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時は経ち、辺りがすっかり闇に染まり仕事を終えた城の皆がそれぞれの憩いの時間を過ごしている頃。
ユリアの部屋の中では、リリィのお喋りする声が絶え間なく続いていた。
「……それでね、このカッコを見てザキが言ったの。それ、結構似合ってるじゃねぇかって。バルさんもジークさんも、そう言うの。私はこんな暗い色、好きじゃないんだけど……。ね、ユリアさんはどう思う?」
黒の侍女服を身に纏ったリリィが、その場でくるりとまわって見せる。
確かにいつも明るい色の服を好んで着てるけど、侍女服に身を包み髪を一つに纏め上げたリリィは、いつもより少し大人びて見え、可愛いというよりも綺麗と言う方がぴったりくる。
――きっと、ザキは眩しそうな瞳をしたんだろうな……。
ザキの顔を想像すると微笑ましくて、自然と笑みが零れる。
「えぇ、とても綺麗よ。赤毛が映えてとても素敵だわ。少し大人になったみたい」
「そう、かな……ユリアさんがそう言ってくれると嬉しいな」
てれながらうふふと笑い、自らの体を見おろしてもう一度くるりとまわると、壁の時計が目に入ったのか、急にあたふたと慌てだした。
時計の針は9時を過ぎたところを指している。
「――っ、うそぉ、もうこんな時間なの?私、明日朝食の準備を手伝うから早いの。遅れると大変!それに予習しておかないと!じゃぁ、ユリアさん。おやすみなさい」
「えぇ、おやすみなさい。あ…リリィ?」
ユリアが呼びかけると、ドアノブに手をかけたまま、なぁに?、とリリィが振り返り見た。
「あの、無理しないでね。いつでもやめていいのよ。私のことは気にしなくていいから」
「うぅん、大丈夫。無理なんかしてないの。さんざん愚痴っちゃったけど、これでも結構楽しんでるんだから。ユリアさんこそ、無理しちゃだめだよ」
「えぇ、ありがとう。大丈夫よ」
ユリアが微笑みかけるとリリィも笑みを返し、膝を折って丁寧に挨拶をしたあと、いそいそと自分の部屋に帰っていった。
昼間に城の礼儀作法を一通り学んだらしく、いつも元気なリリィが少しだけ大人しくなっていた。
上品になった、と言った方がいいのか。
何でも、お妃様付きの侍女となるには、それ相応の教養と礼儀を身に付けなければならないそうで。
『このままで十分ユリアさんのお世話が出来るわ』
と言い張るリリィに対し
『リリィは一応妃候補の侍女としてここに来ているのだから、きちんとしなければならんのだ。ここには、長期間いることになるかもしれん。リリィが粗相をすると主の教育が悪い、などと言われてしまうぞ。それでもいいのか?』
とジークとバルに説得されぐうの音も出ず、渋々ながらも承諾し、昼間は城に伺候して間もない侍女見習いたちと一緒に勉強しているのだそう。
「ねぇユリアさん、聞いてっ。先生が厳しくて厳しくて、もう大変なのぉ……」
と、夕食後部屋に来て開口一番に話し始め、つい今しがたまでいろんな話を聞いていたのだ。
兎に角今日一日は、目覚めてから驚くことばかりに遭遇して、ユリア自身、まだ思考が追い付いていない。
あの青年の国だとばかりに思い込んでいたらバルがいて、ここはラッツィオの城だって分かって。
何故かリリィが侍女見習いになってて。
お医者様のジークは当然ながらも、ザキも一緒に来ていて、バルに何かを命じられていてよく城の外に出て行くそうで。
リリィが“何の仕事をしてるの?”と聞いても何も教えてくれないと、ぷっくりと頬を膨らませていた。
リリィには弱いザキが内緒にするなんて、余程重要な仕事を任されてるに違いない。
でも、一番の驚きは、王子様のお妃候補になってることだ。
束の間の嘘とはいえ、そう言われることに抵抗を感じてしまう。
ここにいる理由なんて、リリィと同じく侍女見習いでも、下働きでも全然構わないのに。
むしろその方が気が楽なのに。
だから、あのあと丁重にお断りしようとしたけれど。
そうしたら――――……
「……──言っただろう?妃候補は、ここにいるための口実だと。ここに連れて来たのは、お前を守るためなんだ。言っておくが、あの青年は人形だぞ。
アレは大したことはなかったが、それを操ってる奴が只者じゃないんだ。お前、セラヴィと言う名に覚えはないか?」
───セラヴィ───
心の中で名を呟いてみると、突然、ユリアの心臓がドクンと脈打った。
“覚えていないか”
あの青年の言っていた言葉。
やっぱりどこかで会ってるのかもしれない。
でも。いくら思い出そうとしても、もやもやとした霧の中を彷徨うようで、一向にすっきりとしない。
「…分からないわ」
額を抑えて頭をふりながらそう言うと、バルは、座っていいか?と断り、ユリアの隣に座って肩にそっと手を置いた。
「そうか…、覚えていればと思ったが。すまんな、無理して思い出さなくていい。ひとつ、俺に考えがあるんだが、聞いてくれるか?……これの件にも関係していることだ」
「なに?」
「お前、自分の本当の名前を思い出したいと、そう思わないか?」
とても真剣さを孕んだバルの声。ユリアは無言のままバルの瞳をじっと見つめた。
──名を思い出す。
それは、記憶を取り戻すということ。
どこで生まれて、どんな生活をしていたのか、私は何者なのか。
ここにいれば、それを思い出せるとでも言うのかしら。
今まで何度か思いだそうとしたけれど、無理だったのに───
「それは、知りたいと思うわ。でも、どうして急にそんなことを言うの?」
「俺は、お前のことをずっと見ていて気付いたことがある。普段のちょっとした仕草や振る舞いに、上流の者特有の『品』を感じることがあるんだ。俺は、お前は街娘ではなくて貴族、いやもしかしたらそれ以上の身分なのではないかと考えている」
「貴族──私が?」
「自分でも思い当たることがあるんじゃないか?」
――そういえば。
時々見る夢。あれが私の記憶なのだとしたら。
“――姫様――”
侍女姿の人や騎士姿の人がそう呼びかけてくるあの夢。
まさかとは思っていたけれど―――
「そうだ、さっきもだ。お前は俺がソファに下ろした後ドレスの裾を直してきちんと座りなおしただろう。あれは、ドレスを着なれてる者の取る行動だ」
──私、そんなことをしたっけ。
バルの金の瞳に見惚れていて、自分が何をしたのか全く覚えていない。
でも裾を直すくらい誰でもしそうなことだけど──?
「覚えていないわ……」
「うむ、やはり無意識か……いいか、記憶を失っていたとしても、幼いころから身に着けた作法や礼儀は体が覚えてて自然と出るもんだ。ここにいれば、記憶を失う前の生活に似たものになるだろう。まして、教育を受ければそれがきっかけになり何かを思い出す手助けになるかもしれん。俺はお前に、生まれた国と本当の名前を思い出して欲しいんだ」
分かるか?、と言うように真剣な面持ちでユリアを見つめるバル。
それに対し、ユリアは戸惑いを隠せない。
例え偽りとはいえ、候補になるということは、ラヴルを裏切っていることになる。
それに、この国の人を騙すことになってしまう。
そんなことは出来ないし、したくないのだ。
「でも、私は……」
「待った。それ以上は言うな。気になるのはラヴル・ヴェスタのことだろう?大丈夫だ。いいか、決して悪いようにはしない。俺を、信じてくれ」
ダメ押しのように、「これは、リリィの許可もあるんだぞ」とバルは付け加えた。
言いかけた拒否の言葉を遮るよう強く言葉を乗せたバルは、どうにも拒絶の言葉を受け付けてくれそうになく、ユリアは納得いかないままにも、妃候補のふりをすることになったのだった。
ユリアは窓の外を眺めた。
空には月が輝き星がちかちかと瞬いている。
瑠璃の森の中ではこんなに空は見えなかった。
怪我を治すことで精一杯で、他のことを考える余裕もなかった。
でも、ここはこんなに綺麗な空が見える。
だから、どうしても思い出してしまう。
あの、ルミナの屋敷から見えた広い空を。
遠い遠い空に思いを馳せてしまうのだ。
──ここからルミナまでどのくらい離れてるのかしら。
ラヴル、貴方は今何をしているの?
随分長い間離れてしまってるもの。
きっと、私のことは忘れてしまったわね?
私がこの国のお妃候補になっても構わないほどに。
でも私は、貴方のことをこんなに思っているの。
傍にいる時、意地をはらずに『好き』って伝えれば良かった。
こんなに突然に、何の前触れもなく、貴方と離れるなんて思ってもいなかったもの。
目を瞑ると思い出す
妖艶な微笑み
腕に抱かれたときのぬくもり
貴方の低い声。優しく触れる指先。
もう二度と会う事が出来ないの?
貴方の声を聞くことが出来ないの?
窓の外にはラッツィオの空。
王都、国一番に栄えた街。
長い城壁の向こうに、小さな瞬きがいくつも見える。
国の人が生活している灯り。
これはこれで綺麗だけど、私が見たいのはこの景色じゃない。
ここは水面が見えない。
水面を渡った爽やかな風がない。
サワサワと揺れる庭木の音も聞こえない。
ライキののんびりした声も、ツバキの元気な声も、ナーダの抑揚のない声も、何もない。
それに、何より、ラヴル、貴方の声が聞こえない―――――




