6
ラッツィオの中心部、王都。
深く掘られた濠と、高く長い壁に囲まれた、美しい城。
白亜の壁に日の光りを受けてキラキラと光る碧い屋根。
よく整備された綺麗な庭。
規律正しい衛兵が剣をかざし敬礼する中を、一台の馬車がゆるゆると進んでいく。
玄関前に停まったそれに、いそいそと執事が近寄りドアを開けると、長い脚がコツンと音を立てて降り立った。
「お帰りなさいませ。王がお待ちで御座います」
「うむ、御苦労様。今、参る」
バルは一旦自室に戻り、身なりを軽く整えた後、王の待つ謁見の間に急いだ。
衛兵にドアを開けて貰い、前に進み出て跪いて恭しく頭を下げる。
「父上、只今戻りました」
「うむ、急な呼び戻し悪かった。どうも急ぐ様子なのだ。様子から感じとれば、余程の重要な用件らしいのだが。どうしても、そなたでないと、との仰せでな。どうお尋ねしても、私には何も話して貰えんのだ」
かと言って、そなたの元に行って頂くわけにもいかんだろう?そう言って王は、困ったように眉根を寄せた。
――一国を統べる王に話せないこととは、極個人的な用件だということか―――
「そなたは彼と旧知の仲だ。唯一気を許せるのだろう」
「……はい、恐らく」
「さ、客人がお待ちかねだ。参るがいい」
―――“漆黒の翼”―――
翼竜ヴィーラを自在に操り夜空を飛ぶ姿から、この異名がついた。
艶のある漆黒の髪に黒曜石のような瞳。
まるで闇を纏ったかのような容姿から放たれる静かなオーラは、他の者を圧倒し決して寄せ付けない。
誰にも隷属せぬと謂われる鬼を従える力を持ち、温度のない漆黒の瞳に見据えられれば震え上がらぬ者などいない。
病に苦しむセラヴィ王に代わり、次期魔王と目される男。
その男が、俺にしか話せないこと、とは―――
少しの緊張感を伴い、目の前の重厚なドアを見つめる。この中に、彼がいるのだ。
ノックの後ドアを開けると、椅子に座りくつろいでいた男がゆっくり振り返った。
傍にはブラウンの髪の小柄な若い男が立っている。
この姿は以前見たことがある。少し、青い炎が出ているが、警戒してるのだろうか―――
「―――お待たせ致した。ようこそお出で下さいました。……ラヴル・ヴェスタ殿」
「うむ……バルリーク・ウル・ラッツィオ、久し振りだな」
「……そのフルネームで呼ばれるのは、久し振りだ。貴方様しか呼ばないからな」
テーブルを挟み向かいの椅子に座れば、鬼の炎がチラチラと迫る。
バルが瞳をギラリと光らせて見据えると、鬼は少し怯んだのか、出される炎が小さくなっていった。
「……ツバキ、落ち着け。炎を仕舞え」
「は、はいっ、ラヴル様。すみません」
ラヴルに窘められ慌てたツバキは、昂っていた気持ちに急いで折り合いをつけ、なんとか炎を仕舞った。
が、ツバキにとってはここは敵地。
今、自分の目の前で、知り合いなだけで仲が良いとは言えない男とラヴルが対面しているのだ。
いつでも攻撃できるようにと、ひたすらにバルに警戒心を向けていた。
睨むような視線は、決して外れることがない。炎を出さないまでも、ツバキの気はゆらゆらと揺らめき続ける。
「バルリーク……連れが失礼した」
「いや――――変わらずに元気そうだ。で……用とは?」
ツバキの殺気を含んだ瞳も平然とやり過ごし、バルが話を進めようとラヴルを促した。
すると、ラヴルはひじ掛けに預けていた手を顎に当て、どういうわけか黙り込んでしまった。
そのまま時が過ぎていく。
漆黒の瞳はバルを見据えたままだが、心はどこか遠くに行っているように感じる。
あまりに沈黙の時が長く、このまま何も話さないのだろうかと、バルが軽い戸惑いを覚え始めた頃、ラヴルは静かに話し始めた。
「バルリーク。貴様、会っているだろう」
「……は?会っているとは、一体何のことだ?」
何となく見当はついていたが、バルはあえて首を傾げ訝しげな声を出し、目の前の感情の読めない顔を見つめた。
「荒れ屋敷の会場にいた時、狼の遠吠えを聞いた。あの声は、貴様のはずだ」
後ろにいるツバキが「あーあのときの…」と声を漏らすのを耳にしながら、バルはあの時の事を思い出した。
―――やはり彼は、俺だと、分かっていたのか―――
言いたいこと、ここに来た理由を、瞬時に理解したバルは、慎重に言葉を返した。
「そうだと、したら?」
「私は人を探している。あのとき貴様が会った娘だ。――――覚えていないとは、言わせん」
「……あぁ、確かに、覚えている。黒髪の美しい娘だった」
「この国にいるはずだ。貴様、所在を知っているだろう」
「――――知らない、と言ったらどうする」
ラヴルの確信のこもった声に、バルは何故だろうと不思議に思った。
その考えに至った原因はどこにあるのか。
そう思い、逆に問いかけると、色素の薄い唇が微かに歪み口角を上げた。
「いや、貴様は知っている。何処にいる。私のモノだ。返して貰おう」
バルの反応を見て確信を持ったのだろう、ますます声は強まり漆黒の瞳は強い光を放っている。
―――もしや、残り香が香るのだろうか。あの花の甘い香りや薬品の臭いに混じり、分からないだろうと思ったが―――
バルの答えを待ち、無言でひたと見据えてくる漆黒の瞳は、何か話すまで決して動かないだろうと思える。
ツバキの方の反応は…と、ちらと見やれば、感情の読めないもの静かな主人と反して、その心の内がすぐに見てとれた。
唇をぎゅっと結び拳を握り締め、湧きあがる激情と闘っているよう。
―――もうこれ以上は、誤魔化せんな。誤魔化せばこの場で一戦交える事態になりかねん――
バルは背もたれに体を埋め、両掌をラヴルの前に差し出してヒラヒラと振った。
「貴方様がお探しのお方は、確かに、この国におられる。赤毛の女の子、リリィも一緒だ」
バルの言葉を聞いたツバキの顔が、一気に晴れやかなものになった。
握り締めていた拳が開かれ殺気がなくなっていく。
それに反し、ラヴルは、当然だとばかりに変わらない表情のままでいる。
だが、バルが発した次の一言が、その表情を瞬時に変えることになる。
「だが、貴方様には連れて帰ることは、出来ない」
「なっ!何言ってんだ!ラヴル様に出来ないことは、何もないぞ!まさか、返さない気なんか!?」
ゴォ…と炎を出し、今にも飛びかからんばかりの勢いのツバキを手で制し、ラヴルはバルを見据えた。
その漆黒の瞳が見る間に赤みがかっていき、どんどん濃くなっていく。
「――――何故だ」
低く唸るように発せられた声と射るようにバルを見据える瞳は、事と次第によっては容赦をしない、と暗に語っている。
対抗しようにも圧倒的な力の差を感じ、バルの肌がぞくりと粟立った。
「待った。落ち着いてくれ。酷い怪我をしてるんだ。ルミナまでは遠い。移動させるのは、とても無理だろう」
「怪我ならラヴル様が治せるんだ!そこに行って―――」
興奮したツバキが一歩前に出ると、バルの鋭い声が遮った。
「それは無理だ!」
「バルリーク、何故そう言い切れる」
「瑠璃の森に、居られるからだ。瑠璃の意思が貴方様方を拒否し、立ち入ることを許さないだろう」
「うむ、瑠璃の森、か―――――――バルリーク、怪我はそれほどに酷いのか」
「あぁ、だが心配するな。我が国きっての名医が治療しているんだ。それに瑠璃の泉もある。泉の水は治癒力を高めるんだ。きっとすぐに治る。だが、もう暫くはあそこにいた方がいいだろう」
「……治療、感謝する」
「ラヴル様……、どうしますか」
ラヴルは、うむ…と唸るように呟き、腕を組み瞑目した。
その体の周りの空気が揺らぎ熱を持っているように見える。
きっと、頭の中で想いと状況がせめぎ合ってどうしようもない状態を、冷静な理性が懸命に折り合いをつけているのだろう。
暫くすると熱を持った揺らぎが収まり、ゆっくりと瞼を開け、ここに来た当初と変わらない落ち着いた静かな声を出した。
「――――バルリーク、急に邪魔して悪かった。ツバキ、行くぞ」
「は、はい!ラヴル様っ」
ラヴルは立ち上がると、すぐ傍にある窓を開け放ち空を見上げた。
「――――来い、ヴィーラ」
その静かな呼び声のあと、翼竜のものであろう羽の音がだんだんに近づいてくる。
それは上から来るのだろう、上階から女性の叫び声が上がり空に木霊していた。
窓の外に大きな足が見え、白い毛並みが見え、そして、ぎょろりと動く大きな瞳が見えた。
ラヴルの姿を見止めると、体をくるりと横に向け、主人が乗り易いよう窓の外で上下しながら浮かんでいる。
「ここから、帰るのか?」
「あぁ、急いでいるのでな。バルリーク、失礼する」
ひらり…と窓からヴィーラの背中に乗り移り、行けヴィーラと命じ、ラヴルは、ラッツィオの城から風のように飛び去っていった。
***
満天の星空の中。“漆黒の翼”がラッツィオの空を飛ぶ。
それは真っ直ぐルミナの屋敷に帰らず、ある場所へと向かっていた。
目指すのは、こんもりと広がる緑の木々の塊だ。
月明かりを浴びて、黒々と生い茂った葉がつやつやと輝いて見える。
その上空に留まり、ラヴルは眼下の森を眺めた。
「あれが、瑠璃の森、だな」
「ラヴル様、ここにユリアがいるんですね?見たところ、普通の森と変わりないようですが」
「うむ、そうだな……」
「このまま帰るんですか?」
「……」
“瑠璃の意思が貴方様方を拒否する”
「……ヴィーラ」
ラヴルが背中を一度叩くと、翼竜は羽ばたきを止め旋回をしながら、ゆっくりと下降を始めた。
暫く彷徨うように旋回した後、森の傍らの開けた場所を見つけ、そこにふわりと体を沈めた。
「……ツバキはここで待て」
ラヴルは無数に立つ木々の間に一つの獣道を見つけ、その入口に立った。
途端、森との間に深く大きな溝が生まれ、スーと広がっていき、森がどんどん遠くに離れていく。
深く底の見えない大きな溝がラヴルの足元に広がり、森は手の届かない遥か遠くに見えた。
「やってくれる……幻覚か。私をなめるな―――」
頭を振り幻覚を払いのけ、前方に手を伸ばしていく。
すると、ピン、と張りつめたガラスのような硬質の膜に指先が当たった。
大きく弾かれ、手全体がジンジンと痛む。
「森よ、私を受け入れろ。ユリアを迎えに行くだけだ」
ラヴルの想いとは逆に、森の木々がさわさわと揺れて移動し、獣道を閉ざしていく。
目の前にあった獣道が跡形もなくなり、太い幹が現れラヴルの視界を阻んだ。
『――去れ――』
ラヴルの頭の中に直接響くように、それは聞こえた。
それは女性の声の形を取り、意識の中に柔らかく侵入してきた。
「貴様が森の意思か。私を誰だと思っている」
『――知っている。吸血族ラヴル・ヴェスタ・ロヴェルト。貴方を、入れることは出来ない――』
「何故だ」
『――貴方の力は強大。破壊に満ちた力。入れれば乱れ元に戻らない――』
「私は何もしない。約束しよう」
『――否。立ち去れ――』
「……頑なだな。では、押し通らせていただこう―――」
ラヴルの瞳が真紅に染まり、昂る気に煽られ黒髪がふわふわと揺れる。
硬い膜に当てられた掌から高熱が生み出され、徐々に溶かしていく。
光りを放つ手の周りが、波紋のような模様を描きうねうねと動いた。
「……チッ…」
『――無駄だ――』
ラヴルは忌々しげに膜から手を離し、目の前の空間を見据えた。
そこには、何事もなかったように、硬質の膜がぎらっと光っている。
『――強大な力。貴方で2人目。決して入れない。去れ――』
「2人目―――……」
―――まさか、セラヴィか?それともケルヴェスか。
先を越されるとは、な。
もう、待てん。手荒な手段だが、仕方ないだろう。
私を受け入れぬ貴様が、悪い―――
ラヴルは掌の中に気を溜めこみ、光る球となったそれを森に向かって放った。
衝撃波が膜を襲い、大きな爆発音とともにビリビリビリ…と音を立てて振動する。
ほどなく目映いほどの光が収まり、しんと静まり返った。
本来なら、辺り一面を吹き飛ばすほどの威力を持ったそれ。
いくら強固と言えど、少しは傷をつけることが出来るはずだ。
だが、予想に反し眼前の膜は傷一つなくそこにあり、ぎらりと不敵に光った。
そこにあるのは、変わらぬ静寂な森。
『――去るがいい――』
真紅の瞳が瑠璃の森を睨みつける。
―――自然の力には敵わんということか―――
「…ユリア」
瞑目し、ラヴルは森の中に意識を集中させた。
―――貴女は、この森の、何処にいる―――
求める姿を探すも、暗闇に遮られ覗き見ることも叶わない。
「貴様、あくまでも私の邪魔をするというのか」
巨大な森を眺めまわし、唇を引き結び、ラヴルはさっと踵を返した。
「……ツバキ、戻るぞ」
「あ―――はいっ!」
ツバキはごくりと喉を鳴らした。
ヴィーラに乗り込んだラヴルの背中が、怒りに満ちているのが見てとれるのだ。
ツバキは瑠璃の森を振り返り見た。
―――ラヴル様を退けるなんて―――
何事もなかったように広がる美しい森は、ツバキには不気味に映ったのだった。