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「ユリア様、昨日は大変で御座いました。本日のご気分はいかがでしょうか?」
部屋に入り開口一番にそう言うと、マリーヌ講師は眼鏡をくいっと上げた。
「御気分が優れないようでしたら、本日も、取りやめますが?」
相変わらずのツンとした物言いと澄ました顔。
だけど、いつも上向き加減の頭が、俯き加減になってて瞳が様子を窺うように動き回ってる。
そんなところをみると、少しは気遣ってくれてるのかと感じる。
それだけのことで、優しいところもあるんだわ、と見直してしまう。
普段つんけんしてる分だけ、そう感じる落差が大きい。
マリーヌ講師のつんつんマジックだ。
「ありがとうございます。今日はもう大丈夫ですから、講義を始めて下さい」
「そうですか、では――――本日は、こちらの勉強で御座います」
サササと近くまで寄ってくると、テーブルの上にどさりと紙の束を置いた。
途端に、甘い花の香りが鼻をくすぐる。
それは、マリーヌ講師からふんわりと漂ってきていて……。
――――珍しいわ、香水をつけてるのかしら。
それに、なんだか様子がいつもと違うような――――
ぎすぎすとした雰囲気がとても柔らかに感じる。
こっそり見上げると、いつものキツイながらもノーブルな顔にほんのりと紅が乗せられていて、うっすらとお化粧をしているよう。
いつも下がり気味な口角も、今日は上がっている。
普段通りのシンプルな服には、小さなアクセサリーが襟元に遠慮がちにつけられていて、年相応の、派手ではない慎ましい女性の印象を受ける。
くるりと背中を向けた髪にも襟元にあるのと同じ髪飾りがあって。
――もしかしたら、今日は満月だからお洒落してるのかしら。
男性側だけじゃなくて、女性の方も少なからず影響を受けるのね。
ジークの話を聞いた限りでは、今夜の月は怖いばかりに感じたけれど、マリーヌ講師を見ていると「そうでもないのかも」と思えてくる。
慣れないことで気になるのか、マリーヌ講師は、何度も髪飾りに手をやってる。
今夜、どなたかと会う約束してるのかもしれない。
恋人がいるのかしら。
月夜の晩の逢瀬、素敵だわ―――
「―――マリーヌ講師、今日はとても綺麗だわ。この後、どこかにお出かけするのですか?」
失礼します、と言って、何度も手をやるせいで斜めになってしまった髪飾りを、そっと外してつけなおしてあげる。
「っ、えぇ、出掛けます。夕暮れからパーティがあるのです。友人に誘われまして。無理矢理で、仕方なく。あぁ直していただいて、ありがとうございます」
予想外に伸ばされてきた手と、尋ねられたことに驚いて振り返るマリーヌ講師。
眉間に皺を寄せて見せるその瞳は、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうに見えて、イヤイヤ参加するようには感じられない。
「髪飾り、あまり触らない方がいいわ。そのうち髪も崩れてしまうもの。パーティですか。いいですね……私も、行ってみたいわ」
思えば、外出したことなんて数えるほどしかない。
指折り数えても5本の指は半分以上が立ったまま。
どこかの深窓の姫君みたいに、建物の中から出たことがないのだ。
出入り口を壁のような背中に塞がれた今の状況は、言葉は悪いけれど、幽閉に近い。
それでもあまり苦痛に感じられないのは、過去もそれに近い生活だったからかも。
―――パーティ―――
楽しげなおしゃべりと笑い声。
軽い音楽でダンスを楽しむ笑顔。
一度だけ連れてってもらったヤナジの夜会を思い出す。
あの時は、雰囲気を楽しむ間もなく帰ってしまったんだっけ。
何だか嫌なことばかり思い出すわ。
あれは、全部ラヴルがいけないのよ。
待ってるって言ったのに、他の方と会っていたんだもの。
私が変な男の方に掴まったのも。
二度も髪を乱してしまったのも。
全部、全部が、ラヴルのせいなんだから。
部屋の中で見つめ合っていた二人の姿。
あの時のことを考えると、途端にモヤモヤとした気持ちになる。
どよーんとした重いものが胸の中に詰まっているように。
とても背が高くて大人っぽくて美しい方だった。
見栄えのする身体つき。
ラヴルと並ぶと、私よりもずっとお似合いなんだもの―――
“ユリアだけだ”
伸ばされる大きな手。
思い出すと胸が締め付けられる。
私には、貴方の心を縛る権利はないけれど、私だけの貴方でいて欲しい。
そう思うのは我儘だって、贅沢だって分かってる。
貴方にとって“必要”でしかない私だけど。
私には貴方だけなのだから。
貴方だけを想っているのだから。
いつか、ここを離れて
貴方の元に、帰ることが出来るのかしら―――
「今夜のは、私のような独身男女が集まる、ていの良いお見合いパーティです。ユリア様が参加されるようなモノでは御座いません。さぁ、この話はおしまいです。講義を始めます」
生真面目に受け答えてくれる今日のマリーヌ講師は、ツンツンがツンだけになってて、やっぱりとても女っぽい。
眼鏡を上げる癖も頻度が低くて、仕草も柔らかい。
本人は全く気付いていないみたいだけど。
お堅いこの方がこうなのだから、他の女性はもっと艶めいてて心はソワソワしてるのかもしれない。
男性はジークしか見てないけれど、いつもよりも熱っぽい雰囲気だったっけ。
ここにフレアさんがいたら、瞳も熱っぽくなるんだろうな。
きっと、会いたいはずだわ。
ということは、一旦森に帰るのかしら?
いろいろ考えながら手に持ったペンをぷらぷらと振る。
それを見咎めた眼鏡の奥の瞳が、きりっと釣り上がった。
「ユリア様!さっきからずっと、心ここにあらず、のようですが?きちんと集中して下さい!王子様が帰城されるまでに、最低でもカンダルの章まで覚えて頂きますから!」
「はい、すみません」
細い指が法律書の目次をびしっと指し示す。
浮ついた気持ちがぴりりと引き締まった。
改めて座りなおして、マリーヌ講師のキラリと光る眼鏡の奥をじっと見つめた。
今は、講義に集中しなくちゃ――――
明るい日の光がさんさんと降り注ぐラッツィオの城。
衛兵は規律正しく動き、侍女や使用人は与えられた仕事をテキパキとこなす。
今のところは、普段通りに見える城の光景。
違うのは、バルの城宮の最上階の窓際に白フクロウがいることだけ。
それは朝からずっと動かずに、そこにいる。
たまにうとうとと眠りかけるが、ガラス玉の瞳は、基本的には部屋の中に向けられている。
それは、朝食を食べている時も。
ジークが来てる時も。
今も、ずっと――――――
***
「ユリアさん、聞いてっ」
「リリィ。どうしたの?ランチは?それに、今日は一人でいちゃいけないんでしょう?」
ランチを前に部屋に駈け込んで来たリリィは余程急いで来たのか、息を切らしていた。
上下するその小さな肩の向こうをちらっと見やると、お馴染みの見習い侍女たち二人がいて、ニコリと微笑んで丁寧に膝を折った。
その姿を、すっかりなじんでしまった大きな背中がゆっくりと隠していく。
窓の外の白フクロウが一声鳴いて、バサバサバサと飛び立つ音が聞こえてくる。
リリィの瞳にその姿が映り、追いかけるようにすーと動く。
その瞳をユリアに戻しながらスカートのポケットに手を入れた。
「ぁ…あのね、ユリアさん。コレ貰った?」
ポケットから取り出したのは、ジーク特製の狼撃退液。
その大きさを見て苦笑してしまった。
小さなてのひらの中に収まらないほど大きくて、今朝貰った小瓶の2倍はある。
持ち歩くには不便そう。
―――ジークったら、余程心配なのね?
ジークの心が伝わってきて心がほわんと温かくなる。
本当に、お父さんのようだ。
「あのね、今夜っていうか、今日一日はすごく危ないんだって。ジークさんが真剣な顔で、妙な男が近づいてきたら、コレを拭きつけろって言ったの。狼がどうとかって言ってて、実はよく分かんないんだけど。とにかく持ち歩けって。たくさんあるからあの子たちに分けてあげようとしたら、要らないって断られちゃった。ユリアさんが持ってなかったら、あげようと思って」
―――やっぱり狼の意味、よく分かってないのよね。
疲れきったジークの姿が容易に想像できる。
でも、ジーク。
貴方の頑張りのお陰で、危険ということだけは、きっちりと伝わってるみたいよ?
「大丈夫、持ってるわ。ほら、ね?」
ポケットの中から取り出して見せると、リリィはほっとした笑顔を見せた。
「そっかぁ、良かった。さすがジークさん、分かってる。あ、でね。ユリアさんに、いっこ相談があるの……」
言いづらいのか、声が尻つぼみに小さくなっていく。
話しやすくするために、なるべく優しい笑顔を向けた。
「私に相談?なぁに?」
「……私ね、あの子たちに今夜のパーティに誘われちゃったの…。ユリアさんを一人にしちゃうんだけど、同じ年くらいの子たちが集まるんだって。一人でいると危ないけど、パーティならたくさん人がいるから危なくないよ。新しい友達も出来るし、行こうよ、って言われたの。なんか楽しいらしくて、行ってみたいんだけど……。どうかな?ね、ダメだと思う?」
「う~ん、そうねぇ」
気遣いながら遠慮がちに話すリリィの表情は、それでもキラキラとしてて眩しい。
この年頃の女の子の、普通の感情が表れる。
恋と友情と仕事。
辛いこともあるだろうけど、きっと毎日が楽しいのだろう。
その自由さが、ちょっぴり羨ましいと思う。
―――パーティ、か。ジークに聞くと、きっとダメだって言うわよね。
マリーヌ講師のような、お見合いパーティみたいなものかしら?
でも、リリィたちは若いし、男女の出会いとか、繁殖がどうのこうのな目的じゃないとは、思うけど。
そんなのは、リリィには必要ないし―――
ちらりと表情を窺う。
目がきらきらしてて頬が少し上気してて、楽しみでワクワクしてる感じが伝わってくる。
リリィも魔者の内の一人だもの。
月の影響が多少あるだろうけど、この様子は、要するに、行きたいのよね。
狼さんたちに狙われる危険性は高まるけれど、だからと言って閉じ込めるのもどうかと思う。
不機嫌そうなザキと、父親のように心配するジークの顔が、どーんと思い浮かぶ。
二人の瞳が『絶対許可するな』と圧力をかけてくる。
苦笑しつつもそれをなんとか頭の中から追い出して、リリィの顔を見つめる。
不安げに言葉を待ってる、とても可愛くて大好きなリリィ。
貴女も少しは楽しみたいものね?
危険を自分の力で退けるのも大切なことだわ。
頼りになる友人たちもいることだし……。
「…行ってもいいわ。ただし、絶対にあの子たちと離れちゃだめよ?それと、その液を持ってることを忘れないこと。変な男の人が近寄って来たら、すぐに逃げること。それを守れるなら、今夜、楽しんでくるといいわ」
「本当!?ありがとう!ユリアさんっ。絶対約束するわ。あ…でも、ごめんなさい。ユリアさんは……」
あからさまに喜んでしまったことに罪悪感を覚えたのか、また声が小さくなっていく。
そんなに気遣わなくてもいいのに。
「私のことは気にしないでいいのよ。いいから、そんな顔しないで。思い切り楽しんできて、私にお話を聞かせて。リリィとのおしゃべりが私の楽しみなの。ね?」
「分かった。じゃぁ、ユリアさんの分まで楽しんでくるね。パーティ、行ってくるわ」
ぱぁと花が咲いたような笑顔になる。
赤毛がふんわりと揺れて、ドアに向かう足取りも軽く、何を着ていこうかなぁ、と嬉しげにぶつぶつ言っている。
出ていく小さな背中に手を振りながら声をかけた。
「―――いってらっしゃい、リリィ」