5
その日の午後のこと。
城の中のある場所から、コロコロと笑う楽しげな女性の声が響いていた。
気持のいい日差しの降り注ぐ中、それは遠く離れた中庭まで届くほどに大きくて、作業中の庭師達が嬉しげに目を細めているほど。
それはここ最近聞かれなかったもので、久しぶりに耳に届くそれは庭師たちにとってはとても心地よい音になっているのだ。
その発生源は、王妃の住む宮の広いテラス。
大きく放たれた両開きの窓と、風に揺れるカーテン。
籐椅子に座りににこにこと機嫌良く笑みながら、緊張気味のユリアにしきりに話しかけているのは、この国の王妃、アーシアだ。
色とりどりのタイルで綺麗に装飾された、職人技満載の丸いガーデンテーブルの上には、グリーンのマットが敷かれ、淡いピンク色の紅茶と、フルーツがふんだんにのせられたケーキが置かれている。
少し離れた位置に侍女たちが6人ほどずらりと並び、二人の話を聞くともなく澄ました顔で立っている。
ユリアはケーキをつつきながら、王妃の話に曖昧な笑みを浮かべつつ当たり障りのない返事を繰り返していた。
さっきから“王子とは何処でお会いになりましたの?”とか“どこがお気に召したのかしら?”とか矢継ぎ早に質問されているのだ。
それはまるで若い娘が咲かせる恋話のようで、頬をほんのりと赤らめウキウキと話す様子は、とても威厳ある王妃様とは思えず、親しみさえ感じてしまう。
とても可愛らしい方だと思った。
ユリアはバルと打ち合わせておいた通りに答えているけど、この素敵な方を騙していると思うとどうにも引き攣った笑顔になり、嘘がバレてはいないかひやひやしていた。
一通りの質問が終わったのか、ホッと一息ついた王妃が、紅茶のカップをカチリと置いて満面の笑みをユリアに向けた。
「ねぇ、ユリアさん、こんなことを貴女に話すのはどうかと思うのですけれど……聞いて下さるかしら」
「はい。どうぞお話し下さい」
ユリアがニコリと微笑みながらそう答えると、王妃は一拍置いた後、では、お話しさせてもらうわね…と呟き、早速話し始めた。
「ユリアさん、私嬉しいんですのよ。
王子はあの通りでしょう?
仕事ばかりで結婚に全く興味がなくて、私が縁談を持っていっても絵姿を見もせずに断ってしまうんですの。
あの子はこの国の世継ぎですもの。
早く身を固めさせたくても、いつもいつも出掛けてばかりで、誰か心に決めた方がいるのかしらと観察していても、女性の影などチラリとも見えなくて。
もう駄目かしら、もしかしたら女性に興味がないのかしら、このまま独身をとおすならばこの次は養子を取るしかないのかしら、と諦めかけていましたの」
「……そうですか」
「そうですの。
あの子ったら、あれでもこの国の令嬢たちに人気がありましてね。
妃候補になりたいお方は掃いて捨てるほどおりましたの。
それなのに、あの子ったら、降る様に舞い込む縁談について話そうにも、空を飛ぶ鳥のように一向に捕まえることが出来なくて……」
ふぅ……と息をつき、王妃の美しい手がテーブルの上のカップを手に取った。
一旦紅茶を口に含み優雅にカップを置くと、ふぅ…と一息入れて、また話し始める。
どうも話相手が出来たことが嬉しいらしく、王妃の口は暫く止まりそうもない。
「そうそう、こんなこともありましたのよ。
数か月前のことですけれど、3週間以上も帰城しないことがありましたのよ。
珍しく狼の姿でやっとこ帰ってきたと思ったら、無精髭に薄汚い服を着ていて。
思わず問い詰めましたら“人買い組織の潜入捜査をしていた”というではありませんか。
私、気を失いかけましたわ。だってそうでしょう?
世継ぎの王子自らがそんな危険なことするなどと、信じられませんことよ。
そのようなことは、従者にさせればよろしいのに……。
まぁ、貴女が妃になってくれれば、危険なこともしなくなりましょうけど」
守る者が出来ますものね、とウィンクする王妃に対し、ユリアは驚きの声を上げた。
「えっ、潜入捜査、ですか?」
「えぇ、あの時は、無事で帰ってくれたことに心底安心して涙を零してしまいましたわ。
ま、あの子は飄々としてましたけれど」
――まさか、王子様自らそんなことするだなんて、かなり行動的な方なんだわ。
というか、かなり無謀な方なのかも。
まだ一度もお会いしてないけれど、どんな方なのかしら。
バルもひどいわ。
顔も知らない方のお妃候補のふりをしろだなんて言うんだもの。
こうして王妃様とお話しすることにも、ドキドキしてしまう。
バルの顔を見たら、早速会わせてもらえるように頼まなくちゃ。
これでは困ってしまうもの―――
「それでね、ユリアさん。つい最近のことですわ。
あの子が帰城したときに、私、絵姿を持っていきましたの。
これを逃してはいつ捕まえられるか分からないんですもの。
しつこく何度も絵姿を渡そうとしましたわ。
そうしたら、何度も何度も“また後に見ますから”と繰り返されて、ちっとも受け取ろうとしませんの。
次第に、こう、追いかけっこのようになりましたの。
私ほとほと疲れてしまいまして、椅子で休んでいましたわ。
また後で見せればいいと、そう思いましたの。
で、そうしてるうちにすぐにまた出掛けてしまう始末でしょう。
後に見ると言っていたのに、結局見もせずに、しかも私に何の断りもなく、ですのよ?」
許せませんことよ、というように宙を睨みつけ、王妃は手にしたカップをカチャリと音を立ててソーサーの上に置いた。
そうとう立腹したのを思い出したのか、ユリアを見る瞳が細まり据わっているように見える。
迫力を増した美しい顔が、あなたも何か仰いなさいな、とばかりに無言のまま見、ユリアの相槌を待っていた。
それに対し、何か気のきいたことを言いたくても、何せ王子のことを全く知らないので、ありきたりな返事しか思いつかない。
「…まぁ。王子様ったら、困ったものですね……はっきり仰ればよろしいのに」
そういうと、王妃は満足だったのか、その言葉を待っていたのよとばかりに、ぱぁ…と顔を輝かせて微笑んだ。
「えぇ、そうでしょう?
貴女、分かって下さるのね…嬉しいわ―――
そうなのですわ、貴女という心に決めた方がいるなら、そうはっきり言えば宜しいのに。
あの子ったら何も言わないんですもの。
ですからね、私、大変でしたの。
今度はいつ帰ってくるのしら、また何週間も先なのかしら。
あちらの家にもこちらのご令嬢にもすぐにお返事をしなければならないのに。
いつ帰るのかくらい言って出かければよろしいのに。
いいえ、もうこうなったら仕事先に出向こうかしら。
と、こう…ヤキモキしていましたの。
そしたら貴女、翌日すぐに帰ってきて、こんなに可愛らしい方を連れ帰って来るんですもの。
しかも、あぁ、貴女は覚えてらっしゃらないでしょうけれど……。
その…抱きかかえて、ですのよ?
もう、その時の私の驚きの気持ちったら、ユリアさん、貴女お分かりになります?」
「え……っと…分かりません…」
首を傾げて、曖昧に微笑むユリアを見た王妃は、艶めく唇を扇で隠し、優雅にオホホと笑った。
「まぁ、分からなくて当然ですわね―――――
ねぇ、ユリアさん……こちらにいらっしゃいな」
脇に控えていた侍女がササと近寄り椅子を引こうとするので、自然と体が動いて立ちあがり、王妃に招かれるまま傍に近寄った。
ニコリと優しく笑み、そっとユリアの手を握る王妃。
「聞き及んだことに寄りますと、貴女は御両親を亡くされて孤独な身の上だとか……。
私、もうすでに貴女のことは娘のように思っておりますのよ。
嫁に迎えるのですもの、当然ですけれど―――…。
これから私のことは母と呼んで下さいましね。
困ったことがあれば、何でも私に相談なさるとよろしいわ」
「はい、王妃様、ありがとうございます」
「―――まぁ、やはり可愛らしいわ。
あの子ったら、こんなお方を、ずーっと隠していましたのね?
貴女を見て、今までどのような縁談も無視していた訳がよくわかりましたわ。
あの子が夢中になるのも分かると言うものです。
――――で、お体の具合が優れぬと聞いておりますけれど、もうよろしいんですの?」
「はい、ゆっくり休ませていただきましたので、すっかり良くなりました。もう大丈夫です。ありがとうございます」
「そう、良かったこと。
でしたら、もう妃教育を始めても宜しいわね?
あの子ったら、貴女の教育や婚約式の日取りや婚儀のスケジュールとかいろいろ相談をしようと話しかけましても、何かと理由を言って逃げていくんですの。
自分のことですのに、酷いと思いませんこと?」
「え…、あ…あの。王子様はお忙しいのでしょうから、私の教育の予定は王妃様と私で先に決めましょう。その他のことは、王子様のお仕事が落ち着いてからゆっくりでもよろしいのではないでしょうか」
「そうねぇ……。
でもね、ユリアさん。あの子がせっかく結婚する意思を見せているんですもの。
気が変わらないうちに早く、と私、どうしても焦ってしまうのですわ」
王妃は、ふぅ…と深い息をついて、額に手を当てた。
その仕草が一々優雅だ。
「…まぁ、いいでしょう。
ユリアさんの仰る通りにしましょう。
あまりに急ぎすぎても、却って気を削いでしまうことになりかねませんものね」
そう言うと、ユリアを自席に戻るように促し、目の前におかれているケーキに手を伸ばした。
それを見た侍女がすかさず紅茶のお代わりをカップに注いでいる。
王妃のお話がやっとこひと段落したようなので、ユリアは漸く口を挟むことが出来るようになった。
一つ、聞きたいことがあるのだ。
いくらバルが妃候補だと言ってても、一般の家ならばともかく王子様の嫁となるのだから、身辺調査とか健康であるかとかもろもろ調べてから話を進めるのではないのだろうか。
それをすっ飛ばして、もう決まってるような様子に疑問を持ったのだ。
それに“もしかしたらそうかもしれない”というだけで、良家のお嬢様という確証もなく、第一、ただの人間なのにいいのだろうか、とも思っている。
「あの、王妃様、ひとつ確認したいことがあるんですけど、宜しいですか?」
ケーキをつついていた手をピタリと止めたあとフォークを置き、王妃はユリアをじっと見つめた。
「まぁ、なんですの、改まって……なんなりとお聞きなさいな?」
「…王子様のお妃、私でよろしいんですか?私はこの国の者ではないですし……」
「まぁまぁまぁ、いけませんわ、貴女、何を仰るのかしら。
もちろんよろしいですわ、貴女がいいんですの。
いえ、貴女でなければ駄目なんですの。
あの子に結婚の決意をさせただけでも立派なことですもの。
この機会を逃したら、この先結婚のけの字もあの子の口から出てきませんわ」
王妃の潤んだ美しい瞳がさらにキラリと光りを放ち、ユリアをしっかりととらえた。
決して逃がしませんことよ?と言われた気がして、背中がぞくっと震えた。
不安でいっぱいになり、やっぱりきちんと断るべきだったと、悶々とした気持ちになってしまう。
バルが“信じろ”と言ってくれたことを思い出し、今すぐ断りたい気持ちと懸命に折り合いをつけていると、後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「―――失礼。そろそろ返していただけますか。何しろ、病み上がりなものですから…」
足音と一緒にその声はだんだん近づいてきて「さぁ、戻るぞ」と、ユリアに手が差し出された。
その手にそっと捕まって立ちあがると、当たり前のように腰のあたりに手が添えられる。
「あらまぁ、わざわざお迎えに参りましたのね?
お優しくて何よりです……では、もう帰さないとならないわね」
王妃が二人を交互に見て満足げに微笑んで立ちあがった。
その瞳は心底嬉しそうで、キラキラと輝いていた。
「ユリアさん、楽しかったわ。
また一緒にお茶して下さいな」
「こちらこそ、楽しく過ごさせていただきました。ありがとうございます」
ユリアは膝を折って挨拶をし、名残惜しげな表情を浮かべる王妃を残し、バルに誘導され王妃の宮を後にした。
バルは気遣うようにゆっくりと歩いている。
少し離れて、お付きの侍女が俯き加減でしずしずと着かず離れずの距離を取って着いてきていた。
王妃の住む宮は結構遠くて、部屋まで帰ろうと思うとかなりの時間がかかる。
忙しいだろうにわざわざ送り迎えをしてくれるバルに申し訳なくて、案内できる侍女もいるし、一人で帰れるからお仕事に戻って大丈夫よ、と声をかけようとしていたら、先にバルが口を開いた。
「すまんな、王妃はよくお話になるだろう。何しろずっと娘が欲しかったらしく、お前が来たものだから嬉しくてたまらないようなんだ。疲れていないか?」
「いえ、とても楽しい方でした。王子様のことが大好きなようですよ。いろいろ話して下さいました」
「ふむ…そうか。で、なんと言っていた?」
「え?王子様のことだもの、バルには言えないわ。内緒、よ」
うふふと笑いながらユリアがそう言うと、くるりと顔を向けて見下ろすバルは、微妙に困ったような表情をしていた。
「―――ん?俺には言えんとは、どういうことだ?まさか、変なことを聞かされてないだろうな……」
唸るような声で、うーん、と呟く声が聞こえる。
どうしてバルが気にするのだろうかと思いつつ見上げるユリアの瞳に、顎に手を当てて何か考えているバルが映った。
「…変なことって――例えばどんな?」
「いや、子供の頃のことであるとか、その……いろいろだ」
少し恥ずかしそうな声色を出すバルを見るにつけ、ユリアはますます不思議に思ってしまう。
何かが、おかしい。
「そんなことは話してないけれど。でも、バル。どうして貴方がそんなことを知りたいの?」
だって、王子様のことなのよ?と言いながら首を傾げ見上げるユリア。
と、知りたいも何も……と呟いたあと、バルは急にぴたと止まってユリアの正面にまわった。
その表情はとても訝しげだ。
「……ん?ちょっと待て。何かおかしいな」
そう言ったバルは、遠くを見るような瞳で暫く無言のままでいる。それは頭の中で順序立てて何かを整理していると見えた。
やがてユリアを真っ直ぐ見つめて、ふ…と微笑んだ。
「お前、俺を何だと思っている?」
「えっと、何って―――バルは、この国の偉いお方って聞いているわ。だから身分も高いのでしょう?」
ユリアがそう言うと、バルは暫く固まった後に、ユリアの後方にいる侍女に向かって、お前は下がっていろ、と命じた。
侍女が膝を折って下がっていくのを見届けると、再びユリアを見つめる。
「あぁ、確かに身分は高いぞ。なんと言っても、世継ぎの君の妃候補を決められるくらいだからな―――で、具体的には何だと思っている?」
ユリアは心底分からずに首を傾げていると、バルは悪戯っこく瞳を輝かせ、ん?答えてみろ、と言って愉快気に微笑んだ。
すっと背筋を伸ばし上質の服を着たバルの姿は、見れば見るほど堂々としていて立派に見える。
ジークの家で見ていたユリアの知っているバルとは、随分違っている。
「んっと。そうね…何かしら……お傍付の重臣、なのでしょ?」
「ふむ、そうきたか…。お前に言わなかった俺が悪いんだな。知ってると思い込んでいた。すまんな」
そう言うとバルは、我慢できないのかお腹を押さえて、くっくっくと喉の奥で可笑しそうに笑っている。
あまりに笑っているので、ユリアは自らが言った言葉全部、半ばムッとしながら頭の中で反芻し始める。
だけど、どう考えてもおかしなことを言った覚えはない。
「どういうことなの?」
むっすりとして見つめるユリアに、あぁ笑ってすまんな、とやっとこ笑いを止め、バルは小さな手をそっと握った。
宥めるような穏やかな瞳がユリアを見つめる。
「今、分かった。お前は割と鈍感なんだな。いいか、良く聞けよ?」
いや、そんなに見つめられると何やら緊張するのだが…、と言葉を継ぎ、バルは緊張をほぐすように息を吸い込んだ。
「…俺が、この国の王子だ」
「うそ…でしょう?だって―――」
ユリアの頭の中でいろんなシーンが蘇る。
ジークの家でのことも。オークション会場でのことも。
王子様があんなことをするのだろうか。
でもさっきの王妃の話をよく噛み砕いてみれば、バルが王子様って答えは至極当然のことに思えて……。
「俺は、お前の記憶が戻ればそれでいい。俺を信じてくれるか」
笑顔から一転して真摯な表情になったバルを、呆然と見つめながらもいつの間にか唇は勝手に動き、ユリアは「はい…」と、素直に返事をしていた。




