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ロゥヴェルのやまない雨とは反対に、国境の川ひとつ隔てたラッツィオの国王都では、雨は一滴も降ることなく雲ひとつない空に月が煌々と輝いていた。
月は丸に近く月明かりはとても強い。
それは、道を歩く際も灯などはまったく必要のないほど。
「綺麗……」
薄紅色の唇から小さな呟きが漏れる。
ユリアは眠る前のひととき窓を開けて煌く夜景を楽しんでいた。
部屋の中の灯りは消されているが、月明かりが射しこむため読みものが出来る程に明るい。
―――これは、もうすぐ満月なのね。
確か、バル達は満月で変身するんだっけ。
ということは、数日後の夜には城中の方たちが狼になってるのかしら。
もしかして、あの王妃様も??
優雅に微笑むあのお方が狼に変身するところなんて、まるで想像できない。
狼の姿は、一度だけしか見たことないけれど、確か……。
大きな耳に金の瞳。
ふかふかのしっぽに綺麗な毛並み。
ちょっとだけ、触ってみたいかも……。
狼だらけの城……見てみたい気もするけど―――
向かいの宮の屋根に、月の明りが当たってつやつやと輝いている。
淡い色を帯びる光りが碧に当たって、所々翠に見えてまるで宝石のよう。
“この城の屋根は綺麗ですね”
今日の講義のときぽつりと言ったら、マリーヌ講師がこう教えてくれた。
“瑠璃の鉱石を使用してるのです”
と。豊かさの誇示と魔除けの意味があって、瑠璃の鉱石は魔を弾く効果があるのだそう。
結界の張れない種族なので、せめてもの防御、ということらしい。
長い時を経て効力は随分薄れてるそうだけど。
魔を弾くなんて、瑠璃の森みたい。
トントンと、小さなノック音が響いた。
起きていればすぐさま反応でき、うたたねしていれば起こすことがない、絶妙な音の大きさ。
後にそっと覗きこんだ室長侍女の切れ長の目が、ふと丸くなった。
「まぁ、ユリア様。まだ起きてらっしゃるのですね。眠れないのですか?ジーク様に連絡して薬を処方していただきましょうか?」
ドアを静かに閉め部屋の中にきびきびと入り込んだ室長は、眉を寄せ心配げな表情を作っている。
「いえ。月があまりにもキレイなので。……見てただけですから」
「……そうですか。もうすぐ満月で御座いますから―――」
そう言って外を眺める室長の瞳が輝きを増した。
ブラウンが少し黄色味がかってるように見える。
―――この子も、バルと同じように瞳の色が変わるのかしら―――
月の明りを受けて白く輝く頬、健康的な美しさを持つ横顔を見つめる。
「……貴女も、瞳の色が金に変わるの?」
すると慌てて瞳を伏せて、てのひらを左右に振った。
まるで見られたくないよう。
「いいえ。私などが、そんな―――――金色は至高の色で……」
「…至高の色?」
「―――瞳が金色に変化されるのは、王族の方だけで御座います。一般の者は黄色に変化すれば良い方で。しかも、殿方のみ。私のように女の身で瞳の色が変わるなど、本来はあり得ないことなのです」
細い眉が苦し気に動き、美しい顔を歪めた。
今までどんな思いで過ごしてきたのか、表情から窺える。
きっと、あらぬ中傷や蔑みを受けてきたに違いない。
優しい狼の国であっても、差別的な考えを持つ方もいるということ。
彼女はこんなに美しいのに―――
「私の前で隠すことはないわ。その瞳、とても素敵よ。私は好きだわ」
素直に、綺麗だと思った。
今、室長の瞳は月と同じ色をしている。
満月の夜にはもっと色濃くなり、黄色味が増すのだろうか。
「有難う御座います」
強張っていた表情が崩れ、はにかむような笑顔を見せてくれた。
その笑顔がすーと戻り唇が引き結ばれた。
淡い黄色の瞳が物言いたげに見つめる。
言葉を促すように無言で見つめ返すと、桃色の唇がゆっくりひらいた。
「あの……ユリア様は、王子様の瞳をご覧になられたのですね?」
「えぇ、何度か拝見しました」
「何度も……やはりそうですか」
再び瞳を伏せ、顔を反らしてしまった。俯いた顔が辛そうに見える。
金の瞳を見たと答えたことが、何故か室長の表情を曇らせていた。
特別な理由があるように見えるけれど……。
「どうか、したの?」
「いえ、何でも御座いませんわ―――月は、あと二日でまんまるになります。この景色も一層華やぎますわ」
問いかけた際、パッと上げた室長の顔はすでに普段のものに変わっていた。
それから暫しの時無言のまま一緒に月を眺めた。
流れる雲が部屋の中に影を落としたとき、室長の体が飛び退くように、隣から消えた。
彼女は遠く離れた壁際に瞬時に移動していた。
その跳躍力に唖然としてしまう。
「っ、申し訳御座いません。私などがユリア様と月を眺めるなど、許されることではありません。どうか、今のこと、お忘れください」
慌てたようにそう言うと、姿勢を改めて一歩前に出た。
言葉を待つようにそのまま黙っている。
室長は怯えていた。
侍女が職務中に任務以外のことで主と過ごすことなど、この城では禁じられていること。
こんな風に向き合ってること自体あり得ないことなのだ。
まして会話などもってのほか。
使う者と使われる者。
主と侍従の関係を崩してはいけない。
侍従長に報告されれば、厳しい咎めを受けることになる。
―――そういえばあの時、あの子たちも会話をすることを拒んでいたっけ―――
ユリアは目覚めた当初に、身支度を整えてくれた3人の侍女たちを思い出した。
二人で月を眺めた時間は僅かな時であったとしても、職務に忠実な室長の心の中は規律を破った罪悪感で一杯なのだろう。
俯きがちな表情は、どうしてそんなことをしたのだろう、と後悔の念に囚われているようにみえた。
「……パメラ、ありがとう。貴女のおかげで楽しい時を過ごせました。ご苦労様でした」
室長の瞳が見開く。パメラとは自分の名。
職務名の室長ではなく、目の前の主は個人名を呼んだ。
“個人的に私が呼んで、命じたのです”と言ったも同然なのだ。
侍女たちは仕える主の命には逆らうことが出来ない。
職務外の時間に、一緒に月を眺めろ、と言われれば従わなければいけない。
淡黄色の瞳を見つめる黒い瞳は、そういうことにしましょうと、暗に言っていた。
優しい心遣いに室長の胸が熱く痛む。
潤みかけた瞳を気力で押さえ、いつものように姿勢を正した。
「とんでも御座いません。お楽しみいただけて光栄で御座います……ですが、ユリア様、そろそろおやすみになりませんといけませんわ。明日に差し支えますもの。さぁ、ベッドにお入り下さいませ」
本来の目的を果たすべく、室長の手が優雅にベッドを指し示す。
「今、眠いと思っていたところなの」
それに従って移動し、ユリアは素直に毛布にくるまった。
本当は、眠くない。
もう少し外を眺めていたかったけど、役目とはいえこんな遅い時間まで仕事をしている室長にこれ以上手数をかけたくなかった。
「明るすぎますもの、カーテンも閉めておきますわ。ユリア様、おやすみなさいませ。良い夢を―――」
「おやすみなさい、パメラ」
―――良い夢を……本当に、そうなればいいけれど――――
パメラが下がり独りきりになる。
薄暗い部屋の中で金の天蓋を見つめ、いつものように心の中で呟く。
───おやすみなさい、ラヴル───
毎晩慣例の儀式のようにしているそれに、強い想いが乗せられるようになったのはこの城に来てからのこと。
―――夢でもいいの。貴方に会えるならば。
それで私はきっと、明日も頑張れるから――――
――――――――――……・・
『…ユリア……ユリア』
微睡みの中で呼び声が聞こえる。
聞き取り難く小さかったそれが、時が経つにつれて徐々にはっきりとし出す。
―――その名前を呼ぶのは誰?……違うの。
私、本当はその名前じゃないの。私は…私の名前は―――
『ユリア、無理をするな』
――懐かしいこの声の色。
ぞくぞくするような低い響き。
似てるわ。
ずっと、ずっと、聞きたいと焦がれていたものに。
でもまさか、信じられない……。
『……ユリア』
幻聴だろうと思う耳に、再度声が届けられる。
それはすぐ傍から発せられたようにはっきりとしていて。
―――ラヴルなの?…どうして傍にいるの?
『相変わらず、ユリアは面白いな。貴女が呼んだんだろう?でないと、いくら私でもこんな場所には来れん』
さも当然のことのように答え、クスクスと笑う声が聞こえる。
漆黒の瞳が妖しく悪戯っこく輝くのが脳裏に浮かぶ。
――そうよ……呼んだわ。
何度も、何度も。
私、幾度も貴方の姿を想った。
毎日のように会いたいと願ったわ。
でも――――――
胸が、詰まってくる。
想いが込み上げて来て、息が詰まりそうになる。
傍にいるように感じるけれど、これは現実ではなくて夢。
目覚めてしまえば貴方はそこにはいない。
毎晩願ってる想いが叶い、みせてるものなのだ。
触れたくても出来ない。
水に映る月のように。
貴方に手を伸ばしても、儚く消え去ってしまう。
夢で良いからと思ってはいたけれど、実際に声を聞いてしまうと却って辛くなってしまった。
会いたいと想う気持が一層、強まる。
あの漆黒の瞳に、姿を映したいと思ってしまう。
『嬉しいことを言ってくれる……ふむ、今日はやけに素直だな?いつもそうだといいんだが―――』
今度は満足そうな声。
――だって夢だもの。
夢の中くらい、素直でいたっていいでしょう?
意地っ張りな私は、こんなこと現実の貴方にはとても言えないけれど。
私は、貴方に会いたくて声が聞きたくて“夢でいいから”と毎晩願っているの。
笑ってしまうでしょう?
こんな想い、貴方には分からないでしょう―――?
『……私も、会いたいと、思っている』
言葉を区切り、貴方は切なそうに囁く。
――でも、会えなかったじゃない。
貴方は来てくれなかったわ。
勝手にいなくなった私のこと、貴方は許さないのでしょう。
見限ってしまって、すでに他の方を……お迎えになったのでしょう?
あの部屋には、もう、私の居場所はないのでしょう――
『ユリア、何を言っている。簡単に、私のモノを手放すはずないだろう。……ふむ、怪我はもう治ったようだな。……いい加減私の元に戻れ。私には貴女が必要だ』
優しい声に体中が喜びに震える。
けれど、これは、聞きたい言葉じゃない。
―――必要―――
覚悟はしていたけれど、私を想ってる訳ではないと、改めて言われてしまった。
必要、という言葉に男女の愛情なんてひとかけらも感じられない。
いつか、そうでなくなるときが確実にくる。
そうなったら貴方は私を、捨てる―――
『ユリア……目を開けろ』
何かが髪に触れてる。
耳元でぱらぱらと髪が落ちる音がする。
夢だというのに感触に現実味があって、しかも音が近い。
髪を弄る手。
傍にいた時の感覚が蘇り、知らずに涙が溢れてくる。
体が貴方を覚えている。
その先の腕の中に入れて欲しいと、切に願ってしまう。
それは叶わないとわかってるのに。
体に心に貴方が刻み込まれている。
これでは、一生忘れられそうにない……。
―――貴方は本当に、いじわるだわ―――
『……ユリア、泣くな』
言葉と一緒に、何かがふわりと頬に当たる。
それが涙を拭うように動く。
――やっぱり……貴方はそこにいるの?
これは夢の中ではないの?
でも、目を開けるのが怖い。
もし、そこにいなくて、この感覚も掻き消えてしまったら……。
無意識に手を伸ばす。
すると、宙を舞う手がふわりとしたものに包まれた。
反射的に目を開けると、ふわふわと揺れる人影が目に入った。
覆い被さるようにして見下ろしている。
それは、ラヴルを象ってはいるけれど、向こう側にある天蓋が透けて見えた。
「ラヴル……なの?」
――これは、何?…幻なの?
ぼやぼやとした顔が下りてくる。
涙にかすむ貴方は、以前と変わらずに妖艶に微笑む。
『―――まじないだ』
額と頬に、唇が当たる感触がした。
それが離れていき、髪を撫でる手も離され、目の上にある唇が呟いた。
『うむ……もう、限界だな』
同時に象っている形が揺らぎ、どんどん薄くなっていく。
もしかして、このまま消えてしまうの――――?
「待って、ラヴル。お願い、待って―――」
もう少しだけ―――
もう一度手を伸ばすも、指先は空を掴むだけ。
『…ユリア……必ず…』
「なに?聞こえないわ……ラヴル―――」
聞き取れない言葉と切なさを残し、ラヴルの影は跡形もなく消えた――――
・・……――――――――――
あれは、夢だったのかしら…それとも、現実?
どちらにしても、もっと早く目を開けていれば良かった。
瞳に映したいと焦がれていた人は、すぐに闇の向こうに消えてしまった。
最後の言葉も聞き取れないままで、限界だな、までしか残っていない。
どんなに後悔しても、遅い。
時を戻したいと願っても着々と進み、どんどん過去に変えていく。
月の明りが消え去り、太陽の光が地上を支配し始める。
でも、伝えたいことは臆することなく言えた。
全部ではないけれど、気持ちをぶつけることができた。
夢だからこそ、だけれど―――
あの幻のような影。
ここは魔の住む世界だもの。
あれが本当にラヴルのものなのか、他の何かが殻を被っていたのか、実際にははっきりと分からない。
けれど―――
髪に、頬に、触れてくれた優しい掌の感覚は、まぎれもなくラヴル本人のものだった。
だからきっと、会いに来てくれたのだと信じている。
夢うつつの中で交わした会話は少ないけれど、貰えた言葉を思い返すだけでこんなに幸せな気持ちになれる。
例え、それが記憶の中で良いように補正されていたとしても。
それに、強く願い続ければまた会えるかもしれない。
ここはバルの宮。
いつも見る夢のように、書き留めておくことは、はばかれる。
だから、記憶から零れないように、ひとつひとつを胸のうちにぎゅっと閉じ込めた。
ユリアがベッドから体を起こすと、ほぼ同時にノック音が聞こえ、いつも通りにリリィが顔をのぞかせた。
おはよう!ユリアさん!と言いながら元気な笑顔が前を通り過ぎ、カーテンを開け始める。
城宮に来てからの、いつも通りの一日が、始まる。
「ほら。見て、ユリアさん。今日もいい天気だよっ」
眩しいほどの朝日が部屋の壁に当たり、金属製のランプシェードを鈍く光らせた。




