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――――と、思っていたけれど。
午後になると、王妃が「お見舞いですわ」と、部屋にたずねて来た。
本当はこちらから伺うべきなのに、とわざわざ遠い宮から来られたことに恐縮していると
「当然ですわ。
貴女は私の娘ですもの」
そう言って優雅に笑んだ。
そのあとすぐ、ホゥ…とため息を漏らして、整えられた双眉を歪めた。
「私、大変申し訳なく思っておりますのよ。
ごめんなさいね、貴女を危険な目に合わせてしまって。
さぞかし、恐ろしかったことでしょう?」
「…はい、一歩も動くことが、出来ませんでした。王子様が来られなかったら、と思いますと、情けないことに、今も恐怖に震えてしまいます」
そう言って体を両手で抱き締める仕草をすると、寄せられていた美しい眉がさらに寄せられていき、瞳はきらきらと潤み始めた。
「そうでしょう、そうでしょうとも。
……可哀想に―――」
声も潤ませそう言って、ハンカチを取りだして目頭に当ててそっと拭う。
「そんな貴女を残していくなんて……。
あの子ったら、本当に困ったものですわね。
今日一日くらい、出発を延ばしてくださればいいのに。
こんなに今にも折れそうな、か弱い貴女ですもの。
一日中傍について居ても誰も文句は言いはしませんわ。
なのに行ってしまって……。
王も王ですわ、何故、お止めにならないのかしら」
全く……と呟いた王妃の瞳は、ここではなく遠くを見据えている。
ぎゅうぅっと握り締めていたハンカチを膝の上に置き、憤懣やる方なしといった感じで、扇をパシンと一旦開けてまた閉じて、てのひらにパシパシと当て始めた。
その怒り方はとても可愛らしく見えて、迫力はない。
ひとしきりパシパシして気がすんだのか、ふと笑んで、視線を元に戻した。
その柔らかい瞳が自らの足元に移動して、細い指が紙袋を引っ張りあげる。
「―――だから代わりと言ってはなんですけれど、私が参りましたのよ。
私など、あの子の代わりなどには遠く及ばないかも知れませんけれど、許してくださいましね。
今日は、楽しくお話しいたしましょう」
そう言って袋の中に手を入れ、ひとしきりガサガサと音をさせると、桃色の箱を取り出した。
それは、綺麗なレースや宝石があしらわれたもので、一見宝石箱のよう。
「これ、私が飾り付けを致しましたのよ。
可愛らしいでしょう?」
そう言ってちらっと上げる瞳が、少し自慢げに見える。
「えぇ、とても素敵です。どうやって飾り付けたのですか?」
「とても簡単ですのよ……、今度、教えて差し上げますわ」
細長い指が優美に動き、パカ…と蓋を開けると、中には大小様々なお菓子が整然と並べられていた。
それを一つ一つ摘まんで花柄の皿の上に置いていく。
ゆっくりと、優雅な時が流れる。
王妃はお茶セットをすべて持参してるようで、脇に控えていた侍女が袋の中から皿やらカップやらを次々に出して並べ、今は紅茶を注いでいる。
「ほら、このお菓子、一つだけ珍しいでしょう?
外国のモノですのよ。
私の宮のコックに、今はなき国出身の者が一人おりますの」
箱中の中のひとつをつまみ上げ、体の前にかざす王妃。
桃、白、茶、と三種の色彩が等間隔に層を描いたお菓子が現れる。
「なき国といいますと、その方は祖国を失われたのですね?」
「そうですの。
私も、そういう者がいると知ったのは最近なのですけれど…。
なんていう国だったかしら。
確か、甘いお菓子のような名前の――――――『カフカ』だったかしら」
お菓子を持ったまま俯いて暫く考えこんでいた王妃は、オホホと笑うと、そのお菓子を小さな皿に載せて「さぁどうぞ」と前に差し出した。
「まぁ、コックの国の名前など、どうでもよろしいことですわね。
これ、美味しいんですのよ。
ユリアさんに是非にと思いまして、急いで作らせて参りましたの。
彼は、貴女と同じ種族ですのよ。
食せば、懐かしく思えるかもしれませんわね」
どうぞお食べになって、と言ってニッコリと微笑んだ。
「はい、ありがとうございます」
そう言って微笑みを作って受けとるも、やっぱりどうにも食べる気が起きず、置いたままにしていると、まぁ貴女、いけませんわ、と言って、王妃はお菓子を移す手を止めた。
「ユリアさん、貴女。
ランチもほとんど食さなかったと、侍従から聞いておりますわ。
あんな恐ろしいことの後ですもの。
仕様のないことでしょうけれど、体に良くありませんわよ?
特に貴女は、か弱いお体ですもの」
「……はい。申し訳ありません」
そうは言われても、なかなか食べる気にはなれない。
こうして王妃と一緒に過ごしていてもふと思い浮かんでしまうのだ。あの血の付いた爪とじっとりと濡れた服が。
それに、血の匂いが鼻についてはなれない。
姿を見たのは僅かな時だったのに、強烈に印象に残っている。
その上あの時に垣間見た記憶も加わって、どうにも胸が締め付けられてしまう。
苦しくて哀しくて切なくて、暫くは何も喉を通りそうにない。
ランチも、スープを飲むのがやっとだったのだ。
「まぁ、仕方がないですわね……」
王妃は少し考え込むような素振りを見せながらも手を止めず、箱の中にあるお菓子を全部皿に移し終わって、パコン…と蓋を閉めた。
その行動を見計らっていた侍女が、スススと動いて脇に立つ。
両の白い手が箱を持ちあげ横に差し出したのを、侍女が恭しく受け取って後退りしていく。
「…ねぇ、ユリアさん。
こんなお菓子ですみませんけれど、たくさんお食べになってね。
お食事は無理でも、この程度のものであれば大丈夫だと思いますの。
甘いものは、心を落ち着けて癒しますもの。
宜しいこと?しっかりと栄養を取ってゆっくり体を休めて、病気にならぬようにしてくださいましね。
そうでなければ、あの子が帰城したときに、私が叱られてしまいますわ。
あの子ったら、ああ見えましても怒りますと結構怖いんですのよ?」
「王子様が、王妃様に怒るのですか?」
「えぇ、そうですの…いいですこと?」
そう言って、王妃はもぞもぞと身動ぎをし、可愛らしく咳払いを一つした。
「こう言われてしまいますわ。
何も身に覚えのないことで、睨まれるのは嫌ですもの」
そして、すぅ…はぁ…と深呼吸する王妃。何だか緊張しているよう。
何をするのかしらと、興味深く見ていると、王妃の澄まし顔が変化し、唇を尖らせ眉を寄せ怒ったような表情に変わっていった。
「“母上、もしや、私の留守の間に、いじめてなどおられませんでしょうな?”」
唇をすぼませ精一杯低い声を出して、バルの声真似をする王妃。
おどけて笑わそうとしてるのが伝わる。
いつもの柔らかな鈴の音のような声が、しゃがれて聞こえて。顔真似までして。
正直言えばあまり似てないけれど、却ってそれが可笑しくて。
耐えきれずに噴き出してしまい、声を殺してくすくすと笑ってしまった。
すると王妃の怒り顔が見る間にほころび、「まぁ、成功しましたわね」と、嬉しそうに手を叩いた。
「ふぅ…、やっと笑いましたわね。
あぁ良かったこと――ね、ユリアさん?
どうかしら、あの子の真似、似てましたでしょう?」
「―――えぇとても。王妃様、流石お母様です。よく特徴を掴んでらして、お上手でしたわ」
身を乗り出して聞く、年齢を感じさせない無邪気な笑顔に受け合って、笑顔を崩さずにそう言うと「そうでしょうとも」と鼻高々にして顔を上げ、王妃は得意げに胸を張った。
結構皆さんに評判いいんですのよ?と、貴族方の夜会でも披露して、奥方様にウケたというお話をし始めた。
「―――ね、可笑しいでしょう?
あら、いけませんわ、つい夢中になってしまいまして。
―――さぁ、貴女も少しは気分も変わったでしょう。
それを食しなさいませ……ほら、紅茶も。
まぁ、少しばかり冷めてしまいましたけれど。
ちょうどいい具合に飲みごろになっておりますわ」
すらりとした指が優雅にカップを持ちあげ、ね?と言ってにこりと笑いかける。
――少し、天然なところがおありになるけど、王妃様はとても優しい。
こうして気に掛けてもらえるのはとても嬉しくて、おそれ多いことで。
もしも今独りきりでいたのなら、マリーヌ講師の宿題をしていていた。
それはいいのだけど、こんな日だもの、いろいろ考えてしまって集中出来ないに違いない。
“ユリア様、集中が足りません。それではやっても無駄ですわ”
ツンとして眼鏡を上げる仕草が容易に思い浮かぶ。
こうして楽しくお話して下さって、気を紛らわせて下さる王妃様。
これは無理してでも食べないといけないわ。
せっかくのお気持ちを無駄にしてしまう。
それに、今なら食べられそうな気がするわ――
「―――ありがとうございます。王妃様、いただきます」
置いたままにしてあった皿を手に取り、サイコロの形をしたお菓子をじっくり眺める。
これが『カフカ』という国のもの。
同じ種族の、人間のコックさんが作ったもの。
よく見ると三層全部、素材が違うもので作られている。
薄い焼き菓子の土台の上に茶色、真ん中に白、一番上に桃色と重なって、表面はゼリー状の透明な膜で覆われて金箔のような粉と小さな香草が乗せられていて、とても凝った作り。
小さいのに、何だかとても豪華なお菓子だ。
王妃が持ち込んだ金のフォークをさし入れると、下の焼き菓子が、サク、と小さな音を立ててほころんだ。
口に含むと、ほんのり酸っぱくて甘くてほろ苦くて。
三層の味が絶妙に混ぜ合わさってとても美味しい。
頬がとろけ落ちるような感覚に酔いしれていると、ある感情が胸に迫ってきた。
―――久しぶり―――
湧きあがる郷愁にも似た思い。
“懐かしい”
王妃の言葉通りに感じてる自分がいる。
以前に、これを食べたことがある。
そんな風に感じる。
何処で?……まさか、本当に――?
信じられない思いで、皿の上のお菓子をじっと見つめる。
見ればみるほど豪華なものに思える。
これを知ってるというの?
ということは、もしかして……。
『カフカ』それが、私の、国?
でももしかしたら、これじゃなくて、似た味のお菓子を舌が覚えてるだけかもしれない。
そう考えている間も、懐かしいと思う気持ちは薄れなくて自然に瞳が潤んでくる。
とにかく、この感情が本物なのか一過性のものなのか、もう一度食べて確認してみないと―――
ドキドキしながら、二口目を含んだ瞬間だった――――




