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魔王に甘いくちづけを  作者: 涼川 凛
記憶の鍵
45/118

1

ラヴル・ヴェスタ・ロヴェルトが管理する街、ルミナ。


ここにも、雨は降り続いていた。


小高い山の上にある広大なラヴルの屋敷は、ユリアが姿を消して以来とてもひっそりとしている。


広大な庭の花壇には花はおろか草もなく、むき出しの土が雨に洗われ幾筋もの川を作っている。


他を排除するように閉ざされた玄関。


結界も張られてなく、一日中人の出入りする姿も見られず、まるで誰も住んでいないかのよう。


外見がそうならば屋敷の中も静けさが以前より増していて、磨き上げられた廊下の床だけが不気味につやつやと光り、等間隔に並んでいるドアの中からは相変わらず物音のひとつも聞こえてこない。


唯一つ、一番奥の部屋を除いては――――




ガタ…カタン……


「…まったく、困ったものだわ」


ナーダはついぼやいてしまった。


何も置かれてない部屋を掃除するのは、張りがないというか、心にぽっかりと穴が開いたように感じていた。


右手にバケツ左手にモップと箒を持ち、毎日の職務を果たそうとしているけど知らずに大きな息を吐いてしまう。


―――私が、ため息?―――


吐いた後にハッとする。


他人をコントロールする時に溜め息のように息を強く吐くことは幾度もあった。


そうすると大抵の者は緩慢だった動きが速やかになったり、滞っている仕事が進んだりするので便利に使用していた。


だが、こんな風に意味のない息など今までただの一度も吐いたことがない。



ナーダには“感情”というものが、あまりない。


“喜怒哀楽”でいえば、“怒”をかろうじて知っている程度だ。


あとの“喜、哀、楽”は物心ついてより今日まで、一度も感じたことがない。


笑ったこともなければ、泣いたこともない。


恐怖に怯えたことはあるが、泣いた記憶はない。


生きていくには、不必要な感情、だと思っている。



なのに――――


あの娘のふわりと笑った顔。


恥ずかしそうに俯く顔。


真っ赤になって毛布にもぐる姿。


むっすりと黙り込んだ顔。



それらを思い出すとちくんと心臓が痛むのだ。


おまけに、何故か瞳に水がたまるのだ。



「おかしい…」



そう思い頭を振るも、じんわりと胸に湧く感情はまったく消えてくれない。


これはどんな感情なのかわからないが、不思議なことに嫌なものではなかった。


もしかしてあの人間の娘に毒されてしまったのか。


僅かな付き合いでしかなかったのに。



ナーダは零れてくる目の水を手で拭い去り、部屋の中を見廻した。


ここは、元はユリアの部屋。


調度品もベッドも何もかもが排除され、ものの見事に何もない。


まさに空っぽな空間。


本当なら、毎日こんな風に掃除する必要などないのだ。



が、主の姿はなくても、何もなくても、ここはラヴル様の大切な方が使用する部屋。


塵ひとつ残さず磨きあげ、ランプシェードもきちんと手入れをしておかなければならない。


ラヴル様からそう命じられてもいる。




ラヴル様が屋敷に来られた時、たまにこの部屋に入ることがある。


何もないというのに、部屋に入り暫くの時を過ごされていくのだ。


一度用があった際に覗いたことがあるが、その時は灯りも点さずに窓を開け放ち、静かにそこに佇んでおられた。


瞳はしっかりと閉じられていて、外の景色を見ているというわけではなく、ただ窓際に立っておられた。


傍に寄って用事を伝えようとしたところ、そのままの姿勢で微動もなくこう仰った。


「ナーダ、この部屋の清掃は決して怠るな」



何をお考えなのかは分からない。


けれど、ラヴル様もそろそろ新しいお方が必要であることは確か。


ユリア様の姿が消えたことを知った貴族方が、自慢の令嬢の絵姿を毎日のように送ってこられてることは知っている。


この屋敷のラヴル様のお部屋に山と積まれている。


ケルンの屋敷にはどの程度来てるのか、想像するのも嫌になる。


かの地は都。ここ以上の山であることは確かだ。


だからある日突然、大切な方をお迎えになることをお決めになり、いつ新しい調度品が運び込まれるとも分からない。



ラヴル様はもうユリア様を探すことを諦めたのだろう。


部屋の清掃を命じるのもそのためかもしれない。


新しいお方を迎える準備。


ユリア様の香りを消す、そのために――――



ナーダはバケツとモップを床に置き、箒を動かし始めた。


今まであったものは捨てたわけではない。


使用できる状態でなくなったたのを処分したのだ。


そうなってしまったあの日を今も鮮明に思い出す。



――身の竦む思い――


久々に感じた震えだった。


体の奥底からじんわりと広がる恐怖。


唯一はっきりと感じることのできる感情だった。


今にして思えば、ツバキの顔はいつになく歪んでいた。



赤毛のリリィと一緒にユリアがいなくなった翌日のこと。


あの日ナーダは、今と同じ場所に呆然と立ち竦んでいた。



自分の目が信じられなかった。


ここは本当に屋敷の中なのだろうか。


この惨状は一体どういうことなのか。


ざっと見たところ、掃除をしなければいけないことだけは分かった。


ただ、何処から手をつけて良いのか分からないほどにごちゃごちゃで。


昨日までは普通の部屋だったのに、一晩で見る影もなくなっているなど普通ではない。


こんなになってることを知ったのは、ついさっきのことだ。



「ナーダ。ユリアの部屋を掃除しておいた方がいいぞ。昨夜は随分荒れていたからな」


朝の挨拶もないままツバキからそう連絡を受けた。


「分かりました。手早く清掃致します」



ラヴル様が荒れていたというけれど、少し物が壊れた程度なのだろうと思った。


最近、屋敷のあちこちで水さしやランプシェードが破壊されていたからだ。


事務的に応えて早速来てみたところ、ドアを開けた途端に目に飛び込んだ惨状に絶句してしまった。


軽く考えていたのでショックも一段と大きい。


さすがに、無表情な頬もヒクヒクと動いた。



確か、昨夜も物音はしなかったはず。


こんな風になるのには、普通かなりの破裂音がするだろうに。


それもしなかったということは、どういうことなのか。


恐ろしいことに、瞬時にこうなってしまったのか。



部屋の中の、ありとあらゆるもの全てが、原型を留めないほどに粉々に砕けていた。


かろうじて調度品があったのか、とわかる程度にところどころに瓦礫の山が築かれて、ドレスらしき綺麗な布もチラチラ見える。



数年前に、小島の屋敷の残骸を片付けたことを思い返す。


あの時は、あそこに誰も住んでいなかったことだけが幸いだった。


だがここには、コックから名もない使用人までを含めれば、30名は暮らしている。


もし手加減もなくして屋敷全部が潰れていたら弱い者には命の危険が伴う。


これくらいで済んで良かった、と思わなければ―――





――――今思い出しても震えが来る。


最近は落ち着いておられるけど、つい先日ヴィーラでお帰りになった時にも体から凄まじい怒りの気を発しておられた。


「何があったのか」


と同行したツバキに聞いたけれど、「何も言えない」と口を噤むばかりで聞き出せなかった。


あの時は、幸い何も壊されなかったけれど。



「本当に、困った……」


ナーダから先ほどとは違う意味でのため息が漏れる。


兎に角、早く、大切な方をお迎えしていただかなければ。


このままではセラヴィ様と同じく、ラヴル様の健康が害されかねない。


身も精神のほうも―――



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