの言葉を噛み締めるようにして、そう問いかけてきた。


ひたと合わされた瞳は少し潤み、出された声は切なさを含んでいるように感じる。


―――そんなことを聞かれても……私の気持ちは―――


「バルは、知ってるでしょう?ラヴルは私のご主人さまだということを。彼が私を望んでくれるのなら、戻らなければならないわ。それに、戻りたいも戻りたくないもないの……私の意思は、関係ないんだもの」



“貴女が必要だ”


―――私は買われた身。


私に対する愛情は無くても、この体も血も、今はラヴルのモノ。


“生かすも殺めるも私の心一つ”


あの言葉通り、私の命もあの方のモノ。


いくら私がラヴルのことを想っていたとしても。


傍にいたいと願っていても。


必要だと望まれなければ、戻ることなんて出来ない。


逆に、望まれれば例え嫌だと泣き叫ぼうと、傍から離れることは出来ない。


それが、ラヴルと私の関係―――



「ならば、だ。……もしも俺が――――――お前を望んだら。お前にずっと傍にいて欲しいと望んだら、どうする?」


熱の籠った腕が伸びてくる気配がする。


拒む意味も込めて首をふるふると振りながら一歩後退りをすれば、すかさず間合いを詰められた。


金色に輝く瞳。


意を固めたバルの表情は怖いほどに真剣で―――



「―――バル、何を言うの?やめて。困らせないで。そんなこと――――」


これから先に紡がれる言葉を聞きたくなくて、耳を塞ごうと両手を上げる。


と。その手首を、がっしりと掴まれて阻まれた。


逃れたくて手を振るけれど、そうはさせないとばかりに却って強く握られて、腰を引いて後退りをすればバルの体も一緒についてきた。


それを繰り返していると隅に追いやられて、テラスの柵が背中に当たった。



バルの気持ちは薄々感じてはいた。


周りの人たちから掛けられる言葉。


ジークの反応。


妃候補のことも半分は本気なのかも、と思ったこともある。


けれど、それらから目をそむけて違う方へ考えるよう努力していた。


――――逃げていた。


だって、私はバルの気持ちには応えられないんだもの――――



耳も体も逃れることが出来ないのならせめて、と顔をそむける。


「強引にしてすまん。だが頼む、聞いてくれ。俺はこの国の王子だ。望めば彼と話をする場を設け交渉することが出来る。――――俺があの時知りたかったことの残り一つは、お前が完全に彼のモノであるかどうか、だ」


「―――どういうこと?完全って……何?」


バルの言葉にハッとして顔を上げる。


辛そうに眉根を寄せるバルの顔が瞳に映る。



……貴方は、私の気持ちを知ってるの?分かってて言ってるの……?



「吸血族の男が、一生を共にすると決めた相手にする儀式がある。お前のこの様子だと、彼はまだそれをしていない」


「儀式?」



そんなこと知らない。


何のことか分からない。


呆然としてしまい、腕に入れていた力が抜ける。


ずっと振り解こうとしていたけれど、だらりと下げてバルの手の中に預けた。



「知らないと言うことは、していない証拠だ」


手首から大きな手がゆっくりと離され「痕が付いたな、すまない」と呟きながら、自らがつけた手痕で真っ赤になったところをそっと摩り始めた。


「最初は、ただの恩返しだった。お前を買主から解放出来れば、と思ったんだ――――金額を聞きそれが無理そうだと悟れば、せめて怪我が治るまで俺が看病をしようと考えた。そうして毎日世話をしていくうちに、お前にどんどん惹かれていく自分がいた」



摩っていた手首が離され、伸びてきたバルの手が背後の柵を掴む。


腕の中に閉じ込められて、心臓の音が聞こえそうなほどに逞しい胸が目の前に近付く。



「傷が痛むだろうに、俺に気遣い体を動かそうと頑張る姿。辛い中、時たま見せてくれた眩しいほどの笑顔。リリィを気遣う優しさ。全てが俺の心を捉えて離さないんだ」



バルの体が屈み、視線が合わされる。


広間の方ではルーガルの歌が終わったようで、がやがやと楽しげな話声がし始めていた。


バルを探している人もいるはず。


もしかしたら、ここに来るかもしれない。


それに構いもせずに、バルは話し続ける。



「俺が旅に出たのはお前のためだ。お前に記憶を取り戻して欲しい。お前の名を呼びたい。ただ、その一心だ。俺は、手に入れたいと思ったものを逃したことはない。今までも、この先もだ―――お前をこの腕に抱く……その為なら、どんな努力も厭わない」


「バルは、カフカに行って来たと言うの?」


バルは無言で頷く。



――私の、ため――


でも、私の祖国がカフカだと知らないはずなのに。


どうして。どうやって知ったと言うの。


頭の中が混乱してくる。


吸血族の正式な儀式……バルの真剣な想い……旅のこと



「俺はお前が欲しい。相手が例え魔王であろうと、渡せない。こんな気持ちになるのは初めてだ。旅の間ずっと、空を眺めながらお前のことを想って自分を励ましていたんだ」


大きな掌が頬に触れる。


すーと撫で下ろされた指先が顎にまわり、バルの瞳と合わせるように軽く固定された。


「――――俺を、選んでくれ」


「バル……貴方のことはとても尊敬してるわ。皆から愛される立派な王子様ですもの。でも、私には、祖国もなくなってしまったし、後ろ盾になるものは何もないわ。貴方にとって相応しい女性ではないの。それに――――っ…」


先まで紡がれるはずだった言葉は、背中にまわされた腕によって遮られた。


逃げ場のない体は簡単にバルの腕の中に収められ、吹きわたる夜風からも月の光からも守られるほどに、まるごとすっぽり包み込まれた。


腕の中に埋もれた耳には、はっきりきっぱりとした声が頭の上から届けられる。


「後ろ盾など何も必要ないんだ。ただ、お前が傍にいてくれればそれでいい。断りの言葉なら、今は生憎と聞く耳を持ってない。それでも何か言うのであれば、俺にも考えがある」



―――そんなの、ずるいわ。


自分の気持ちばかり伝えてくるなんて―――



脅すような言葉。


相変わらずの強い態度。


あのときから全く変わっていない。


これからはそうしないよう努力するって、言ってたのに。



身動ぎをすれば体を包む腕が強まる。


結った髪の上で感じられる吐息からは、溢れるほどの気が伝わってくる。


熱い想いが。



「俺は、お前の本当の名を呼ベる様になった時、正式に申し込みをする。それまでは何も言うな。答えるな。ただ俺の傍にいろ。俺が、守ってやるから」



……バル、貴方みたいな立派な方に望まれるのは、とても喜ばしいことだわ。


けれど……。



『―――いいか、姫よ。立派な王である方に望まれるということは、光栄なことなのだよ。強国に嫁ぐということは王家の者の、姫の、務めなのだ―――』



聞いたこともない男性の声が、頭の中に急にぽっかりと浮上し、何度も木霊する。


親しげな、優しく諭すような口調。


これはもしかしてもしかすると……お父様の声?



探るように意識を集中してみても、その言葉以上のものは何も見えてこない。


ハッと我にかえれば、逞しい腕がギリギリと体を締め付けていた。



「バル、苦しいわ。お願い、離して。もう何も言わないから」


「あぁ……すまん。つい力を入れてしまった、加減が難しいな……。俺は、自分でも我儘だと分かっている。だが、どうにもこの想いだけは止められんのだ。後でいくらでも罵ってくれて構わん。だが、今は静かに、何も言わないでいてくれ」


次第に腕が緩められていき、肩が押されてバルの体が一歩離れた。


おもむろに上着の懐に差し入れた手が何かを掴み、ガサ…と音を立てる。


「――――お前に、渡したいものがある。これを……旅の、成果だ」


男らしい節の張った長い指が摘まんでいるのは、所々端が欠けてる古びた一枚の紙。


「何もかもを略奪され、目につくものはほとんど燃やされていたが、なんとかこれを見つけてきた。受け取ってくれ」


「旅の、成果――――?」


四つに折りたたまれてるそれは、てのひらよりも少し小さいくらいのもの。


「バル、教えて。それには、何が書かれてるの?」


「…うむ、もしかして、見るのが怖いか?」


「えぇ、少し。だって――――」



―――急なことなんだもの。


もし、史実が書かれたものだとしたら。


私の過去が書かれているとしたら。


嫌な部分が見え隠れする私の事実と国の現実。


向き合うには、それなりの強い心がいる。


バル、いろんな意味で貴方が戻ってくるのを待っていたわ。


話があると言われていたもの、これでもそれなりの覚悟はしていたの。


でも、これは想像以上のことで……。


貴方は今、言いたいことをすっぱり話してしまったおかげか、悔しいくらいに穏やかな顔をしてるけれど。


私の心は貴方に乱され続けてるの、分かってる?


この短かい時間の間に――――



「そんな不安そうな顔をするな。大丈夫だ、お前はきっと喜んでくれる筈だ。下の方少し焦げたところもあるが、大体綺麗なまま残っている。少し皺が入ってしまったが、許してくれ。これでも慎重に持ち帰って来たんだぞ。これは、お前のものだ」



なかなか手を出す決心がつかずにバルの顔を見つめてると、落ち着いたブラウンの瞳と差し出されてる手が早く受け取れと促してきた。


「これが。私の、もの」



祖国のカフカを訪ねて持ち帰ってきてくれたもの。


私が見て、嬉しく思えるもの。


ということは、つまり、辛いことは書かれていないわけで――――



息を飲み意を決するけれど、紙へ伸ばす手が緊張して震える。


記憶をなくして、祖国が分かったと思えば滅んでいて。


記憶ばかりか、思い出も家族も全部を失ってしまって、私にはもう何も残っていないと思っていた。


なのに―――



触れた指先に伝わってくるほんのりとしたあたたかさは、バルの心そのもののよう。


てのひらの中に収まるそれを見つめる。


小さな紙切れだけど、私の祖国にあった物。


遠い遠い祖国カフカの香りがする物。


一体何が書かれてるのか……これを開けば……。



木々を揺らす風の音も会場から漏れてくる愉しげな話し声も、周りの音すべてが遠くなって、身のうちの鼓動だけがやたらと煩く耳に届いてくる。


折りたたまれた紙を震えた指で慎重に開く。


小さな雲に隠れた月が徐々に顔を出し、紙をゆっくり照らしていった。


月明かりで徐々に浮かび上がった、そこには―――――



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