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……ふわり……
一陣の風が吹いた気がした。
部屋の窓は締められていて、外から吹き込んでくるわけではない。
なのに、草原の中にいるような、そんな感覚に襲われている。
身ぶり手ぶりを交えてお話しているにこやかな王妃の顔が、どんどん霞んでいく。
―――――ざあぁぁ……
丈の長い草が風になびき音を立てる。
見える範囲、奥の方まで続く緑の草の原。
両側は背の高い木が立ち並び、家の影は全く見えない。
山の中か、森の中、そんな所にあるような草原。
今にも泣き出しそうな暗い空。
湿り気を含んだ強い風が吹く中で、じっと立っているのは少女の頃の、私―――……
「……―――あのぉ……姫様」
おどおどした感じの声がした。
「なぁに?エリス」
「この空模様、もうじき嵐がきますわ。そろそろお戻りになりませんと。それに、今、こんな場所にいることが知れたら、お咎めを受けてしまいます」
「いいの、お叱りなんていくらでも受けるわ。大丈夫よ。エリスには迷惑をかけないから、安心して」
長い髪が風に遊ばれて、さらさらと後ろに流れる。
小さな草原に佇み誰かが現れるのを待ってる。
何日も、何度も、ここに来てる。
―――ここに、来て欲しい―――
少女の頃の切なる願いを感じる。
―――会いたい―――
感情が、想いが、体の中に流れ込んでくる。
……誰に?
集中して自らの心に問い掛ける。
……誰に、会いたいの?
―――あのときの、子に―――
……あの時の、子?…あの時って…
あぁ、そうか、この場所は――――
ぽつん、と腕に水滴が当たった。
エリスの言ったとおり雨が降ってきたよう。
「あぁ、やっぱり。姫様!お早く!お早く馬車へ」
痛いほどにぐいぐいと腕を引かれていく。
「痛いわ、エリス」
そんなに強く引かないで。ちゃんと歩くから。
「申し訳ありません」
腕からぱっと手が離される。
でも、エリスが手を離しても、何故か痛みが消えない。
どうしてまだ痛いの?
うぅん、違うわ、これは……。
さっきから痛いのは……腕じゃなくて、肩、だわ。
……ペシペシ…ペシペシ…
一定のリズムが刻まれてる。
次第に現実に引き戻されていく。
鈴の転がるような柔らかな音も聞こえる。
――違う、これも。
音じゃなくて、人の声。
誰が、何を言ってるの――――?
よく聞き取ろうとしてそれを意識した途端。
まわりにあった草原がフッと消え、風の吹く感覚も、掻き消えた。
「……ユリアさん…ユリアさん…」
気が付くと、王妃がしきりに名前を呼んでいた。
眉根を寄せて訝しげな表情で除き込むようにしてこちらを見ている。
ペシペシと肩を叩いていたのは、隣に立つ室長だった。
見上げると、ホッとしたのか厳しかった表情を和らげ申し訳なさそうな顔になり、失礼致しました、とスススと後退りをして定位置の壁際に立った。
「―――王妃様、すみません……」
「どうかなさったの、大丈夫ですの?
突然意識を失ったように見えましたわ。
―――貴女、ジークを呼んでらっしゃいな」
王妃が後ろに控えていた侍女に指示をすると、膝を折ってすぐさま出ていってしまった。
「あ、まっ―――て…」
あまりに早い反応で、呼びとめようと伸ばした手が宙を舞う。
ジークだけじゃなくお医者様全員、今はとても忙しいはず。
こんな大したことがないのに来てもらうのは申し訳なく思う。
「大丈夫です。意識はあったと、思います。ぼんやりしてただけですから、何でもありませんから。ジークは呼ばなくていいです。室長、追いかけてお止めして下さい」
室長は先程の侍女よりも早い反応で部屋を出ていく。
閉まるドアから目をはなして王妃に向き直ると、様子を窺うような眼差しでじっと見つめていた。
その表情は本当に心配げで、真剣で。
「いいんですの?本当に、何でもありませんの?」
「はい。王妃様、先ほどはお話を聞いてなくて、申し訳ありません。…過去のことが、急に浮かんで…」
瞳に涙があふれてくるのが分かる。
王妃の顔がどんどんぼやけていく。
「あ…私……ごめんな…さ…」
喉がつまって最後まで言葉にすることが出来ない。
下睫毛に支えきれなかった滴が頬をつたい落ちていく。
何故だか涙が溢れてきて止まらない。
―――私、何で泣いてるのかしら。
怖い事件があったから?
記憶がよみがえりつつあるから…?
それとも―――
心の中で自問自答を繰り返す。
自問全部が、当てはまる。
記憶の中で蘇る過去の切ない想いと、今の想い。
起こった事件とバルの旅立ち。
そして、『カフカ』のこと。
もしそれが祖国なのであれば、今はなき国。
今まで見た記憶の光景を思えば、それが祖国だという確率はとても高くて。
現実が、容赦なく心に突き刺さる。
家族は…きっともう、この世にいない。
あの不思議で優しい男の子も、今まで見た人たち、みんな。
記憶の中の顔が、現れては消えていく――――
王妃の前で泣くなんて、余計な心配をかけるだけなのに。
どうにも止めることが出来ない。
顔をてのひらで隠して声を殺していると、体のまわりをフワッとした優しい香りが包み、柔らかな感触が頭を包み込んだ。
すぐそばで声が聞こえる。
「いいんですのよ。
そんなことは構いませんわ…我慢しなくてもよろしいのです。
思い切りお泣きなさい、少しはすっきりするでしょう。
貴女は我慢しすぎなのです。
私も、無理に笑わせたり、食べさせようとしたのがいけませんでしたわね」
王妃の手が、ぽん…ぽん…と背中を叩いている。
あたたかさと優しさが伝わってくる。
顔も思い出せない母を思う。
――――もしも。
もしも今、母がここにいたら、こうして抱きしめてくれるのかしら。
こうして、言葉をかけてくれるのかしら――――
心音と重なるような、そんなリズムを感じていると徐々に落ち着いてきた。
それを感じ取ったのか、王妃がぽつりぽつりと話し始めた。
「昔…こうして、あの子をなだめたことを思い出します。
結構、泣き虫な子でしたのよ」
「…王子様が?」
優しい腕をそっと解いて王妃を見ると、ハンカチを使って濡れた頬を拭いてくれた。
バルにそっくりの瞳が、優しく見つめてくる。
「えぇ、今は、想像もつきませんでしょう?
虫に刺されたと言っては泣き、手合わせで負けたと言っては泣いて。
あとは、そうですわね……。
そうそう、物語を読んでも泣いていましたわ。
本をしっかりと抱き締めて私のところに来ましてね。
“母さま、なんとかしてください”って言うんですの。
瞳に涙をたくさん溜めて、唇をぐっと噛みしめて。
それだけでは何のことか分かりませんでしょう?
よくよく聞いてみますと、物語の中で仲間が怪我をして天に召されるシーンがありましてね。
それをなんとかしろと言うんですの。
あの時は宥めるのに苦労しましたわ……。
あの頃は、優しくていい子でしたのよ。
今は、全く考えられませんけれど」
「王子様は、今もお優しい方です。ただ少しだけ言葉が足りなくて強引ですけど」
「まぁ、ユリアさん、貴女こそお優しいわ。
ご自分がこんな状況なのに、あの子を庇うことが出来るなんて」
素晴らしいことですわ、そう言いながら再び頬にハンカチをあてる。
そのやさしかった瞳が、みるみる色が変わっていく。
鋭い光を放ってて、何だか怒ってるように思える。
「―――――でも、本当に、全く、あの子ったら。
こんな状態の貴女をおいていくなんて。
戻りましたら、きつく叱らなければなりませんわ!」
まったくもって、許せませんことよ、と呟いてハンカチをぎゅうぅっと握り締めた。




