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魔王に甘いくちづけを  作者: 涼川 凛
記憶の扉
69/118

2

ラッツィオの男女に一夜の夢をもたらしたヘカテの月。


光が山の間から輝きを放ち始める頃になると、月にあった女神の姿も消え去り、ふんだんに降り注がれていた魔力も徐々に薄らぎ始める。


一夜明け、濃密な時を過ごした者たちは、眠い目を擦りつつベッドから体を起こした。


空気の中に溶け込んだ力の影響を受けつつ、各々が自分の相手と熱い口づけを交わし、また会うことを約束して名残惜しげに別れる。


朝日が当たり始めた道に、身支度を整えに家路を急ぐ姿がちらほら見える。


警備に巡回していた衛兵たちも、ヤレヤレとばかりに肩の力を抜き、剣を翳して班長が出す交代の声を聞く。


ヘカテの翌日に見られる、いつもの朝の光景だ。




この、数時間後。


空に日が高く上り、皆が生き生きと働いて心地いい汗を拭う頃、ユリアは未だ天蓋の中で毛布に埋もれていた。


日が動き、カーテンの隙間から漏れた光が天蓋の中まで射し込んで、ユリアの白い頬に当たる。



「…ん……まぶし…ぃ…」


小さな呟きと共に、長い睫毛がふるふると揺れる。



この明るい感じは、もう朝なの…。


そういえば、いつもの元気な声が聞こえないけど、今何時なのかしら。


リリィが来る前に目が覚めるなんて、私、今日はとても早起きだわ……。



眩しさから逃れようと、いつもより気だるい体をもぞもぞと動かす。


何故か、ギシギシと節が痛んで、おまけに脚腰がだるい。


動かし難い体をなんとか捩ってベッドから起き上がろうとすると、ふと色気を含んだ漆黒の瞳が思い浮かんだ。


『…ユリア…』


――――そういえば。私、昨夜はラヴルと―――


抱き寄せる力強い腕。


肌を這う長い指……何度も名を呼ぶ唇。


切なげな漆黒の瞳……。



いつも、悔しいくらいに余裕たっぷりなのに、あんなに切羽詰まった顔は初めて見た。


ぼんやりとした寝起きの頭が目覚めるにつれ、めくるめく出来事が嫌でも再生される。


体の芯がきゅんと痺れてドキドキして、顔に熱が集中していく。


起こしかけた体をもう一度毛布の中にもぐりこませる。


とても起きることなんて出来ない。



―――刻み込む―――


確かに忘れられない。あの荒々しくも優しい指。


体中に口づけを受けて、幾度も夢の世界に導かれた。



うー…、と言葉にならない声を出して頬を覆い隠す。


今、リリィに来られてしまったら、真っ赤な顔を見られて“どうしたの?体調が悪いの?”なんて、心配されて、いろいろ追及されてしまう。


そうしたら、何て答えればいいのか分からない。


「でも。待って?」


ハタと気付く。


興奮のあまり忘れていたけれど、私、いつの間にここに帰って来たのかしら。


あのお屋敷で朝を迎えるものと思っていたのに……。


まさか、ラヴルがこの部屋に戻してくれるなんて。


よく思い返せば、“貴女は誰のモノだ、言え”とか“私から離れられると思うな”とか、抱かれてる間中ずっと囁かれていた気がする。


はっきりと思い出せないけれど、他にもいろいろ言われたような……。


だから、目覚めたらルミナの屋敷、ということはおぼろげにも覚悟していた。


なのに―――


今のこの状況が信じられなくて、昨夜のことはやっぱり夢ではないかと思ってしまう。


女神ヘカテが見せた、甘く淫らな――――



ふと、思いついて、手の甲を見てみた。


そこには、思った通り、あの時強く口づけられた痕跡がくっきりと残っている。


その花弁のような痕をじっと見つめる。


これは、やっぱり現実に起きたことだと語りかけてくるけれど、なんだかもやもやとした感じが拭えない。


他にも痕跡はないかと思案を巡らせる。


もしかして夢に浮かされて、自分でつけたのかもしれない、などと変な想像までしてしまったのだ。


何しろ、昨日自分の身に起きたことすべてがおかしくて、現実味が感じられないのだ。



そういえば。確か、小島で過ごした翌朝はシーツが巻かれていただけだった。


今回もそうならば、ラヴルと一夜を過ごした決定的な証拠となる。


でも。もしそんな恰好だったら大変。


リリィが来る前に、早く服を着ておかないと。



こくりと息を飲んで、そぉっと毛布を捲って自らの体を見ると、深緑の布が目に入った。


「…ちゃんと、ドレスを着てるじゃない」


ふ…と力が抜けるのと一緒に、また複雑な気持ちになる。


――夢だったのか、現実なのか―――



「全く貴女様は。やっと目覚められたと思えば。先程から何を百面相しているのですか」


「え?」


時が、一瞬止まった。この、声は…。


「―――貴方、まだいたの?」


毛布をしっかりと手繰り寄せて深く埋まる。


シーツ姿じゃなくて良かった…、なんて、今はそんな場合じゃないわ。


いるのならもっと早く声を掛けてくれればいいのに。


ほんとに、ほんとに、この方は。


「ずっと、見ていたの?」


湧きあがる羞恥心を隠して睨み上げれば、冷淡な瞳が見下ろしてくる。


昨日のような存在感は薄まっていて、今の今まで全く気付かなかった。


というか、全ての出来事が夢でなければ、この方はマリーヌ講師に倒されてたはず。


もう大丈夫なのかしら。見た目は、何ともなさそうだけど。



「……見てる分には大変面白かったのですが。いい加減起きて下さい。仕事が進みません」


今、何時だとお思いですか。


と、“面白い”と言ったわりには、ため息交じりの呆れたような口調。


私の質問は華麗に無視して、自分の言いたいことだけを言う。


綺麗な人形のように、表情はずっと変わらないけど、瞳はぎらりとひかり、体から出てる不機嫌な気が、ズズズ…と不気味に漂ってくる。


そんなに怒るのなら、起こせばよかったのに。



「…向こうを向いてて。見られていたら、起きられないわ」


むっすりしながらも体を動かすと、脚の付け根がギシギシと悲鳴を上げた。


これも痕跡の一つで、昨夜のことは紛れもない現実なのだ、とはっきり主張してきた。


感傷に浸る間もなくアリが急かしてくる。


「本来ならば既に講義の時間。貴女様は早くするべきです。先ずは、ジーク殿がお待ちです」


アリはそう言って踵を返し、スタスタとドアまで行って「ジーク殿、どうぞ」と言っている。



「…昨日のままのドレスだけど、しょうがないわよね…」


と。体を起こしたついでにじっくり見れば、胸元のデザインが少し違っているものだった。


肩にあるはずの、白フクロウさんの爪痕もなければ血が滲んだ痕もない。


ということは、これは新しいドレスであって……。


誰がこれを用意して、誰が着せてくれたの?


ラヴルが?……まさか――――



眠る私の体をチマチマと動かして、着せる姿を想像してみる。


……あり得ない。


そんな性格ではないもの。


脱がすのは、とても得意だけれど…と、自分で考えてまた顔が熱くなってしまった。


苦笑して、慌てて手をパタパタさせて頬に風を送って冷やす。


こんなところジークには見せたくない。


でも、そうしたら誰がしてくれたのかと、疑問に思っていると「おはようございます」と、野太い声が入口から聞こえてきた。


何だかとても久し振りな気がして、ホッとして嬉しくなる。


ジークのことは、すっかり安心できる存在になっていた。



「アリ殿、警護大変ご苦労様でした。何事も御座いませんでしたか」


「―――えぇ、何も」


「それは良かった。ところで、あれは?」


「あぁ、アレですか。“彼女のペット”らしいです。特に悪さは致しません。気になさらぬよう」


「はぁ…そう、ですか。ペット。……いつの間に」



二人が交わす会話を聞いて、ぴたと動きを止める。


―――えっ、ペット??って、何?



パタン、とドアのしまる音を聞いて、アリが外に出たことを知ってホッと息をつく。


ほんとに、全く、何を考えてるのか分からないお方だった。


もう、会うこともないわよね。


ゆっくりベッドから降りて、ドレスのしわを伸ばして調えてソファへと移動すると、白フクロウか、と呟いたジークの視線は天蓋の上に向かって固定されていた。


見上げると、例のごとくまるく埋まって、ゆらゆら揺れながら眠っている姿が映る。



ペットって、この子のこと?


昨日、アリは、あれだけ“正体不明”だの“警戒心を持て”だの言ってたのに。


どうして考えが変わったのか、ほんとに訳が分からない。


でも、こうしてるとやっぱり可愛い。


昨日むくむくずんずん大きくなったのが、嘘のように思える。


そういえば、この子がラヴルのところに連れてってくれたんだっけ。


偶然でも何でもいいわ。ラヴルに会えたんだもの、この子に感謝しなくちゃ。



いろんなことを不思議に思いつつも、まぁいいか、と深く考えるのをやめた。


昨日は、到底理解できないようなおかしなことばかり起きすぎた。


これ以上考え続けても、分からないことだもの、仕方がない。



多くの謎が頭の中で渦巻くのを隅に追いやりつつソファに座って前を見れば、ジークが「ウーン…」と唸りながら、こくりこくりと舟を漕ぐ様子を、まだ見ていた。


「―――まぁ…バル様は、お前がいいなら、と許可するだろうな。アリ殿が言う通り、悪さをするような邪気は感じられんしな」


そう言ってくるんと振り返ったジークの肌が、普段よりも艶々しているように見える。


――やっぱり、昨夜は――――



幸せそうに笑う優しいフレアさんの顔が目に浮かぶ。


愛する方と離れてるのは、寂しくて辛いもの。


昨日だけと言わずに、もっと森に行けばいいんだわ。



「ジーク、昨日フレアさんのところに行ったのでしょう?」


「あぁ、行ったぞ。リリィには力強い友人が。お前にはアリ殿がついていたからな。森に、行かせて貰った」


ジークは穏やかににこにこと笑い、ゴトンと、足元に鞄を置いて早速診察が始まった。


いつも通り、視診から触診まで。


その、触診をしてるジークの様子が途中からおかしくなった。


眉がぴくぴくと動いて、何故だかどんどん険しい表情を作っていく。


「アリ殿からも聞いたが。昨日は、本当に、何もなかったんだよな?」


そう訊ねてきたいつもの野太い声が、低くなってるように思える。


「え…?」


心臓がトクンと脈打つ。


心当たりなら、アレコレ沢山ありすぎる。


懸命に平静を装うけれど、心の中の動揺が声に出てしまった。


「な…何も、ありませんでしたけど…」


「本当に、そうか?疲れがみえるぞ。……まさかとは思うが。お前、アリ殿に――――!?」


「え!?」


まさか。アイツ、何てことを!


そう吐き捨てるように言ったジークの雰囲気が、みるみる変わっていく。


「よもやアイツが!バル様の信頼を裏切るとは!!」


野太い声が部屋の中に響いて、窓ガラスがびりびりと揺れた。


その迫力の凄まじさに、体がカチンと固まる。


「ぴっ―――」バサバサ…バササ…


眠ってた白フクロウさんも起きてしまって、翼を広げてしきりに動かしてる。


ガラス玉の目をくりくりと回してぴぃぴぃ鳴き声を上げている様は、すごく驚いてるよう。



ジークの穏やかだった瞳は今や怒りに燃えていて、握り拳を作った腕はプルプルと震え始めていた。


体中から気のようなものが出て、ゆらゆらと立ち昇ってるのが分かってとても怖い。


「ぁ…あの、ジーク?」


何とか落ち着いて貰わないと、とんでもないことが起こりそうな予感がする。


「待って、違うわ、違うの。アリとは、そんなことしてないわ」


固まる舌をなんとか動かして、懸命に否定しながらも慌てて手を覆い隠したけど、もう遅く。


ジークの燃える瞳は既に目ざとくそれを捉えていた。


「じゃぁ、コレは何だ!?」


大きな手が手首を掴んで、太めの指が手の甲の花弁をビシッと指す。


「ココだけじゃないぞ。耳の下も、うなじにも。ついでに言えば、胸元にもあった!」


怒るジークの喉から、ぐるるるぅ…と唸る音が聞こえてくる。


まさに、狼のよう。


こんな滅多に見られない様子なんだから、放っておけば勢い余って変身するかも、なんて淡い期待がちらっと浮かぶけれど、握られた手首は痛いし怖いしで、震えながらも考えを纏める努力をする。



それにしても、そんなにいろんな所に沢山ついてるなんて思わなかった。


確かに、いろんな場所に口づけを受けていたけれど。


何て話したらいのか…ジークは、記憶をなくしてることだけは知ってるけれど、ラヴルのことは知らないはずだし。



冷や汗が出てきてごくりと息を飲む。


誤解は解かないといけないけれど、一息に説明するのは難しい。


それに、連れ去られながらもいつの間にかここに戻ってきてたなんて、そんな大謎、到底説明できない。


「あの…えーっと、その、マリーヌ講師が…その」


しどろもどろになってると、ジークは「マリーヌ講師?何言ってんだ」と呟いて、がばっと立ち上がった。


前を見据える表情は、あの日小島の湯殿で見た、どぼどぼと湯を出すあの彫刻に似てる。


オソロシイ顔。


「ジーク?お願いだから、ちゃんと聞いて」


「あぁ悪かった!俺としたことが女のお前に聞くとは。そんなこと、言えるはずもない!アイツに直接聞くっ。お前は、そのまま待ってろ!」


そう言って脱兎のごとく部屋を縦断し、ジークの手で開けられたドアが派手な音を立てて壁にぶつかり、止める間もなく、猛然と廊下に飛び出していった。


ダダダダダ、と重い足音が廊下に響いている。


その様子を、ボブさんが呆然と見送って首を傾げ、開かれたままのドアをゆっくりと閉めた。



―――行ってしまったわ……どうか、喧嘩になりませんように――――


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