3
無機質な部屋の中、娘は震えていた。
他の生き物たちの訳の分からない言語や、鳴き声が耳を塞いでいても聞こえてくる。
すでに手の拘束は解かれていたが、その代わりに他の生き物たちと同じ様に革のベルトのようなものを首に付けられた。
そこから細い鎖が伸びて、部屋の隅の棒のような物に繋がれていた。
目の前にあるテーブルには冷たい飲み物とお菓子が乗せられている。
これは、さっきメイクを直してくれた女の人が“落ち着くから食べなさい”と言って持ってきてくれた。
娘は、実は喉が渇いていたが、それに気がつかないほどに怯え震えていた。
部屋の中に居た異形の者たちがどんどん青いカーテンの向こうに連れていかれ、最初ここに来た時に比べて随分減っていた。
――あの青いカーテンの向こう……。
ここにいた生き物の他に、宝石や有名画家の絵画や骨董品が売られてるみたい。
金槌みたいな音がどんどん聞こえてくる。
どうやって集めたのかしら……。
こんなに怖いのなら、あの時フルーツを食べなければよかったわ。
あのままずっと、ぼんやりと何も考えずに何も感じずにいれば、こんなに辛くなかったのに…―――
娘は自分の腕で震える体を庇うように、ぎゅっと包み込んで俯いた。
「おい…お前……お前も、攫われてきたのか……?それとも売られたのか……?それ、飲まないなら俺にくれないか?のどがカラカラなんだ」
不意に隣から声が聞こえてきて、娘は驚いて顔を上げた。こんな場所で、黒服達の他に人の声が聞けるとは思っていなかったのだ。
「誰?」
黒服達にばれないように気を使いながら、声のした方を見ると、薄汚い服を着て髪がぼさぼさの男がそこにいた。
それは、最初に部屋に入って来た時に見た、あの狼男だった。
いつの間に近くにきていたのか、まったく気がつかなかった。
狼男は辺りを警戒しながらこっそりと話しかけてきた。
「俺は狼男のバルって言うんだ。お前名前は?」
「名前……。私、分からないんです。何も覚えてなくて……」
「記憶が無いのか―――」
バルは気の毒そうに娘の顔を見た。
――こんなに美しい娘……何処から来たのか……。
匂い立つ柔らかそうな白い肌。
狼男の俺でさえも食指が動きそうになる。
この国の奴らにとっては、これは堪らないだろうな……――――――
「すまん、それは気の毒だな」
「ぃぇ……ぁ……の、これ、どうぞ」
震える手で飲み物を渡すと、余程のどが渇いていたのか、娘の手から奪うようにしてコップを持ち、ストローがあるにも構わずにそのままごくごくと美味しそうに喉を鳴らした。
「うめぇな~……ありがとな」
「あの、よかったら……このお菓子も、どうぞ」
狼男は“いいのか?”と言うような顔をした後、貪る様に食べ始めた。
―――よほどお腹が空いていたのね…良かった、食べてもらえて。
あまりにも美味しそうに食べてくれるので、娘はなんだか嬉しくなった。
バルのおかげで、さっきから感じている言いようのない恐怖感が、少し薄れた気がしたのだ。
「あ~生き返った……あいつら、ろくなもん食わしてくれなくてさ。ありがとな。感謝するよ」
「いいえ、どう致しまして」
「ここには、攫われてきた奴と、売られてきた奴が居るんだ。俺は酒場で飲んでいた時にやられたんだ。知らない奴だったが、妙に意気投合してさ。油断してたらこうさ―――」
バルは後頭部に拳を素早く当てて、殴られた動作をした。
よく見ると髪はぼさぼさで全体に汚れてはいるが、澄んだブラウンの瞳には生気が漲っている。
この人思ったよりも若いのかもしれないと思う。
「バルは随分長い間ここに居るの?」
「あぁ、そうだな……長いと言っていいのか、俺が捕まったのは3週間前だ。前回のオークションで出ていくことが出来なくてな。そのままずっと連中と一緒に居る。連中は今夜も俺を出すつもりらしいが、俺は売られる気なんて全くない。前回はわざと病気のふりして客の購買意欲をそいでやったんだ……。連中の慌てようと言ったら、そりゃぁなかったぜ」
バルは愉快気にニヤニヤと笑った。
その後、忙しげに動き回る黒服達を、睨むようにして見る。
「その代わり、その後の待遇が最悪になったが、な―――――だが、それも今夜までだ。俺はここから脱出する」
「でも…首のベルトが……それに、鎖も―――…」
言いかけて娘はハッとした。バルの首にはベルトは巻かれているが、鎖は繋がっていない。
「こんな鎖、満月の夜の俺にはなんてことないさ。今夜は月が霧に隠れているようだが、満月のパワーが俺のこの体に伝わってくる。月を見なくても俺は変身できるんだ。奴らはそれを知らない……」
娘が黙って見ていると、腕に堅い金色の毛がみるみるうちに伸びてきた。
バルは会場の様子を見ている黒服の背中を、様子を窺うように見る。
男は青いカーテンの中の係りの男と何か話しているようだ。
こちらに気付く様子はない。
「それはそうと、お前は人間だろう?お前のような人間の娘が何でこの国にいるんだ?それも覚えていなのか?」
そう聞いてくるバルのブラウンの瞳が、徐々に金色に変わりつつあった。
「わからないんです。何も――――ただ、街を歩いていたことは覚えてるんですけど。気が付いたらこの人達に捕まってて」
「そうか……食い物のお礼に一緒に逃がしてやりたいが、生憎、この警備の厳しさでは自分の身を守るのが精いっぱいだ。すまないな」
バルは申し訳なさそうに言うと、金色の瞳をギラリと輝かせながら体を蹲らせた。
部屋の中では黒服の男が娘たちの前を通り過ぎ、次の出番の者を連れていくところだった。
「いいんです。あなただけでも逃げて下さい。私は逃げても、行くところがありませんし……」
「そうか、すまんな……いい奴のとこに行けるといいな。俺が無事にここを出られて、お前が無事でいることが分かれば、いつか必ず恩を返しに行く」
バルは呟くように言うと、四つん這いになった。
床についた手の指が見る間に狼の脚のようになっていき、鋭い爪がにょきにょきと伸び、体の方にも毛が生えてきて、やがて狼そのものの風貌になった。
気持よさげに遠吠えをしたあと、娘をもう一度見つめて挨拶するように瞬きを2回し、えんじ色のカーテンに向かって走った。
風のような速さでカーテンを潜り抜け、廊下を疾駆していく。
会場の方では、バルの遠吠えが聞こえたのか、怯えた客たちが騒然としていた。廊下ではえんじ色のカーテンの側にいた黒服が、逃げていく狼の後ろ姿を見て、呆気にとられている。
「何だ!?あの狼は!?」
「おいあれ、狼男じゃないのか!?」
「まさか!?あいつ、月が見えなくても変身出来るのか?」
部屋の入口で目を見開いていた黒服の男が、ハッと我に帰りバルが走り去った方に向かって叫んだ。
「おい!狼男が逃げたぞ!!―――――そいつを逃がすな!」
娘が固唾を飲んでバルの走り去った方を見つめていると、廊下の方で黒服達の叫ぶ声と何かが倒れたような大きな物音が聞こえてきた。
慌てふためいて、バタバタと狼を追いかけていく何人もの足音が、娘のいるところから遠ざかっていく。
――どうか、バルが無事に逃げられますように――
娘は、そう願わずにはいられなかった。