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窓ひとつない大きな部屋の中。
長い黒髪の娘は紅色のドレスを身に纏い、綺麗に着飾ってふんわりとしたクッションの上に座っていた。
目の前にあるローテーブルにはお茶と甘い御菓子が乗せられているが、娘は気に入らないのか、むっつりとしたまままるで手をつけようとしない。
「何が気に入らないのですか。少しは食べて下さい。ずっと何も食べていないではないですか」
執事っぽい服装をした男が困った顔で、娘にお願いをするように話しかけていた。ちょっと見には、娘はわがままな貴族の御令嬢で、優しい執事を困らせているように見える。
だが、よく見ると、部屋の隅の方から細い鎖が伸びていて、それが白くて細い足首に巻かれていた。綺麗な肌が鎖に擦れて赤くなり、この状態になって何日か経っていることが伺えた。
「お願いですから少しでもお食べ下さい」
執事のような男は、ケーキの乗った皿とフルーツが盛られた皿を娘の前に近付けた。娘の瞳は生気がなくぼんやりと目の前のお皿を見つめている。
見えているのか、そうでないのか判断のつかないほどに瞳はまるで動かない。
「ほら、これ、こんなに美味しいですよ?」
男はフルーツを一つつまむと、口の中に入れて食べて見せた。
ぼんやりとした瞳に、男の笑顔が大きく映り込んでいる。
「ほらね?毒なんて入ってないでしょう?だから一つ食べて下さい」
娘の唇に葡萄のような小さなフルーツの粒を押し付けた。
すると、甘いフルーツの香りに負けたのか、娘は小さく口を開けて粒を口の中に受け入れた。
粒をコリっと噛むと甘い果汁が口の中いっぱいに広がり、眠っていた娘の五感を活性化していく。
生気のない瞳から涙が一筋頬を伝って流れ、娘の黒い瞳に僅かに生気が戻り小さな光が灯った。
「良かった!ね?美味しいでしょう。ほら、もっと食べてください」
男は嬉しそうに微笑み、どんどん娘の口にフルーツを運んだ。
やがてお皿いっぱいに盛ってあったフルーツは空っぽになり、男は満足げに微笑んだ。
「良かった、ここに来てからろくに食事もしてないので心配してたんですよ」
皿を片付け始めた男に、娘は疑問に思ったことを聞いた。
「あの、ここはどこですか?どうして私はここにいるの?私はこの先どうなるのか、あなたは分かりますか?」
聞きたかったことが言葉なって溢れ、感情が高ぶって、涙がぽろぽろと零れた。
娘は全く分からなかった。どうしてここにいるのか。
どうして鎖に繋がれているのか。
この男は誰で、さっきからずっと、ドアの横で怖い顔して椅子に座っているあの男は誰なのか。
そして、自分は誰なのか―――
覚えているのは、街をぼんやりと彷徨っていたとき、突然何か薬のようなものを嗅がされたことだけ。
眠りから目覚めて、気が付いたらこの状態になっていた。
自分がどこの誰であるか、今まで何をしていて、どうしてここにいるのか、全く分からなかった。
鎖に繋がれ自由に出来ない環境と、何かを思い出そうとすると痛む頭に気が滅入り、次第にものを考えることもおっくうになっていった。
無表情のまま過ごした数日間。一体何日ここにいるのかも分かっていない。
男が示したほんの少しの優しさに触れ、忘れていた感情が一気に体中に戻ってきた。
涙に潤んだ目で、男に必死に問い掛けた。
「ねぇ、あなたは知っているんでしょう?私はどうしてここにいるの?」
「本当に何も覚えていないのか?」
娘は男の顔を見て無言で頷いた。
男はどうしたものかと迷いながら娘の顔を見つめた。
涙に濡れた瞳で必死に問い掛けている姿が気の毒になり、言ってはいけないこともあるがこれくらいなら良いだろうと、少しだけ教えることにした。
「あなたは、2週間前にボスがこの場所に連れてきました」
「2週間前……?もう、そんなに経っているの?ここはどこ?ねぇ、私をどうするつもりなの?」
ドアの横にいる男の様子を窺いながら、男は娘の耳に口を寄せて小声で言った。
「すみません。私もよくは知らないんですが、あなたは今夜出かけることになるそうです」
「出かけるって何処に?」
娘の声も釣られて小さな声になった。が、次の男の答えに驚き、つい大きな声を出してしまう。
「オークション会場、です」
「え?オークション!?」
「はい、あの……あなたは今夜――」
「おいっ!お前!余計なことは話すな!それを片付けたらさっさと行け」
いかつい顔した男は脅すように大きな声を出し、優しげな男を睨んだ。
叱られた男は、ぶつぶつと小さな声で何かを呟きながら、皿を持って部屋の外に出ていった。
娘は思った。むっすりとした顔でドアの脇で番をするように座っている男。
この男なら何か知っているかもしれないと。
娘は勇気を出して聞いてみることにした。怖くて声が震えてしまいそうになるのを、必死で隠して平気を装う。
「あの……すみません。オークションって何ですか?」
「お前は、今夜オークションに掛けられて、どこかの金持ちに売られる。お前のような者は珍しいからな。きっと金持ち連中が高い金を払うだろうさ」
むっすりとした顔のまま短く簡潔に答えたあと、男は獰猛に笑う。
――売られる……?私が、オークションで……?
珍しいってどういうこと?どうしてこんなことになってしまったの?
娘はショックのあまり、涙に濡れた瞳で男を見つめたまま動くことが出来ない。脚に繋がれた鎖が、前よりもずっと冷たく重く感じられた。
か弱い力ではこの状況を打開する術も思い浮かばない上に、自分が誰かも分からない。
娘は自分の運命を呪い、ただ泣くことしかできなかった。
「煩い、泣くな!」
男がイライラと貧乏ゆすりをしながら言う。娘のすすり泣く声と、男のイライラとしたため息だけが、静かな部屋の中に響く。
暫くするとドアが細く開けられ、別の男の声が聞こえてきた。
「おい、そろそろ支度しろ。出かけるそうだ」
「あぁ、分かった。おい、行くぞ」
「嫌っ!触らないで!やめて!」
伸びてくる男の手を振り払い抵抗するのも空しく、娘は腕を掴まれ、手を背中にぐっと回されて縛られた。
男はポケットから鍵を取り出し、娘の脚の鎖を外し、その代わりに口と目に布を巻き、娘の体を軽々と担ぎあげた。
「んーーーっ!んんんっん!」
「この――――大人しくしろ!!」
何とか降りようと暴れる体と脚をがっしりと押さえつけ、男は部屋の外に出た。外にはすでに馬車が用意されていて、男たちが娘の体をニヤニヤと笑いながら眺める。
「こりゃぁ、今夜は大儲けが出来そうだな」
「あぁ、こんな上玉だ。きっと高値で売れる」
「そりゃそうと、お前この娘に手を出してないだろうな?」
「俺は商品に手は出さねぇよ」
「おい、時間だ。行くぞ」
男は馬車の中に娘を押し込み、自分も一緒に乗り込んだ。