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――――バァン!!―――
「大丈夫なのかっ!!」
「ぴっっ!」
静かな中に、急に響いた大きな音と野太い声。
心臓が飛び出るくらいに跳ね上がり、声にならない息が漏れて体がびくんと飛び上がった。
脚までガクガク震え出して、さっきの出来事よりもよほど驚いたし、怖い。
白フクロウさんも同様みたいで、羽が逆立っていて、いつもよりもさらにほわほわまんまるに見える。
ガラス玉の瞳を大きく見開いて、鳴き声を上げながら忙しなく翼を動かしていた。
―――ジークったら、ノックもしないなんて―――
ドキドキする胸を押さえながら振り返ったら、そのジークが、重い鞄を抱えて、真っ直ぐに猛然と歩いてくるのが見えた。
その後ろから、あまり会いたくないお方と、見知らぬお方が、ジークとは反対に落ち着いた様子で静かに入ってくる。
見知らぬお方は、前者に比べるとかなり厳つい体つき。
ボブさんに向かって「ご苦労!」と、ビシッと背筋を伸ばして、手を頭の上にかざして挨拶してる。
会いたくないお方のほう…アリは、優雅に「失礼致します」と挨拶した後部屋の中をくるりと見廻した。
久しぶりに会うけれど、相変わらずの無表情。
床に散乱する紙を見て「うむ、これですか」と呟いて、片膝を立てて沈み込んだ。
大小様々に千切られた紙。そのうちの大きめの切れ端を、長い指先でツンツンとつつく。
そのあと、膝の上に腕を預けて思案を巡らせ始めた。
見知らぬお方も、きびきびとした動きで「失礼致します!」と、これまたビシッとした口調で挨拶をした後、アリの隣に沈み込んだ。
「アリ殿、どのような感じですか」
「あぁ……」
二人の声がどんどん小さくなっていく。
互いだけに聞こえる音量で話しているようで、口が動くのは見えるけれど、ちっとも声が届いてこない。
…私には聞かせたくないのかも。
ジークは、少し落ち着きを取り戻したようで、鞄をゴトンと置いて、窓際にいる私の傍まで静かに歩いて来た。
「平気か?歩けるか?見せてみろ」
触診を始めるジークの頬が青ざめて見える。
「大丈夫よ、何ともないわ。ジークこそ、具合が悪そうに見えるけど、大丈夫なの?」
「俺は平気だ。変な心配するな、自分のことだけ考えろ。お前は座っていた方がいい。動悸も酷いし顔色も悪い」
その原因は例の出来事ではなくて、血相変えて飛び込んで来た貴方なんだけど、というのは黙っておくことにした。
こんな、身内でもない人間の私を心底心配してくれてるんだもの。
感謝こそすれ、責めることなんてとても出来ない。
促されるままにソファに座ると、マリーヌ講師が部屋に辿り着いて「遅くなりました」と膝を折った。
息つく間もなくアリたちのところに近寄って、聞かれるまま身ぶり手振りを交えて説明を始めている。
―――誰も、私には何も聞かないのね?
あの現象はマリーヌ講師よりも、ずっと間近ではっきりと見たんだけど。
気を使ってるのかしら―――
そう考えて、直ぐ様思いなおした。
あのアリがそんな気を使う筈がない。
きっと、何も見てないと思ってるんだわ。
だから、補足することがあれば…と声をかけようと思ったけれど、あまりにも真剣な様子なので割って入ることが出来なくてやめた。
特に、見知らぬお方の眼力が凄まじくて、とても近寄りがたい。
初対面でオソロシイと感じたボブさんとは、全く比べ物にならない程の恐ろしさ。
全身から吹き出るような気配がまるで刃のようで、目が合っただけでスパッと切られてしまいそうに感じる。
あの方が警護に来てなくて良かった。
アリで良かったと、初めて思った瞬間だ。
それにしても、あの雰囲気は……。
「ね…ジーク、教えて―――あのお方は?」
「あぁ、彼か。お前は初対面だったな。ルガルド殿だ。知ってるとは思うが、この国にはバル様直属の近衛騎士団というのがある。そこで、長の任に就いておられる。ちょっと黙ってろ」
そう言って、ジークは手首に太目の指を乗せて脈を取り始めた。
男らしい眉の間に深い溝が刻まれる。
「うむ、まだ脈は早いが、まぁ良いだろう。気分は悪くないか?」
「はい」
「そうか、具合が悪くなったら、すぐに言え」
ジークはアリたちの方を振り返り見た。
成り行きを見守る視線の先には、天蓋を指差すマリーヌ講師と頷きながら真剣にやり取りをする二人。
向こうを見つめるジークから呟きが聞こえる。
「こりゃぁ、彼女も診察対象だな」
マリーヌ講師の顔は青ざめていて、憔悴してるように見える。
きっと、混乱してる頭の中を無理矢理宥めてるに違いない。
鋭い刃のような気を纏うお方。
―――騎士団長、ルガルド―――
アリより少し背が低くて、短くすっきりと整えられた黒髪。
鍛え上げられた逞しい体躯に乗せられた小さめの頭。
常に眉根を寄せた厳つい顔立ちは、話しかけただけで叱られそうな雰囲気を持っている。
そういえば。記憶の中で引っかかる。
ルガルドって、どこかで聞いたような気がする。
それに、この少し高めの声も。
確か―――――
“ルガルド”
怒りを含んだバルの声……黒づくめの服……血濡れた爪…引きずられてく男。
そう。
あの日に聞いた名前だ。
日々のことに取りまぎれ一度は薄れかけた、恐怖。
まるで、昨日起きたことのように鮮明に蘇ってくる。
鼻につく血の匂い。
歪んだ唇。
思い出したくないのに、嗅いだ匂いが、映像が、次々に浮かび上がる。
小刻みに手が震える。
額に汗が滲み出る。
呼吸が浅くなる。
徐々に、皆の声が遠くなる―――
―――怖い―――
あの事だけは、恐怖心も追い出せずに身の内に留まりつづける。
手を見やると、目に見えて指が震えているのが分かった。
ジークにバレないように、そっときつく握り締める。
心配掛けたくない……。
―――大丈夫、私は平気―――
目を閉じて深呼吸をして、心の中で何度も何度も繰り返した。
―――こんなんじゃ、いざという時皆を守れない。
前に出ていけない。もっと強くなるのよ、もっと―――
懸命に暗示をかけると、次第に落ち着きを取り戻して周りの音も戻ってきた。
マリーヌ講師の声が聞こえてくる……ゆっくりと、目を開けた。
まだ、少し怖いけれど、もう、平気だ。
握り締めてた手を見れば、血の気がなくなっていて、白を通り越して青く見えた。
「確かに貴女が書いたのですね?」
「はい。昨夜、夕食後に」
「妙な現象を起こし、消えた……ならば、使用したインク、もしくはペンが怪しいと思われます。心当たりは御座いませんか?」
ルガルドがマリーヌ講師に尋問するそばで、アリは椅子を天蓋の下に移動させていた。
「例えば、ペンを新しく購入されたとか?」
ルガルドの言葉遣いは丁寧だけれど、やっぱりどうにも怖ろしい。
青ざめながらも震えることなく対応してるマリーヌ講師を尊敬してしまう。
「わかりませんわ。いつも通りの物を使用致しましたので。インクも、ペンも―――えぇ、何も心当たりは御座いません」
「そうですか、成程―――……」
急にハッとしたように顔を上げて、ルガルドを見るマリーヌ講師。
ルガルドはそんな様子を目を逸らさずにじっと見ている。
普通に立ってるだけで威嚇出来そうな風貌。
何もかもを見通そうとする鋭い刃の瞳。
マリーヌ講師の眼鏡の奥が恐怖と焦りの色を浮かべ始める。
「ル、ルガルド様。信じて下さいませ。あのっ、私は変な術などは、決して……。それに、依頼したとかその様なことも、何もっ。私は、何も存じません」
「……落ち着いて下さい。それは我々も承知致しております」
一拍置いて、狼狽えながらも必死に無実を訴え始めるマリーヌ講師をじっと見据えながら、言葉をかけるルガルド。
心の中はどうだか見当もつかないけれど、傍目からはどう贔屓目に考えてもそう思ってなさそうに見えた。
その向こうではアリが椅子に上り、天蓋の上に残ってる紙の切れ端を回収していた。
下りることなく、暫くその場で考え込んでいる。
やがて床の紙も拾いあげながら二人の傍に戻ってきたアリは、冷淡な瞳でマリーヌ講師を見た。
「偶然とはいえ、結果的には“彼女のペットに救われた”ということです。これに何の術が施されていたのかは分かりませんが、未遂に終えることが出来ました。鳥に礼を申し上げるべきです。ルガルド殿、サナにこれを―――」
「―――承知した」
武骨ながらもしなやかな手から、剣ダコのある厳つい手に紙袋が渡る。
中身は、散らばっていた紙。
……サナって、誰かしら。
「使用されたインクとペンを回収致します。貴女自身にもよく確認して頂きます。寮は簡易警備のため侵入するのも簡単です。何者かがすり替えたのかもしれません。部屋までご案内願えますか」
「……はい。承知致しました」
ルガルドが先にドアを開け、大きな背中に向かって「ご苦労」と、ビシッと姿勢を正し頭の上に手をかざすと、すぐさま脇に避けたボブさんも直立不動の姿勢を取った。
先に出たルガルドの後を追って、マリーヌ講師が俯きがちにトボトボと出ていく。
そのしょんぼりした背中を見送った後、アリが近くに寄ってきた。
「恐らく、彼女は何も知らないでしょう。一応調べさせますが紙の切れ端からも何も出ません。あるとすれば、ただ一つ、インクです。ペンの可能性もなきにしもあらずですが……これにより、貴女様の警護を強めさせて頂きます。文句は、仰らぬように願います。ジーク殿、後でお寄り下さい」
文句を言ったとしても、貴方は聞く耳を持ってないのに。
そう思ったのを胸に閉じ込めて、むっすりとしつつ返事を返した。
「わかりました。貴方のお考え通りにして下さい」
「承知致しました」
改めてアリの容姿をじっくりと見る。
サラサラとした髪質。
涼しげな目元にすぅと通った鼻梁。
無造作に散らされた長めの前髪が、冷淡な瞳に影を落として妙に色っぽい。
それをさらりと揺らしながら優雅に退室の挨拶をする。
何も知らなければ、この方に胸がトキメクのかもしれない。
そんな風に思わせる物腰と有能さと、容姿。
侍女たちが憧れるのも分かる気がする。今さらだけれど。
そういえばリリィも言ってたっけ―――…
…―――あれは、ヘカテの夜の次の日―――
「―――でね、変な男の子に掴まりそうになったから逃げたの。みんなに挨拶せずに帰ったから、今日スゴく叱られちゃった。アレさえなければ楽しくて良かったんだけどなぁ。ね、ユリアさんはどうだったの?何もなかった?」
「私はね、室長がお休みして、代わりにアリというお方がずーっと警護についていたの。それも朝まで」
うんざりとした気持ちを込めて言った私に、予想もつかない反応が返ってきたのだ。
「えぇっ!?うそぉ!アリって。あの、バルさんの側近のアリ・スゥラルさん!?朝まで!?」
それまで、天蓋の上にいる白フクロウさんと向かい合っていたリリィの、くるんと振り返った瞳は、まんまるになってキラキラと光っていた。
「ね、それほんとなの?」
「えぇ、本当よ」
…正確には、起きたら部屋の中にいたんだけど。
リリィには、ラヴルに会ったことは言わない方がいいわよね。
ますます混乱しそうだもの。
「知らない間に寝てしまってて、朝起きたらいたの。だから、多分、彼は一晩中いたと思うわ」
「え~っ。アリさんって、みんなにスゴい人気なんだよ!一日に3度は名前聞くもん。どんなヒト?やっぱり無口でカッコイイの?」
リリィは手を胸の前で組んで、にこにこと満面の笑みを浮かべて食い入るように此方を見ている。
…これは、詳しい話を期待してるのよね?
リリィは一度会ってるはずだけれど、あの時彼は俯いてたし、暗かったし、姿を注視してたのはほんの少しだけだったから、覚えてないのも無理はないかも。
―――無口……。
そうじゃなくて、無礼なんだけども。
それを言ってはいけないわよね。
―――カッコイイ……。
これも難しいわ。
何て言ったらいいのかしら。
「ん~、そうねぇ……賢いお方だと思うわ。背が高くて、仕草も優美で、端正な顔立ちをしてる。そういうのを“カッコイイ”って言うのかしら?」
「そぉだよ。ユリアさん。そういうのがカッコイイの―――いいなぁ、私も会ってみたい」
「確か、バルが戻るまで、帰宅せずにこの城宮に留まるって聞いたわ。そのうち廊下でばったり会うかもよ?物腰が柔らかい方だからすぐに分かると思うわ」
「そぉなんだぁ……」
名前を出しただけで、リリィの顔がぱぁと明るくなって瞳がキラキラと輝いた。
噂を聞いてるだけのお方にこんな風な反応を示すなんて、想像力の逞しさに感心するとともに、若いなぁって思ってしまう。
私も、この年ごろには、こんな風に過ごしていたのかしら。
垣間見た記憶の映像から考えると、そんな自由があったとは思えないけれど。
こんな風に、友人と自由に男の方の話をして屈託なく笑いあう。
女の子には、そんな普通なことが一番幸せなのよね。
良かった、リリィにはここの生活が合ってるみたい。
そのあとも興奮気味な質問攻めにあい、ポツリポツリと言えることだけ話すと、きゃぁきゃぁと悶えながら聞いていた。
「ありがとう、ユリアさん。明日、みんなに話そうっと」
無邪気にエヘヘと笑う。
彼が灯りを点けなかったお方と同一人物だということは、黙っておこう。
夢を壊してはいけないもの。
今日のリリィは部屋に来てからずっとずっと沈みがちだったのに、一気に楽しげになった。
その落差にザキの渋い顔が思い浮かぶ。
「このことは、ザキには内緒なのよね?」と言うと「もぉユリアさんったら。今それを言わないでっ」って、ぷぅと膨れた―――……。
―――素直で、とても可愛いわ―――
あの時のことを思い出すと、自然に笑みがもれる。
「…さて。何事か思いに耽ってるようだが、そろそろいいか?――――さぁこっちを向け。主治医の俺の目は、誤魔化せんぞ―――」
「――――はい?」
咳払いのようなものが聞こえた後、たしなめるような口調でジークに話しかけられ、ハッと顔を上げる。
優しい中にも厳しさを持ったダークブラウンの瞳が「話せ」と語りかけていた。
「―――さっきは、どうしたんだ?」
その一言で、すとん…と肩の力が抜けた。
バレてないと思ったけれど、見透かされていた。
ほんと、ジークには負けてしまう。
「伊達に、毎日お前を診察してる訳じゃぁないぞ?」
「はい。ごめんなさい。…実は、ルガルドの名前を聞いて――――……」
城宮の最上階。
他の部屋の調度品に比べて、明らかに違うその豪華さ。
窓にかかるカーテンまでも違い、一目で妃候補の部屋だと分かる。
その中で、窓際に置かれたソファに向かい合って座る、医者ジークと妃候補のユリア。
ユリアが話すのを、太目の指で顎を撫でつつ聞くジーク。
頷き、時々相槌をしてるのも見てとれる。
時々俯いて、首を傾げたりしながら話すユリア。
仲のいい親子のような姿。
その二人の姿を、向かい側の碧い屋根からじっと見つめる鋭い瞳があった。
いつからそこにいるのかは不明だが、一連の出来事を見ていた様子。
茶系の美しい羽を持った体がぴくっと動いて、翼を少しだけ広げた。
部屋の窓に、白いものがふわりと舞い降りるのが見えたからだ。
遠くても分かる。
ガラス玉の瞳と間違いなく見つめ合っている。
互いに睨み合い暫く動かなかったが、その鋭い瞳に、ユリアが窓に駆け寄るのが映るとバサッと翼を広げて飛び立った。
雄々しい翼を広げ優雅に滑空する姿。
挑発するように城の上空を旋回した後、ロゥヴェルの方向、遠く彼方へと消えていった。