7
ラヴルが瑠璃の森の意思と向き合っている頃。
森の中では、普段通りの時が流れていた。
ジークの家の中、ユリアは再び体を起して貰って、リリィとお喋りを楽しんでいた。
「―――……でね、その時にね、ザキが来てくれて届かない場所の花を取ってくれたの。ほらこれよ、綺麗でしょ?」
リリィが白い花を花瓶に挿しながら楽しげに話す。
「これはね、崖にしか咲かないんだって。だから貴重だぞ、俺以外は取ってあげられねぇからな、絶対他の奴に頼むんじゃねぇぞって言うの。しかもこ~んな真剣な顔して。お花取るだけなのに、おかしいでしょ?」
おどけたようにザキの顔真似をして見せたあと、はにかむようにふふふと笑い、リリィはベッド脇のサイドテーブルの上に花瓶を置いた。
ユリアの瞳に、花弁が幾重にも重なったダリアのような花が映る。
「素敵……。綺麗だわ、何ていう名前なのかしら。ありがとう、リリィ。ザキは、リリィには、優しいのね?」
ユリアにとって、ザキはいつもめんどくさげにぶつぶつ言いながら不機嫌そうにしている印象しかない。
その彼が、リリィにだけは豆に世話を焼いているようだった。
話を聞くたびに、たっぷりの愛情を感じてしまうのだ。
―――リリィは気付いてるのかしら―――?
「えっ!?そんなこと、そんなことないもん」
真っ赤になって慌てて否定するリリィを、ユリアは微笑みながら見つめた。
――…少しは感じてるのかしら。やっぱり可愛いわ――
二人のその会話を無言で聞いていたジークが、ふと動きを止め、リリィの顔をまじまじと見た。
「おいおい、リリィ。まさかお前、ザキに変なことされてないだろうな?嫌だったらちゃんと言えよ?」
「え?ジークさん、変なことって、なぁに??」
心底分からない様子のリリィ、キョトンとした表情でジークを見た。
その反応を見たジークは、掌をひらひらと振りながら笑った。この様子なら大丈夫だろうと、そう思ったのだ。
「あぁ…何でもない。すまん、気にしなくていいぞ」
「変なジークさん」
そう言って首を傾げるリリィを見、ザキの奴結構奥手だな…と聞こえないようにもそっと呟き、ジークは窓の外を眺めた。
そのダークブラウンの瞳が、森の奥のそのまた先を見つめる。
実は、一刻前ほどから、ジークは只ならぬ気配を感じ取っていたのだ。
耳がぴくぴくとせわしなく動き、遠くに聞こえる音を拾う。
バタンと乱暴にドアを開け、ザキが部屋に飛び込んできてジークの横に並んだ。
「ジーク、こりゃ一体何だ?」
「……分からん」
そう会話を交わしたきり、二人は窓の外を凝視している。
その只ならぬ雰囲気に息を飲み、ユリアはリリィとのお喋りを中断し互いに顔を見合わせた。
リリィはぴったりとベッドに体を寄せユリアの手を握った。
その表情は不安そうに見え、ユリアはリリィの細い肩に手を乗せ、安心させるようにぽんぽんと優しく叩いた。
「何があったの?……ね、ザキ?どうしたの?」
震えながらリリィが声を出した。
リリィも異様な気配を感じ取ってはいた。
森の感じがいつもと違っているのだ。
いつも清々しい落ち着いた空気に満ちた森。
その空気が鋭く尖り、ある一点に向かっているようだった。
「ジークさん、ザキ…何か、来るの……?」
「分からん。だけどリリィ、俺たちがいる。絶対守ってやるから、心配すんじゃねぇ。それに言っただろ?瑠璃の森は、外からの魔力を撥ねつけるって。だから、大丈夫だ」
リリィの小さな肩に大きな手を載せ、ザキは優しい瞳を向けた。
「うん、ザキ。ありがとう、信じる」
リリィが恐怖心を押し殺しぎこちなく笑ったその時。
―――どおぉぉぉぉぉん……・・・・―――
轟音が鳴り響き目映いばかりの光りが空を覆い、森中を明るく照らした。
それは家の中まで容赦なく入り込んでくる。
う…とうめき声をあげつつザキはリリィに覆いかぶさり、リリィは体を固くしユリアの手を強く握り締め、ユリアは目を瞑って光りから顔をそむけた。
……ビリビリビリ…ビリリリリ・…・・
空が振動しているように感じ、今までの乏しい経験の中からその感覚に似たものを探し出し、リリィは口にしてみた。
本能的に、少しでも恐怖から逃れようとしていたのだ。
「…あ、かみなり?」
「カミナリってアレか…。まぁ、似たようなもんだな……おい、行くぞ」
ジークが眩んだ目を擦りながらザキを呼んだ。
「あ、あぁ。……リリィは、ここにいろ」
呆けた様子のザキが一拍置いて返事をし、ドアに向かった。
家の中からは使用人たちがバタバタと走りまわる音が聞こえてくる。
やがて皆が外に出たのか、庭の方が騒がしくなった。
ジークが皆に指示を出している声が聞こえてくる。
暫くすると、聞こえていたざわざわとした話し声がなくなり、辺りは静寂に包まれた。
どうやら皆で見廻りに出かけたよう。
光が去ったその後は、いつもと変わらない穏やかな夜が訪れている。
見廻っても森の中には何も異常なかった。
が、念のためということで、ジークは今夜ばかりは使用人たちに交替で見張りをさせることを決めた。
リリィがここに来た時に最初に言ってた言葉を、思い出したからだ。
“逃げなくちゃ”
その日は、松明の灯りが夜通し消えることはなかった。
***
地平線が徐々に光り出し、生き物を育てる恵みの光が昇っていく。
こんもりとした森の木々を明るく照らし、小鳥の囀りが森の中に響き始め、大きめの耳がぴくぴくと動く。
カーテンの隙間から日が射し込み始め、ソファに横たわり仮眠を取っていたジークの髪に当たった。
「朝か。結局、あれ以外何も起こらなかったな」
むくっと起きて目を擦りつつ壁に掛けられた時計を見やると、針は6時前を指していた。
ジークはあくびを噛み殺しながら立ち上がり、窓を開けて見張りに立っている使用人に挨拶をした。
「おはよう。ご苦労さん、疲れただろう。もう見張りはいいぞ。他の者にも伝えて、今日はゆっくりしてろ」
見張りが頭を下げ部屋に戻るのを見届け、ジークは軽くのびをして首をコキコキと鳴らした。
―――まるで何も無かったように穏やかな朝だな―――
もやのかかった空気に木漏れ日が当たり、緑の中にきらりと光る線がいくつも出来る。
木の幹の茶色と生い茂る緑、それに小さな草花の白や赤。
空気を割って斜にかかる何本もの光の線。
いつもの極上の時間だ。
この一枚の絵のような景色は、今の時間、つまり早朝しか見られない。
ジークは目を細めながら景色を眺め、昨日の現象を思い返しながら考えを纏め始めた。
――昨日のは、何だったのだろう。ここに来て数年経つが、あんなことは初めてだ。
雨さえもこの瑠璃の森は避けていくんだ。しかも、ラッツィオには、雷は鳴らない。
あの凄まじい閃光はリリィの言った雷などの現象でないことは明らかだ。
ならば、考えられることはただひとつ、二人に関係する何者かが引き起こしたもの。
森に弾かれ、無理に入ろうとしたのだろうか。
果たして敵か、味方か―――
木が焦げたような匂いが朝風にのって漂ってくる。
それは結構強い匂いで、昨夜のうちから感じてはいたが、暗いうちは森の外に行くのは危険だと判断し、見に行くと言って聞かないザキをなんとか宥めたのだった。
朝は魔の力も弱まる。恐らく、森の近くには誰もいないだろう。
二人が起き出す前に、外の様子を見てきた方がいいと思えた。
向き合ったソファの上をチラッと見やると、ザキが丸くなっている。
――若いから順応性があるのか。それとも図太いだけか。
俺は、あまり眠れんかったぞ――――
ぐっすり眠る姿を見て、少し憎らしいと思ってしまう。
気持良さげに寝息を立てているザキの耳を、ジークはグイッと引っ張った。
「おい、起きろ。ザキ、行くぞ」
「――――あ?あぁ……」
眠い目を擦りつつ、何処に?と言いながらのんびりと体を起こしたザキを急かし、森の入口へと向かう。
木々の間を風のように走り抜け、昨日、光が来た方向を目指していく。
近づくにつれ焦げた匂いが強くなっていき、心の中が嫌な予感で満たされていく。
この向こうに、どんな光景が広がっているのか。
先を走っていたザキのスピードが弱まり、ついに立ち止まってしまった。
どうやらそれ以上は進めない何かがあるようだ。
「っ、ジーク。何だよ、これ……」
ザキが呆けたように呟き、絶句した。
ジークもザキの横に並び、言葉を失った。
年甲斐もなく総身が震え、ぞわぞわと肌が毛羽立ち、立ち竦む。
ザキはよろめきながらもゆっくりと足を運び、森の外に出た。
後に続き、ジークもそろそろと外に出る。
焦げた木の枝がザキの足に踏まれてパキンと折れ、黒い煤が舞い散った。
ジークが手近にあった炭と化した木を拾うと、ボロボロと崩れ粉が空に舞った。
「これは……跡形もないとは……。瑠璃の森はこんなのを止めたのか」
前方の景色はあまり変わっていないが、問題は森の両サイドだった。
瑠璃の森だけを残し周りにあった木や小さな物置小屋などが全て焼けて無くなっていたのだ。
草一本生えていない焼け焦げた荒野が四つの瞳に映る。
あまりにもすっきりと何もないため、遠くにあるロゥヴェルとの国境の街が見えるようになっていた。
陽炎のように家並みが見える。
「…何もねぇな」
前方は綺麗な扇形に緑を残し、あとは焼けてしまっている。
“おい、ここに。この場所には何があった?”と、誰彼なく問い掛けたくなる有り様に、再び恐怖心が湧き上がり体は震える。
「まわりに、誰も住んでないのが救いだったな……」
瑠璃の森がいかに外の力から遮断されているか、改めて実感する。
ジーク達はこの森に何年も住まわせてもらっているが、実際のところ“森の意思”の正体は誰にも分かっていないのだ。
―――ただの森ではないとは知っていたが。
もしかしたら、俺たちはとんでもないところに住んでるのかもしれんな。
しかし、この有り様は……これは、リリィたちには内緒にしとかにゃならんな。
言えば、怖がらせるだけだ―――
「ザキ、二人には絶対言うなよ」
「あぁ、分かってるさ」
ジークとザキは努めて明るい顔を作り、とりとめのない話をしながら家へ戻った。
二人に沈んだ顔を見せないように。気取られないようにするために―――――――
ジークたちが森の中へ戻った後、パキン…と小さな音がした。
燃え屑を二本の脚が踏んだ音だ。
その脚の主は思案気に森の様子を確認し、唸るように呟いた。
「やはり来ていたか。しかし、ここは、コレを弾くと言うのか……」
その声の主はもう一度周りを見渡し、暫くその場に佇んだ後、踵を返し去っていった。
その顔に不敵な笑みを浮かべながら――――




