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ジークの足音が遠ざかっていき、静かになった部屋の中。
ユリアの規則正しい寝息だけがリリィの耳に届いてくる。
タライに水をはって布を浸しユリアの顔をのぞき込むと、ジークの治療のおかげなのか、顔色はまだまだ悪いけどとてもよく寝ていた。
「あちこち拭いてあげたいけど、あまり動かさない方がいいよね……」
手始めに手を拭きながら考え込む。
―――これからどうしよう。
ユリアさんは人間だもん、私たちと違ってきっと治るのが遅いはず。
一体どれだけかかるのかしら。
ジークさんの言う通り、確かに、ここいるのが一番いいような気がする。
お医者様の傍だし。目に着かない森の中だし。でも―――――……。
おじい様、私、どうしたらいいの?ラヴル様はきっと、すごく心配してるわ。
“ユリアを頼む”
そう言った時の瞳はとても真剣で、しかも何だか辛そうだった。
あの方があんな表情をするなんて。
いつも余裕たっぷりの表情で、落ち着いてて、静かな威厳を放ってるラヴル様。
ホントは私なんかに頼むんじゃなくて、自分の手で守りたかったはず―――
「ホントにユリアさんのこと想っているんだよね……」
声に出して呟くと、小さな胸がきゅっと締め付けられた。
「やっぱり私なんてコドモだもんね」そう自分を納得させて胸の痛みをやり過ごしていると、ノック音が響いてジークが顔を覗かせた。
「リリィ、腹減ってるだろう。お前だって何日も眠ってたんだ。生憎今はこれしか用意できないが、ないよりはましだろ。ほら、コレ食べろ」
そう言って、籐籠から零れ落ちそうなほどいっぱいに盛られたパンと5本のミルク瓶をどさりとテーブルに置いて、ニカッと笑った
「すまないな、あとでちゃんとした食事をさせるから。あぁ……言っとくが。慌てるんじゃないぞ。よく噛んで、食べろ」
人差し指を立てて真剣な顔で言い渡し、ジークはザキと合流するべく外に出ていった。
「……何日も?ホントに―――?……ていうか。ジークさん、こんなに要らないわ」
この小さなお腹にどれだけ入ると思ってるんだろうかと、リリィは呆然とテーブルの上を見つめた。
もっさりと盛られたパンは焼きたてのようで、湯気と共に香ばしい香りが漂ってくる。
嗅覚と視覚が大いに刺激され、急にお腹の虫が強い主張を始め、グ~と音が鳴った。
―――う~……。何日も眠ってたんじゃしょうがないよね。
ユリアさん、ごめんね。体を拭くのは後にするわ。だって、このままじゃお腹が空きすぎてユリアさんを食べちゃうかもしれないもん―――
何とも恐ろしいことを考えつつ、捲ってあったユリアの毛布を丁寧に掛け「いただきま~す!」とパンを一口かじった。
あまりの美味しさにジークの注意も忘れて夢中で頬張る。
あまりに勢い良く食べていたものだから途中で胸につかえ、酸素を求める魚よろしく目を白黒させながらミルク瓶を取り、なんとか飲み下した。
ハァ~……と安堵の息を吐き、懲りずに再び口いっぱいにパンを押し込む。
――これから頑張らなくちゃいけないもの。体力、つけなくちゃ。私がしっかりしなくちゃ――
リリィは、不安も焦りも切なさも、何もかもを一緒に噛み砕くように、一生懸命に食べ続けた。
そんな風にリリィが気持とお腹の虫を宥めている頃。
場所は変わり、同じ時間のロゥヴェルの都ケルン。
ふもとに佇む荘厳な城の中の最奥の王宮殿の中、しんと静まる廊下を一人の男性が、辺りを窺いつつコソコソと歩く姿があった。
小さな鞄を持ち、極力足音を立てずにヒタヒタと静かに歩く。
やがて目的の部屋に辿り着きドアの向こうに小さな声をかけると、それが細く開けられた。
そのわずかな隙間をすり抜けるようにして入っていく。
「参上したしました」
静かに迎え入れたその部屋の主は、無言のまま服を脱ぎ上半身裸になった。
無駄のない筋肉質な体が露わになる。
「では、失礼致します」
「……うむ」
許可を受けて軽く頭を下げた男が、その逞しい胸板にひたりと手を当てて瞑目し、唇を真一文字に引き結んだ。
「どうだ?御殿医。……聞くまでもないが、以前より進んでいるだろう。自分の体だ。私が一番よく分かっている。――――で、あとどのくらい持つ」
「はい――――セラヴィ様、あの、その前に一つお伺いしても宜しいでしょうか」
「うむ、何だ」
「その、近々と申しますか―――この先ですが、妃を迎えるご予定は御座いますか?」
「ない」
「そう、で御座いますか……その―――」
平然と即答するセラヴィに対し、御殿医の表情がだんだん曇っていく。その表情から感じ取る意味を知りつつセラヴィは先をせかした。
「御殿医、分かっている。早く正直に言え」
「はい。心の臓がかなり弱くなっております。このままですと崩壊まであと1年……それ以上は持ちますまい」
「なんと1年ですか!―――御殿医殿、それは本当ですか!?」
突然、とんでもない位置から声が出されたが、御殿医は承知していたようで、大きく頷いて見せる。この場にいる誰よりも、この男、大臣は驚き焦燥しているようだった。
「はい。もともと、セラヴィ様は心の臓が弱くていらっしゃいますので……大臣殿、残念ですが」
そう言って静かに首を横に振る御殿医を見て、大臣の青ざめていた顔がさらに白くなり、ふらりとよろめきテーブルの上に手をついて項垂れた。
「いったいどうしてこんなことに―――」
ぶつぶつと呟いた後にガバッと顔を上げれば、診察を終えてシャツを着るセラヴィの若々しい肉体が目に入る。
―――逞しい体つき、波打つ黒髪に輝く漆黒の瞳。男でも見惚れるほどの美丈夫さ。見た目にはどこも悪くなさそうなのに。これで、あと1年と言うのか――――
「―――っ、どうかお願いで御座います。意地を張らずに、どなたでもよろしいではないですか。お早くお決め下さい。愛情ならば、共に暮らせば後から湧いてくるもので御座いますれば―――」
「大臣……悪いが、私の愛情はお前ほど易くないのでな……。誰でも、と言うわけにはいかんのだ。いいか、この件は誰にも口外するな。もし、禁を破れば―――」
漆黒の瞳がスゥと赤くなりと、小さな破裂音とともに空のワイングラスが粉々に砕け散った。
それは砂のように小さな粒となり、光りを受けてキラキラと宙に舞う。
「―――分かったな。分かったら、もう行け」
大臣はごくりと息を飲み一瞬たじろぐものの、再び一歩前に進み出る。どうしても聞いて貰わねばならないのだ。
「セラヴィ様……そのようなことを仰っては」
「しつこいぞ。黙れ、行けと言っている」
「では、セラヴィ様。後程に、この薬湯をお飲み下さい。あぁほら、大臣殿、行きましょう。セラヴィ様にも、お考えがおありなのでしょうから。我らがどう申し上げても変わりますまい」
御殿医は用意してきた薬をテーブルの上に乗せ、まだ何か言いたげに唇をふるふると震わせる大臣を促し、共に退室していった。
静かになった部屋の中に、セラヴィは独り佇み、天を仰ぐ。
――――あと1年、か―――
そこまで悪化していたとは、思ってなかった。
“跡目を譲る”
ラヴルに会い打診をしたあの日まで、確かに、引退をしようと心に決めていた。
返事次第では大臣を説得し、王冠を渡し、命が尽きるその日まで国の片隅で静かに暮らそうと、そう決めていた。
「もう、気が弱くなっていた……あの時までは、いつ命が無くなってもいいと、そう思っていたな」
愛を注ぐのは、誰でも良いというわけにはいかない。
日ごとに増していくこの想い。今、考えるのであれば、あの娘しかいない。
もしも、娘がクリスティナであったとしたら、それが一番いいのだが。
しかし、例えそうでなかったとしても、これほどに切望するのだ。
娘に会えばすぐに愛情を感じることも可能だろう。
互いに愛をはぐくませ、妃として迎えられれば、名実ともに最強になれるのだ。
もしもそうなれば―――――――
忘れていた、燃えるような熱情が、身の内に湧く。
王になったら、と考えていた政策や改革。やり残したことが山ほどにある。
今、このまま王でありたいと、生き続けたいと、願う自分がいる。
「これが、生き甲斐、というものか。これほどに気持ちが変わるとは……」
漆黒の瞳が燃えるように赤く染まる。
―――娘に会わなければ。
私には、時間が、ない。
以前よりも短くなった寿命は、先日に出した力が仇になったのかと考えられる。
あの時は、我ながらに上手く誘導出来ていた。なのに、だ。
突然割って入ったあの声。
“駄目!!”
小さきものであるのに、発揮されたのは結構な力だった。
この我が手から、逃れていくのを追いかけるも、求める者は忽然と消えてしまったのだから―――
「チッ!……何処に、何処に行った―――」
震える掌をじっと見つめる。
「この手の中に…我が腕に抱くまで、あと、僅かであったのに」
――――っ、一体何処に行ったというんだ。
瞳を閉じ集中して探るも、体に入れた黒の使い魔の気配は全く感じない。
それほどに遠いのか。まさか、ロゥヴェルにはいないというのか。
必ず―――必ず、探し出す。
ラヴルよりも先に。
そして、必ず、我が腕に、抱く――――




