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翌日、王妃に言われた通り、妃教育の講師はユリアの部屋にやってきていた。


「ユリア様、本日から講師を務めさせていただきます。マリーヌと申します。よろしくお願い致します」


きびきびとした動作で部屋に来た女性は深々と頭を下げてそう挨拶すると、眼鏡の蔓を二本の指でつまみクイッと上げた。


ぴっちりと編み込まれて低い位置で纏められたた黒髪。


飾り気のないシンプルな紺のワンピース。


アクセサリーの類いは一切着けてなくて、唇を一文字に結び、藍色の瞳からは何の表情も見えない。


三十代前半の女ざかり真っ最中に見えるのに、女性らしい洒落っ気も柔らかさもなく見るからに固くてとても厳しそう。


凛と通る声で鋭く尖ったような話し方をするので、とても怖く感じた。



―――雰囲気とこの抑揚のない声の感じ、ナーダによく似てるわ。


けど、マリーヌ講師のように冷たい感じはしない。


ナーダはもっと柔らかいもの……。



「よろしくお願いします」



立ち上がりにこりと微笑みながら挨拶するユリアを、マリーナ講師は上から下まで値踏みするように全身を眺めた。


「はい、では―――早速で御座いますが……。あ、どうぞお座り下さい。まずこちらを覚えていただきます。それでなんですが―――」


マリーヌ講師はコホンと咳払いをし、緊張気味に座っているユリアの前に紙の束を差し出した。


3㎝ほどの厚さに纏められたそれは紐で綴られて本のようになっている。


「―――貴女様はこの国の方ではないと伺っております。失礼ですが、我が国の文字はお読みになれますか?ロゥヴェルの文字と一緒ではありますが」


そう言いながら講師が紙の束を次々にテーブルの上に置いた。


積み上げられたそれは、全部で五冊もある。



―――コレを全部覚えるの?


この国のお妃さまになるのって、大変なことなのだわ。



偽り、という立場なので人ごとのように考えてしまうけれど、実際に、この勉強をするのは他でもない自分自身なわけで……。



「お読みになれるかどうか、それによりまして、カリキュラムを組み立て直さねばなりませんので、どうでしょうかと、王子様に御伺いしたところ“不明”とのお返事を頂きましたので。ま、貴女様は人間であられせられますので、お読みになれなくても何の恥にもなりません。今から覚えればよろしいことで御座います」


ツンと顔を上げ、マリーヌ講師はずれた眼鏡を直した。


―――とても読めるとも思えないけれど…――


そう思いながらもとりあえず、重ねられた本の一番上を手に取ってみた。


パラパラとめくる手をぴたりと止めて、本の文字を凝視してしまう。


「―――え」


思わず声が漏れ、そのまま固まってしまう。


ユリアの中でそれほどにショックなことがおこっていた。



「どうしました?あぁやはり読めませんね?」


「いえ、違います。あの、マリーヌ講師……私、これ、読めます…」


ユリアは信じられない思いで手の中の本を見つめた。


てのひら3つ分くらいの大きさのそれは思いの外ずっしりと重く、表紙には何の文字も書いてなくて、立派なひげを蓄えた男の人が玉座に座っている絵が描かれている。


何でこれが読めるのか。


ルミナの屋敷にいた頃に差し入れられた謎の手紙は、確か全く読めなかったというのに。


もしかして、あれとこれは違う文字で…。


でも、これは祖国の文字とは全く違うように思える。


前に男の子が出てきた夢を書きとめた時の文字が、多分祖国のもの。


こんな文字、一体どこで覚えたのか。


自分で自分が分からなくなる。


背中を冷たいものが走り、自分が怖いと感じてしまう。


――私は、誰なの―――――?



「では、ユリア様、どの部分でもよろしいです。少し音読してみて下さい。疑うわけでは御座いませんが、念のためです」


「…はい。えっと…298年、ロゥヴェルより独立。初代王ルシル・マルフィ、国名ラッツィオとす。309年、奴隷制度廃止―――…」


適当な目についた文章を読み上げる。


年度と時の王名、主な出来事が書かれていて、この本は国の歴史のよう。


読むのを辞めても、マリーヌ講師は何も言わない。


あまりにも反応がないので、もしかすると実はすっかり全部間違えていて、無表情な顔が呆れ顔に変わってるかもしれない。


読めてないのであれば、それはそれで却ってホッとするけれど、さっき「読めます」と言った手前、違っていたら少し恥ずかしい。


「あの…合ってますか?」


ユリアが恐る恐ると見上げてみると、眼鏡の奥の細めだった瞳が少しだけ丸くなっていて、口が半開きで固まっていた。


その様子は、呆れてしまって開いた口が塞がらないというよりも、意外なことに驚いていてすっかり言葉を失っているように見えた。


「マリーヌ講師?」


慎重に声をかけると、マリーヌ講師は、ぱっと我にかえって眼鏡の蔓を指でつまんだ。


「あぁ、申し訳ありません。もちろん合っております。では、手習いは必要ありませんね。読めるのであれば、文字も書けるはずですので。念のため準備してきましたが―――」


そう言って次に差し出そうとしていた紙の束をサッと鞄の中に仕舞ったあと、眼鏡をくいっと上げた。


「では、講義を始めます――――…」




***




緊張の中、初めての講義が終ったあと。


午後の部屋の中でユリアは真剣な面持ちでテーブルに向かっていた。




「っと、これは…でしょ…で、こっちは―――――」


柄に花が描かれた可愛らしいペンを持ち、ぶつぶつ独りごちながら紙とにらめっこ。


目の前に置いた物の他に、テーブルの隅には3枚の紙の切れ端が乗っている。


全部で4枚あるうち、まだ2枚しか出来ていない。


講義の終了と同時にマリーヌ講師が眼鏡の蔓をつまみながらツンと顔を上げ


「では、これをどうぞ。課題で御座います。明日までに」


と言って置いていったものだ。



マリーヌ講師は教えるのは上手だけれど、冷たい雰囲気が少し苦手。


たまに眼鏡の奥が蔑むような色を見せるのでぞくっとする。


やっぱり種族が違うから嫌われてるのかも、と思う。


こんな人が妃候補?王子様に相応しくないわって、思っていそうなのだ。


偽の立場だから、どう思われていたとしてもそんなことはいいのだけど。


でも、出来ないお方だと思われるのはとても悔しいし、リリィの主としては“やっぱり他所者だから”と言われて、肩身の狭い思いをさせるのはまことに忍びなく思う。


だから講義の間ずっと気が抜けなくて、真剣に、一言ももらさず、半ば睨みつけるようにして聞いていた。


…おかげで習ったことは全部覚えているけれど…。



「もう、バルったら。話が違うんだもの。適当どころか、これでは本格的な上に必死だわ」


毒気のないバルの笑顔を思い出す。


全ての人を懐柔する人懐っこい笑顔が迫ってくる。



―――…っ、そんな爽やかな顔してもダメなんだから。


私は、この間からずっと怒ってるんだから。


それにまだ謝って貰ってないもの。


王子様が謝るなんて、そんなことしないかもしれないけれど。


でも、でも。


身分に関係なく悪いと思ったら謝らなくちゃいけないと思うの。私は、許さないんだから――



紙には今日習ったばかりの内容が穴埋め問題となって書かれている。


ぷんすかしながらも、ひとつひとつ思い出しながら慎重に答えを書いていると、ドアをノックする音が響いた。


少し遠慮がちに出された小さめなこの音は、お付きの侍女のうち一番歳若の子のもの。


手を休めてふと時計を見やると、お茶の時間になるところだった。


―――もう、そんな時間なのね。夢中になってると時が経つのが早いわ……。


疲れた頭をコキコキと左右に動かしてると、入ってきた侍女がワゴンの脇に立って膝を折って挨拶した。



「―――失礼致します。ユリア様、お茶のお時間で御座います、一休みして下さいませ。…あぁ、お待ち下さい。そんなこと宜しいです。今日は、こちらに準備致しますわ」



ユリアが散らかったテーブルの上を急いで片付け始めると慌てて遮り、ワゴンを押して窓際のソファセットの方へ進んだ。


リリィと同い年にみえるその侍女は、いつものようにお茶の準備をし始めた。


見惚れるほどに優雅に手が動き、静かな部屋の中にカチャカチャと陶器が当たる音が響く。


幼さの残る顔つきに似合わないその優雅さは、教育の賜物なんだろう。


―――リリィも、そのうちこうなるのかしら。


あの元気なリリィが澄ました顔でお茶を淹れるところを想像し、クスと笑みを漏らした。


「何か、楽しいことでも御座いましたか?」


「えぇ、少し」


「そうですか。それは宜しいことですわ」



ほどなくシンプルな白磁のカップに琥珀色の液体が注がれ、香ばしい香りがふんわりと部屋の中に満ちた。


頃合いを見てソファの方に移動すると、珈琲とお菓子が静かに提供された。


丁寧に編まれた薄桃色のレースの敷物。


その上に置かれたお茶菓子に、思わず目を見張った。



―――これは…。


「…美味しそう…ね、今日はいつもと違うのね?」



―――それとも何かの勘違い?


お茶の時間に添えられるものは大抵シンプルな焼き菓子で、それはいつも美味しくて、大好きなんだけど。


これはどうしたのかしら……あ、もしかして誰かの誕生日なのかも。


それで、お祝いしたついでに私にも…ということよね、きっと――



「あの、今日は何かお祝いごとがあったの?とても豪華だわ」


「いいえ、違いますわ。祝い事など何も御座いません。あぁ、そうですね―――ユリア様?驚かないでください」



侍女は一瞬目を見開いて振り向いたが、ユリアの言いたいことを察したようで、すぐに笑顔に戻ってそう言った。


うふふと笑い声を漏らしたあと、そのまま押し黙っている。


それはまるでこちらの反応を楽しんでるかのように見え、ユリアは少しむっとしてしまった。




「っと、何なのかしら。やっぱり、特別なんでしょ?」


「そうなんですぅ―――――これは、王子様が購入されたものだそうですよ。し・か・も。これは『straw』のプディングなんですぅ」



さっきまで落ち着いていたのに、侍女の声がワントーン上がり瞳は潤んで光りを帯び、特別なんですよぉ、と言った頬が少し上気していた。


お菓子を指し示した手までもがキラキラとした空気を纏っているよう。



「ごめんなさい。あの、『すとろー』っていうのは、何ですか?」


「国一番の高名なパテシエがいる菓子店の名前です。今日の朝一番に、王子様自ら出向いて、お買い求めになったそうですよぉ」


「―――王子様が、これを?」



改めて、出されたものをまじまじと見つめる。


シンプルな白いお皿に大きなプディングが乗っていて、その横にクリームとフルーツが彩りよく盛り付けらている。


まるでディナー後のお洒落なデザートのよう。


バルが買って来たのは、この真ん中のプディングだ。



「そうですわ…きっと、勉学に勤しむユリア様のためにご用意なさったのですわ。…あの王子様がですよぉ?素敵ですわぁ…。ユリア様、本当にお幸せですわねぇ」


ため息交じりな声。


侍女は胸の前で手を組み、夢見るように宙を見つめる。


その瞳がハート型に見えるのは、気のせいかもしれない。


でも正直、“あの王子様がですよぉ?”と言われてもユリアにはピンとこない。


このお菓子もわざわざ買いに出かけたわけではなくて、何かの用事を済ませたついでに、適当に見つけたお店に寄ったのだ。


それがたまたま有名なお店であって。これも店主に進められて、購入を決めたに違いない。



先日からすっかり悪くなってしまっているバルのイメージ。


ユリアの中で、これが払拭されるの日は、いつになるのだろうか。



――でも、侍女がそんな風に言うなんて、バルってどんな王子様なのかしら。


確かに、人気とか人望とかありそうだけど。


ジークの家で、過保護なくらいに心配してくれた姿しか知らない。


看病してくれたことは、とても感謝してるし、あの青年から守ってくれたらしいところも、とても有り難いと思う。


でもでも、あれとそれとは別なんだから。


私は、怒ってるんだもの――



不意に懐柔されかかり「誤魔化されては駄目よ」と独りごちながら頭をぶんぶんと左右に振っていると、侍女が咳ばらいをしつつ遠慮がちに声をかけた。


「あの、ユリア様。そのように感動しておられるところ申し訳御座いませんが、お早くお召し上がりになりませんと…。ほら、珈琲も冷めてしまいますわ」


夢見る乙女状態から我に帰ったようで、いつものトーンに戻った侍女の瞳が早く食べてくれと急かしている。


今の、何処が感動してるように見えたのか。


思い込みというものは、事実を歪めて解釈するものらしい。


いろいろ思うことはあるけれど、美味しいお菓子には罪はないと思いなおし、ユリアは遠慮なくいただくことにした。



「いただきます」


一口含むと、そのあまりの美味しさにたちまちに頬が落ちそうになる。


さすが、国一番のお店のお菓子。


一口入れるごとに疲れていた心と体に甘みが沁みわたっていく。


食べ終わる頃には身も心もすっかり癒され、ほんわりと温かい気持ちになっていた。



「ありがとう。これで残りの課題も頑張れそうよ」


「まぁ、そうですか。王子様にそうお伝えしておきますわ」


空になった食器を片付け始めた侍女は、爽やかな笑顔を残して部屋を出ていった。


気分一新したユリアは、再びテーブルに向かい課題を片付け始めた。



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