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「―――以上です。説明、お分かりになりましたか」
「えぇ、分かります」
課題の紙に答えをどんどん書き入れていく。
悔しいけれど、要点をついた説明は分かりやすくて、すいすいと頭に入ってきた。
もしかしたらマリーヌ講師よりも良い先生なのかもしれない。
などと考えてしまうのを、ふるふると頭を振って追い出す。
―――騙されてはダメよ。
この方は酷い性格なのだから。
立派なお方とは言えないのだから―――
“とても優秀なお方なんですぅ。みんなの憧れなんですよぉ”
侍女のお喋りが頭の中で何度も再生される。
――優秀――
この部分だけは認める。
だけど、女性の扱いが酷いところだけはどうにも許せない。
「ありがとうございました」
むっすりしながらも見上げてお礼を言うと、ばっちりと合った目が一瞬見開いた。
言葉に詰まったようで、瞳が少しだけ揺れている。
「っ……いえ、お役に立てて光栄です」
すぐに落ち着きを取り戻し、すぅ、と頭を下げる無表情に戻ったその瞳を見ながら、こんなに冷静なのにたまには動揺することもあるのね、とぼんやりと思う。
課題に視線を向けて、やり残した部分に答えを書き込む。
わからない部分を終えたのを確認したアリは、役目は終わったとばかりにサッと離れた。
壁際の定位置に戻って静かに佇んでいる。
けど、じーっと見つめる視線を感じて、あまりの存在感の強さに辟易する。
どうにも気になって集中出来ない。
男性が部屋の中にいる。
それだけで何とも居た堪れない気持になるのに、しかも、相手はあんなことをされた人。
ホントは追い出したいけれど、そうもいかなくて、ジリジリとする。
どうにかして、落ち着かない気分を変えようと思って窓の外の白フクロウの姿を探した。
けど、定位置と化していた桟の出っ張りに姿がない。
席を立って窓際に寄って、キョロキョロと瞳を動かして辺りを探すも、白い姿はどこにも見えない。
「飽きて、帰ったのかしら」
朝からずっとそこにいた姿がないと、寂しいと感じる。
…残念だけど、いつまでもここに居る訳ないわよね。
窓を開けて、外の風を部屋の中に入れた。
爽やかな風が頬をくすぐって、とても気持がいい。
いつ以来かしら、外の空気に触れるのは。
夕暮れが近づく。
少しずつ薄らいでいく薄青色の空に、うっすらと月が浮かんでるのが見える。
―――やっぱり、今夜はまんまる、なのよね?
テラスに出ようと、一歩踏み出した脚が、宙に浮いたままになった。
「―――え?」
予想外のことに驚いて混乱してしまう。
どういうこと―――?
体も、動かない。
一瞬の出来事で声も出ない。
気付けばお腹の辺りに太い腕が絡みついていて、グイッと部屋の中に引き戻されていた。
そのままどんどん窓が遠くなっていく。
部屋の真ん中辺りに来た時に、すとん、と足が床についた。
離して貰えるだろうと思った途端に、何故か、もう一本の腕も前に廻ってきた。
太い腕が頬と顎のあたりを掠める。
大きな体に、後ろからすっぽりと抱きすくめられたような格好になっていた。
どんどん力が入っていって締められていくのが分かる。
昼間の出来事が思い出されて、嫌悪感が湧きあがってきた。
あの時は小瓶を取るためだった。
でも、今は―――?
何が何だか分からない。
どうしてアリに抱き締められているの?
もしかして、これは、満月のせい?
でも、月はまだ薄く見えるだけだから、そんなに強い影響を受けないはずで。
それに、侍女の話を信用すれば、この方は冷静な方であって、どんな女性にも靡かない方で。
ヘカテの夜でも動じないって。
だから王子様は護衛に選ばれたのですねって、言ってたのに――――
小瓶は、アリのポケットの中。
とても取り返せる状態ではない。
信じられない事態にパニックに陥りながらも、なんとか声を出す。
正気に戻って欲しいと、願いながら。
「な…な、何をするの?この腕を離しなさい」
すると、頭の上から呟くような声が降ってきた。
「離しません…駄目です。窓を開けるだけなら良いですが。外は、許可できません」
頭の上が妙に熱く感じる。
明らかに、昼間と雰囲気が違っていた。
頭の上でため息が吐かれてる。
おまけに、舌打ちまで聞こえてきた。
―――重ね重ね失礼な方。
舌打ちしたいのは、こちらの方なのに―――
「決して外には出ないわ。だから、離して」
「……申し訳ありません」
長い沈黙の後、謝罪の言葉と一緒に締められていた腕が緩まっていく。
隙をついてぱっと体を離して、出来るだけアリから離れた。
まだ胸がドキドキしている。
振り返ってみると、アリは両腕を広げた状態のまま固まっていた。
でも、相変わらず表情は変わってなくて、何を考えているのか分からない。
「小瓶を、返して」
「……大丈夫です。今後一切、二度と、貴女様に触れません」
そう言うと、足早に定位置に戻って、腕を組んだ姿勢で壁にもたれた。
瞳がしっかりと閉じられる。
どうしても小瓶を返さないつもりらしい。
二人きりでいるのが怖い。
かといって、男の方をもう一人入れるわけにもいかない。
却って危険な気がする。
侍女を呼ぶのもいいけれど、二人がかりでかかっても、アリの力に敵うはずがない。
室長がここにいたらよかったのに。
どうして午後から休暇を取ったのかしら。
今日という日がこんなに怖くて大変だなんて。
悶々と考え込んでいると、テラスの方から羽音が聞こえてきた。
振り返ると、小さな柵の上から白いものがふわりと飛び立つのが見えた。
窓を閉めようと、慌てて駆け寄ってももう既に遅く。
「あ、入っちゃダメ」
「ぴぃっ」
白フクロウが、難なく部屋に入り込んで来た。
―――チッ―――
急に、目の前が暗くなった。
突然現れた何かに視界を塞がれていて、前が全く見えない。
これは―――?
「油断しました。そのまま動かず後ろに。いいですね―――」
壁のようだと感じたそれは、盛大な舌打ちと共にやって来たアリの広い背中。
例のごとく足音もしないまま。
しかも、何もなかった空間に突然ぱっと現れるなんて、まったく理解が出来ない。
「貴方、今、走ってきたの?」
「―――それについては秘密事項ですので、お教えできません」
バサバサという羽音だけが耳に届いてくる。
抜けた白い羽が一枚だけ、ひらひらと舞ってるのが隙間から見えた。
白フクロウさんは時々鳴き声を上げてる。
部屋の中を飛び回ってるみたい。
とまる場所を、さがしてるのかしら。
目の前にいる体は微動だにしないけど、庇うように廻された腕だけが、たまにピクンと動く。
―――今、どうなってるの?
アリの様子、上向きの頭がすーと左右に移動している。
どうも天井近くを飛び回っているよう。
部屋の中は狭いもの、このままだとどこかにぶつかってしまうわ。
「あの白フクロウさんは、危険じゃないと思うわ。だから……」
「退けと言うのですか。貴女様には警戒心というものがないのですか。確かに、あの鳥からは邪気は感じませんが」
―――警戒心―――
広い背中をじろっと睨みつける。
この方は、さっき自分がしたことをもう忘れてしまったのかしら。
「それでしたら、貴方に対してたっぷりと持っていますから、心配しないで下さい」
「それは、大変結構なことです。そのままお忘れなきようお願い致します」
――そうよ、絶対に忘れないわ。
今だって。
急にこの体が振り返って、いつ、腕が伸びてくるか分からないんだから。
これでも、いつでも逃げられるように身構えてるんだから。
この方の尋常じゃない素早さには、とても勝てると思えないけど、十分に、警戒はしてるつもりだわ。
確かに、退いて欲しくて堪らない。
出来るなら部屋から出ていって欲しい。
けれど今は、そうじゃなくて―――
「だから、貴方と違ってあの子はただの白フクロウさんで、弱い生きものだわ。絶対に傷つけたらダメです。無傷で外に返して。決して攻撃しないで」
あの子は、警戒するような相手じゃないと思う。
あんなに小さな体では、狼の爪で攻撃されたら、ひとたまりもないはず。
「それは命令ですか」
その質問に、またまたむっとしてしまう。
命令をきくつもりあるのかしら。
貴方は性格が悪い上にとっても非常識な方ね。
さっきは全くもって全然きいてくれなかったくせに、今、そんな風に聞くなんて。
私から小瓶を取り上げて、私が守ると自信たっぷりに言ったのだから、弱い者の命を守ることくらい簡単に出来るでしょう。
「命令です。貴方でも、それくらいはきけるでしょう?」
「それくらい、ですか。簡単に仰いますね―――――それは、少々、難しい注文です……っ、くっ―――」
「ぴいぃぃっ」
バサバサバサという羽音が近付いたと感じるのと同時に、アリの体が少しだけ傾いた。
その仕草を見て、ちょっぴり心配になる。
怪我をしたのかしら。
「どうかしたの?」
「何でも、御座いません。貴女様は、出てはなりません」
本当に何ともないみたい。
だけど。
アリの体がじり、じり、と後ろに下がってくるから、一緒になって後ろに下がる。
どうして下がって来るのかしら。
すぐ後ろに、壁が迫ってきてる。これ以上は下がれそうにない。
囲うように出されてる腕に触れないよう注意しながら、大きな体を避けてこっそり向こうを覗き見てみると、白フクロウはベッドの天蓋の柵に止まっていて、ガラス玉の瞳は真っ直ぐにアリを見つめていた。
「退いて下さい。あの子は大人しいじゃない」
「先程威嚇されました。油断できません。それに、あの白フクロウは―――――……。いえ、やめておきましょう」
随分含みのある言い方をする。
もしかして、ただの白フクロウじゃないってことなのか。
綿毛みたいなふわふわの体とガラス玉の綺麗な瞳は、どう見ても大人しくて綺麗な鳥さんでしかない。
「威嚇って、貴方が敵対心を持ってるからでしょう。きっと、怖がってるのよ。そうやって睨むのを辞めてみたらいいわ。……それよりも、暗くなってきました。そろそろ灯りをつけて欲しいんですけど」
「灯り?」
ぴくんと背中が動いて、頭は窓の向こうに向けられた。
もうこんな時刻か、と言ってるのが聞こえる。
外はもう、日が落ち始めていた。
このままだと、部屋の中がどんどん暗くなっていく。
部屋の灯りを点すのは侍女の仕事で、室長もいない今はアリがすべきこととなる。
目の前の背中がくるっと反転して、例の冷淡な瞳が見下ろしてきた。
「私に?」
信じられないといった感じの声。
今ここに、貴方以外誰がいると言うのかしら。
「私は、点け方を知らないわ。もしかして、貴方も知らないの?」
冷淡な瞳に負けないように、こちらも瞳に力を込めて見上げる。
と、眉がすぅと寄せられて頭が傾き、少しだけ表情が変わった。
なんと言うか、怒ってるようにも見えるけれど、戸惑ってるような、動揺してるような、複雑な……。
読めない表情を観察するようにじっと見つめていると、突然、ひゅんっと風を切る音がしたと同時に、後ろの壁から、ぱしっという音が聞こえてきた。
薄暗くなってきた上に早すぎて、その動きが全く見えなかった。
頬のすぐ横に、壁に手をついたアリの腕がある。
見下ろしてくるアリの瞳だけが妙にギラギラと輝いてるように見えて、何とも怖い。
頭の中で危険信号が鳴る。
“逃げなさい”と本能が警告してくる。
でも急に動くと捕まえられそうな雰囲気。
大声を出そうとも考えたけれど、昼間の出来事がありありと思い出されて、余計尋常じゃない事態になってしまうのが容易に想像できる。
緊張して、冷や汗が出てきた。
ばれないよう、そろりそろりと、壁伝いに塞がれてない方へと移動する。
と、またも、ひゅんっ…ぱしっと音が聞こえて、完全に退路を塞がれてしまった。
太い腕の中に閉じ込められている。
しかも、見下ろしてくる瞳に、さっきまでなかった熱が籠ってるような……まさか…。
少しずつだけれど、顔が近付いてくる気がする。
それは、どう考えても額のあたりに向かってるようで―――
徐々に目の前に迫ってくる形の良い唇。
まさかこれは、もしかしたら、もしかしなくても、とっても危険な状況よね?
灯りを点けてって言っただけなのに、どうしてこんなことに?
考えてる場合じゃない。とにかく止めないと。
「ま、待ってアリ。止まって。一体何を考えているの?」
強めに声を出すと、前髪に息がかかる寸前に、ふぃと方向転換して耳の横あたりでぴたりと止まった。
「黙ってろ、動くな」
鼓膜をくすぐるような低い声が届けられて背中がゾワゾワする。
初めて聞く命令口調。
びっくりして声も出せない。
丁寧で従順な従者は何処に消えたのかしら。
これはもしかしたら、怒ってるの…よね?
一体いつ逆鱗に触れたのかしら。
どこで、何故?
今までの行動がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
すると、耳の横で小さなため息が吐かれた。




