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「お前に、これを渡しておく。まぁ、この部屋にいる限り、使うことはないと思うが。万が一ということも、なくは、ない。一応持っててくれ」
診察のあと、ジークに小さな瓶を渡された。
透明な飴色の液体が入ってるそれは、スプレー式になっていてまるで香水のよう。
「これは?」
「ああぁぁっ、ダメだ!今は使っちゃいかん」
試しに吹きつけてみようとしたら、慌てたジークの手にしっかりと押さえられた。
余程使われたくなかったのか、ふぅ…と息を吐いて肩を落としている。
「これには、狼の撃退溶液が入ってるんだ。吹きつければイチコロだ」
「撃退、ですか?イチコロってまさか……」
「ん?違う、違うぞ。死にはしない、安心しろ。相手の動きを封じるだけだ。同じ物を、さっきリリィにも渡しておいた」
あいつはしっかりしてるようで結構無防備だからな、心配でならん…てぶつぶつ言っている。
あちこちに瞳を這わせている様子は、何だかそわそわしてるようにも見える。
そういえば、前にフレアさんが言ってたっけ。
“ジークって、お父さんみたいでしょ?”って。
―――お父さん……か。娘を心配するお父さんって、こんな感じなのかもしれないわね―――
「ところで、お前――――“狼”の意味は分かるよな?」
言っとくが、俺たち一族のことじゃないぞ?と、視線を定めたダークブラウンの瞳がふと笑みを含む。
―――意味って、何かしら。
“狼”というと…。
大きな耳に、ゆらゆら揺れる、ふわふわでもふもふな愛らしいしっぽ。
金色の瞳に、艶々とした綺麗な毛並み。
すくっと立った、立派な姿が思い浮かぶ。
これはあの時、オークション会場で一度見ただけの、バルの姿。
この他に、どんな意味があるというの?―――
「あ?その様子だと、やはりお前も分からんのか。全く、揃いも揃って……これではザキと同じく、バル様も苦労するはずだ」
ジークは項垂れて頭をガシガシと掻いた。
「ジーク?それが分からないと、どうしてザキやバルが苦労するの?」
「あー、すまん。そこはアレだ。その、言葉のアヤだ。深く考えなくていい」
ジークの大きな手がビシッと目の前に差し出された。
いきなり出てきたそれをじっと見つめる。
ジークの手の甲はふわふわと産毛のような短い毛が生えている。
さっきまでは気付かなかったけど、いつもよりもふわふわが多く見える。
ちょっとだけ毛深くなってるみたい。
もしかしたら、月の影響を受けてるのかも。
やっぱりジークも、狼に変身するのよね。狼族だもの。
けど。えっと…待って?そういえば―――
瑠璃の森にいた日々を思い出す。
確か、あそこでは、一度も狼の姿を見たことがない。
一度は満月の夜を迎えてたはずなのに。
普通は、変身しないものなのかしら?
変身するのは、もしかして、バルだけ?
頭の中に疑問符を沢山浮かべてると、向かい側のブラウンの頭の中にも、同じ物が浮かんでるようだった。
俯いて、うーんと唸って何かを悩んでいる。
「ねぇジーク?“狼の意味”のことはもういいわ」
そう言えば、ジークがパッと顔を上げる。
少し、困ってるようで、また頭を掻いている。
「あぁ、待て。そうはいかん。これでもリリィにも説明出来たんだ。全部分かってくれてるかは、不安だが」
渡す時に一緒にいた、周りにいた女の子たちに助けられながらも、意味を説明できたそう。
それと、同じことを言ってくれればいいんだけど。
“狼”の意味を説明するのは、余程難しいみたい?
「んー、それよりもだ。……話を戻すぞ。その小瓶の話だ。今夜は満月だということは、知ってるな?」
“月がまんまるになります”
「はい、室長から聞いてます。今夜は、まんまるになるんですよね。綺麗な夜になると聞いてます」
「うん、確かに夜景は綺麗になる。が―――その他には?何か聞いてるか?」
ジークは腕を組んだ姿勢でじーっとこちらを見ている。
その雰囲気が、いつもと違って見える。
周りの空気が揺らいでるというか。
そう、バルが金の瞳になった時のような。
あそこまで熱くはないけど、そんな感じを受ける。
「聞いてません。けど……」
「けど、何だ?」
「質問があるんです」
「……何でも言ってみろ」
少し身を乗り出していたジークの体が、背もたれにズシンと預けられた。
まるで、こうなったら何でも来い、とでも言ってるように。
私とリリィがあまりにも無知だから、呆れられてるのかもしれないけど。
以前からずっと疑問に思ってたことを聞いてみるのは、話題の出てる今しかない。
「今夜は、城中のみんなが、狼になってしまうんですか?」
ジークは少し目を見開いた後、あぁ、そのことか、と呟きながらゆったりともたれさせていた体を起こした。
膝の上に肘を乗せて身を乗り出すような恰好になって、そういやぁお前は何も知らんのだったな、と言葉を継いだ。
「例え満月の夜であっても、俺たちはむやみやたらと変身することはないんだ。だから、今夜も狼になる奴はいない。別の意味の狼にはなるがな。お前もリリィも、俺たちが狼になったところは一度も見たことないはずだ。だが、血が騒ぐために瞳の色が変わることは、ある。……お前、バル様の金の瞳を何度か見たことがあるだろう?」
「えぇ、あるわ。それに私、前に一度、バルの狼の姿を見たことがあるの」
「そうか、見たか。バル様の狼の姿は雄々しいだろう?国中の者の憧れだ。お前幸運だったな。金の瞳も合わせて、滅多に見れるもんじゃないんだぞ」
「―――そう、なんですか?」
―――バルの金の瞳。
キラキラとしてて魅入ってしまう程綺麗だった。
憧れるのも分かる気がする。
私は、そんなに貴重な物を見てたのね。
そういえば。金の瞳を見たと言った時の、室長のおかしな様子。
あれは、単に羨ましかっただけなのかも―――
「俺たちは普段、狼姿は愛する者にしか見せん。緊急時には躊躇せんが。他の種族はどうだか知らんが、真の姿はなるべく隠すもんだ。俺たちは、ガキの頃から必要以外に変身しないよう教育―――――……ん、何だ?お前、何か残念そうだな」
「っ、そんなことはないわ」
てのひらをぶんぶんと横に振って慌てて否定すると、ジークはにんまりと笑った。
「あぁ。もしかして見たかったのか?そりゃぁ、すまんな。見せてやりたいのはやまやまだが、こればかりはそうもいかんのでな」
バル様が帰られたらお願いして見せてもらえ、と言ってハハハと楽しげに声を立てた。
ジークはフレアさんにしか見せない、それは分かる。
だけど、そうしたらバルだってお妃様の前でしか変身しないことになる。
だったら、見せて貰えるわけはないわ。
それに、バルが帰る頃には、満月は過ぎてしまうじゃない。
そんなこと、ジークだって知ってるのに。
「見たいだなんて。そんな風には思ってません。ただ、ジークの手がいつもより毛深いように見えたから、夜になったら狼に―――?って、そう思っただけです」
―――そう、決して。
ふわふわもふもふの揺れるしっぽと、ぴくぴく動く大きな耳が見たかった、だとか。
ジークや王妃様が狼になったら、なんて想像してもいないし、考えてもいない。
月に向かって遠吠えなんて野性的で素敵、とか、出来ればしっぽを触ってみたいだなんて、全然思ってないんだから。
決して―――
「―――違いますから」
否定の念を込めてジークの手を見つめていると、手の甲を隠すようにして両手を擦り合わせ始めた。
にんまりとしていたのが、少しバツの悪そうな表情になる。
「あぁ、この手か…。普段は満月でもこんなにならんのだが。今宵の月は魔力が強くてな。朝っぱらからこうだ。すまんな、毛深いのは嫌か?」
「無駄に毛深いのは好きではないけれど。ジークのそれは嫌いじゃないわ。だって、狼なんだもの。それに、先に謝らないでください。まるで、私が嫌ってるのが当然のように聞こえてしまうわ。決してそんなんじゃありませんから。それよりも、普段はってどういうことですか?今夜の月は、何かが違うの?」
「あぁ、そうだった。それを言っておかにゃならんな。狼の意味にも通じることだ。今夜の月暦は、ヘカテだ。ヘカテは月の女神のひとりで、魔の力と繁殖を司る。またの名を復讐の女神とも言われていて……。あぁいかん、この話を始めると長くなるな。まぁ要するに、月の力が強いというわけだ。今夜は影響で魔者たちの血が騒ぐことになる。魔力を利用するにも、繁殖するにも、最適の夜なんだ」
「魔の力と、繁殖の女神様……」
―――繁殖するっていうのは、あの、子孫を残す行為のことよね。
魔の力も今夜は強くなる……狼の意味が何となく分かったわ。
確かに、説明しづらいかも。
私たち女性にとって、とても危険な夜―――――
「血気盛んな若い者たちは、こぞって相手を探しに出る。今日男たちは、前から目を付けていた娘に求愛しにいく。中には月の力に負けて平常心がなくなり、暴走する奴もいるんだ。狼の娘たちなら強い爪で引っ掻いて拒否したりできるが……」
「…私には、爪はないものね」
自分のひ弱な手をじっと見つめる。
自分自身さえも守れそうにない指。
思い切り叩いたとしても相手を倒すどころか、この手の方がダメージを受けてしまう。
何か、武器がないと……。
「それでも毎回、一人や二人、襲われて泣く娘がでる。衛兵たちも警戒を強めて見廻ってはいるが、限界はある。だから、お前にはコレが要るんだ。それとリリィには特に、な―――コレで、身を守らんといかん」
見廻る立場の衛兵自身も危ういからな、とテーブルの上にある例の薬瓶を指差すジークの瞳は、真剣そのものだ。
その視線が、ドアの方にふと向けられた。
何を思っているのか、じーっとドアを見つめている。
「ジーク、分かったわ。有難うございます。今日一日は、気をつけます」
「頼むぞ。いいか?必ず、それを肌身離さず持っててくれ」
念を押すように、必ず、のところを強めて言うと、ジークは鞄を持ってすくっと立った。
去っていく背中を見送って、小瓶を手に取り、ドレスのポケットにしっかりと仕舞った。
使わないことを、願いながら。




