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“セラヴィ様、此方に。ほら、お早く―――”
森の中にある小さな草原。
危のうございます!と、制する侍女の声を無視し突然前方に走っていったかと思えば、細く美しい指が自らの足元を指しながら、手招きをしていた。
“何がある”
“セラヴィ様?ほら。ご覧ください、この小さき者。何て可愛いのでしょう”
眩しいほどの光が降り注ぐ中、それに負けないほどの輝くような笑顔がこぼれる。
“ふむ、貴女はこれを可愛いと思うのか”
“えぇ、この柔らかな毛並み。赤い瞳に長い耳。小さなしっぽ。何もかもが愛らしいですわ。セラヴィ様は、そうは思われないのですか?”
少し膨れた表情。
上目遣いに見上げられれば、理性など一息に飛んでいく。
側近と侍女たちを一睨みで遠ざけ、華奢な体を引き寄せた。
私は、そんな者よりも、数段可愛らしい者を知っている。
耳元で囁けば、小さな頬が赤く染まった。
―――可愛らしいのは、貴女だ――――
「――――ふむ…失敗、したか……」
伏せられていた瞳がゆっくりと上を向いて、睫毛の間から漆黒の瞳が現れる。
僅かに開いた薄い唇からは重低音の呟きが漏れ、深紅の革が張られたひじ掛けに預けられた腕が、吐かれた溜め息と一緒にピクと動いた。
程よく筋肉のついた均整のとれた腕。
その先にある手の甲は頬をしっかりと支え、長い脚は無造作にも美しく組まれていた。
男ながらも見目麗しい、孤高の王セラヴィ。
美丈夫なその姿は、何処をどう見ても崩壊の進む体にはとても見えない。
一言、命の捧げを要求すれば、年若いレディ達から直ぐ様名乗りがある。
彼女たちは口を揃えて言う。
『セラヴィ様のお役にたてるならば、本望です』 と。
抱いたあとには瞳を潤ませ、なんとも美しく微笑む。
『どうぞ、貴方様のお力に』 と。
「だが、あんなことは本来ではないのだ!」
イライラと唇を噛み自らの手をチラッと見やれば、小刻みに震える指先が映る。
段々と、血も間に合わなくなってきた。
先日の国作りでかなりの体力を奪われ、部屋から出ることが苦しくなった。
頭の中にあの時分身が抱いた、森の中の可憐な姿が浮上する。
艶々と光る美しく長い黒髪。
白く滑らかな肌。
意志の強そうな力を湛えた黒い瞳。
クリスティナに酷似したあの容姿は、確実にそうであると考えられる。
ただ一つの懸念は、身に纏う雰囲気が違うということだけだ。
だが、それでも良い。
早くこの腕の中に入れ、この手で慈しみたい。
この身の内から溢れ出る愛情を、華奢な体にたっぷりと注ぎたい。
だが、運命というものは呪わしいものだ。
世界を作る魔王でさえも、操れぬとは。
もどかしさと嫉妬で、身の内が焦げるように熱い。
私が、このような状態に陥るとは―――……。
目の前の空間を見据える瞳には、燃えるような熱と冷酷な光が同席する。
高い志と生を諦めない強い心。
愛する者を次々に失い何もかもを自棄し、一度は諦めた生。
どうせ崩壊するから、すぐに譲位するから、と、半ばおざなりにしていた政治。
そんな私を奮い立たせ、諦めないことを思い出させてくれたのは、彼女の存在だ。
彼女が、失っていた希望を蘇らせてくれた。
最早、この体が欲しいと願うのは彼女自身。
クリスティナでなくとも良いのだ。
何者であったとしても、欲するのはただ一人“彼女”だ。
――――カタン……
小さな衝突音を立てて、部屋の隅に跪いた体がスーと現れた。
「……セラヴィ様、申し訳ありません」
頬にはいく筋もの長い傷を負い、額には流れた血が拭かれることもなくそのままに乾いていた。
顔だけは、満身創痍だ。
努力の結果の印象付け、か。
「ケルヴェス。その怪我は何だ。貴様ならばすぐに治せるだろう」
憮然とした声を出すと、垂れていた頭を更に下げ、背中と頭しか見えなくなる。
「余りにも不甲斐なく。自らへの、戒めでございます」
ふん、と鼻を鳴らしてケルヴェスを見据える。
「私には、とてもそうは思えんが。まぁ良いだろう――――で、どうなった?」
最後の言葉には、冷気を乗せる。
部屋の温度が一気に下がる。
その気になれば辺りを凍てつかせることも出来る、それ。
ケルヴェスの体が小刻みに揺れ始めた。
恐怖か、それとも、寒さか。もしくは両方か。
いずれにしても、畏怖を与えていることは事実。
ケルヴェスは頭を上げることもせず、目を合わせようとしない。
「一旦は、ラヴル様の元へ行かれました。が、今現在は城に戻られております」
―――ふむ、やはりそうしたか。
狼の王子が帰城し再び庇護すれば、私とて簡単には手が出せないと見たのだろう。
しかし、それはラヴルとて同じことだ。
一度は奪還したというのに。
クククと、喉の奥に笑いがこみ上げる。
―――全く、実に愉快だ―――
足元に跪くケルヴェスの前に屈みこみ、垂れる頭をぐいっと上げ、掌で一撫でする。
見るも無残だった傷口が一瞬で塞ぎ、血の跡も消えた。
「ケルヴェス。貴様に、今一度チャンスを与えよう――――」




