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会場の方では舞台からスクリーンが片付けられて、客たちが期待を込めた目で舞台の上を見つめていた。
先程の恐ろしい狼の遠吠えなど、とうに心の中から消えてしまっている。
「来てよかったわ。あんな綺麗な人間の娘だもの。きっと美味しいに違いないわ……。ねぇ、あなた?絶対に手に入れて下さいな」
レディが横に座ってる紳士の肩に手を置いて、甘えるようにねだっている。
「さっき、帰ろうとしてたのは一体何処の誰だ?」
「だって、あんなに恐ろしい獣の声ですもの。あぁもう、今思い出しても総身が震えるわ」
「確かにいい娘だな―――だが、あそこにいるあの好色そうな男、あいつが値を釣りあげたら、いくら俺でも太刀打ちできんかもしれんぞ?」
「まぁ、あんな下種な男―――あなた、絶対に勝って下さいな」
レディは、顔を紅潮させてニヤニヤ笑っている男をジロリと睨んだ。
あんな男には絶対負けたくないのだ。
レディの黒い瞳がすぅっと一瞬赤く染まった。
すると、好色そうな男の持っていたグラスがパンッと割れ、中身が全部男にかかってしまった。
「誰だ!?……まさか、こんなとこにあいつらがいるのか?」
驚きのあまり目を見開いてキョロキョロしている。周りに居た人達があわててウェイターを呼んでいた。好色そうな男の顔が恐怖に歪む。
「ふん、いい気味だわ―――」
「お前か―――?ほどほどにしろよ?」
「だってあんな男……私、嫌いだわ」
レディは扇で顔を隠し、紳士の肩に頬を埋めた。
***
カーテンから会場の様子を見ていた黒服が、近くにいた男に指示を出した。
「おい、そろそろ支度をさせろ。あまり客を待たせると不味い」
「分かりました。おい、立て!」
「―――っ!嫌!」
縛られている手をグイッと引っ張られ、ヨロヨロとしながら娘は立ち上がった。抗おうにも怖くて足が震えてしまい、力がまるで入らず、男に無理矢理引き摺られる様にして歩かされた。
―――さっきからずっと見てたあの青いカーテンの向こう側。会場には、一体どんな人たちがいるの?
こんな得体の知れないところ。ここは私の知る世界なの?
それとも、全く知らない世界に迷い込んだの?
狼男のいる世界。怖い……この人たちも、あの人たちも人間なのか分からない……私は、どうしたらいいの―――
「宛てもなく、ふらふらと彷徨っていた人間のお前を連れて来たのは、この俺たちだ。感謝するんだな。あのままの状態だったら、お前、今頃命は無いぜ?ここに来ている連中は身分の良い奴らばかりだ。どんなところに行くにせよ、今よりはましな暮らしが出来るぜ」
男が耳元で囁くように語りかけてくる。首のベルトと鎖をつけなおされて、係りの男に鎖の先端が渡されたあと、手の拘束が解かれた。
そこは舞台のそでで、垂れ下がった布の間から会場の中が少しだけ見えた。
テーブルと椅子が並べられているようで、身なりの良い男女が座っているように見える。客は皆仮面をつけていて同じ様な格好をしてるため、どんな人達がいるのか全く分からない。
舞台の上では先に出ていた絵画の値がつけ終わり、舞台の向こうに消えていくところだった。
―――ここより、ましな生活……。
娘はぼんやりとした記憶を辿った。
会場に来るまでに居たあの場所。鎖に繋がれて窓もなくて空も見えない、息の詰まりそうな監禁生活。
怖いけれど、確かにあの生活よりはましになるかもしれない。
けど、こんな風に売られるんだもの、自由に過ごさせてもらえるなんて、そんなことはとても思えない。
きっと、奴隷のような扱いを受けるんだ……。
「皆さん!お待たせいたしました。今宵の目玉商品、この後いよいよ登場で御座います!!」
司会が手を上にあげて高らかに言い終わると、会場の空気が一変し、客たちがざわざわとし始めた。
皆この時を待っていたようで、腕まくりをして座り直す紳士や、鞄の中を開いて手帳のようなものを見て相談し合うカップル、腕を組んで舞台のそでを凝視する紳士、それぞれが娘の登場に期待を膨らませているようだった。
そんな客たちの雰囲気が伝わってきて、立ちすくんだまま動けないでいると「ほら、行け!」の言葉とともに、背中をドンッと押された。
その拍子によろけるように舞台の上に出ると、途端に客席から感嘆混じりのどよめきが起こった。
「まぁ、何て美しい……」
「ほぅ……これは―――」
皆娘の美しい容姿に心を奪われているようだった。
娘が会場の中を見渡すと、オレンジ色の薄暗い灯りの元に丸いテーブルが数十個置かれ、一つのテーブルに一人から三人の男女が品よく座っていた。
皆こっちに注目している。
鎖を持った係りの男に腕を引っ張られて舞台の中央に連れていかれ、正面を向かされた。
「さぁ、皆さん!今宵の目玉商品、人間の娘で御座います!どうでしょう!?皆さん、この美しい肌―――」
「100!」「300!!」「350!」
司会の言葉が言い終わらないうちに、合図の金槌の音が鳴り響く前に、待ちきれなくなった客の声が上がり始める。
「お待ち下さい!皆さんまだ始まっておりません!―――只今、350です。ここから始めます!」
慌てた司会が合図をすると、金槌の音が会場に響き渡った。
「600!!」
例の好色そうな男が手を上げて早速叫び、太った丸い顔を自慢げに揺らして周りのテーブルを眺めた。
その値段に周りの客達がどよめき、手を上げようとしていた幾つかのテーブルの人たちが諦めたように項垂れた。
司会の男が俯きがちな娘の顎に手を当てて無理矢理正面を向かせている。
蒼白な頬に男の長い指が食い込んでいた。
「650!」
そう叫んだのは、グラスを割ったレディのテーブル。レディが扇の隙間から例の男を見てみると、苦虫をかみつぶしたように口を歪ませこっちを見ていた。悔しげにふるふると口髭を震わせ、再び手を上げる。
「680!!」
「只今680です。どうですか?他に御座いませんか?このような娘は滅多に出ません。おまけに生娘で御座います」
「700!!」
別のテーブルから手を上げるだけでなく、立ち上がってまで声が上げられた。緊張しているのか、その声が裏返っている。
「おいおい……一体何処まで値が上がるんだ?」
手があげられ、金額が叫ばれるたびに客たちからどよめきが起こる。どんどん吊り上っていく値段に参戦できない客たちは、最終的な価格はいくらになるのだろうかと、そちらに興味が移り、最早観客になって成り行きを見ていた。
「700!700が出ました他は御座いませんか?」
「800!!」
ガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がって、好色男が叫んだ。汗をかき、仮面越しに見える瞳は血走っている。もうこれ以上は出せない金額を捻りだしていた。
ここまできたら、なんとしても娘を落札しないと気が済まないのだった。
そのおかげか、会場中が静まり返り、もうこれで決まりだろうと誰もがそう思い、司会の男に注目していた。
司会の男が嬉々として叫んだ。
「800!!800が出ました!もう他に御座いませんか―――!?」
舞台の上から会場の中を見渡す司会の目が輝いた。
どのテーブルの者も、肩をすくめて首を横に振っている。
「では――」
司会の声が終了の言葉を言おうとしたその時、静かな、それでいてはっきりと響く声が、会場の隅から聞こえてきた。
「1000」
今まで、一声も発しなかった隅の方から声が聞こえ、客たちが全員そちらに注目した。
「1000だって?今1000って言ったか?」
「うそだろう―――」
「まさか、そんなに?」
口々に言いながら、悠然と座っている男の方を見ていた。
「1000だ!」
一歩遅れて従者のような男が立ちあがり、大きな声で叫んでいた。従者は、本当なら自分が先に言うはずだったのに、すっかりタイミングを逃してしまっていた。主人が言った後でも、自分の役目を果たそうと、会場中に知らしめる様に大きな声を出していた。
その脇で主人は腕を組んで静かに舞台を見つめている。
「1000!1000で御座います!他にはもう御座いませんね――――45番の方に落札されました!」
司会の男の終了の声とともに、金槌の音が大きく響き渡り、一歩遅れて大きな拍手が沸き起こった。
鳴り響いた音と同時に、娘の首に繋がれていた鎖がグイッと引っ張られた。
突然引っ張られたものだから、よろけて膝を着いて倒れてしまう。それを立たせようとしているのか、鎖がますます引っ張られる。
ベルトが食い込んでしまって息が苦しい。
「おい!丁重に扱え、こいつは1000だぞ。傷をつけてキャンセルされたらどうするんだ!」
司会の男が窘めると、鎖が緩まり喉がすぅっと軽くなり、新鮮な空気が一気に通り、堪らずに咳き込んでしまった。
「コホッ……コホッケホ―――」
会場では先程出た価格の大きさに、客たちがまだ騒然としていた。
落札したテーブルの方を見て、主人と従者を興味深げに見つめ、落札を逃した好色男が悔しげに睨んでいた。
当の落札した主人は落ち着いた雰囲気で静かに座っている。従者の方は、少し所在なさげにキョロキョロとしていた。
その傍に黒服の男が近づき、丁寧に挨拶をした後、2人を会場の外に連れ出していた。
舞台の上では司会の男が娘を助け起こし、手首に『45番』と書かれた札を嵌めた。
「よし、お前はこっちに来い」
鎖をやんわりと引っ張られ、長い廊下を進み男の後についていくと、小さな部屋に入れられた。
鎖を部屋の隅の棒に繋がれ「ここで待っていろ」そう言い残されドアを閉められた後、カチャリと鍵をかける音がした。娘は部屋の中にあった小さなひじ掛け椅子に座った。
さっき起こったことが夢の中の出来事のように感じられる。
“1000”
会場が静まり返り、誰もが息を飲んで司会の人を見ている中、発せられたあの声。一度目に発せられた声と、2度目に発せられた声は全く違っていた。
きっと2度目の声が、あの立ち上がっていた人の声なんだわ・・・。
その方を見たら、そこだけ他のテーブルとは空気が違って見えた。
椅子に座っていたあの方の、落ち着きがあるような、威厳があるような不思議な空気――――
周りの方たちの浮ついた雰囲気とは全く違っていて、とても目立っていた。
あの方は何者なのかしら。黒服たちはざわめいていたけど、1000って一体どれだけ高額なの?
『どうぞ、此方で御座います。もうあの者は貴方様のもので御座います。ご自由にお連れ下さい』
鍵を開ける音が小さく響いた後ドアが開かれ、背の高い男の人と娘より少し高いくらいの男の人が入ってきた。
二人とも、まだ仮面と口髭をつけたままでいる。
「ツバキ、彼女の鎖を」
「承知いたしました。ちょっと、ごめんよ――――」
ツバキという男が首に手を伸ばしてきた。
「嫌……何をするの……」
仮面の中の顔が見えなくて、何を考えてるのか様子が分からなくてとても怖い。堪らずに椅子から立ち上がってツバキから遠ざかった。
動くたびに繋がれた鎖がジャラジャラと音を立てる。
「そんなに恐がらなくてもいいだろう?その首のベルトと鎖を取るんだよ」
そう言いながら近づいてくるツバキに、頭では分かっていても体が勝手に動いて逃げてしまう。
とうとう壁際に追い詰められてしまい、首をすくめて俯いていると首に巻かれていたベルトがそっと外された。
「俺、ツバキって言うんだ。此方は、俺のご主人様でラヴル様だ。お前の名前は?」
「ぁ……私の名前は…あの―――」
――私の名前……忘れてしまった大事な私の名前。
ぃっっ―――!
「うぅっ」
何かを思い出そうとすると、途端に頭痛に襲われてしまう。痛みに耐えかねて、呻き声を出しながら額を抑えて崩れるように蹲った。
「どうした?具合でも悪いのか?」
ツバキが心配げな声を出して顔を覗き込んでいる。
「ツバキ、私に任せろ」
ラヴルは娘の前に跪き、小さな顎に手をかけて上を向かせた。ラヴルの瞳がすぅと赤く染まり、娘の黒い瞳を捕えると、瞼がゆっくりと閉じられた。
やがて寝息が聞こえはじめる。
ぐったりとした体をラヴルは腕の中にしっかりと収め、頬にかかった髪をそっと避けた。
「ツバキ、挨拶は屋敷に連れ帰ってからにしよう。彼女は疲れているようだ。早くここから出るぞ」
「ご主人様、そんなことは私が致します」
娘を抱きかかえたラヴルを見て、ツバキは慌てて腕を差し出した。
「いい。私が連れていく」
出口に向かい歩きながらラヴルは、軽いな、と呟いた。