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「ここで何をしている!?」
ユリアが叫んだのとほぼ同時に、ドアのすぐ向こうで凛とした声が響いた。
その威厳を含んだものに反応し、びくっと体を震わせた男の口がぱくぱくと動く。
「…何故、出掛けたはっ―――ずっ」
男の体が入口からグイと引き剥がされ飛んでいく。
繰り出されていた室長の爪が行き場を失い空を舞った。
――ダン!――
男の体は廊下の向こう側の壁に音を立ててぶつかり、ずるずると下に下がっていく。
急に目標が消え勢い余った室長が倒れかかる体をなんとか制御して体勢を整えていると、静かな怒りを含んだ声が廊下の方でした。
「―――残念だったな」
廊下が、黄金色に染まっているように見える。
男が呻きながら立ち上がり、よろめきながらも前方を睨んだ。
「ちっ…、殺るしかないかぁ!」
男が叫びながら身構え血に染まった爪を振り上げた瞬間――――シュン…と空気を切る音がした。
「うぶっ…ぐ……ぅ……」
フードの男が膝をつき、うぅ…と呻きながら前のめりに倒れる。
あまりにも一瞬のことに、何がどうなったのかさっぱり分からない。
さっきまで黄金色に見えた空気は普段のものに変わり、不気味にも不敵な薄笑いを浮かべていた男は、そこで身動き一つせず戦闘不能になっていた。
「……ルガルド」
「―――承知」
短い会話が聞こえてくる。
横たわっているフードの男の体が少し揺れた後、すーと引きずられて視界から消えていく。
室長はそのまま入口にいて、廊下いるであろう人物に向かって居住まいを正している。
「危なかったな。室長、ご苦労だった。まさかこんなことがあるとは――――…今、入ってもいいか?」
「はい。もちろんで御座います。御遠慮なさる方がおかしいですわ」
「いや、今、妃候補殿に機嫌を損ねられててな……。迂闊には会えんのだ」
分かるだろう?と、差し出された所々赤くなった布を受け取った室長に、くす、と笑みが零れる。
「まぁ、威厳もかたなしですわ。本当に、弱いのですね」
つい今さっきまで緊迫していた空気が、和らいでいく。
振り返った室長の瞳はいつもの色に戻っていた。
切れ長の瞳は優しげなものに変わっている。
切り替えが、早い。
もしかしたら、こういうことに慣れているのかも。
けれど。私は――――――
「ユリア様、王子様がおいでで御座います」
室長がにこやかに笑んで頭を下げ、脇に大きく避ける。
「室長侍女は下がっていろ」
「畏まりました」
室長が部屋から出ると、入れ替わるようにしてバルが入ってきた。
室長の手によって、ドアが音もなく閉められる。
「―――大丈夫か?」
真っ直ぐに向けられるブラウンの瞳。
心配げな表情で足早に近づいてくる。
何度も見た、いつものバルの顔。
“大丈夫じゃないわ”
そう言いたいけど、まだ震えが止まらない。
動けない。唇が固まったように閉じたままで開かない。
「……座っても、いいか?」
その問いに、答えることも出来ずに、ただ傍に立っているバルをじっと見つめた。
―――怖い……怖いの。
目の前で大切なものを失う恐怖。
前にもこんなことがあったの―――
黙ったままでいるのを拒否と受け取ったのか、バルは立ったまま。
腰をかがめ腕がゆっくりと伸びてきて、掌が震える肩にそっと乗せられた。
その拍子に、固まっていた体がビクンと動く。
同時に声も漏れた。
「ぁ……」
「―――すまない。怖かっただろう」
肩に乗せられた手に力が加わっていく。指が食い込んで少し痛い。
「バル……あの方は…何?」
―――私を狙っていたわ。室長が身を呈そうとしてた。
私はまた、止められなかった―――
「爪に…血が、たくさんついてて……」
――あの血は誰のものなの?
廊下で騒いでいた方たちは――?
「それに……それに、服にも血がたくさん付いてて…」
いつもの、あのヒトは無事なの?
あの侍女たちは?
みんなは?
いくつもの顔が頭の中をよぎっていく。
たくさんたくさん聞きたいことが溢れてくるのに、上手く舌が回らない。
途切れ途切れにしか言葉が出ない。
―――闇の中で閃く剣…
月明かりに見えた飛ぶ血飛沫……
倒れていく人……叫び声―――
同時に見えた光景。
私には何もできなかった。
震えてることしかできなかった。
「私…何も……何も、できなかったの」
―――見てることしか出来なかった。
もどかしくて、情けなくて、辛くて―――
涙が溢れてくる。
これは記憶の感情なの?
それとも、今のもの?
「わた…わ…私……私――っ」
「落ち着け。もう大丈夫だから。落ち着いてくれ、頼む」
ふわ…と体が包み込まれた。
耳元で、低い声が聞こえる。
……抱き締めて、すまない……
言葉と同時にバルの腕に力が入っていく。
「バル…あの…」
……すまない。今だけだ、許してくれ……
バルの腕に、ぐっと、力が入った。
息苦しいくらいに抱き締められて。
……もう、大丈夫だ……
耳元で何度も囁かれて。
バルの腕の中は、獣と血の匂いがする。
2つとも、私を守ってくれた匂い……。
「……戻って、良かった。俺は――」
後頭部に手が添えられて広い胸板に頬が押し付けられる。
バルの心臓の音が聞こえてくる。
きつく抱き締められたおかげか、ごちゃごちゃしていた頭の中が真っ白になった。
徐々に気持ちも落ち着いてきて、体の震えも止まった。
完全に怖さが消えた訳ではないけれど、バルの腕の中は温かくて、安心できた。
「いいか、お前が何も出来ないのは当然だ。寧ろ、何もしちゃいかんのだ。お前は守られるべき者だ。何があっても、前面に出てはいかん」
「何もせず、見てろって言うの?」
「そうだ。嫌なら見てなくてもいい。だが前に出るな。俺の後ろにいろ。なんとしても、お前を守るから。ジークや侍女たちも、俺と同様に思ってる。室長だってそうだ。懸命に守ろうとしただろう」
―――でも。
でも、それじゃ皆が危険な目にあうじゃない。
……分からない、どうしてなの?私が弱いから?
だから、守ろうとするの?
「バル、違うわ。…そんなの、おかしい。こんなドレスを着てるけれど、私は、みんなに守られるような身分じゃないわ。まして、王子様の貴方にだなんて。……ここで、一番守られるべき者は、貴方でしょう?私は――――っん―――……」
「お前は!」
いきなりがばっと体を離され両肩をガシと掴まれた。
乱暴にソファの背もたれに体が押し付けられ、背中がドサ…と音を立てる。
今まで見たこともないような顔が向けられる。
眉根が寄せられていて怒ってるように見えるけれど、瞳はとても哀しげで。
訴えかけるように、バルは見つめてくる。
「お前は何を言ってるんだ!確かに、俺は、この国の王子だ。守られるべき者では、ある。だが、お前は―――俺は――――っ……」
言いかけて開いていた唇がきゅっと結ばれる。
肩を掴んでいた手の力が緩んでいく。
やがて手を離して、バルはすくっと立ち上がった。
横を向き瞳を逸らしたまま、やっと聞きとれるほどの小さな声で、呟くように言った。
「乱暴にしてすまない……お前は…預かり者だ……怪我ひとつとして負わせられん。守るのは、当然だ」
そのまま上を向いて黙ってる。
何を思っているのか、深い息も吐いている。
何だか声をかけづらい。
けど。
「…バル。その、あずかり」
「あぁ、それに、だ―――」
問いかけようとした言葉の上に、また、強い声が重ねられた。
ゆっくりと向き直った顔は、普段どおりの表情に戻っている。
それから悪戯っこい笑みが漏れた。
まるで今までの出来事がなかったかのような笑顔。
「――それに、お前は俺の“妃候補”でもあるからな」
そんな顔をするな。偽の、だろう。と付け加え脇に跪いた。
口を開きかけると、静かに、と言って目の前に人差し指が立てられる。
これでまた、何も言えなくなってしまう。
――やっぱり、バルはずるい。
「―――さて、妃候補殿。宜しいか?」
重かった空気を払拭するように、口調を変えたバルの掌が膝の上の手にそっと重ねられた。
「俺が、そもそも何のためにここに来たのか、そろそろ話さねばならない。生憎時間も迫っている。聞いてくれるか?」
―――時間って、どうして―――
そういえば。
バルの姿を改めて見てハッとする。
いつものきちんとした服と違って、ジークの家で見たような軽い動きやすい服を身につけている。
もしかして、これは旅装束……。
どこかに、出かけるつもりなの?
「…はい」
「うむ、その表情。色々質問があることは、分かっているつもりだ。だが今は答える時間がない。それに俺は、お前が怒ってることは知ってる。見当違いでなければ、何故怒ってるのかも分かってる。ジークから聞いてるだろうが……これに関しては、これでもかなり落ち込んだんだぞ。お前に、嫌われたと、思った」
“バル様が沈み込んでいる”
―――ということは。あの原因は、ジークや王妃様の仰る通り、私だったの?
じっと見つめてくるブラウンの瞳は真摯な色で染められていて、珍しくずっと黙ってる。
「そのことは、ジークだけじゃなくて、王妃様からもうかがってます」
「っ、王妃も来たのか…」
バルも王妃様は苦手のようで、名前を出すといつも困ったような表情になる。
唯一の弱みのよう。
「えぇ、とても心配そうにしてました。でも、バル、間違えないで欲しいの。嫌ってるんじゃなくて、私は、怒ってるだけですから」
――だって、あまりにも何も言わせてもらえないんだもの。
今もそう。バルには人を黙らせる力がある。
やっぱり、こういう所は生まれながらの王子様なんだ、と思う。
人を、従わせる力――
「そうか、良かった―――――あぁ、いや、良くないんだが……怒らせて、すまん。俺は、王子だ。答えたくない質問や、言わせたくない言葉は先に遮る癖がある。さらに、希望を叶えるため、相手に有無を言わせないこともある」
気のせいか、バルの瞳が潤んでいて熱を持ってるように見える。
「……俺は、なるべくなら、お前にはそうしたくない。これからは気をつけるよう努力する」
乗せられていた掌に力が籠り、だから俺を許してくれるか?と聞いてきた。
こんな風に謝られて無下にすることなんてできない。
はい、と素直に答える。
すると、重ねられていた手が顔の方に移動してきて、頬に触れる寸前でピタリと止められた。
「部屋に入ってからずっと、気になっていたんだが。今朝は、目が腫れてるな……。昨日、眠れなかったのか?……そうだな。これは、泣いたような感じだ」
「ぇ?いいえ、そんなことは……ないです」
探るような瞳を向けるバルから、逃げるように顔を逸らした。
―――昨夜のこと―――
“ユリア”
懐かしいあの声と姿……。
あれは夢か現実か分からないけど、泣いたのは事実。
頬が濡れていたもの。
でも、バルはどうして分かるのかしら。
「こっちを向け―――何か、あったのか?妃教育のことか?」
「何も、ありません」
「嘘だろう。今までどれ程の時、お前を見てきたと思ってる。喜怒哀楽、いろんな顔を知っているんだ。俺は、ごまかせんぞ」
「ぇ、誤解してるわ。あの、目が腫れてるのは…今朝、目にゴミが入ってしまったせいだと思うの。それと、さっきの涙で……。さっきのでさらに腫れたのだと思います。妃教育とか、何もありませんから心配しないで」
慌てて微笑みを作って向けると、ふぅ、とため息が吐かれた。
「うむ、答えたくないなら、仕方がないな―――この姿を見て気付いてると思うが、俺は、今日から少しばかりの間出掛けてくる。留守の間は、この城宮の守りが薄くなる。さっきのこともあって、実はかなり不安なんだが……」
「あの方は、この宮の?」
「いや、奴はこの宮の者ではないが、城の仕事に従事してることは確かだ。今奴を尋問してる同行予定だった近衛騎士団長ルガルドを置いていく。俺をぬかせば、国一番に強い男だ。それに、ジークの部屋をこの隣に変更する。これで心配は少なくなるが、お前も十分気を付けていてくれ」
「はい」
「旅から戻ったら、お前に話がある。大事な話だ。そのつもりでいてくれ」




